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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第54話 反攻――宮部善祥坊の調略

 藤吉朗に率いられた千余の軍勢は、雪を掻き分けるようにして関ヶ原の難所を抜け、柏原かしわばらから北国脇往還を北に取り、横山城に駆け入った。

 時刻は三日の夜明け前。

 闇は、東の空から徐々に薄れつつある。


 藤吉朗の到着を待たず、すでに浅井勢は姉川の北へと軍を退いていた。

 が、城内では戦の余韻が未だ醒めやらない。城の塀や矢楯、櫓などはいたるところが火矢で焼け、白煙を上げながら焦げた匂いを周囲にいている。

 城門の隅には、首を落とされ、鎧などもぎ取られた浅井の武者の遺体が百体以上、戦場掃除を仕事にする黒鍬者くろくわものたちの手によってゴミのように積み上げられていた。後でまとめて埋葬するためにとりあえず集めたものであろうが、篝火に照らされたその肉のオブジェは戦争というものの本質を如実に物語っているようで、無残と言えばこれ以上のものはない。

 援軍の到着に喜び、城内に居た者たちは城門のあたりに群れ集まっていた。大将である藤吉朗の顔を見て万歳する者もあり、精も根も尽き果てたという様子で地面に座り込んでいる者もあったが、どの顔も戦勝の嬉しさと生き残った喜びに溢れていた。今まさに追撃戦を終えた武者たちは、ある者は血の滴る槍を引っさげ、またある者は誇らしげに己が挙げた首級を掲げ、あるいは傷を受けたのか仲間の肩に掴まりながら、といった風に、三々五々、続々と城に引き上げて来ている。


「おぉ、誰某、良き首を挙げたか!」


「誰某、骨折り、大儀じゃ!」


 などと藤吉朗はそれらに陽気に声を掛けつつ進み、蜂須賀小六らの幕僚を従えてそのまま本丸へと入り、留守を任せた小一郎に対面した。


「小一郎、よう城を守り抜いてくれたのぉ! 大手柄じゃぞ!」


 弟の憔悴し切った顔を見た藤吉朗はまず大声でそれを言い、その肩を痛いほど叩き、大声で笑った。


「大事ないか? 誰ぞ死んだりせなんだか?」


「いや、すまん。ようけ死なせてもうた・・・・」


 小一郎はそれ以上言う気になれず、小姓に討ち死にした者の氏名を控えた名簿みょうぶ(リスト)を持ってこさせた。足軽雑兵を含めて百名以上の名が記され、物頭級の者までが数名そこに含まれている。

 藤吉朗は受け取った紙に無言で目を走らせ、神妙な表情で瞑目し、手を合わせた。


「不用意に城を空けたわしの罪じゃ。家族の者には米の一俵も届けさせよう」


 雑兵は使い捨てが当たり前で、戦没者への褒美というのは特別な場合を除けばないのが普通だから、遺族に対する措置としては厚すぎるほどの手厚さと言っていい。


「そういや、半兵衛殿を見かけんが・・・・・?」


 当然、この場にあるべき半兵衛の姿がない。


「大手の守りを指揮して朝から延々働いてくだされておったんじゃが、浅井が兵を退くのを見届け、その後で倒れられた」


「倒れなさったんか・・・・!」


 肝の太いこの兄が、このときばかりはあからさまにうろたえた。


「病の治り切らぬ身体で無理をしてくれたんじゃと思う。今は部屋に運び、休んでもらっておるが、まだ目は覚めておらんらしい」


「岐阜から腕の良い医者を呼ばにゃならんな。半兵衛殿にもしものことでもありゃ、目も当てられんわ・・・・」


 藤吉朗は、普段は誰にも見せないほどの沈痛な顔をした。


 横山城にも金創医きんそういと呼ばれる医者らしい者が数人居るが、これは戦場傷を治療するのが専門のいわば外科医で、しかも医徒として正規の学問を修めたかどうかさえ怪しく、内科ほんぞうの治療が満足にできるとは言い難い。民間医のレベルもこれと大差なく、多くは多少の知識と技術を自得した者が勝手に医者を名乗り、巷間に伝わる民間医療を施しては治療と称していたりする。下野しもつけ(栃木県)の足利学校などで医術を修めたような高度な技術をもつ専門医もあるにはあるが、天皇や将軍など高貴な人々の脈を診るために京や堺あたりの大都市に居を定めているのが普通で、しかもその数は絶望的に少ないというのが現実なのである。

 しかし、信長が住まう岐阜ほどの大都市であれば、信用できる技術を持つ医者も何人かは確かにいる。そういう者たちに半兵衛を診てもらうというのが、今は最良の選択であるだろう。


「ともあれ、此度はほんにご苦労やったな。ゆっくり休ませてやりたいが、戦の後始末を済ませにゃならん。もうちょい頑張ってくれや」


 気を取り直したように藤吉朗が言った。


 合戦が終われば、雑兵たちは酒を飲んで眠れば仕舞いだが、小一郎ら首脳陣というのは戦後こそ様々な雑事に追われることになる。負傷者の治療や搬送、戦没者の身内に対する対応などをせねばならぬのはもちろん、できる限り早く合戦の首実検を行わねばならず、同時に武者たちの手柄を吟味ぎんみし、その恩賞を決めねばならないし、生け捕りにした敵兵の処置や、場合によっては人質交換などの政治的措置も取らねばならなくなるだろう。また、いつ浅井の再反攻がないとも限らないから、破損した城郭の修復や改修は一刻も早く始めねばならず、そのための人数を部署し、必要ならば資材も整えねばならないし、浪費した矢弾や火縄、火薬、武具などの補給と、死傷者の交代などの手続きも早急に取らねばならない。


 結局この日、小一郎は眠ることさえできなかった。


 一方、居室に運ばれた半兵衛は、そのまま丸一日、目を覚まさなかった。

 起きてからも高熱が引かず、食欲が湧かぬのか水以外のものを口に入れようともしない。


 早駕籠はやかごに縛り付けるようにして岐阜から大急ぎで連れて来た医者は、もともと身体が弱っていたところに過労と心労が重なったのであろうと誰でもできるような診断をし、滋養のつく物を食わせ、養生を専一にするのが一番、と、これまた誰でもできる処方をもったいつけて言った。

 滋養といえば「高麗人蔘こうらいにんじん」に優るものはない、と勧められたので、小一郎は堺の千宗易まで使者を走らせ、それを送ってくれるよう手配したりした。

 高麗人蔘は天平十一年(739)に渤海ぼっかいの王が聖武天皇に贈ったという記録が残っているくらいで、太古と言えるほどの昔から日本に入って来ていたらしい。それが多く輸入されて一般にも流通するようになるには江戸期を待たねばならず、この時代に入手するのは非常なまでに困難なのだが、万病の薬としてその名は神秘的なまでに高く、小一郎でさえ耳にしたことがある。堺の富商である宗易に頼めば、手に入らないということはないであろう。


「そのように気を使わないでください」


 翌日、病床を見舞った小一郎に、半兵衛は弱々しい微笑で応えた。


「少し風邪をこじらせただけです。何日か寝ておれば、また元のようになりますから」


「早う治そうなぞと考えず、しばらくはゆっくりと身体を休めてくだされ。兄者も戻って参りましたし、城の守りのことはもはやご懸念に及びませぬで」


 小一郎には、この恩人に掛ける言葉がそれくらいしか見つからなかった。

 長居して病人を疲れさせてもいけないから、早々に退出しようと考えていたのだが、


「こうして日がな一日横になっておりますと、考え事しかできぬせいか、次から次からつむりに打つ手が浮かんできます――」


 半兵衛は、藤吉朗と小六を枕元に呼ぶよう小一郎に頼んだ。

 報せを受け、二人はすぐに現れた。


「北近江を調略するなら、今がしおです」


 今度の横山攻めの失敗で、浅井長政の求心力は少なからず低下しているだろう、という意味のことを半兵衛は言った。


「あれほどの血を流し、しかも何の戦果も挙げられなかったのですから、浅井の譜代の者たちはともかく、外様の豪族たちは浅井長政殿のやり方に疑義ぎぎを抱いておるでしょう」


「なるほど」


「もっともじゃな」


 二人は頷いた。


「そこで小六殿、御辺の手の者たちを北近江に配り、村々に噂をいていただきたい」


 半兵衛が挙げたのは、二点である。


 ひとつは、浅井が横山から兵を退いたのは間違いであった。あのとき北近江に現れた軍勢は岐阜からの援軍ではなく、しかもその人数はわずか一千ほどに過ぎず、浅井長政があくまで城攻めを続けておれば城を奪えたに違いなく、援軍も返り討ちにできたであろう、というもの。

 長政の用兵に対する疑念を広げようというのであろう。


 ふたつは、信長が近々のうちに、今度の報復のため北近江に大討ち込みを掛けるらしい。その数は五万ほどで、浅井方の十倍にもなるだろう。長政は小谷城に追い詰められ、敗亡が近いことはもはや疑いない、というもの。

 織田家に対する恐怖をあおり、浅井の将来に不安を抱かせようとする意図である。


 両方共に、矛盾も無理もない説で、撒くのに苦労はしないだろう。これらの言説が常識として広まれば、その噂は領民と同根の地侍たちに確実に浸透し、それらを纏める豪族たちの心理にも必ず影響を与えられる。


「差し当たっての狙いは、姉川の向こう――宮部みやべ城」


善祥坊ぜんしょうぼうか・・・・」


 宮部 善祥坊 継潤けいじゅんという男である。

 宮部城は小谷城の南西、虎御前山とらごぜやまの南麓にある宮部村に築かれた平城で、横山城と小谷城の中間点から半里(2km)ほど西にある。城というよりは砦という程度の規模しかなく、ここに居を構える宮部継潤は、善祥坊という僧名が示す通り元は比叡山の僧であった。幼少から膂力に優れ、経文を読むより兵書を読むことを好み、ついに還俗して浅井家に仕え、その武勇と戦巧者振りを浅井長政に気に入られ、浅井家で重きを成すようになったという一癖ある人物である。

 叡山を焼いた信長を毛嫌いしているという噂だが、そもそもこの男が浅井に仕えたのは故郷がたまたま宮部村であったというだけの理由で、浅井の譜代の郎党であるわけでもないから、滅亡を賭してまで浅井に義理立てするほどの思い入れは持ってないかもしれない。

 やり方次第では、調略できぬこともないだろう。


「それらはわしの方でやっておこう」


 小六が請合うと、


「宮部城を押さえ、ここを堅固に守れば、浅井は姉川一帯の支配を失うことになります。さすれば、国友くにとも村の鉄砲鍛冶たちをまとめて織田家の支配に置けるようになる・・・」


 と半兵衛が続けたから、小一郎はその目の付け所の鋭さに舌を巻く想いであった。


 国友村というのは、この当時、堺に次ぐ鉄砲生産の一大拠点である。

 豊富な水と鉱石に恵まれた湖北地方は古くから製鉄が盛んで、国友村の鍛冶師は高度な技術を持つことで広く知られていたらしい。鉄砲がポルトガルから種子島に伝わったとき、薩摩の島津貴久しまづ たかひさによって京の将軍 足利義晴よしはるにこれが贈られ、義晴は管領 細川晴元を通して国友村の鍛冶たちに鉄砲の国産化を命じたのである。これが国友鉄砲の起源で、この物語の現在から三十年ほども昔のことになる。

 その後、北近江の支配権を確立した浅井氏は、国友村で生産した鉄砲を吸い上げた。国友鉄砲は浅井氏の鉄砲保有数を激増させ、さらに重要な資金源にもなっていたわけである。この兵器工場を奪えば、湖上貿易の封鎖で苦しむ浅井家の経済にとっては致命的な打撃となるだろう。


「半兵衛殿、話はよう解った」


 藤吉朗が言った。


「宮部善祥坊は、わしがどんな手を使ってでも落とす。半兵衛殿は安堵して養生してくだされ。早う元気になってもらわんと、わしゃ戦が不安でならんて」


 手を合わせて拝むように哀願するのである。


「早う良うなってくだされよ。あぁ、百済寺はくさいじに験のある坊主がおると聞くな。小一郎、祈祷きとうを頼んでみぃ。銭はなんぼでも出すと言うてやれ」


 などと言うのだが、そのくせこの男の食えないところは、自身はその手の妖しげな超常現象の類は毛ほども信じていないことであろう。


「坊主の修法ずほうもええが、今は一椀のかゆの方が験があるんとちゃうか。半兵衛殿、無理をしてでも何か口に入れるようにしてくだされよ」


 と、小一郎は返した。

 言ってしまってから、我ながら台詞が小姑じみているな、と苦笑が湧いた。


 幸い、半兵衛の身体はそれから徐々に快方に向かった。

 次第に血色も良くなり、食も通るようになり、四、五日もすると起きて動けるようになった。千宗易から送られて来た高麗人蔘も多少の効果はあったのか、その後の回復は実に順調だったのだが、藤吉朗からきつく静養を命じられ、居室で書物を読んだり横になったりしながら半月ほどを過ごした。

 驚くべきことだが、その間、何度か信長から病状の問い合わせがあり、見舞いの使者さえ来た。


(信長さまは、存外とお優しい面もお持ちなんじゃな・・・・)


 などと、小一郎は意外に思ったりした。



 さて――


 宮部善祥坊ぜんしょうぼうの調略は、ほぼ一ヶ月でケリがついた。

 下交渉は蜂須賀小六が中心となって進められたが、最後は藤吉朗自身が善祥坊に逢い、内応の確約を取り付けた。

 藤吉朗がこの善祥坊をいかに重く見ていたかというのは、自分の甥(後の豊臣秀次)をこの男の養子に入れてしまったことでも解るであろう。養子と言えばていは良いが、ようするに人質に出したのである。

 普通、豪族が寝返るというような場合、寝返る側が臣従の証しとして人質を出すのが通例だが、藤吉朗は自らの赤心を示すためと相手の命を保証するためにこちらから親族を人質に出した。しかも、実子を持たない藤吉朗にとって跡継ぎの第一候補と言うべき実の甥っ子を、である。

 この思い切った一手は、気位が高く、信長嫌いであった善祥坊の気持ちをころっと参らせた。


(信長のことはともかく、この男は信頼するに足る)


 と思わせるに十分だったのである。

 まして、藤吉朗の甥を養子にしたとなれば、善祥坊は木下家の一門という扱いになる。織田家に臣従するにしても、旗頭は当然、藤吉朗ということになり、信長と直接接触する必要がほとんどないのである。この点も、決断を後押ししたであろう。


 実際に寝返る段になり、善祥坊はなかなか手の込んだ芝居を打った。

 まず、そんなことはおくびにも出さないまま小谷城に赴き、人質に取られていた妻子をなんやかやと理由をつけて一時宿下がりさせ、宮部城に連れ帰った上で、横山城の木下勢に宮部城を攻めてくれるよう依頼したのである。

 小一郎を総大将とした二千の兵が宮部城を囲むと、善祥坊は手勢に矢じりを抜いた矢を射させたり紙を詰めた鉄砲を撃たせるなどして形だけは防戦する振りをしてみせ、「降伏」という姿勢をとって織田家に寝返った。

 人質の妻子を取り返す才覚といい、その後の政治的な進退といい、なかなか知恵も度胸も山っ気もある男であったらしい。


 ともあれ、藤吉朗からこれらの報告を聞いた信長は、藤吉朗が想像したより遥かに喜んだ。

 宮部氏という一豪族の去就よりも、得られた宮部城の地理的重要性と、鉄砲の生産地として名高い国友村が手に入るであろうことが、信長には嬉しかったに違いない。


 信長は、この寝返りを契機に再び大軍を動員し、二月初旬、三万余の軍勢をもって北近江に雪崩れ込み、虎御前山に本陣を据えて一ヶ月あまりも長滞陣をし、浅井の領地を荒らしまわり、姉川周辺の小城を片っ端から抜き、小谷城下はもちろん、北方の余呉よご、木ノ本あたりの村々までを焼き払った。

 織田の本軍が小谷城のすぐ目と鼻の先に陣取ってしまった以上、浅井としても寝返った宮部善祥坊に報復しているような状況ではなく、小谷城に篭って守勢に徹するほか術がない。結果として、浅井氏は虎御前山より南側の支配権を完全に失うこととなり、領地の四割近くを削られたばかりか経済的にも大打撃を受け、勢威が大いに衰えた。


 宮部城を守る善祥坊という男に目をつけた半兵衛の慧眼と言うしかない。


 ちなみに信長は、三月十日には軍勢をそのまま引き連れて志賀へと移動し、琵琶湖畔で本願寺に味方するの小城を次々と攻め、さらに京へ馬を進め、佐久間信盛、柴田勝家、森長可ながよし蜂屋頼隆はちや よりたか、西美濃三人衆らの軍勢を南方へと差し向け、摂津や河内、奈良などで苦戦している織田・幕府軍を援け、敵に回った松永久秀や三好義継を攻めさせた。

 それまで優勢だった松永・三好軍は織田の大軍勢に押されまくり、三好義継は河内の若江城に、松永久秀は奈良の信貴山城にそれぞれ封じ込められ、攻守が逆転した。


 数万の織田本隊が京に集結したことを知り、これが奈良に乱入することを怖れた興福寺、東大寺といった寺社勢力の奔走によってどうにか和睦が成立し、このときの奈良への総攻撃は見送られることになったが、浅井攻めから続くこれら一連の戦は、しばらく苦境が続いていた織田方の大反攻と言ってよく、諸国の形勢を一気に挽回した観さえあった。


 信長は、京で溜まった政務を片付けると、五月十九日に岐阜に凱旋がいせんしている。



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