第52話 横山城の危機(2)
地元で「竜が鼻」と呼ばれる横山丘陵北端の峰に、横山城の出城となる砦が置かれている、というのはすでに述べた。
峰の隆起の頂上部を木柵と塀で囲い、平屋の番小屋と厩、櫓などを幾棟か置いただけの小規模な砦で、せいぜい二、三百の人数を収容することしかできない。横山城に篭る織田方の将士は便宜上これを「竜ヶ鼻砦」とか「北の砦」などと呼んでいるのだが、いま、この砦には、“三つ盛亀甲”の紋を染め抜いた旗や幟が無数に立っている。
砦の中には同じく“三つ盛亀甲”の紋が入った幔幕が張り渡され、矢楯が並び、旗指物を背負った武者の群れが幾重にもそれを取り巻いている。慌ただしくそこに駆け入り、あるいはそこから駆け出してくる武者の姿も頻繁に見られ、遠目にもそれが浅井氏の本陣であると知れる。
その幔幕の奥まった仕切りの中に、六尺(約182cm)近い雄偉な身体を床机に沈め、悠然と餅を食っている若い男の姿があった。
赤、白、藍、黄、黒の五色の糸で威された二枚胴の具足を身にまとい、黒の佩楯と群青色の陣羽織の背には金で刺繍された“三つ盛亀甲”の紋。侍烏帽子を頭上に戴き、額に巻かれた鉢巻の下で濃い眉が跳ね、瞳に瑞々しい光がある。
男は餅の残りを口に放り込むと、大ぶりな顎で大胆に咀嚼し、ひと息に嚥下した。自らの若さを誇示するかのような、見事な食いっぷりである。
男の前には木製の大きな机があり、その周囲に、武者がずらりと居並んで座っている。浅井家の重臣たちであることは言うまでもない。
「姉川」で死んだ遠藤直経、佐和山落城と共に織田家に降った磯野員昌の二人はこの場にないが、「浅井三将」と称された赤尾清綱、海北綱親、雨森弥兵衛の三家老を筆頭に、山本山城の阿閉貞征、宮部城の宮部善祥坊、朝妻城の新庄直頼、以前横山城を守備していた三田村国貞、大野木秀俊、野村直隆などといった武将たちがこの場に顔を揃えている。
そして、彼らの上座に座る偉丈夫こそが、浅井 備前守 長政その人であった。
「酒を――」
長政が言った。
小姓が走り寄り、片膝をつき、それを入れた瓢箪を捧げる。
長政は瓢箪を受け取ると、ぐびりぐびり、と水のような勢いで酒を喉に流し込んだ。ゲップをひとつくれ、空になった瓢箪を背後に放り捨てる。
「兜を――」
長政の背後で愛用の六十二間の筋兜を捧げ持っていた別の小姓がすかさず歩み寄り、背後から主君の頭上に慎重にそれを置くと、長政は素早く顎紐を結び、小柄で結び目の余り紐を切った。
その所作を見守るようにして控えていた武者たちの眼光に、鋭さが増した。
兜の結び紐の余りを切れば、硬く結んだ結び目はもう二度と緩めることはできない。これは、「生きて再び帰らない」という決意をあらわす行為であり、決戦に臨む武者の覚悟の象徴であった。
「さて、では往くか――」
事もなげに長政が言い、立ち上がろうとすると、
「新九朗殿よ――」
不意に横手から声が掛かった。
新九朗というのは、長政の通称である。浅井当主の長政をそのように呼べるのは、長政の父――下野守 久政しかいない。
「まだ軍議が済んではおらぬ。此度の戦、戦立ては如何になさるつもりかの?」
長政の隣に座していた久政は、顎の髭をしごきながら尋ねた。
「無用でしょう」
長政は面倒そうに応えた。
「敵が押し出してくれば押し返し、敵が退けば付け入って乗り崩す。平押しに押して一気に攻め潰し、城頭に浅井の旗を立てる。・・・・それだけです」
これに、重臣たちは誰も異を唱えない。
その必要がないほどに、誰もが長政という主君の戦場での武勇と知略を信頼し切っていた。
この若者は、十五のときから戦場に立っている。
その初陣で、異能とも言うべきその才能を、早くも万人の前に示した。
長政の父 久政の時代――浅井氏は南近江の六角氏に臣従を強いられていたのだが、これを不満とする浅井家の家臣たちはこの若者を担ぎ、久政を隠居に追い込んで浅井を六角氏から独立させようと謀った。
これに怒った六角義賢が二万五千の兵を率いて報復にやって来ると、浅井の当主に担がれた長政はわずか一万そこそこの兵力でこれに決戦を挑んだのである。
元服を終えたばかりで弱冠十五歳。戦場に初めて足を踏み入れたという戦の「い」の字も知らぬ小僧っ子が、矢弾が飛び交う陣頭に怖れ気もなく馬を立て、己の目で戦場を睨み、その匂いを嗅ぎ、野生動物のような直感で戦機を見極めるや、自ら二千の旗本を率いて敵の中央に踊り込み、敵陣を見る間に切り崩し、敵どころか味方の度肝まで抜いた。これがきっかけで六角勢は総崩れとなり、長政は全軍の先頭に立ってこれを追撃し、小気味良いほどの大勝利を得た。
この戦いを「野良田の合戦」と言い、浅井家ではすでに伝説的な戦勝の記憶になっている。
その三年後――長政十八歳のとき――の戦勝も凄かった。
長政は美濃 斉藤家を攻めるために美濃に遠征軍を発したが、斉藤義龍と結んだ六角義賢にその留守を衝かれて佐和山城を奪われ、腹背に敵を受ける大ピンチに陥った。
長政は重臣 赤尾清綱にわずか五百の兵を与えて斉藤家の軍勢を防ぎとめさせ、諸人の想像を絶する速度で軍を反転させると、美濃から長駆して一気に佐和山城を囲み、火の出るように猛攻して城を奪い返し、救援に駆けつけた六角勢を野戦で蹴散らし、浅井の武威を近隣に轟かせたのである。
浅井家の家臣たちはこの主君の戦振りに心酔し、その武勇を心から誇り、
「無類の戦巧者と言われた九朗 判官 義経も、我らが九朗さまには及ぶまい」
とさえ噂した。
浅井の軍の強さの秘密は、物頭級の武将たちに名のある戦巧者が揃っていること、北近江の兵が強悍なことももちろん理由として挙げられるが、それを率いる浅井長政という大将の戦術眼の鋭さと兵の駆け引きの才に寄るところが大きかった。実際、長政は戦場の嗅覚に関しては天才的なところがあり、「姉川」で信長と戦うまでは合戦で負けたことがない。
その「姉川」にしても、浅井自体は倍以上の兵力を持つ織田に勝っていた。十三段備えの織田陣の十一段目までを突き破り、あと一歩というところまで信長を追い詰めた。敗因は友軍の朝倉勢がわずか半数の徳川勢に敗れて脆くも壊走したからで、浅井・朝倉連合軍の指揮をこの長政がすべて執っていたとすれば、決して負けはしなかったと浅井家中では硬く信じられている。
事実、そうであったかもしれない。
また、朝倉と共に叡山に陣取ったときには織田方の堅田の陣城にわずかな勢で奇襲を掛け、織田家で家老級の重臣であった坂井政尚を討ち取り、陣城を残らず焼き払うという痛快な戦勝を挙げている。あのとき朝倉義景が信長と講和しなければ織田を滅ぼせていたはずだと浅井家では誰もが思っていて、優柔不断で戦下手な朝倉義景という男に対しては愛想を尽かすような想いを持っているにせよ、彼らの長政に対する信頼――信仰と言ってもいい――は少しも揺らぐものではなかった。
浅井勢の強さというのは、実にここにある。
軍兵たちが、大将である長政の武勇に心酔し、その下知の通りに戦えば必ず勝てると信じ切っているのである。
横山城を守備する小一郎の側から見れば、これほど恐るべき敵もないであろう。
「先手(先鋒)は、善右衛門(海北綱親)が務めよ。搦め手(裏門)は、善祥坊殿に任そう。それから先の絵は、戦の成り行きを見ながらおいおい描いてゆく」
と、長政は宣言した。
海北綱親が浅井譜代の代表。宮部善祥坊が外様代表と言っていい。両者共に戦巧者であり、誰からも異論はない。
「織田の後詰めがやって来るまでの勝負じゃ。今日明日中に、必ず城を落とすぞ!」
長政が叫ぶと、
「おおぉ!」
重臣たちがそれに応え、長政に続いて続々と座を立った。
開戦の法螺貝が鳴らされたのは、それからほどなくのことである。
信長が浅井から横山城を奪い、これを藤吉朗に預けて以来、横山城は防御力を高めるための普請が入念に施されている。城の正面入り口にあたる北城の大手の虎口にはそれまでなかった立派な櫓門が作られているし、要所に櫓の数を増やし、土塁を高くし堀切りを深くし、横山丘陵の凹凸を巧みに生かして新たな二重堀なども設け、木柵を厳重に植え込むなど、より堅固な防御要塞となっている。
それにしてもいかんせん規模が小さく、長期の篭城に耐え得る作りとまでは言い難いが、横山城の戦略的意義というのは「織田の大軍が岐阜からやって来るまでの数日間、浅井を押さえる」というところにあるわけで、その意味では十分であったと言えるかもしれない。
横山城は、長らく浅井氏の城であった。
当然、攻め手の浅井の武者たちは、横山丘陵の登り口やその坂の傾斜、間道や裏道、難所から弱点までを知り尽くしている。
北城を頭上に見上げる山麓に布陣し、正面からの攻撃を受け持った海北綱親は、千余人の先鋒軍を何段にも分け、定石通りの波状攻撃を仕掛けた。隙間なく城に圧力を掛け、城兵を疲れさせると共に、城兵の数や戦意、士気などを探るためである。
まずは小手調べ、と言っていい。
織田方は、土塁の上に植え込まれた柵の間からさかんに射撃を繰り返し、波のように打ち寄せて来る敵をそのたびに撃退した。
(さすがに織田殿の勢よ。銭にモノを言わせ、ずいぶんと鉄砲を買い揃えたようじゃな・・・・)
その様子を悠然と眺めていた海北綱親は思った。この大手に配された鉄砲だけで、二、三百挺はあるであろう。
ちなみにこの海北綱親というのは、浅井家で軍奉行を務め、後に豊臣秀吉となった藤吉朗に「綱親は我が兵法の師である」とさえ言わしめたほどの智勇兼備の名将である(無論、多分にリップサービスではあったろうが)。このときすでに六十を越え、現役として戦場を駆け回るには老い過ぎているから兵を率いての槍働きは息子に任せていたが、戦場の匂いを嗅ぐだけで敵味方の情勢が解るというほどに老熟した戦術眼をもっていて、大軍を任せるに安心感があり、まさに老巧の物師(戦場巧者)と呼ぶに相応しい男であった。
(人数はそう多くはない・・・・)
大手を守る軍兵は、五百そこそこと見た。
(ならば、敵は守りに徹してくるか)
と思っていると、浅井の軍兵が退却するに合わせて城門が開き、織田の兵が百人ほど、その退き際に食いつくようにして突出してきた。
退却中の軍勢というのは弱い。織田の武者たちは攻め太鼓の轟きに押されるように坂を駆け下り、退こうとする浅井勢の背後から槍を入れた。慌てて浅井方の武者たちも応戦するが、いかんせん退いている途中のことであり、隊列も乱れ、何より味方が逃げつつあるときに背後の敵に向かって駆けるというのは常人離れした勇気がいる。ろくに踏みとどまることもできず、たちまち崩された。
(これはいかん)
その壊乱した部隊を救うため、老人は新手を投入した。
すると、新手の武者たちが崩された者たちと繰り代わるあたりで櫓門から退き鉦が響き、その音を聞いた織田兵たちが逸散に城に向かって駆け戻ってゆく。
(やられた・・・・!)
と、老人は舌打ちした。
逃げる敵を追撃して走る武者というのは、功に逸ってつい夢中になり、前後の顧慮を忘れる。浅井の武者たちは退いてゆく織田兵に誘われるように城門の前まで吸い寄せられ、城からの鉄砲と矢の猛射を浴びて撃ちすくめられた。怯んだところに再び城門が開き、織田方の武者たちが坂を駆け下って槍を入れ、またも突き崩される。
たまらず浅井方が転がるように逃げると、織田の軍兵たちは深追いしようとせず、退き鉦に合わせて整然と城に退き、城門を閉めた。
(なかなか――達者な者がおるようじゃな)
その見事に意思統一された部隊運動と老練なまでに巧みな戦術指揮を見、この老人は唸るように思った。
(が、城兵は思ったより少ない。これなら一気に攻め潰せぬこともない)
と見た。
多少の出血はあったが、そのことが解ったことは大きな収穫と言うべきであろう。
当然、この城攻めの様子は北の峰から戦場を遠望している浅井長政も目にしている。
この若者の直感は、老人とは違った奇妙な違和感を感じ取っていた。
(敵の数が少なすぎはせぬか・・・・?)
ということである。
長政は、横山城には常時二、三千の兵が篭っているものと踏んでいた。横山城の重要性を鑑みればそれは当然であったし、実際、昨年の五月に攻めたときには城門だけで千人以上の軍兵が守りについていた。にも関わらず、今日に限って敵がこうも少ないというのはどうであろう。
(いかに年始の隙を衝いたとは言え・・・・)
あの信長は、それほど甘い男ではあるまい。
まして――
(なぜ軍兵どもを城から出戦させるのだ?)
という点にも疑問がある。
横山守備軍の戦略は、織田の大軍が岐阜から駆けつけて来るまで守勢に徹し、浅井勢をこの場に釘付けにすることであろう。で、あるならば、蓋を閉じたサザエのように城に篭り、弓、鉄砲などを使った射撃戦に専念するのが当然で、まして横山城の守備兵は平素よりも少なそうであり、その少ない兵を損耗させる危険を冒してまでわざわざ城から突出させるというのは理に合わない。
(こちらを誘っておるのか・・・・?)
とも思わぬでもないが、その先が解らない。
長政は不機嫌そうに戦場を睨み、あらゆる可能性を考慮しながら城方の意図を懸命に探ろうとした。
その間も、戦は続いている。
先鋒大将である海北綱親は兵を入れ替え入れ替えして攻め続け、城方はそれを防ぎ続けた。
相変わらず、城方は機を見ては城門を開き、少数の兵が突出してくる。その進退は鮮やかと言えるほどに見事なものだが、攻撃側の浅井とすれば大軍を擁しており、敵の戦法が解っている以上、さほどの怖さはない。
むしろ、突出してくる織田方の損耗の方が激しいであろう。
(何やら嫌な感じがするな・・・・)
直感が、長政にそう告げている。
しかし、昼を過ぎ、夕刻になると、事態がガラリと変わった。
海北綱親にさらに千余の兵を預けて総攻めをさせ、その隙をついて一隊を北城側面の断崖から這い上がらせると、城の外郭の柵の一角が破れたのである。
長政はそこにさらに新手を投入し、大手の城門を内側からも攻めるよう命じた。
織田方は支えきれずに敗走し、城の外郭を捨てて北城の二の丸まで後退した。横山城は尾根に沿って数珠球のように郭が並ぶ連郭式の城で、この二の丸をさえ破れば本丸までもう障害はない。
(何か策を弄しておるのかとも思うたが、わしの杞憂か・・・・)
こうなれば、一気に城を攻め潰すにしくはない。
一方、宮部善祥坊を主将とする一千ほどの兵は搦め手から南城を攻めているのだが、こちらの方面からはまったく吉報が聞かれない。
しかし、
(この北城さえ落としてしまえば――)
南城は北城から尾根伝いに攻められる。そうなれば山上と山麓から挟撃する形になるから、こちらも長くは保つまい。
(いける・・・・!)
と、長政は思った。
長政は占領した城門内に軍兵を入れ、常時千人ほどの兵で代わる代わる二の丸を攻め続けるよう命じた。勢いに任せて一気に抜いてしまおうというのである。
が、予想に反し、二の丸に逃げ込んだ敵兵はいま戦を始めたばかりかと思えるほどに戦意が旺盛で、矢弾の応射にもまるで隙間がなく、浅井勢は攻めあぐんだ。やがて琵琶湖を紅く染めていた残照までがその輝きを失い、あたりは急速に闇に没し始める。
(ちっ・・・・!)
昨夜からの徹夜の行軍と今朝から八時間以上にわたる城攻めで、さしもの浅井の武者たちにも疲れの色が見え始めていた。
長政は、いったんここで休戦し、敵に降伏を呼びかけた。開城に応じれば兵の命は保証する、という内容の手紙をしたため、矢文にして二の丸に射込ませたのである。
しかし、しばらくして返ってきた返書は、降伏拒否という内容だった。
「夜通し攻め通せ。敵は少ない。やがて疲れ果てて勝負を投げるわ」
長政は再び攻撃を再開するよう命じた。
これがすべて、半兵衛の思惑に嵌ったものだとは想像もできなかったであろう。
城の外郭を捨てる――
その合図の法螺貝を聞き、小一郎は負傷した兵たちを連れ、二の丸の櫓から本丸の屋形へと移動した。
これまでの戦いで疲労した兵たちはそのまま本丸に入って休むよう指示がなされており、重い手傷を負った者はさらに後方の南城の本丸へとそのつど後送している。これから戦場になるであろう二の丸には、それまで後方で待機していた無傷の兵がすでに守備についている。
すべて、半兵衛と事前に打ち合わせた通りである。
本丸の屋形の内部は、野戦病院さながらの様相を呈していた。広間や廊下や溜まりの部屋では比較的傷が浅い者が手当てを受けたり、あるいは座り込んだり柱や壁に身体を預けたりしながら握り飯を頬張り、餅を食らい、そこここで体力の回復を図っている。
小一郎は広間の奥を指揮所に、矢弾の支給や食事の支度、負傷者の看護、重傷者の後送などといった細々とした仕事の指図に忙殺されていた。この城の大将ではあるが、やっていることはいつもと同じ裏方である。
「痛ででっ、このコケが、もっとゆっくり――優しゅう扱わんか。わしゃ怪我人じゃぞ」
銅鑼のような濁声が響き、雑兵の肩につかまった髭面の武者が、びっこを曳きながら広間に入って来た。
「作内殿! 手傷を負われましたのか!」
小一郎は思わずその武者に駆け寄り、身体を支えるようにして手を貸した。
この男、作内というのはもちろん通称で、名を加藤光泰という。年齢は小一郎より三つ上の三十五歳。
最初、美濃 斉藤家に仕える土豪であったが、信長によって斉藤家が滅ぼされるとそのまま織田家に仕えた。その後、藤吉朗が信長に請うてもらい受け、今は木下家の下級将校となっている。木下家にとっては最古参と言っていい家来の一人で、後に藤吉朗が豊臣秀吉となって天下を取ると、累進して甲斐(山梨県)甲府で二十四万石の大大名となった。
光泰は朝から最前線で半兵衛の指揮を受けて働いていたのだが、外郭を捨てて退却するときに負傷したらしい。脛当ての上から膝の部分に布が厳重に巻かれて止血はされているが、あふれ続ける血が紅く滲み出している。
「どうも膝の皿を砕かれましたわい。わしも今日から片輪じゃ」
光泰は不敵に笑い、大仰に床に腰を下ろした。
事実、この男の怪我は一生モノで、光泰は終生、片足を引きずりながら歩くことになる。
「おおぉい、わしにも握り飯をくれ。腹が減ってかなわんわ」
飯を配り歩いている小姓を目ざとく見つけ、
「ついでに酒か汁をもってきてくれんか。わしゃこの足じゃ。歩けんでの」
と言って豪快に笑った。
「おぉ、そうじゃそうじゃ、陣代殿よ、半兵衛殿からこんなものを託って参りましたぞ」
と言って懐から取り出したのは、手紙である。
「二の丸に射込まれた矢文ですわい。大方、兵の命は助けるで、降参せよとか何とか書いてあるんでしょう」
開いて目を通すと、朝からの織田勢の善戦を讃え、城門が破れた以上は――と、これ以上の抗戦の無駄を説き、兵の命は浅井の名に賭けて保証するから、諦めて城を開け、というようなことが書かれてあり、最後に浅井長政の署名と花押がある。
先ほどから銃声が一時的に止んでいるのは、こちらが返事をするまで休戦している、ということなのだろう。
「半兵衛殿は何と?」
「上々(うえうえ)のことは自分は預かり知らぬが――返事をするまで攻めぬとせっかく敵が言うてくれておるのじゃから、お言葉に甘えてゆっくり休ませてもらえばよろしかろう、とか何とか。まぁ、あのご仁は、いつものように笑っておりましたわ」
自分は戦の指揮は任せてもらったが、「政治」には関与しない――というのはいかにも半兵衛らしい。
「解りました。返書は兄者の名でわしが書きましょう」
「どういう返事をさなるおつもりですかいな?」
光泰が一瞬表情を消し、窺うように小一郎を上目で見た。腑抜けたことをぬかすようならこの場で刺すぞ、とでも言いたげな殺気が、その眼にある。
「弾正忠(信長)が家来には、名より命を重しと思う者はおらぬと言うてやりますよ」
小一郎はすでに半兵衛に命を預けてしまっている。
「この城が落ちるときは、わしが死ぬときです」
当然、その程度の覚悟はできている。
その言葉を聞くと、とたんにこの男は満面の笑みを浮かべ、
「それでこそ殿の弟御じゃ。そうと決まりゃぁ、わしももう一働きして見せますわい。なに、足は利かぬが腕は利く。弓も引ければ鉄砲も撃てますからの」
傷の痛みも忘れたかのように上機嫌になった。
こういう豪傑型の朴強漢というのは、コツさえ掴んでしまえば扱いやすいし、何より篭城の時にはもっとも頼りになる。暗澹と沈みがちになる空気を、ぱっと明るくしてくれるからだ。
小一郎は、たっぷり半刻(一時間)ほど掛けて祐筆に返書をしたためさせると、それを二の丸の半兵衛の元へ届けさせ、矢文にして敵陣に射込ませた。
両軍共に小休止を終え、いよいよ第二ラウンドの開始である。