第53話 横山城の危機(3)
ここで時間を一日ほど遡る。
元亀三年(1572)正月元旦――場所は、岐阜城である。
稲葉山の山頂にそびえる城の大広間に、信長と織田家の重臣たちが顔を揃えている。
信長は大広間の一段上がった上座にあり、終始上機嫌で普段はほとんど飲まない酒を口にし、三人の息子の元服式を見守り、重臣たちと共に酒宴を楽しんでいた。
居並んだ重臣たちの前には山海の珍味が並べられ、広間に入りきらぬ者たちが詰めの間やら廊下やら城内のいたるところに溢れ、そこここで談笑しながら酒を酌み交わしている。城内では卑女から足軽雑兵の端々まで雑煮と屠蘇が振舞われ、あちこちから小唄やら手拍子などが聞こえ、普段は咳払いの音さえ聞こえないこの城の粛然とした情景から思えば、その賑々しさというのは尋常ではない。
この正月の宴席というのは、大名家における年中行事の中で最大のイベントである。
禄高がそう多くない家臣や地方豪族たちにとってみれば、このときこそが戦場以外で主君に直接顔を合わせることができる数少ないチャンスであり、主君に己の顔と名前を見覚えてもらい、より親しみをもってもらうことは、そのまま「政治」ですらあると言えた。その重要性は、論をまたないであろう。
主君の側から見ても、君臣の繋がりをより深くすることはマイナスであるはずがない。
が、大名個人にとっては、これは非常なまでに骨の折れる勤めでもあった。
一般的には、まずこの元旦、大名たちはその家の譜代家臣たちから年頭の挨拶を受ける。
信長の場合は岐阜に在番している重臣たちに目通りしてやるということであり、その礼を受け、一人一人に声を掛けてやり、祝宴を張って持て成さねばならない。
その後、馬廻りの士と織田家の直臣たちから挨拶を受ける。馬廻りというのは信長直属の親衛隊とでも言うべき連中で、戦場では常に主君の周りに侍り、苦楽を共にする男たちである。信長の直臣というのは大別すれば文官と武官があり、数千石を食むような大身の武士もいれば数十石取りの槍一筋抱えたような下士もいる。理財や庶務に才のある吏僚や奉行衆、秘書官である祐筆や小姓衆などもここに含まれ、毛色の変わったところでは力士や大工、あるいは町屋に商人として暮らしながら扶持を受けているような者まで実に様々な人間たちがいる。その数は合わせれば数百人にも上り、謁見するにも石高や役職などに応じて数人、あるいは十数人ずつまとめてするという形にならざるを得ないが、この挨拶を受けてやるだけでも数日がかりである。
さらに親族・一門衆らがこれに続き、その後、近隣に住む新付の豪族や地侍、遠国の外様大名などからの参賀も受けねばならない。これに加えて領国の大寺社の代表者たちや、岐阜や清洲、津島などの大都市の乙名たちが挨拶に出向いて来るし、諸国の大名や幕府、朝廷や公家衆などの使者がひきも切らずに押しかけて来るから、結局のところ十日近くも宴会気分で過ごさねばならないことになる。
信長の気の短さでは、果たして行儀良く座って我慢していられたかどうか心配になるが、織田家ほどの大大名となれば世間に対する影響力も巨大だし、その傘下に属している人間も半端な数ではないから、こればかりはしょうがなかったであろう。
ともあれ、藤吉朗が寄騎の諸将を引き連れて岐阜城に登ったのは、その初日の元旦であった。
横山城に在番している藤吉朗とその寄騎の将たちは、戦務を帯びて岐阜を離れているわけだから正月参賀は義務付けられてはいない。しかし、藤吉朗の顔を見た信長はことのほか喜び、本来ならすぐには拝謁できない寄騎の将たちにも機嫌良く謁見を許してくれた。
藤吉朗は酒が強くない。
が、信長自身が飲み、
「猿、今日は汝も酒を食らえ」
と上機嫌で勧められれば断りようがない。
大杯になみなみと注がれた酒を二杯目まで飲み干したとき、藤吉朗は芸か本気か顔を真っ赤にしてぶっ倒れ、広間で大の字になるという醜態をさらして信長や重臣たちを笑わせたりした。
藤吉朗は夕刻には城下の屋敷に戻り、岐阜に残っていた木下家の家来たちから改めて年始の挨拶を受け、夜はささやかながらも酒食を振舞って年始の祝いなどもし、それが跳ねると寧々(ねね)を伴って臥所に篭り、時を惜しむように夜更けまで若い妻の身体を味わい尽くした。
元来が好色な男である。どれほど疲れていようが酔っていようが、ことが始まってしまえば関係ない。藤吉朗は昨夜に続き、この夜も飽くことなく執拗にそのことに没頭した。
寧々が何度か気を失い、ふと意識を取り戻したとき、この小男は突っ伏すようにして枕を抱き、大鼾をかいていた。
(幾つになっても、どこか子供のような・・・・)
と寧々は思い、口元に笑みが湧いた。
子のない彼女にとって、この小男は夫であると同時に母性本能をくすぐってくれる存在でもあったろう。
藤吉朗は、陽が昇ればまた戦地へと赴かねばならない。再び肌を合わせることは二度とないかもしれぬと思えば情愛が潮のように満ち、寧々は夫の小さな背中に自らの身体を添わせ、布団を直して寒さを追い、その眠りの安らかなることを祈った。
ほどなく一番鳥が鳴いたが、藤吉朗は死んだように眠りこけて起きる気配もない。
この男が腹ごしらえを済ませ、具足をつけて馬上の人になったのは、予定より二刻(四時間)ばかりも遅い正月二日の昼前であった。
(昨夜はちぃと遊びが過ぎたか)
酒が抜け切らぬ頭を振りながら、藤吉朗は苦笑したであろう。
出陣の朝に寝過ごすなどということは、かつてなかった。
が、藤吉朗にとってこの朝の風景は出陣というほど重大なものではなく、単に横山城まで移動すると言うに過ぎなかった。この日に横山城に戻ろうと思ったのはあくまで己の判断で、信長から別段そう命じられたわけでもなく、言ってしまえば出立は今日でも明日でも良かったのである。その程度の気安さであったからこそ寧々に起こされたときも臥所から出る気になれなかったわけだし、木下家の家来たちや行動を共にする寄騎の諸将に対しては「遅発ちにする」と通牒すればそれで済んだ。
この日の早朝から横山城が浅井勢の猛攻を受けているなどとは、いかに藤吉朗が明敏な男でも夢にも思わない。
結局、藤吉朗は、千余人の軍勢を引き連れ昼過ぎにゆるゆると岐阜を出立した。
この数日ちらちらと降り続いている雪は、この朝からよほど小降りになっていたが、西の空は重い雪雲が垂れ込め、美濃と近江の国境の山並みを覆っている。
「寒ぃのぉ。かなわんのぉ」
藤吉朗は何度も一人ごち、左右の者たちを苦笑させた。
暑さはまだ我慢できるが、どうにも寒いのは苦手なのである。
木下勢は二列縦隊で歩武を揃えて進み、墨俣の北で長良川を越え、揖斐川を渡った。そこから南に下って東山道を取り、大垣へと馬を進めたところで、辺りが徐々に暗くなってきた。
横山城までの旅程で言えば、ちょうど半分ほどの地点である。
(このまま進めば横山に着くのは明日の夜明けになるか・・・・)
寒さが、藤吉朗の気を重くしている。
岐阜と近江の境というのは伊吹の山々と養老山脈によって縁取られた山地で、この季節は深い雪によって閉ざされており、平野を進んで来たこれまでとは行軍の質がまったく違う。今年は幸い雪が比較的少ないが、それでもやはり積もった雪を掻き分けるようにして進まねばならず、来るときはその難所を越えるのに実に半日を要したのである。
(大垣の城で休ませてもらうという手もあるか・・・・)
と思ったのは、凍えるような想いをしてまで夜行軍をせねばならない理由がなかったからだ。
大垣は、昨年の伊勢 長島の一向一揆攻めで討ち死にした氏家直元(卜全)の領地で、今は息子の氏家直通が治めている。「西美濃三人衆」の一人であった氏家卜全は藤吉朗を通じて織田家に寝返ったという縁があり、その子である直通のことは藤吉朗もよく知っている。年は三十になるかならぬかといったところだが、剛腹で戦上手であった親父に似ず腺病質で線の細い男である。
大垣城は、現在の大垣市街の中心にある平城で、氏家卜全が行った大改修によって城郭はなかなか広く、千人程度の人数は楽々と収容できる。藤吉朗が頼めば一夜の宿を断られることはないであろう。
そんなことを考えながらゆったりと馬に揺られていると、街道を西から疾駆して来る早馬に気がついた。行軍中の木下勢を見つけたのであろう、田の畦を縫うようにまっすぐにこちらに駆けて来る。
(あれは・・・・・)
瞬間、藤吉朗は事態を予感した。
案の定、息も絶え絶えのその武者から話を聞くと、横山城が浅井に攻められているという。
(甘かった・・・・!)
湧き上がった悔恨は、すぐさま忘れることにした。
(城には半兵衛殿と二千の兵がおる。一日二日で落ちるようなことはない)
窮地は、好機と捉えるというのがこの男の哲学である。
援軍が間に合えば、大事に至ることはない。それどころか、木下勢一手で浅井を追い返せば、藤吉朗の勇気と武略は再び天下の人々を驚かせるであろう。
「隊列を一列にせよ。槍、鉄砲などは荷駄の者にすべて預け、雑兵は両手に松明を持て」
と命じたのは、とっさの知恵である。
一人に二本ずつ松明を持たせ、隊列を一列にして長くすれば、闇の中からそれを遠望した者は千の人数が二千にも三千にも見えるであろう。
「よいか! 息の続く限り駆けよ!」
藤吉朗は全軍に全速力での移動を命じると、自らも馬に激しく鞭を入れた。
その頃、横山城は、浅井勢の猛攻と城方の必死の防戦が続いている。
銃声が闇を割くように轟き、矢が風を切る音が絶え間なく響き、男たちの喚声と怒声、断末魔のような叫びや呻きが小一郎らが篭る本丸館にまで遠く聞こえてくる。
「苗木佐助殿、討ち死に!」
広間に駆け入って来た武者の声を聞き、小一郎は苦々しく唇を噛んだ。
(苗木殿が・・・・)
足軽雑兵ばかりか、組頭(小隊長)や物頭(部隊長)級の者にまで戦死者が数名出ている。味方の討ち死にはすでに八十人を越え、これに深手を負った者を加えれば、実に三百数十人が戦闘不能という惨状である。
あの浅井の猛攻を受けながら、よく凌いでいる――とは思う。
敵には味方の三倍近い出血を強いているだろう。
しかし、それでも暗鬱とした気分に陥らざるを得ない。
このとき、小一郎が何より気に掛かっていたのは、半兵衛のことであった。
半兵衛は、あの病み上がりの身体をして早朝から実に十二時間以上にわたって最前線に立ち、休むことなく軍兵を指揮し続けている。肉体の消耗を気力でカバーしているとすれば、その精神力の凄まじさにはつくづく感服するが、人間の体力にはいずれ必ず限界が来る。
自分が半兵衛と交代することも何度も考えたが、半兵衛の比類ない戦術能力と統率力に比して、小一郎のそれはあまりにも未熟、かつお粗末であり、とても半兵衛の代わりが務まるとは思えないのも事実である。
(こんなときこそ小六殿や将右衛門殿がおってくれりゃぁ・・・・)
とは思うが、おらぬ以上はどうしようもない。
(何とか踏ん張ってくだされ・・・・)
そう祈るしか仕方がないではないか。
小一郎にとっての希望は、夜が明ければ――明日になれば――きっと岐阜から援軍が駆けつけてくれるはずだという確信であった。この縋るような気持ちは、もう信仰と言っていい。
「夜明けまでの辛抱じゃ。明日になりゃ、必ず岐阜から信長さまが大軍を率いて駆けつけてくださるで。それまで何とか城を支えるんじゃ」
小一郎はそのことを声にも出し、己の気持ちと周囲の者たちを必死で鼓舞し続けた。
実際、城方は実に粘り強く戦っていた。
半兵衛の指揮もさることながら、その指揮に忠実に従い、半兵衛の描く軍略を実現させ続けている名もない軍兵たちをこそ褒めるべきであろう。
いかに半兵衛の統率力が高く、その指揮能力が優れていようとも、彼の指揮する兵たちが疲労困憊し、気力を喪失していたとすれば、兵たちを手足の如くに進退させることも、執拗な敵の重圧に耐えさせ続けることも不可能であった。戦において軍勢が敗亡し、壊走する一番の原因というのは、敵の攻撃よりもむしろ味方の兵の疲労にあり、もっと有体に言えばその士気の崩壊にあるのである。
この点について、半兵衛は実に周到だった。
半兵衛が合戦の山場をこの夜から明日に掛けての時間帯だと見越し、あらかじめ兵の半分を温存しておいたというのは先にも述べた。
戦が始まっているにも関わらず手柄を立てる機会をまったく与えられず、八時間近くも待たされ続けた軍兵たちは、喩えるなら駆け出す直前の競走馬のように気が逸り、戦意が漲っていた。しかも彼らは敵の浅井の武者たちが徹夜の行軍と早朝からの合戦で疲れ切っていることを知っており、あと半日ほども支えれば織田の大軍勢が援軍にやって来るであろうことを半兵衛から聞かされてもいて、自分たちが半兵衛の下知に従って頑張りさえすれば、この合戦が負けるはずがないものであると確信していた。
つまり、敵に対して常に精神的に優位に立つことができるわけで、戦そのものがどれほど困難でも明日に希望が持てるから、気力が挫けるということがなかったのである。
攻めても攻めても二の丸を落とすことができないこの状況に困惑し、焦燥を募らせていたのは、むしろ浅井の軍兵たちであり、その総大将たる浅井長政であったろう。
二の丸の虎口の前に穿たれた空堀は浅井の武者の屍で埋まり、狭い尾根から転がり落ちた者たちは崖の下に消え、朝からすでに二百人以上の死者と、数百人にも上る負傷者を出している。この大損害は浅井勢の猛攻の凄まじさを物語ってはいるが、それほどの被害を受けて未だ城を落とすことができないというのは長政にとって大誤算であった。
(うまうまとしてやられたわけか・・・・!)
想像していた以上の――おそらくはその倍に近い――敵兵が、城に潜んでいたとしか考えられない。
長政にとっての辛さは、その両足をすでに泥沼の中深くまで踏み込んでしまっているということであった。
城攻めが困難であり、敵の援軍の来着までに城を落とすことができぬと早い段階で解れば、長政は昨年の五月のときのように綺麗に兵を退いたであろう。横山城を奪うことができぬにしても、浅井の健在ぶりを天下に印象付けることにはなるし、無傷のままで機会を次に繋げることができるからだ。
しかし、なまじ城の城門を破り、一気に攻め落とせると思ったのがマズかった。ここまで血を流してしまったからには、戦果が挙がりませんでした、では済まないのである。
勝負事において、こういう感情論というのはもっとも危険な傾斜であろう。先行投資を取り戻すために次々と投資を繰り返し、結果的にどんどんと傷口を大きくしてしまう博打にも似ている。
そして、そういう心理に敵を追い込み、横山城から退くに退けなくすることこそが半兵衛の狙いであった。
浅井とすれば、このまま城を攻め続けて落とせたならまだ救われるが、この状態のまま敵の援軍が来着し、背後から攻められるようなことにでもなれば、浅井家自体が滅亡しかねぬほどの壊滅的な痛手を蒙ることになる。
家の滅亡を賭し、乾坤一擲の戦いを仕掛けている、というほどの覚悟が、このときの長政にはなかった。ここで信長と雌雄を決するつもりなら、最初から朝倉の援軍を呼んでいる。
(本当の勝負はまだまだ先だ)
と長政は思っていたし、その観測は正しいであろう。武田信玄の上洛が近いという噂も耳に入っており、この先いかなる運の巡りで信長を滅ぼす機がやって来ぬとも限らないのである。
ここで浅井が致命傷を負うことだけは断じて避けねばならない。
だから長政は、岐阜からの援軍の到着によほど神経を尖らせていた。物見を何人も放ち、東山道を西進してくるであろう織田の新手を厳重に見張らせている。
このあたり、長政と半兵衛と藤吉朗の思惑は、それぞれが微妙に交錯していた。
半兵衛は、横山城を囮として浅井勢を釘付けにし、その間に岐阜にいる藤吉朗に大軍を狩り集めさせ、数万の軍勢をもって城攻めをする浅井の背後を逆包囲し、浅井長政もろとも一気に敵を殲滅することを最上の結果として想定していた。そこまで物事が上手く運ばずとも、後巻きの策に嵌れば浅井に大きな痛手を与えることはできるであろう。
半兵衛は藤吉朗の行動予定を大まかにしか知らず、藤吉朗が岐阜で救援の報せを受け取ると思っており、発した急使が大垣で藤吉朗に出会うというところまでは見通せなかったのである。
藤吉朗は、半兵衛の意図をそこまで正確には汲んでいない。
大垣で半兵衛からの報せを受けた藤吉朗には、岐阜に駆け戻って救援を乞い、大軍を引き連れて横山城に向かうという半兵衛が予測した選択肢も確かにあり、常識的にはその選択が正しかったかもしれない。
しかし、それをすれば横山救援は藤吉朗の功にはならない。
藤吉朗は、織田の援軍が来たことが浅井に伝わりさえすれば、結果として浅井が兵を退くと見ていた。藤吉朗自身が率いる兵はわずか一千に過ぎず、この程度の兵力でまともに決戦すれば返り討ちに逢う公算の方が高いのだが、敵は当然、藤吉朗が率いる軍兵を「織田の大軍の先遣隊」と思い、その背後に万余の織田勢が猛追していると想像するであろう。で、あるならば、戦闘で時間を浪費するのを嫌うであろうし、後続が到着する前にと、いそいそと兵を退くに違いない。
つまり、藤吉朗はこのまま横山城に馳せ向かうだけで、「わずか一千の兵をもって五千の浅井を退けた」という事実が出来上がるのである。藤吉朗の武勇は、再び天下に喧伝されることになるであろう。
「敵が関ヶ原に現れました! その数、およそ三千!」
というやや誇大な物見の報せが長政の元に入ったのは、二日の深夜――正確には三日の午前一時ごろ――であった。
(早すぎるぞ!)
とは思ったが、敵の接近が事実である以上、このまま城攻めを続けるわけにはいかない。
三千という少なすぎる数は、敵の先遣隊であるからだろう。当然、その後には二万ほどの織田本隊がいるに違いなく、これが到着するまでこの場にグズグズしていては、浅井は滅びざるを得ない。
(これまでか・・・・)
長政は、苦い汁でも飲んだような表情で闇色の空を睨み、ひとつ大きく嘆息すると、退き鉦を打たせ、手早く退却部署を定め、粛々と軍を引き上げるよう命じた。
この退き際の潔さは、長政の将としての有能さを示していると言っていい。
夜明けさえ待たずに退却を始めた浅井勢を見て、半兵衛は、援軍の来着と己の策が破れたこと、そして横山城の防衛が成功したことを同時に知った。
(岐阜から援軍が来るなら、今日の昼より早いということはないはず・・・・)
おそらく何か別の――たとえば岩手の竹中氏や大垣の氏家氏などの西美濃の軍勢が、急を聞いて援軍に来てくれたものか、あるいは半兵衛が知らぬ事情でこちら方面に移動していた軍勢でもあり、それが近江に現れたりしたのではないかと思った。
が、高熱のために意識が朦朧とし、思考をまとめるのがひどく億劫で、何もかもが物憂くなっている。原因などはこの際どうでも良いように思えてしまうのだが、半兵衛は慌てて頭を振り、安易な楽観に流れようとする自分を懸命に押さえつけた。
(この退却が、我らを城から誘い出す罠ではないと何故言い切れる・・・・)
撤退を偽装することで追撃しようとする織田方を城から引きずり出し、包囲・殲滅する策略を構えていないとも限らないのである。
常に眼前の事象を疑い、相手の二手先、三手先を勘ぐり、最悪の事態まで想定して策を張り巡らせるのが軍略家という生き物であり、その本能であったろう。
半兵衛は気力を振り絞るようにして再び敵陣を睨み、元気な部隊を慎重に引き抜いて小当たりに城内に残った浅井の殿部隊を攻撃させ、敵の本陣が北を指して動き、殿がいよいよ横山を降り始めたと見るや全軍に追撃を命じた。
「深追いは無用。姉川の線より向こうで取った首は手柄にせぬと皆に伝えてください」
伝令の武者たちに向かって吐いたこの指示が、半兵衛がこの日発した最後の言葉になった。
二の丸の櫓の窓に両手をつき、重い身体を支えるようにして麓の闇と揺れ動く無数の松明を睨み続けていた半兵衛は、糸が切れたように膝からずるずると崩れ、板壁にもたれかかって意識を失ったのである。