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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第50話 天魔の所業――比叡山 焼き討ち

 元亀2年(1571)5月の浅井長政の反攻は、藤吉朗の鎌刃城救援の成功によって大した成果も挙げられずに終わった。


 信長は、そのわずか6日後、伊勢 長島を攻めている。

 浅井が兵馬を休ませている隙を狙ったのであろう。


 5月12日に岐阜を出陣した信長は、尾張 津島まで自ら馬を進め、全軍の指揮を執った。

 今回の作戦は美濃・尾張・伊勢の兵3万余を動員する本腰を入れたもので、九鬼氏の軍船で海路を封鎖し、陸路は東南北の三方から長島を包囲した。織田勢は小船を使って木曽三川の本流支流を渡河し、輪中の村々を焼き払い、奪われていた小木江城を奪い返すなど、序盤は優勢に戦を進めたらしい。

 しかし、「進者往生極楽、退者無間地獄(進む者は極楽往生、退く者は無間地獄)」の旗を掲げ死を怖れず戦う一向門徒の強さというのは信長の想像を超えていた。織田勢はさらに深入りしたところを地理に精通する一揆勢の巧妙な反撃にあって総崩れとなり、殿しんがりを務めた柴田勝家が負傷し、代わって殿に立った氏家直元(卜全)が討ち死にするなど散々な被害を受け、ついに兵を引かざるを得なくなった。


 摂津 天満ヶ森の時に続き、信長は一向一揆相手に再び敗北を喫したわけで、信仰によって結束した一揆の厄介さと恐ろしさとを再認識させられたであろう。このときから信長の「武力を持った宗教勢力」に対する憎悪が決定的になるのだが、いずれにしても、この合戦は織田方の惨敗であったと言うしかない。


 この長島攻めの失敗が象徴しているように、織田家を取り巻く環境は、依然として好転の兆しさえ見えていない。

 各地の一向一揆の勢いは少しも衰えず、浅井・朝倉も頑として健在であり、武田信玄の影までが背後から不気味に忍び寄って来ていた。さらに加えるなら、この信玄の影に怯えるように松永久秀や北畠具教などの織田傘下の大名たちがキナ臭い態度をとり始めていて、いつ敵に寝返っても不思議でないような政治状態になってしまっている。

 事実、松永久秀はこの5月の末に武田信玄と同盟して信長に叛き、三好義継、三好三人衆らと結んで織田方の城を攻め始めるのだが、常に強者になびくという点で時勢に敏感すぎるほどの松永久秀が信長を見限ったというこの一事を見ても、この時期の織田家がいかに危機的な状況に置かれていたかが解るであろう。

 信長には大和や摂津の戦場に兵を送るゆとりはない。松永の裏切りを憎々しく思いつつも、これに対していかなる手も打てなかった。


 信長は、ジリジリとした焦燥の中にある。

 このまま手をつかねていれば第二、第三の裏切り者が出ぬとも限らず、領国の引き締めのためにもこの危機的な状況を打破するためにも、何より信長自身の断固たる決意を天下に示すためにも、織田家を包囲する分厚い壁を、たとえ一角でもぶち破ってやる必要があった。この八方塞りの事態を打開し、信長と織田家の怖ろしさを天下に印象付けるためには、それ相応の凄まじいデモンストレーションが必要であるだろう。


 そして信長は、驚天動地の一手を打つ。

 後世にまでその悪名が高い「比叡山焼き討ち」である。



 琵琶湖南端の西岸にそびえる比叡山は、京から見ると北東にわずか10kmという距離にある。大比叡岳(848m)と四明岳(839m)から成り、その広大な山全体が「延暦寺」の境内と言っていい。

 本堂にあたる「根本中堂」を中心に大比叡山頂から東麓にかけて数々の堂塔が並ぶ地域を東塔とうどうと呼び、転法輪堂、浄土院、法華堂、瑠璃堂などが置かれた西麓を西塔さいとうと称す。さらに西塔から4kmほど北の山谷に点在する堂塔群を横川よかわと言い、これらを俗に「三塔」――さらに細分して「三塔十六谷二別院」などとも呼称している。さらに東の山麓である坂本地区には「里坊さとぼう」と呼ばれる子院が三百以上もあって、そこに悪名高い山法師どもが3、4千人も住み暮らしているのだが、ようするに「延暦寺」というのはこれらのいわば総称なのである。


 先にも少し触れたが、この比叡山は、伝教大師 最澄さいちょうが天台宗を開き、一乗止観院という草庵を建ててここに腰を据えて以来、八百年の法灯を守る至尊の霊場であり、京の鬼門を守る王城鎮護の大刹として古くから人々の尊崇を集めてきた。

 「王城鎮護」と言えば、天子の玉体に災いが降りかからぬよう内裏がある京を霊的に守護するということであり、そのために比叡山では日夜不断に祈祷が続けられている。桓武天皇以来の歴代の天子の霊がそこには祀られ、それらの霊たちは、まさに比叡山の霊的な権威と僧たちの不断のお勤めとによって極楽に常住することを保証されているのである。


 無論、この霊域の機能というのはそれだけではない。


 日本仏教史において比叡山ほど名僧・高僧を多く輩出した場所はなく、いわゆる「鎌倉新仏教」――浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・時宗・法華宗(日蓮宗)――のうち一遍が創始した時宗を除く他の5宗派の始祖(浄土宗の法然ほうねん、浄土真宗の親鸞しんらん、臨済宗の栄西えいざい、曹洞宗の道元どうげん、法華宗の日蓮にちれん)はいずれもその修行時代をこの場所で過ごしているし、元三大師がんさんだいしの名で知られる良源やその弟子である源信、融通念仏を唱えた良忍りょうにんなど、仏教史に輝かしい足跡を残した者の名だけでも枚挙にいとまがない。

 本邦において僧を生み出すもっとも有力な母体のひとつがこの山であり、智者や学匠が日々研鑽を重ねるための経典・蔵書の宝庫なのである。


 さらに言えば、比叡山は山そのものが山岳信仰の対象でもある。

 そもそも仏教というのは飛鳥時代に中国から伝わった外来宗教だが、それまで我が国で崇められていた体系化される以前の古神道と深く結びつき、他の国にはない独特の神仏習合が行われている。最澄がこの山で開いた天台宗は山王さんのう神道を生み出し、叡山東麓に鎮まる日吉ひえ大社がこの山の守護神とされ、「山王二十一社」と呼ばれる神々の体系が形成されるに至っている。


 つまり――誤解を怖れずに解りやすい表現で言えば――比叡山は仏教の聖地であるのみならず『古事記』の時代から崇め奉られている聖域であり、二十一柱の神々がまし坐す神の棲家でもあるわけだ。

 こういう場所に火を掛けるなどという発想は、神や仏が人々の精神世界の一面を支配していた戦国の時代においてはそもそも人の持ち得るものではないであろう。


 しかし――

 信長は、それをやるという。


「信長さまは、明智殿に坂本付近の豪族や地侍を調略し、延暦寺から離間させるようお命じなされた。その結果にもよるが、叡山攻めは、おそらくこの秋ごろに行われることになるじゃろな」


 岐阜で行われた軍議から帰った藤吉朗からこの話を聞いたとき、小一郎は発すべき言葉を失った。さしもの半兵衛も驚愕の表情を浮かべていたし、蜂須賀小六は不快そうな表情を隠さなかった。前野将右衛門などは、


「・・・・信長さまは正気を失いなされたかよ」


 と呟くように言い、己の吐いた言葉の不敬さにさえ気付いてないようであった。


(本気でやるっちゅうんか・・・・)


 叡山を攻めるなどというのは、常識ある者の決断し得るところではない。


 もちろん、軍事的には可能であるだろう。

 しかし、政治的なマイナスはあまりに大きいのである。


 叡山を焼けば、その蛮行は下手をすれば前代未聞の悪行として後世にまで伝わるであろうし、信長にとって生涯の汚点となるであろう。本願寺の顕如が喧伝している「信長は仏敵である」という言葉の印象を決定的に裏付けることになるし、何より民衆の怒りと不信を買うことになる。織田家はますます世間から孤立し、信長の「天下布武」にも大きな支障となるに違いない。


「誰も、おいさめせなんだんか?」


 小一郎は尋ねた。


「わしはせなんだがな。右衛門殿(佐久間信盛)や明智殿は、それだけはお止めくだされ、なぞと無駄な諫言かんげんをしておったな」


 藤吉朗は意外にサバサバした表情をしている。

 叡山攻めの悪影響に関しては、信長も十分承知の上で決断したということだろう。


「まぁ、そのような言葉に耳を貸される信長さまではないわい。罪のない坊主たちには哀れじゃが――あぁ、坊主に罪がないわけではないと、信長さまは言うておられたな。罪のない、と思うてはならんか――」


「山法師どもはともかく、叡山おやまの坊主になんの罪があるっちゅうんじゃ」


 将右衛門が口を尖らせた。

 山法師たちは、僧の格好をしてはいるが寺の本尊を拝まず、経をあげず学問もせず、それどころか無頼漢よろしく手に手に刀槍を持ち、銭金を蓄え、鳥魚を食らい、女を抱き――ようするに破戒三昧、好き放題の暮らしをしている、というのは古くからの常識であった。これに鉄槌を下すと言うなら解らなくもないが、しかし、叡山にはそういう悪僧とは別に、智者とか上人とか呼ばれて崇められる当代の名僧・学匠が確かに居て、その徳を慕う者も世間にはまた多い。これらを一緒くたにして成敗するというのは、無茶苦茶だろう。


 しかし、藤吉朗は事もなげに言った。


「山法師どもをのさばらせ、その悪行を世間から隠しておるは、高僧・名僧などとおだてられておる叡山の坊主どもじゃろ。まことに名僧と言うなら、まずはその山法師どもを悔い改めさせねばならんはずじゃが、誰もそれは見て見ぬ振りではないか」


 こう言われれば、将右衛門にも返す言葉がない。


「また、まことに神や仏がおるなら、この者どもに真っ先に神罰なり仏罰なりを与えねばならんはずじゃが、それもない。神や仏がせぬなら、これに代わって天の裁きを下してやるのじゃと、信長さまは言うておられたわ」


 神仏に代わって天の裁きを下す――

 いかにも信長らしい考え方であり、信長が言いそうな言葉ではある。


「それだけではないぞ」


 と藤吉朗は続けた。


「去年のことを思え。浅井・朝倉が叡山に陣取ったとき、叡山の坊主どもは中立を守ると言いながら浅井・朝倉を叡山やまから追おうとせず、それどころか裏ではこれに米塩を贈り、山篭りを援けておったじゃろ。それが、世俗を離れた坊主のやることか?」


 信長はそのとき、叡山に向けて使者を送り、筋と道理を通してこれを説得している。

「織田家に味方してくれるなら、織田分国中の寺領をことごとく返還する」と約束し、「出家の身で世俗の争いに加担できぬというなら、中立を保って浅井・朝倉に肩入れしてくれるな」と諭しているし、その上で、「もし浅井・朝倉に加担するなら、根本中堂、山王二十一社をはじめ、堂塔ことごとくを焼き払う」と確かに言い渡したのである。


 しかし、まさかこれを「本気」と思う者はなかったであろう。


「世俗の争いの一方に加担した以上、世俗の罪をかぶるのもまた覚悟の前でなければならん。信長さまは、ちゃんと筋を通されておるわ」


 理屈は、藤吉朗の言っていることが正しいかもしれない。

 それはそのまま、信長の論理の正しさに繋がるのであろう。

 しかし、たとえ理屈が正しくとも、感情的に大きな抵抗感が残るのである。


 叡山は、別に表立って織田家に反抗しているわけではない。ただ、浅井・朝倉に多少の便宜を図ったというだけである。この叡山を攻めるというのは、やはり「やり過ぎ」という感が否めない。


「半兵衛殿・・・・」


 小一郎は半兵衛を見た。

 半兵衛が、どんな考えでいるかを聞いてみたかったのである。


「叡山を攻めるにしても、そのやり方はいろいろとあります。浅井・朝倉が再び叡山に陣を張るようなことをなくするためなら、焼かず、殺さず、叡山から僧たちを追うだけで済ますという手もある」


 半兵衛は、苦い汁でも飲み下したような表情で、呟くように言った。


「しかし――もし、万一、岐阜さまがその言葉通り、叡山の堂塔をことごとく焼くような暴挙に出たとするならば――それは、『天魔てんまの所業』と世の人々から長く蔑みを受けることになるでしょうね・・・・」


「天魔・・・・・!」


 もはや信長は人ではなく、魔王である――という評価が、世間で下されるということであろう。

 ちなみに天魔とは、仏教における天道界の最高位である第六天(他化自在天)の魔王のことを指す。人道界の者が仏道修行をする際、欲望を刺激することでこれを妨げ、解脱の邪魔をする悪魔たちを統べる王であるとされ、「仏敵」とまで評される信長を喩えるにこれほど的を射た神もないかもしれない。


「叡山を攻めるのは、何も岐阜さまが最初というわけではありません。たとえば――百五十年ほど昔の話になりますが――室町幕府の6代将軍 足利義教よしのり公が叡山を攻め、根本中堂をはじめ堂塔を残らず焼き、僧を斬首し、延暦寺を幕府に屈服させたという先例があります。義教公は奈良の興福寺など数多の宗教勢力を討ち、九州や関東を平定し、衰微した幕権の興隆に務めた将軍ではありましたが、その治世は『万人恐怖』と怖れられました。義教公の専横は人の恨みと嫉みを買い、それが諸大名の疑心暗鬼を生み、挙句に、幕府の四職ししき――いわば腹心であった播磨はりまの守護 赤松親子に謀殺されることになるのですが――このお方は『天魔王』と揶揄やゆされ、その非業の死は『因果応報』ということで評判になったと――物の本で読んだことがあります」


 藤吉朗の幕僚で教養のある者などはほとんどいないから、この手の話についていける者は誰もおらず、一同、返す言葉もない。

 それにしても、まるで信長のその後を暗示するかのような験の悪い話ではないか――


「また、同じく七十年ほど昔、“流れ公方”と揶揄された足利義稙よしたね公を推戴した越前の朝倉貞景さだかげ殿が上洛を策した際、延暦寺がこれに呼応する動きをしたため、京で幕府を牛耳っていた細川政元殿がやはり叡山を攻め、堂塔を焼いています」


 京を目指して越前から軍を発し、叡山に立て篭もった朝倉義景の動きとそのまま重なる。京を牛耳る信長は、朝倉に呼応した叡山を、今まさに討とうとしているのだ。


「この細川政元殿は――『天魔』と呼ばれたかどうかはまでは知りませんが――己の警護役であった者たちに湯殿で襲われ、四十代の若さでやはり非業に死んでいます。いずれにしても、あまり縁起の良い話ではありませんね」


 それも、身から出た錆び――天の報いだとでも言うのか――

 誰もが眉根を寄せ、座に重い沈黙が訪れた。


 信長なら、神仏は怖れまい。

 しかし、凡人である小一郎などは善因善果・悪因悪果の因果応報論が幅をきかせる仏教的な世界観をごく素朴に享受して生きているわけで、悪徳を積めば罰が当たるような気がするし、神罰や仏罰はやはりそれなりに怖くもある。


「叡山攻めが、吉と出るか凶と出るのか――こればかりは私にも解りません。しかし、この事を目の当たりにすれば、世間の人々と共に畿内の大小名や寺社などは震え上がり、先人たちの所業を思い出すだろうことは間違いない。己の吐いた言葉を必ず実行する岐阜さまの果断さを思い知らされ、いま煮えきらぬ態度をしている者どもも、織田家に従うか叛くか、決断を迫られることになりましょう」


 信長による叡山攻めは、元亀2年(1571)9月12日、諸人の想像を絶する規模で実行に移された。



 順を追って見ていくことにしたい。


 8月18日、岐阜を出陣した信長は、その日のうちに横山城まで至ったが、ここで数日足止めされている。

 というのも、どうやら折悪しく台風が来たらしい。『信長公記』によると、『8月20日の夜、大風のために横山城の塀や櫓が吹き飛ばされた』とあるから、よほど大型の台風であったのかもしれない。

 いずれにせよ織田勢は悪天候のために軍事行動ができず、信長は26日になってようやく北近江に兵を進めた。小谷山麓の中島村まで一気に迫り、ここに一夜陣を築くと、兵をさらに北方の余呉、木ノ本あたりにまで侵出させて周辺の村々を焼き払い、青田を刈り捨てさせた。浅井との長期戦を睨み、その収穫をなくすることで力を少しでも削いでおこうというのであろう。

 浅井長政は織田方の挑発に乗らず、小谷城に篭って出てこなかったから、ここでは大きな合戦にならなかった。


 信長は浅井が動かないことを見て取ると、難攻不落の小谷城には手をつけず、28日には兵を引いて佐和山城へ移動し、佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、中川重政に命じて南近江で敵対している豪族の城を次々と攻略させ、さらに9月3日、南近江の一向宗の最大の拠点である金ヶ森を落とした。これ以後、南近江では大きな一揆が起こってないことを考えると、この時点での湖南地域の一向一揆の芽は一掃されたと言っていいであろう。


 そして信長は、延暦寺に兵を向ける。

 9月11日の夜、4万余の織田兵が比叡山の山裾をぐるりと包囲した。


 ちなみに小一郎と半兵衛は、この叡山攻めには参加していない。例によって、横山城を守るよう藤吉朗から命じられたからである。

 藤吉朗自身は2千の軍兵を率い、信長の軍勢と共に比叡山へと赴いた。


 信長がどうやら本気で攻めてくるらしいと知った延暦寺の僧たちは、あわてて黄金三百枚を贈って寄越し、どうにか和を請おうとしたが、信長はその愁訴を一蹴した。


「今さらこんな物で、このわしの心を買えると思うてか!」


 かえって激怒し、全軍に冷酷無比の指令を下した。

 叡山とその山麓の里坊、および日吉ひえ大社の社領付近に暮らす人々を老若男女の別なく撫で斬りにさせ、堂塔・伽藍・社殿すべてを灰にするよう厳命したのである。


 叡山攻めは、翌12日の早朝から行われた。

 その虐殺の様は、この世に現出した地獄としか言いようがない。


 山麓に住んでいた者たちは、織田軍の突然の襲撃に驚き、裸足で日吉ひえ大社の奥宮が置かれる八王子山に逃げ登り、あるいは二十一社の社殿や叡山の堂塔に逃げ込んだ。織田兵たちは鬨の声を上げながらこれを追い、血の匂いに狂った悪鬼のごとく山や谷を跳梁し、堂塔を見るや手当たり次第に火を掛け、逃げ惑う人という人を槍で突き殺し、死体を火炎の中に投げ入れた。

 若い僧は歯向かって斬られ、あるいは端座して両手を合わせ、信長を呪詛しながら死出の旅についた。老いた者たちは逃げもできず、念仏を唱えながら堂塔と共に焼け死ぬか、助命を愁訴した姿のままで首を落とされた。もっとも涙を誘ったのは年端もゆかぬ寺小姓や稚児たちで、彼らは身に起こった事態をよく理解することができず、なぜ自分たちがこのような理不尽な目に逢わねばならぬのかさえ解らぬままに泣きながら罪を詫び、ひたすらに哀れみを乞うたが、織田兵は無慈悲にもそれらをすべて殺し、いちいち首を刎ねて信長の見参に入れた。


 皮肉な話だが、こういうときにこそ叡山おやまを守って戦うべき山法師たちは、真っ先に逃げ散っていくらも里坊には残っていなかったらしい。

 信長は、他人に対して倫理的な要求が極めて峻烈な性質たちで、人が進退において汚い振る舞いをすることを病的なまでに嫌うところがある。山法師たちの成し様というのは信長の神経を逆なですることとなり、叡山攻めはさらに苛烈さを増した。


 里坊がある比叡山麓の坂本には、無辜むこの民も多数暮らしている。坂本の町屋が焼かれることを怖れ、多くの者が山内に逃げ込んでいたのだが、彼らはもっとも不幸な犠牲者であったろう。この聖域には本来いるはずのない女人が数え切れぬほど殺されることになったのはこのためで、泣き叫ぶ甲高い声がひときわ山谷に響いたが、信長はこの殺戮に一切の例外を許さず、それらはみな捕らえて首を刎ね、遺体は無残に打ち捨てられた。


 信長に従う多くの武士たちにとってさえ、この酸鼻を極める光景というのは胃のから黄液が逆流するほどに気分の悪いものであったろう。武士は戦場で殺し合うのが稼業だが、無抵抗で逃げ惑う弱者や女・子供を殺すことはその本分ではないのである。

 しかし、信長の命令というのは彼らにとって絶対であった。


 忠実な織田兵たちが振るう刀槍は筆となって阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵を描き出し、神の棲家を焼く紅蓮の炎と人肉の焦げる匂いがそれに彩りを添えた。天は黒煙に覆われ、大比叡山腹に揺らめく炎は京からも見え、多くの人々にこの世の終わりを連想させたという。

 延暦寺と日吉大社はほとんど無抵抗のまま一日で滅び、僧俗あわせて4千とも5千ともいう死体がこの聖域に散乱した。


 この戦闘で、織田方の死者はわずか数人しか出なかったという。



 それから数日後、藤吉朗は木下勢を引き連れて横山城に帰って来た。

 その表情はいつものように明るかったが、常に軽口を忘れないこの兄が、


「地獄を見たわ・・・・」


 と言ったのみで叡山攻めのことについては一切口にせず、その日は食事もろくに取ろうとしなかった。

 蜂須賀小六や前野将右衛門ら藤吉朗の幕僚たちもそれは同様で、さすがに信長に対する批判だけは口にしないものの、重い荷物を背負い込んだような暗い影が面差しにありありと残っていた。


 小一郎が小耳に挟んだところでは、藤吉朗は叡山北部の包囲を受け持ち、横川の山谷を攻め登ったらしいのだが、この方面では、斬獲された首の数が不思議なほど少なかったという。

 藤吉朗は何も語らず、実際に叡山に行った者たちも一様に口が重かったが、察するに藤吉朗は、かなりの数の僧や領民を目こぼしして逃がしてやったものらしい。このことに関しては、信長からも一切の問い合わせや詮索はなく、また、お咎めもなかった。


「信長さまというお人が、よう解らんようになったわ・・・・」


 その夜、慰労のために開かれた酒宴で、小六がぼそりと呟いた。


 もちろん、もともと解っていたというほど信長という人間を知っていたわけではないであろう。しかし、これまでの信長の所業と比べても、今回の叡山での虐殺はちょっと常軌を逸した感がある。


 信長は常に正義を好み、道理を好み、合理性を好む。

 この世でただ我だけが尊いと思っているような傲慢なところがあり、こと政略においてはその言動は多分に権詐に満ち、約定を破ることを屁とも思わず、勝つためなら何をしでかすか解らぬような男だが、その行動は常に明快で、ひとたび口にしたことは必ず実行し、しかもその行動の迅速さ、果断さにおいて世に比類がなく、ようするに「このあるじについてゆけば間違いない」と家臣から思わせるような絶対的な頼もしさがあり、それが信長という男の強烈な求心力になっていた。

 しかし、今度の叡山での大虐殺を目の当たりにした者ならば、小六でなくとも、


(信長さまがやった事は、本当に正しいことなのか?)


 という素朴な疑問を抱かずにはおれなかったろう。


「叡山でのことを、解ろうとしてはなりません」


 静かに手酌で酒を飲んでいた半兵衛が言った。


「岐阜さまの成されたことの善悪正邪を決めるのは、我らではなく、またこの世に生きるいかなる人でもない。何十年か、何百年か――後の世に生きる人々が、叡山で流された血の本当の価値を決めるのです」


「何百年先の世に生きる者たちが、か――」


 小六はそれ以上何も言わなかった。

 言うべき言葉を持たなかったのかもしれない。


「天下人の御心は、『天』のものです」


「『天』・・・・?」


 藤吉朗の視線を受け、半兵衛は頷いた。


「これを、我らが『地』の物差しで計ろうとしてはなりません。計ったところで計り切れず――結局は、苦しむだけですよ」


 小一郎にとっても、この夜の酒は、常になく苦い味になった。




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