表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王佐の才  作者: 堀井俊貴
49/105

第49話 藤吉朗の勇気――箕浦の合戦

 元亀2年(1571)が明け、雪が溶けて春を迎えても、浅井・朝倉に動きはなかった。


 繰り返しになるが、兵と農が分離されていないことが、大名たちにとって最大の弱点であったと言えるだろう。


 この時代のどの大名の軍勢を見ても、その主戦力である足軽たちは、ほとんどがそれぞれの領国に暮らす百姓たちであった。

 農兵は確かに兵としては強いが、田植えや稲刈りなどの農繁期には動員がしづらく、戦を繰り返せば繰り返すほど領国の田畑が荒れ、収穫が減り、それが結果として百姓たちを疲弊させ、大名家の力を弱めてしまうという致命的な欠点を持っている。このため、大名たちは領国の田仕事が滞らないように常に気を配る必要があり、たとえば大きな軍事作戦を行った後などは必ず百姓たちを休ませてやらねばならないから、年中戦をし続けるということができなかったのである。


 これに対し、兵農分離が進んだ織田家では、軍兵は田畑を離れた専業の兵士であった。軍兵が農作業から切り離されているために季節を考えずこれを酷使でき、戦をどれほど続けても農業生産が落ちなかったわけである。

 これを逆手に取れば、百姓たちが動員されることを嫌う春や秋の農繁期をわざわざ選んで敵の領地に攻め入る、などということさえ信長には可能であり、銭が続く限り何年でも軍兵を働かせ続けることができたわけで、織田家の大成長の種のひとつは、この兵農分離政策であったと言っても過言ではないかもしれない。


 浅井・朝倉が動きが取れなかった半年ほどの間、信長は無論じっとしてはいない。一向一揆に対する手当てを矢継ぎ早に行うと共に、浅井・朝倉の勢力を弱体化させるために経済封鎖などの施策をし、さらに北近江南部に孤立した佐和山城を攻略し、領国の有力寺社と本願寺を切り離す工作を行うなど、外征のための地盤固めに躍起になっていた。


 ちなみに佐和山城は、浅井方の勇将 磯野員昌いそのかずまさが篭っていた城である。

 信長は丹羽長秀をして佐和山城を包囲せしめ、その動きを封じてきた、というのはすでに述べた。佐和山包囲は継続して行われており、城は半年以上にわたってほとんど孤立無援の状態であったわけで、元亀2年の2月半ば頃には城内の兵糧も底をついた。

 いかに磯野が武勇に秀でた将であっても、糧食が尽きれば戦い続けることは不可能である。2月24日、磯野は降伏勧告に応じ、佐和山城は開城された。


 一説によると、この磯野の降伏は、藤吉朗が「磯野に翻意あり」という流言を撒き散らし、それを浅井氏の側が信じたために佐和山城への支援を打ち切ってしまい、磯野が窮した結果であったとされている。佐和山陥落の功は丹羽長秀に帰されるべきだと筆者は考えているのだが、真偽は解らない。


 いずれにせよ、信長は浅井氏きっての猛将の帰順を喜び、湖西の高島郡を与えるという破格の待遇で磯野を織田家に迎え入れた。これは、浅井方の武将を優遇することで、さらなる敵の寝返りを意図したものでもあったろう。

 信長は、接収した佐和山城に丹羽長秀をそのまま入れた。

 湖東地域がより磐石になったことは、大きな収穫であったと言っていい。


 さらに滝川一益に伊勢 長島の攻略を命じているが、これはほとんど成果が挙げられなかった。

 伊勢湾に面した長島は、木曽三川の本流支流が網の目のように走り、海面より低い輪中の陸地がそれぞれ島のように孤立し、その島ひとつひとつがそのまま本願寺の城塞になっているという厄介な地域で、5万とも10万ともいう一向門徒が筵旗むしろばたを立て、錆び槍や竹槍を抱えて気炎を上げている。

 信長はこの長島の手当てに多くの兵を割き、志摩の海賊大名である九鬼氏なども使って水陸両面からこの地域を包囲し、一揆勢を封じ込めはしたが、軍船を使わねば行き来もままならぬという非常に攻めにくい地形ということもあり、これを掃討するにはまだまだ時間が掛かりそうであった。


 この間、小一郎は、半兵衛らと共に横山城に詰めている。浅井氏の監視と北近江封鎖がその任務だが、姉川での交通封鎖と共に琵琶湖の水上封鎖も仕事に含まれているために非常なまでに忙しかった。

 佐和山の丹羽長秀、坂本の明智光秀などとも協力して湖南のみなとに織田家の軍船を並べ、付近の浜などは軍兵を哨戒させて間者の侵入に気を配り、割符(許可証)や織田家の旗などを湖南の『渡り衆』に持たせることで抜け荷対策をし、琵琶湖を往来する丸子船を徹底的に監視した。寒気が厳しい季節でもあり、湖畔の哨戒や湖上の警戒は心身ともに負担が大きくはあったが、浅井に軍事的な動きがないこともあって比較的平穏な日々を送ることができていた。


 藤吉朗はと言えば、信長から京の守備を命じられ、木下勢から千人だけを引き抜いて京に上っている。浅井氏に対する守りと京の守備を同時にやらせるというのも無茶苦茶だが、有能な人材は複数の方面で酷使するというのが信長流と言えば言えたかもしれない。

 藤吉朗は春まで京に居座り、京の治安維持と人心の安定に心を砕き、寺社や幕府や公家衆に対する対応や、畿内の動静探索などに忙殺されていた。



 元亀2年(1571)の春は、そうして訪れる。


 浅井・朝倉との和睦で決定的な危機をどうにか回避した信長ではあったが、織田家を取り巻く環境はまだまだ好転したとは言い難い。


 本願寺の挙兵によって信長の威勢は衰え、特に畿内での影響力が目に見えて低下していた。摂河泉(大阪府)の野では依然として一揆の炎が燃え盛っていて、それが飛び火した大和(奈良県)や伊勢も政情が大いに不安定であった。

 ことに、大和の松永久秀と伊勢の北畠具教の動きが怪しいという。


 天下の大悪人とまで評された松永久秀は、永禄11年の信長上洛の折、織田家の勢いが盛んと見るやいち早く信長に恭順の意を示し、大和での領地を安堵されていたが、とびきりの食わせ者であることに変わりはない。一揆勢との戦い方も手ぬるく、本願寺側に寝返るのではないかという風説さえ出始めていた。

 伊勢の北畠具教は、信長の伊勢征伐のときに織田家と和を結び、信長の三男 信雄のぶかつを北畠家の養子に入れ、同盟大名になっていた。しかし、元来が名門意識が強い男であるだけに、このまま家を乗っ取られることを快く思っているはずがなく、織田家にそむく機会をうかがっているというような憶測が盛んに囁かれていた。

 織田家の勢いが盛んなままであれば両人とも大人しく我慢していたかもしれないが、彼らの側から見れば信長が窮地にある今こそが絶好のチャンスなのである。


 これらのことが、少なくとも信長の不安の種になっていた。


 それよりも何よりも、信長にとっての最大の懸念材料は、東であったろう。

 戦国が生んだ巨星――甲斐(山梨県)の武田信玄である。


 武田晴信――入道して徳栄軒 信玄。

 この元亀2年で、ちょうど50歳。


 新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の名流 武田氏に生まれた信玄の生涯は、合戦と謀略と侵略の半世紀といっていい。21歳のとき、クーデターを起して実の父親を駿河へ追放し、甲斐の国を実力で相続するや、政戦を織り交ぜた見事な手腕で甲斐を統一し、信濃(長野県)を攻め取って近隣にその名を轟かせた。この30年間で自ら戦場に赴くこと実に60回。勝率はほぼ7割に達し、黒星がわずかに3回。あとは勝敗つかずの痛み分けで、つまり、戦えば9割5分の確率で負けなかった。信玄ほどの戦争上手というのは、我が国の長い歴史を見渡してもごく稀少と言っていい。

 有能な兄弟と知勇に優れた武将を綺羅星のごとく揃え、精強な騎馬隊を擁し、独特の訓練法で精錬を重ね信玄の呼吸さえも感じ取るまでになった武田軍団というのは、当時において天下最強と謳われていた。かろうじてこれに比肩するものを挙げるとすれば軍神とまで言われた上杉謙信に統率された越後勢くらいのもので、信長の尾張勢などは相手にもならないだろうという評価が、京の裏路地に遊ぶ子供たちの間でさえ常識になっていたのである。


 信玄は、これほど戦争に強い男でありながら猪突型の猛将ではない。用心深く慎重な性格で、外交・政略をもっとも得意とし、調略で城を奪ったり敵を寝返らせたりすることは名人のように上手く、治水事業である「信玄 (づつみ)」や軍用道路の「棒道」、領国の金山開発などでもよく知られるように土木工事を特技にし、しかも民政と人心収攬が巧みで、信玄が治める国では、彼はほとんど神のように崇拝されていた。

 これほどの武田信玄が、その生涯を賭けて築き上げた版図がたった120万石そこそこというのは逆に奇異な感じさえするのだが、信玄の不幸は、山国で平地が少なく、海上貿易の拠点を持たない甲斐、信濃といったあたりを本拠にしなければならなかったことと、北の隣国である越後に上杉謙信という戦争の天才がおり、東に関東8ヶ国――250万石の覇王 北条氏康が盤居し、信玄を含めた三竦さんすくみの状態になっていたというその地理的な事情であったろう。


 「川中島の戦い」や「敵に塩を送る」という故事でもよく知られるように、武田信玄と上杉謙信というのは宿命のライバルといったような関係で、戦えばほとんど勝敗がつかず、信玄はこの謙信という男とのつばぜり合いで、一生の精気のほとんどを使い尽くしたようなものであった。

 一方の北条氏康は、北条氏の家祖 北条早雲をも凌ぐといわれたほどの器量の人物で、いかに信玄や謙信が挑みかかろうとそのつど侵攻を跳ね返し、戦争で奪った部分は政略で取り戻され、両者共に関東の地盤を揺るがすことがついにできなかった。


 信玄は20年以上にわたって北の上杉謙信、東の北条氏康という大敵と領土の奪い合いを繰り返しており、この両者に掛かりきりであったがために西方への侵出にまでは手が回らず、これまであまり積極的でなかった。そういう事情を聞き知った信長は、尾張を統一し、いよいよ美濃攻めに本腰を入れようとしていた永禄8年の段階で早くも信玄に使者を送り、抜け目なく同盟を策している。

 信玄には勝頼という後継者がいるのだが、信長はこれがまだ正妻がないことを知り、養女を人質として送るようにして輿入れさせた。この養女がたまたま病で死ぬと、今度は自分の息子に信玄の娘を娶わせたいと懇願したりして、とにかく信玄を敵に回さないよう人間に考え付く限りのあらゆる手を打ち続けていたのである。


 当時の信玄にとっても、織田との同盟は悪い話ではなかった。西方まで兵を割いている余裕がないから、織田と同盟することで美濃 斉藤家を牽制できれば都合が良かったわけである。

 すでに織田家と同盟していた徳川家をも含め、武田・織田・徳川は三国同盟を結び、お互いの背後を脅かさない――現代で言う不可侵条約を締結した。


 この三国同盟は、これまではそれなりに機能してきた、と言うべきであろう。

 信玄は上杉氏、北条氏との戦いに専念でき、背後の安全を確保した信長は美濃攻めに全精力を注ぎ込むことができたし、家康は脇目も振らずに三河統一に邁進できた。その後の織田家の大成長は信玄にとっても予想外であったろうが、少なくともつい最近までは三者は友好な同盟関係であったのである。

 信長は、外交ではひたすら信玄に平身低頭し、季節ごとに金に糸目をつけない音物を贈り、自分が京を押さえてしまったことについてもいちいち言い訳のような報告をし、その感情を損ねまいと気を配り、虎を穴から引き出さないよう細心の注意を払い続けていた。その甲斐もあって武田と織田は友好な状態を保っていたのだが、年号が元亀に変わる頃になると信玄が不穏な動きをするようになった。

 同盟相手である家康の領国を、侵し始めたのである。


 この物語における現在から11年前の永禄3年、「桶狭間の合戦」で信長は今川義元を討った。それ以来、駿河の守護大名であった今川家は衰微の一途を辿っており、永禄11年に信玄と家康の連合軍によって東西から侵攻され、あっけなく滅びた。

 今川氏の領国であった駿河(静岡県東部)と遠江(静岡県西部)は武田と徳川で分割されたのだが、その後、信玄は西に矛先を向け、徳川領となった遠江や奥三河などにたびたび兵を出し、これを奪い取るような形勢を見せるようになっていた。大北条氏が80年にわたって丹精したために地盤が強固で、何度攻めてもビクともしない関東を狙い続けるよりも、新興の小大名に過ぎない徳川氏の領国の方が遥かに侵しやすく、実入りも大きいと信玄は考えたのであろう。


 元亀2年2月、信玄は大軍を発し、本腰を入れて徳川領に攻め入った。

 徳川方は必死に防戦したが、もともと横綱と十両力士のほどに圧倒的な力の開きがある。小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城が次々と落とされ、家康の領国は一気に3割ほども削られてしまった。

 家康は信玄という男の怖ろしさを誰よりも知っており、これと敵対したいと思うはずもなかったのだが、信玄の側が侵略して来る以上、戦う以外に選択肢はない。座して待っていれば、徳川傘下の豪族たちが競うように武田家に寝返ってしまうであろう。家康は信玄と断交し、上杉謙信と同盟して武田氏と敵対する態度を明確にした。


 この家康の外交は、信長には大迷惑であった。

 家康が信玄に敵対してしまえば、徳川家と硬い同盟関係にある織田家は自動的に武田家の敵になってしまうのである。

 信長にすれば、四方に敵の多いこの情勢で最強の武田信玄までを敵に回すのはたまったものではないのだが、信玄がさらに西に槍を伸ばし、美濃、尾張にまで出張ってくるようなら否応なくこれと戦わざるを得ないであろう。


 当の信玄は、どうやら明確に「上洛」という野心を持っていたらしい。

 その証拠に、信玄は元亀2年の5月には早々と大和の松永久秀と秘密同盟を結び、織田家と敵対することを確約している。伊勢の北畠具教や長島の一揆勢などにも共闘を呼びかけ、伊勢湾の海賊衆を傘下に収めるなど、上洛準備のための布石をこの元亀2年から着々と打ち始めているのである。

 ひとたび腰を上げ、上洛の軍を発した時には、徳川どころか一気に織田までも潰し、京に武田の旗を立て、将軍を擁して天下に号令する、というところまでの青写真を描いていたのであろう。


 「信玄上洛」というのは、全国の反織田勢力の希望の光であったと言っていい。

 信玄に対する上洛要請は足利義昭も行っているし、今や反織田包囲網の盟主と言うべき本願寺の顕如けんにょもこれを熱望している。信玄が天下最強の甲州勢を率いて上洛すれば、沿道の尾張や美濃などは一撃で粉砕され、信長などはひとたまりもなく滅ぶに違いない。


 本願寺顕如は、その妻が清華家の公家である三条公頼の娘なのだが、同じくその姉が武田信玄の正室になっており、二人は面識はないながらも義理の兄弟であった。

 信長と戦うことを決意し、昨年挙兵に踏み切った顕如は、その後何度も信玄に使いを送り、東西から信長を挟撃してくれるよう依頼している。六角や三好や浅井・朝倉が不甲斐なくとも、信玄さえ起てば、信長を滅ぼすことは赤子の手を捻るよりも容易であるだろう。



 こういう情勢のなか、元亀2年の夏が来る。


 5月6日、満を持して浅井長政が動いた。

 全軍を率いて小谷城を出陣し、姉川河畔に布陣するや、あたりの織田方の関所や番小屋を焼き払い、横山城に攻め懸ける形勢を見せた。


「篭城じゃ、篭城じゃ」


 藤吉朗は例によって陽気に城兵たちを叱咤し、防戦の準備を整える。

 小一郎や半兵衛も具足をつけ、横山山頂の本丸館から姉川に陣取った浅井勢を見渡した。

 人数は、ざっと5、6千というところであろう。

 大軍だが、守りに徹すれば防げない数でもない。


 が、これは敵の陽動であった。

 浅井長政は一族の浅井 七郎 井規に一隊を授け、これを戦場を迂回させて南方に進出させ、堀次郎が守る鎌刃城を襲わせたのである。

 1千ほどの兵を率いた浅井七郎は、鎌刃城の付近で百姓たちに武装蜂起を呼びかけた。たちまちその数が5千余にまで増えたというから、この北近江南部でも一向宗の勢力がいかに強いものであったかが解るであろう。

 浅井の旗と筵旗が混在する一揆勢は、鎌刃城を十重二十重に囲んだ。

 鎌刃城には堀次郎と樋口三郎左衛門らが篭っているが、城兵の数は千にも満たない。


 鎌刃城からの救援要請を受け、敵の意図を知った藤吉朗は驚愕した。

 政戦織り交ぜた周到な作戦と言わねばならないであろう。


 浅井がただ横山城を狙っただけであったなら、藤吉朗は横山に篭城して防戦し、信長の援軍が来るまで時間を稼げば良かった。しかし、浅井の本当の狙いが鎌刃城であるというなら話はまったく別なのである。


 なぜなら、鎌刃城には浅井から織田に寝返った堀氏が篭っていた。

 ここで藤吉朗が鎌刃城を見捨てれば、それは織田が堀氏を見殺しにしたことになり、織田家の北近江での信望が失墜し、評判が最悪なものになるであろう。そうなれば織田方になっている北近江南部の豪族たちも興を醒ますに違いなく、織田家を信じる気を失くし、雪崩うつようにして再び浅井に寝返るようなことにもなりかねないのである。

 しかし、横山城の木下勢が鎌刃城を救援しようと城を出れば、浅井本隊が野外決戦を挑んでくるに違いない。藤吉朗とすれば横山城に守備の人数も残さねばならず、出戦できる数はせいぜい2千だから、6千の浅井本隊に襲い掛かられればひとたまりもない。


(三郎左衛門殿には哀れじゃが、鎌刃城は捨て殺しにするしかないか・・・・)


 とっさに小一郎は思った。

 こう思ったとしても、小一郎がとりたてて冷酷であるとは言えないであろう。

 鎌刃城の救援に向かおうにも、横山城を出てしまえば浅井本隊の攻撃を受けて木下勢は負けざるを得ないのである。それどころか、下手をすればその勢いで横山城までが落とされるかもしれず、藤吉朗や小一郎自身の命さえ危なくなる。救援自体の成功率がほとんどない以上、最初からしない方がマシであるだろう。


 が、藤吉朗はまったく逆の決断をした。


「鎌刃の城は見捨てられん。わしが後詰め(援軍)に行く」


 と、傍から見て気の毒になるほどの焦りを顔に出して言うのである。


「後詰めも何も、城を出れば敵の思う壺じゃぞ!」


 小一郎は反対したが、藤吉朗は聞かない。


「堀の若殿と三郎左衛門殿を、捨て殺しにできるか!」


 顔を真っ赤にして怒鳴り返した。


「北近江の人心を失うては、わしらは仕舞いじゃ。何としても後詰めはせにゃならん」


 その大方針をまず示し、半兵衛に作戦面を尋ねた。


(浅井を破り、鎌刃の城を救い、この横山城も守る――そんな都合のええ手があるわきゃないじゃろが・・・・)


 小一郎は思ったが、半兵衛はしばらく考えた末、


「我らが鎌刃の城を捨て殺しにする――と、浅井に思わせることですね」


 と言った。


「我らがこの横山を動かぬと知れば、浅井本隊も姉川を動けぬでしょう。木下殿は少数の精兵のみを率い、夜陰に紛れて横山の裏から城を抜け、同時に佐和山の丹羽殿にも援軍をお願いし、鎌刃を攻める一揆勢の背後を衝く。鎌刃の城衆と敵を挟み撃ちにできれば、あるいは――」


 半兵衛は眉根を寄せ、難しい表情をしている。


「鎌刃の城には三郎左衛門殿がおります。機を逃すことはありますまい。木下殿が後巻き(城を囲む敵を背後から襲う戦術)に来たと知れば、すかさず城門を開いて打って出ましょう」


「賭けじゃな」


 藤吉朗が受けた。

 半兵衛は頷いた。


「鎌刃の城を囲んでおるはしょせん一揆の勢。いかに数が多かろうと、いったん崩れれば脆い。まして百姓たちが我らの動きを知りようはずはありませんから、岐阜から織田の大軍が援軍に来た、というような勘違いをしてくれれば、存外簡単に逃げ散るかもしれません」


「ならば、やはり数が解らぬ夜襲がええな。今夜城を抜け、そのまま敵へ打ち込もう。この横山は、半兵衛殿にお任せする。鎌刃に後詰めがあったと知れば、明日、浅井が総攻めを掛けてくるやもしれんが、一日持ちこたえれば必ず信長さまが岐阜から駆けつけてくださるはずじゃ」


 藤吉朗は半兵衛の手を掴んだ。


「頼みますぞ」


「ご武運を――」


 半兵衛はその手を握り返し、短く激励した。


 『信長公記』によれば、このとき藤吉朗が率いた軍勢は精兵わずか百騎。

 一騎の武者に数人の雑兵が付属するとしても、せいぜい5百ほどの人数である。

 これを率いて夜陰に紛れて城を出、そのまま鎌刃城を囲む一揆勢の背後から奇襲を掛けた。


 鎌刃城の樋口三郎左衛門は老巧の将である。織田の援軍によって一揆勢が動揺したと見るや城門を開いて討って出、たちまち包囲の一角を突き崩した。

 その穴から、藤吉朗の部隊が城に駆け込む。

 援軍が来たことによって城衆の士気は大いに上がり、さらに動揺する一揆勢に城から突撃を仕掛けた。一揆勢5千余に対し、織田方は1千5百にも満たず、堀氏の侍大将が数人討ち死にするほどの難戦ではあったが、その戦意は旺盛で、二度三度と打って出て敵を切り散らした。


 昼を待たず、今度は西から丹羽長秀の援軍二千が鎌刃城に駆けつけた。

 この機に城衆は総攻めの大攻勢を掛け、丹羽隊と共に敵を攻め立てた。挟み撃ちにされた一揆勢は総崩れとなり、今浜方面へと壊走する。

 織田方はこれを追い、琵琶湖東岸のさいかち浜というところで態勢を立て直した一揆勢と決戦したが、もう勝敗は見えていた。百姓たちは大半が逃げ散っており、浅井七郎の部隊を含めても一揆勢は2、3千しか残っておらず、しかも敗戦につぐ敗戦で兵たちが浮き足立っていて、織田勢の敵ではなかったのである。

 藤吉朗は、見事な勝利を挙げた。


 この間、鎌刃城の一揆軍が崩されたと知った浅井長政は横山城へ攻め懸けてきたが、半兵衛が的確に防戦を指揮し、敵を城内に寄せ付けなかった。小一郎は半兵衛と共に横山城に詰めていたのだが、沈着冷静な半兵衛の采配の振りようというのは見惚れるばかりであった。

 日が暮れると、浅井長政は未練も見せずに綺麗に兵を引いた。長引けば、信長の援軍が駆けつけて来ることは解っている。鎌刃城の攻略がならなかった時点で、今回の作戦はすでに破れているのである。


 浅井勢が兵を引いた頃、藤吉朗から早馬があり、鎌刃城の救援成功と一揆勢を総崩れにした戦勝の報告が入り、城内が歓喜に沸いた。

 半兵衛の的確な作戦立案があったとはいえ、これは藤吉朗の勇気と力戦の功と言うべきであろう。



 浅井長政が久々に攻勢に転じたこの騒乱は、鎌刃城がある土地の名を取って「箕浦の合戦」と呼ばれている。

 わずか百騎で5千の敵に挑んだ藤吉朗の勇気は、「金ヶ崎の殿しんがり」以来、藤吉朗の武勇に対する認識を多少改めるようになっていた織田家の人々を再び驚かせた。

 「勇気」が、人の最大の美質になっていた時代である。


(あの猿殿のことを、わしらはよほど見損なっていたのではないか・・・・)


 と思うようになったとしても無理はなかったであろう。


 この報告を受けたときの信長の表情と言動は後世に伝わっていないが、藤吉朗という男をよほど見直す気分になったに違いない。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ