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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第5話 墨俣“一夜城”

 信長という人は、固陋な因習にガチガチに囚われた中世という時代に生まれたことが信じられないほど柔軟な発想と独創性とを持った男であったらしい。

 古くからある決まりやしきたりはとりあえず否定し、すべて自分の合理性と独創性に任せて再構築せねば気が済まないようなところがあり、しかもそういう自分を言葉でいちいち説明することをしなかったから、他人から見ればやること為すことが突飛に過ぎて、誰一人として理解できる者がいなかった。

 『信長公記』の記述によって若い頃の信長の様子を見てみると、


「片袖をはずした浴衣に半袴を穿き、火打石や木の実など色々な物を入れた袋を腰にいくつもぶら下げ、茶筅に巻き上げた髪のもとどりを紅や萌黄色の糸で縛り、朱鞘の太刀を差し、お付きの者にもみな朱色の武具を付けさせるという有様で、」


「町中でも人目もはばからず柿や瓜を齧りながら歩き、立ったまま餅などを頬張り、人に寄りかかったり人の肩にぶら下がったりするような歩き方しかしなかった」


 というから、大名の御曹司どころか無頼漢やならず者と少しも変らない。

 父 信秀の葬儀のときでさえ、信長はやはり髷を茶筅に結い、腰に巻いた荒縄に長柄の太刀と脇差をぶち込み、袴さえつけないという珍奇な格好で現れ、抹香をむんずと鷲掴みにするや仏前に投げつけ、参列した人々を唖然とさせたらしい。

 人が「大うつけ」と呼ぶようになったとしても、致し方なしと言うべきであろう。


 この物語のこの時期――永禄9年(1565)の信長というのは、数えで32歳になる。さすがに昔のような「奇行」をすることは少なくなったが、子供じみた心――旺盛な好奇心と瑞々しい感性――を持ち続けたということは、この男の生涯を貫く特徴になっている。


 信長には――信長自身がそうであったからかもしれないが――珍奇な人や物を好む性質がある。

 そもそも信長が藤吉朗を召抱えた理由というのは、猿ともネズミともつかないその珍妙な顔が気に入ったからであったし、たとえば後年、南蛮人から献上された黒人を見て一驚し、東洋ではあり得ないその皮膚の黒さゆえに大層気に入り、弥助と名づけて自分の太刀持ちにして可愛がったりもした。またあるときは、岐阜と京都を往来する途中で、雨の日も風の日もいつも同じ場所に座っている乞食を見つけ、


「だいたい乞食というのはその住処が定まらず流れ流れてゆくものなのに、この者だけはいつも変らずこの場所にいる」


 と言って面白がり、それを京にいるときにふと思い出し、わざわざ出かけて行って木綿20反を手ずから贈り、


「これでこの者の暮らしが立つようにしてやってくれ」


 と、近在の村人たちに命じたりしている。

 信長という男には、「奇妙人」というものはそれだけで愛してしまうようなところがあったらしい。


 それほどの信長である。

 天下の稲葉山城を鮮やかに奪い取り、それを古草履のように軽々と投げ捨ててしまうような「奇妙人」を、気に入らないはずがない。


「半兵衛というヤツは、よほど面白い男らしい」


 としきりに言い、稲葉山城を売ってもらうことは断わられたものの、そのことによってかえって半兵衛という男に清々しさと好もしさを感じ、興味を持つようになっていた。

 信長は、半兵衛が美濃から姿を消し、城を持たない一介の浪人になってしまっても、


「あの男を連れて来い」


 と家臣に探させていたのである。

 信長という「奇妙人」に眼を付けられるあたり、半兵衛のやった事というのがこの時代においていかに珍奇であったかが解るであろう。



「小一郎、竹中半兵衛殿を覚えとるか?」


 と藤吉朗が言い出したのは、永禄9年の春のことであった。


「そりゃぁ覚えとる。稲葉山城を奪い取って、何処かへ雲隠れしたお人じゃろ」


 伊木城の本丸館で、小一郎は藤吉朗と向かい合って夕餉を取っていた。


「おう、その半兵衛殿じゃがの。居所が知れたそうじゃ」


 状況報告と今後の指示を受けるために一時小牧へ戻っていた藤吉朗は、信長からその話を聞き込んできたらしい。


「なんでも近江(滋賀県)の東――美濃を出たすぐの山の中に隠棲しておるらしいわ」


「なるほど。さすがに美濃には居られんわな」


 あれほどの事件を引き起こした半兵衛である。美濃国内に居ることが知れれば、斉藤竜興が討ち手を差し向けて殺してしまうであろう。


「信長さまは半兵衛殿に痛くご執心でのぉ。何度も使いを送り、織田家に仕えるよう誘っとるらしいのじゃが、半兵衛殿は首を横に振るばかりなんじゃと」


「ふぅん・・・・半兵衛ちゅう人は、このまま世を捨てて生きてゆくつもりなんじゃろうかのぉ・・・」


 小一郎が何気なく言うと、


「いや、そらありゃせん。最初っから世を捨てるつもりなら、稲葉山城を奪って世間に名を轟かす必要がないわい」


 と、藤吉朗は言い切った。


「・・・あるいは、半兵衛殿は、信長さまを好かんのかもしれんのぉ・・・・」


 このときの兄弟の会話はそれで終わり、小一郎は竹中半兵衛という人間のことをそれっきり忘れてしまっていた。直接に関わりのない半兵衛を気に懸け続けるには、小一郎の日常はあまりにも忙しすぎたのである。



 広く知られている通説として、この時期――永禄9年というのは、豊臣秀吉――つまり木下藤吉朗が、墨俣 (岐阜県安八郡墨俣町)に“一夜城”を築いた年であるとされている。

 しかし、この「秀吉の出世の道を拓いた」とも言える“一夜城”には、実は良質な歴史資料による裏づけがない。

 たとえば、俗に『武功夜話』の名で知られる『前野家文書』を見ると、確かに秀吉と蜂須賀小六率いる「川並衆」が墨俣に築城した様子が克明に書かれてはいるのだが、この『前野家文書』は成立した年代があやふやな上、「先祖の活躍」を誇らしく語ることを目的として書かれたものだから、「文学」としての価値はともかく「史料」としては多くの問題点を含んでおり、記述をそのまま信じるわけにはいかない。

 “一夜城”に関しては、他の史料も似たり寄ったりなのである。

 歴史研究家である藤本正行氏の『信長の戦国軍事学』によれば、秀吉の墨俣築城のエピソードというのは江戸期以降に書かれた小説の類に出てくることがほとんどで、信頼の置ける良質な史料ではまったく見られないらしい。

 秀吉の生涯を描いたものとして有名な小瀬甫庵の『太閤記』でさえ、秀吉が「墨俣に築城した」とは書いていない。そもそも小瀬甫庵は江戸初期の「小説家」であって「ノンフィクション作家」でも「歴史家」でもないから、彼の書いたものをそのまま「史実」とするわけにはいかないのだが、この『太閤記』を下敷きして江戸後期に書かれた『絵本太閤記』によって「秀吉の墨俣一夜城」が創作され、それが世に広く流布されて明治期に「史実」とされたというのがどうやら真相であるらしい。

 いずれにせよこの小説は史実を追求することが目的ではないので、「墨俣の一夜城」が実在したかどうかにこれ以上触れる気はないのだが、『太閤記』によると、永禄9年のこの時期、信長が美濃の国内のどこかに城を1つ築き、それを秀吉に預けたということになっているので、とりあえずこの物語ではそれを採用して話を進めることにしたい。

 つまり、東美濃を押さえ、いよいよ本格的に美濃攻めを始めようとした信長が、稲葉山城に対して橋頭堡になるような城を美濃の南部に築かせ、そこに伊木城に入れていた藤吉朗を移動させた、ということである。

 ちなみに、歴史研究者の間で第一級の史料とされている『信長公記』では、これから語る永禄9年の築城や軍事行動がまったく描かれていないということを、読者に対してあらかじめお断りしておかねばならない。



 信長が、いったい美濃のどこに築城したか――?

 このことについて、『太閤記』では地名も城の名前も出てこないのだが、筆者の見るところ、これは墨俣しかない。


 墨俣は、尾張の中心である清洲から北西――濃尾国境を過ぎてさらに5kmほど行ったところにある。揖斐川と長良川に挟まれた低地で、岐阜と大垣を結ぶ交通の要と言っていい。当時からすでに、「洲俣(墨俣)を制す者は美濃を制す」と言われるほどの要地だったから、斉藤家も早くからここに砦を置き、兵を篭めて守備していたらしい。

 『信長公記』によると、信長は永禄4年の段階でこの墨俣砦を攻略し、分捕った砦を改修補強して美濃攻めの基地にしている。しかし、美濃の中心であるだけに美濃勢も目の色を変えて墨俣を奪還に掛かるから、当時の織田家の力では敵地で猛攻を跳ね返し続けることは難しかった。「桶狭間」で今川家の脅威はどうにか跳ね返したものの、三河(愛知県中東部)の徳川家康とはまだ同盟関係が築けておらず、美濃に大軍勢を永続的に駐屯させておくわけにもいかなかったのである。

 このとき信長は、ほどなくして砦を破却し、美濃から兵を引いた。


 これはつまり、美濃の南部で橋頭堡を築くとすれば墨俣ほど条件が揃った地はないということであり、信長は遅くとも永禄4年にはそのことに気付いていたということなのだ。


 そのときから5年の月日が流れ、美濃の状況は以前とはかなり違っている。

 東美濃がすでに織田家のものとなり、西美濃一帯の豪族たちは斉藤竜興に対して冷淡とまではいかないまでも結束して忠義を尽くすというほどの思い入れはなくなってしまっている。ことに「西美濃三人衆」は半兵衛の「稲葉山城乗っ取り」に手を貸したほどだから、その心情は推して知るべしであろう。


 今なら墨俣に軍事拠点を築いてそれを維持することができると判断した信長は、大軍を率いて墨俣に出陣し、出撃してきた美濃勢を撃退しながら昼夜兼行で破却した5年前の砦を改修増築させた。

 砦の建築には膨大な木材と資材が必要になるから、これは川を使って運ぶ。「川並衆」――木曽七流を庭のようにしている川筋の地侍たち――を率いる藤吉朗が、この砦の建築作業の主要な部分を受け持たされるのは当然であったろう。


 5年前に砦があった場所というのは、長良川に面した盛り立った台地で、犀川が蛇行しながら長良川に流れ込む地点である。この2筋の川が砦の東西北を囲う外堀になっており、陸続きの南側に堀を掘り、土塁を掻きあげ、柵を植え込むだけで十分な防御力が期待できる。しかも砦となる地点が、地面の低いこの墨俣一帯には珍しい台地であるため、川面からは数mも高い位置にあり、川を越えて這い上がってくることが非常に難しい上に水害の怖れも少ない。まさに、城を築くために天が配したような理想的な天然の要害である。さらに言えば、以前の砦の空堀や土塁の部分はほとんどがそのままの状態で残っているから、柵や塀を立てることだけならさして時間は掛からない。


 藤吉朗は、人間たちを巧みに指揮してまず堀と土塁を改修し、数万本の材木を使って防御柵を一気に仕上げた。その後、城の外囲いを作り、あらかじめ調製してきた木材を使って10基の櫓を素早く建て、火除けの泥を塗らせた。ここまでで――ほぼ5日――砦の一応の外観は出来上がってしまうわけである。あとは、ゆるゆると屋敷や長屋などの居住部分を完成させていけば良い。

 この工事は、5千人近い人夫と藤吉朗付きの6百の武士たちによって行われた。

 小一郎や蜂須賀小六が、藤吉朗の片腕となって働いたのは言うまでもない。


 藤吉朗の人使いというのは実に機能的であった。人数を部署し、担当を割り振ると、早く仕事をし遂げた組には莫大な褒美を与えると約束して組と組とを競わせ、全体の作業スピードを上げさせたのである。これは「割り普請」という藤吉朗の常套手段で、以前――まだ藤吉朗が小者頭に過ぎなかった昔――清洲城の石垣修理の仕事を請け負い、瞬く間に完成させて人々を驚かせるということがあったのだが、そのときと同じ手法であった。


 美濃勢も、墨俣築城を手をこまねいて見ていたわけではない。稲葉山から大軍勢が押し寄せてきたが、これは信長が追い払った。そうこうしている間に砦の外観が出来上がってしまい、簡単には手が出せなくなった。

 城攻めは、守備側の10倍の兵力が必要と言われている。しかも攻めるとなればそれなりの準備と寄せ道具が必要だから体勢を立て直さねばならず、どちらにしても信長の本隊が尾張に帰ってしまうまでは手出しができない。


 信長は、櫓の建築がほぼ終わったのを見届けると、墨俣砦の完成を急ぐこととその死守を藤吉朗に命じ、兵を引き上げた。

 藤吉朗はこうして、墨俣砦の加番(守将)となったのである。


 墨俣砦は、ほぼ2ヶ月で完成した。

 この間、何度も美濃勢の攻撃に晒されたが、藤吉朗は寡兵の手勢をよく指揮して防戦し、そのつど敵を追い返した。このことは、藤吉朗を知っている誰の目にも意外であったらしい。

 小兵で腕力もない藤吉朗は、これまで戦場で目立つほどの活躍をしたことがなかった。しかし、初めて大将となって戦に臨んだこの墨俣で、驚くほどの沈着さで防戦を指揮してみせたのである。


「ほぉれ、また敵が来よったぞ!」


 敵が攻め寄せて来るたびに、藤吉朗は土塁の内側を喧しく駆け回って士卒を励ました。


「良いかぁ、わしの言う通りにしておりゃ必ず生きて帰って嬶殿の顔を拝ましてやるで、安心せい! 勝手をすると犬死するぞ!」


「近付いてくる奴輩(やつばら)は鉄砲で仕留めてしまえ! 決して柵から出てはいかんぞぉ!」


「こりゃ誰某、怯えるな! 敵の美濃勢とて鬼ではないわい!」


 大声で怒鳴りながら、しかも陽気な笑い声を絶やさない。

 怯えていたはずの足軽たちは、藤吉朗が傍に回ってくるだけで勇気付けられるのか、ある者は笑い、ある者はくだらない冗談を応酬し、とにかく不思議なほどに士気が上がる。藤吉朗のいるところが、そこだけ陽が差したように明るくなるというのはなんとも奇妙な話だが、これも一種の統率力には違いない。


(兄者には、意外な才があったもんじゃ・・・)


 誰よりも藤吉朗を知っているはずの小一郎でさえ、そう思った。


 たとえば蜂須賀小六も、小一郎とまったく同じ感想を持ったらしい。

 小六は野武士たちの棟梁としてこれまで20年近くにわたって大小の合戦を経験し、おそらくこの墨俣砦に居る者のなかでは戦場経験がもっとも豊富であったであろう。

 その小六ですら、


(こういう大将はかつて見たことがない)


 と感心した。

 敵地で、圧倒的な大軍を引き受けての篭城戦である。どうしても人は精神的に追い詰められ、殺伐とした雰囲気になり、気が沈みがちになるものだが、藤吉朗が大声で陽気に笑っているだけで陣中の気分が勝手に明るくなり、初夏の爽やかな風のように澱んだ空気を吹き飛ばしてしまう。


(藤吉は良い)


 小六がこの小男に生涯仕えることを決めたのは、この墨俣砦の攻防戦で藤吉朗という人間の本質をまざまざと知らされたからであったに違いない。





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