第51話 横山城の危機(1)
元亀二年九月に行われた「比叡山 焼き討ち」は、少なくとも軍事的な意味では成功だったと言えるかもしれない。
信長のこのデモンストレーションは、諸国の反織田勢力はもちろん、中立を守って日和見している勢力をも仰天させ、一切の妥協を許さない信長という男の怖ろしさと織田家に歯向かうことの危険さを決定的に印象付けることになった。織田の分国である伊勢や南近江では豪族や地侍、大寺社などが信長にあらためて忠節を誓い、伊勢 長島を唯一の例外として一揆はひとまず鳴りを潜めた。
が、同時にこのことは、世間に瀰漫する信長への悪感情を極度に肥大化させることにもなる。
(まさに天魔の所業・・・・!)
常識ある者ならば、反吐を吐くような気分でそう思わざるを得なかったであろう。
たとえば武田信玄は、叡山の滅亡を聞いて信長の成し様に激怒した。
信玄は政略・戦略の感覚と戦術的な思考、経済行政などにおいては冷徹なまでに徹底した合理主義者であったが、その思想は鎌倉以来の名家の当主らしくいかにも保守的で、古典的な伝統、権威といったものを愛し、神仏を尊ぶような気分を濃厚に持っていた。ことに源氏の守護神である八幡大菩薩と武門の守護神である諏訪明神を尊崇し、仏教では臨済禅を重んじ、妙心寺派の高僧を甲斐に招いて高名な恵林寺を建てた。また、天台宗にも深く親炙し、信長の焼き討ちから逃れて来た叡山の僧たちを甲斐で匿ってやったりしている。
その信玄から見れば、今度の信長の所業というのは、己の理解をまったく超えたものであったろう。
また、このとき信長と友好関係にあった上杉謙信は、叡山滅亡の報を聞いて嘆息し、
「信長の悪逆無道は前代未聞である」
と非難したと『春日山日記』にある。
謙信はほとんど有名無実の存在になっていた「関東管領」の職に終生こだわりを持ち、室町幕府体制を復権することに少なからぬ情熱を燃やしていた人物で、その意味では古典的な伝統、権威の護持者であった。また謙信は信仰に篤く、仏教においては天台宗、真言宗、法華宗などに深い入れ込みを見せているし、自らを「毘沙門天の化身」であると信じ、それを口にもし、上杉家の軍旗に「毘」の字を用いるというほどに神仏を敬する気持ちが強い男であったから、神をも怖れない信長の所業は、そもそも許せる類のものではなかったであろう。
この両雄の言動をもって、この時代に生きていた人々の「比叡山 焼き討ち」に対する一般的な反応と言い切るのは牽強付会だが、多くの人々にとって、神仏を露ほども怖れず至尊の霊場を焼き、僧俗を問わず非戦闘員まで皆殺しにした信長の所業は、悪行すら越えた野蛮な暴挙としか思えなかったに違いない。
「仏法と王法は車の両輪。仏法破滅すれば、王法も当然滅ぶ。織田さまの御世もそう長くはあるまい」
などと訳知り顔で囁く公家や僧などは京あたりには多かったし、たとえば反織田の姿勢を貫いている一向宗の門徒たちは、
「信長が神仏の敵であることは、もはや疑いなし!」
と口々に叫び、織田家に対する憎悪をさらに燃え立たせた。
もっとも、当の信長はといえば、周囲のそのような声には聞く耳さえ持たない。
信長は叡山を焼いたその足で上洛し、苦戦が続く摂津や大和の戦場に明智光秀らを援軍として送り、本願寺の本拠である石山へ馳せ参じようとする人間をせき止めるために通行封鎖などの施策をし、昨年から修築が続く内裏の普請を監督し、あるいは将軍御所に赴いて将軍や公家衆の相手をするなど精力的に京の政務を片付けると、数日後には風のように京を去り、岐阜へ帰っている。
が、信長の抜け目なさは、「比叡山 焼き討ち」の悪評を、別の方法で挽回しようとしたことであろう。
元亀二年十月、信長は京に莫大な米を集め、それを京の町衆に無償で貸付け、その利息を朝廷に支払うよう命じることで朝廷の安定した収入源を作ってやっているのである。
この時代、永続的な収入源を与えてやろうと思えば、「土地」――つまり田畑――を寄進し、その収穫をもって年収にするというのがほとんど唯一の考え方なのだが、貸し米の利子でそれを捻出するなどという発想は、およそ他の大名家では持ち得ないものであったろう。
信長は、内裏の修築に二万貫もの巨費を投じるのみならず、朝廷に対しては年に何度も献金や贈り物をし、あるいは零落した公家の荘園領を返還したり取り戻してやったりするなど、朝廷に対する尊崇の姿勢を厚くし、武門の代表としてそれを庇護する自分の姿を世間に印象付けようとしていた。そのことによって、己の所業に対する世間からの風当たりを和らげようと図っていたのであろう。
将軍にせよ、朝廷にせよ、信長にとっては「天下布武」の道具に過ぎないわけで、利用できるものは何でもとことん利用しようとする信長の姿勢がここでも見て取れる。
いずれにしても、元亀二年という年は、こうして暮れてゆく。
畿内では一向門徒の一揆や松永久秀らの反乱が依然収まらず、戦火の火種が常に燻ぶっていたが、「比叡山 焼き討ち」以来、織田の領国が比較的安定したこともあって、信長は一時の危機的な状況をわずかに脱したかに見えた。
翌元亀三年(1572)は、岐阜城での祝儀から幕を開ける。
信長は、諸将が登城する正月の祝賀に合わせ、己の三人の息子――長男 奇妙 十六歳(信忠)、次男 茶筅 十五歳(信雄)、三男 三七 十五歳(信孝)――を同時に元服させたのである。
「新年の祝いのみならず、若君が三人までも加冠なされるとなりゃ、これほどめでたいことはないわ。祝賀に行かねばならんで、また三日ほど城を空けるぞ」
藤吉朗は当然のように言い、横山城は小一郎と半兵衛に任せ、寄騎の諸将を引き連れて岐阜に戻ることにした。
これまで何度か述べてきた通り、寄騎の諸将というのは、藤吉朗の指揮下にはいるが織田家の臣ということでは藤吉朗と同格の人々であり、「木下家の家来」であるわけではない。藤吉朗とすれば彼らには常に相応の敬意を払わねばならず、ことさら岐阜に同道したのも、彼らを織田家の祝賀に参加させ、さらには新年の屠蘇を家族の元で飲ませてやろうという気遣いであったろう。
無論、それだけ危険ではあった。
蜂須賀小六や前野将右衛門ら川並衆の棟梁たちは野武士あがりであるだけに戦上手で、ことに二、三百の人数を率いた小部隊戦闘には非常に長けている。また生駒親正、御子田正治、尾藤知宣といった信長から付けてもらった寄騎の諸将にしても戦場経験が豊富な者が多く、それぞれがそれなりに信頼できる力量をもっている。彼らのような物頭級の人材がいるといないとでは軍勢の戦闘能力に雲泥の差が出るわけで、それが不在となれば横山城の防戦能力は極端に低下することになるであろう。
が、藤吉朗は頓着せず、新年の祝賀に合わせて岐阜へ帰った。
(なぁに、ほんの数日だけのことじゃで、まずまず大丈夫じゃろう)
という楽観が、藤吉朗にある。
年頭に被官(家来)の者が主城に集まり、主君に年始の挨拶をし、祝宴を張って新年を祝うというのは何も織田家に限ったことではない。当然、浅井家でも小谷城でそれが行われるはずであり、まして雪深い北近江では真冬の軍事行動が難しいから、半年以上も静かにしていた浅井がわざわざこの時期を選んで動くことはないであろうと藤吉朗は油断していたのである。
この隙を浅井長政に衝かれようとは、思いもよらなかったろう。
長政は、この瞬間を狙っていた。
兵農分離が行われていない浅井家では、いざ合戦となれば陣触れをして国中の村落に散らばる軍勢を城に集めねばならない。それだけで一日や二日は掛かってしまう上、その様子が北近江にばら撒かれている間者の報告によって横山城に知れてしまい、長政が横山城に攻め寄せる頃には城の防戦態勢が十分に整えられ、待ち構えられるから、これが浅井の城攻めを不利にしていることを長政は知っていた。まして横山城が攻められたとなればすぐさま岐阜から織田の大軍が援軍に駆けつけて来るわけで、この城攻めは何よりも時間との戦いなのである。
(奇襲で一気に事をし遂げるよりない・・・・)
と考えるのはむしろ当然であり、それにはこの正月は絶好の機であった。
元旦の祝賀となれば小谷城に家臣たちが集まる。これを不審に思われることはないし、何より正月の祝宴中である以上、織田方にも多少の油断があるであろう。あるいは横山守将の木下秀吉をはじめ有力武将の何人かは岐阜に帰っているかもしれず、雪に閉ざされた美濃と近江の国境を越えて救援の急使を走らせるにも後詰めの織田軍が岐阜から駆けつけるにも平時よりは時間がかかるに違いなく、いずれにしてもこれほどの好機はまたとない。
長政は、「いつ織田が攻め寄せて来ぬとも限らぬゆえ、念のため、年始の登城には軍勢を引きつれよ」とあらかじめ家中に命じておき、正月元日の夜、小谷城での祝宴の最中に突然座を立ち、電撃的に出陣したのである。
その数、およそ五千というから、浅井氏にとってはほぼ全力の出撃と言っていい。
不覚にも、小一郎はこの敵の動きを察知できなかった。お屠蘇気分に浸っていたわけでもないのだが、藤吉朗の油断が己の気のゆるみに繋がっていることを、自覚していなかった。
小一郎がようやく事態の重大さに気付いたのは、正月二日の夜明け頃――横山城の物見櫓の半鐘が狂ったように乱打された時である。割れるような鐘の音で、城内が一時に騒然となった。
浅井勢は暗夜に乗じて姉川まで進出し、夜明けと共に一気に冷たい河水を越え、雪を蹴立ててあたりの織田方の番小屋や関所を打ち壊し、そのままの勢いで横山丘陵の麓まで怒涛のように攻め寄せて来た。
その様子を城頭から遠望した小一郎は、血の気が引いた。
数は、およそ五千――これほどの規模なら、敵の総大将 浅井長政自らが出陣しているに違いない。
(なんちゅうことじゃ・・・・・!)
言いわけができないほどの大失態であった。
浅井は昨年の五月以来、半年以上も守りに徹して攻勢を掛けてこなかった。戦局に影響のない小競り合いはしょっちゅう行われていたが、それにしても攻めるのはいつも織田方であり、横山城が戦場になったこともついぞない。そのことに対する慣れが、常に慎重で用心深い小一郎の考えまでも甘くしていたらしい。
小一郎を何よりうろたえさせたのは、こういう時にこそもっとも頼りになるはずの半兵衛が、風邪をこじらせて臥せっていたことであったろう。
半兵衛は昨年の師走から体調を崩し、十日ほども高熱が去らず、そのためにひどく衰弱し、一時は立って歩くことさえ満足にできないような有り様だった。最近になってようやく小康を得、食事なども喉を通るようになったのだが、それでも戦場に出られるような状態であるはずもない。
しかし、半鐘を聞いてもっとも早く本丸の広間に駆けつけたのは、他ならぬ半兵衛だった。
「半兵衛殿! まだ起きられては・・・・・」
「いやいや、もう大丈夫です」
すでに具足に身を固め、陣羽織代わりに浅葱色の裾長の胴服をはおった姿である。その顔色は幽鬼のように青白く、頬はこけ、目の下にできた隈が痛々しいが、それでも口元には常のごとくゆったりとした微笑が浮かんでいる。
「かたじけない・・・・」
小一郎は苦しげに言い、頭を下げた。
半兵衛の身体を気遣う気持ちはもちろん持ち合わせているのだが、その半兵衛の顔を見た瞬間、
(これで半ば救われた・・・・)
と本気で思い、ほっとしてしまっている自分の心の動きが我ながら滑稽だった。
半兵衛は意外としっかりした足取りで小一郎の元に歩み寄り、小姓がすかさず床机を据えると、そこにゆらりと腰を下ろした。
ちなみに戦時は室内であっても土足が当たり前で、板間でも畳の間でも座るときは床机に腰掛ける。
「やられましたな・・・・さすがに浅井長政殿、戦上手であられる」
突然の敵の襲来にも、やはりこの軍略家には慌てるような素振りが微塵もない。
「わしの不覚です。こうなるまで敵の動きに気付かぬなぞ・・・・・」
小一郎は奥歯をかみ締めた。
この時期の奇襲などは、小一郎の脳裏をかすめもしなかった。
「まぁ、そのことは――」
半兵衛は首を振った。
「小一郎殿の不覚は、同じく留守を任された私の不覚でもある。この恥は、戦場で雪ぐとしましょう。すでに岐阜には早馬を走らせました。まずは敵の動きを見極め、相手の攻め手に合わせて矢戦でもし、しばらく時を稼ごうと思いますが――よろしいですか?」
小一郎に否やがあろうはずもない。
半兵衛はただちに軍兵を部署し、小一郎と共に敵を見下ろせる北城の山腹――二の丸の高台へと身を移すと、そこに置かれた櫓を当面の指揮所と決めた。
みぞれ混じりの寒風が吹きすさび、じっとしていられないほどの寒さである。
半兵衛は櫓の窓から黙然と北の空を睨み、微動だにしない。
(敵の本陣は、北の峰か・・・・・)
以前、信長がこの横山城を攻めたときに本陣を据えた竜ヶ鼻であろう。
竜ヶ鼻には横山城の出城となる小砦が置かれていたが、半兵衛は防御線を無用に拡大することと兵を無駄に損耗することを嫌い、砦を捨てて守備兵を横山城に収容していた。
「小一郎殿、この戦、私に任せてもらえますか?」
色を失いきった唇から、不意にその言葉が漏れた。
「もとより――」
小一郎は即座に応えた。
「半兵衛殿に死ねと言われれば、わしゃいつでも死ぬつもりでおります」
「私は――死ぬつもりなどはないのですけどね」
半兵衛は力なく笑った。
「あわよくば――この戦で浅井長政殿を討ちたいと思っています」
とまで言ったから、小一郎は仰天した。
敵の総大将を討つどころか、この城が攻め潰されかねないような状態ではないか――
「博打と言えば博打ですが――それほど分の悪い賭けではないと思いますよ」
「博打・・・・」
半兵衛は、およそ大言壮語をしない男である。その半兵衛がこうまで言う以上、何かしら秘策でもあるのかもしれない。
このとき、寄騎衆が不在の横山城の城兵は、二千ほどである。
半兵衛は、このうち一千を予備隊とし、南城がある奥の峰で待機するよう命じた。
が、城兵の半数を遊ばせておくというのはどうであろう。
「敵に、こちらの数を見誤らせたいのです」
半兵衛は説明した。
「岐阜から後詰め(援軍)がやって来るまで敵をこの城に釘付けにすれば、戦は我らの勝ちです。しかし、長政殿も馬鹿ではない。そのことはよく解っておられるでしょう。後詰めが来る前に横山城が落とせぬと見れば、無理せず兵を引き上げるはず。それでは――面白くない」
戦は勝敗つかずの引き分けに終わり、浅井の力を削ぐことにさえならない。
「しかし、こちらの城兵が少なしと見れば、一気に攻め潰せると意気込み、攻め手に熱が入りましょう。その頃を見計らい、大手門を捨てます」
「捨てると・・・・!?」
城の外郭を捨て、城内への侵入を許すというのか。
「二の丸まで退き下がり、そこで敵を防ぐ。そのときまで、城兵の半分は休ませておきます。手強く防ぐのは、それからでよい」
外郭を破ったとなれば、あと一歩で城を落とせると敵はいよいよ気負い立つであろう。まして城の守備兵を千人ほどと誤認していれば、一気に攻め潰せると見、退くことなど忘れて総力を挙げて無理攻めを繰り返すに違いない。
「しかし、一歩間違えば・・・・・」
そのまま押し切られて落城してしまう可能性さえあるではないか――
「はい。ですから、そこが賭けです」
半兵衛は事もなげに言った。
「私の目算では、遅くとも明日の日暮れには後詰めが来ます。敵がそのとき野に陣取っておれば退却することもできましょうが、これを城内に引き入れてしまえば、もはや逃げ場はない。後詰めの勢と我らとで前後から挟撃し、殲滅すればよい。そのとき長政殿が城内におれば、討ち取ることも難しくはないでしょう」
小一郎は唖然とした。
(この窮地に、そこまで考えを巡らせておったのか・・・・)
肉を斬らせて――というが、まさに一気に浅井を滅ぼす策略ではないか。
(じゃが、万一そのまま城が落とされれば・・・・・)
という不安が、小一郎の脳裏をよぎった。
横山城の陥落は、木下勢の全滅を意味している。当然、小一郎も半兵衛も死ぬことになる。それどころか横山城が敵の手に落ちれば織田家は岐阜と京との通路を再び塞がれることになり、そのことが諸国の反織田勢力を大いに勇気付けるに違いなく、信長の「天下布武」にとって巨大な退歩となるだろう。
しかし――
小一郎は半兵衛を見た。
この軍略家の言葉が、これまで外れたことがあったか――
その神のような智謀に、どれほど救われてきたか――
数瞬の逡巡の後、
「・・・・・解りました。万事、お任せします」
と、小一郎は言った。
半兵衛は静かに頷き、微笑した。
「大手の指揮は、私が執りましょう」
先述した通り、このとき横山城の守備兵は雑兵ばかりで部隊指揮官になれる者が少ない。木下家の下級将校と言えば、加藤光泰、山内一豊、中村一氏、堀尾吉晴、森吉成(後の毛利勝信)などといった連中がいるにはいたが、これらはいずれも自前の家来数人を率いるのみの一騎駆けの武者であって、部隊指揮に習熟しているとは言えず、その点で心もとない。
「小一郎殿はこの場にあって、城の四方に目を配ってください。敵の攻め手を見、攻めの厚いところに手持ちの兵を回し、守りに徹してくださればよい」
「承知しました」
半兵衛は城兵に城から一歩も出ないよう厳命し、敵が横山丘陵を登って来るに任せ、城の外郭を頼みに矢、鉄砲を使った射撃戦に専念するよう命じた。
防御一辺倒――まずはしばらく時間を稼ぐつもりである。
使い番の武者にそれらの指令を伝えると、半兵衛は櫓を降り、数人の武者と共に自ら坂を下って大手門へと歩いて行った。
半兵衛の姿が見えなくなると、小一郎はとたんに心細くなり、胸中に渦を巻いた不安で押しつぶされそうになった。
(これでよかったのじゃろうか・・・・・)
半兵衛の読みの通りに事態が進めばよい。
しかし、もしその通りにならなければ――
小一郎は、心中の動揺を左右の者たちに気付かれぬよう務めて表情を消し、床机に静まって腕を組み、瞑目した。
(大将は、心静かに床机に座しておればよい)
大将が不安がれば、その不安は何層倍にもなって下の者たちに伝わり、それが全軍の動揺を生み、軍兵たちの士気を削ぎ、戦に対する恐怖心を煽り立てることになってしまうことを小一郎は知っている。
こういうときは、ただ大度に構えて座っていることこそが大将の仕事であり、その役割なのである。
散発的な銃声を聞きながら、小一郎は自らを説き伏せるようにして床机に座り続けた。
やがて山麓の方で鬨が上がり、陣太鼓が乱打され、法螺貝が吹き鳴らされ、武者押しの声と喚声が遠く響いてきた。
これに呼応するように、数百発の射撃音が轟々と大気を鳴動させる。
(始まったか・・・・!)
浅井勢が、本格的な城攻めを開始したらしい。