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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第48話 信長の詐略――「江濃越一和」

 元亀元年(1570)晩秋のある日。

 小一郎は、横山城の本丸御殿の2階の窓辺に立ち、北に広がる姉川河畔の田園地帯を眺めていた。


 見晴らしは、素晴らしい。

 正面に秋晴れの空を戴いた小谷山が遠く霞み、所々に森を散らした大地は見渡す限り裏作(二毛作をする場合の二品種目)の麦が萌え、まるで黄緑の絨毯のようだ。右手では伊吹山脈が黄と赤と緑で織り上げられたタペストリーのように秋に色付き、その麓から姉川が光の帯となって静かに大地を横切り、陽光にきらめく左手の琵琶湖へとゆったりと注いでゆく姿というのは、夢のように美しい。

 四ヶ月ほど前、あの姉川の河畔で5万近い軍兵が血で血を洗うような激闘を繰り広げ、小一郎もその中に居たのだが、そんなことが信じられないような牧歌的な風景であった。


 冬の冷気が混じり始めた風は爽やかで、柔らかい日差しが適度に肌を温め、思わず眠気を誘われてしまうような心地よい昼下がりである。小一郎は見蕩れるようにしばし陶然と佇んでいたのだが、背後の襖を開く音で我に返った。


「――こちらでしたか」


 淡い水色の小袖を纏った半兵衛が、その細面の顔を覗かせた。


「あぁ、半兵衛殿・・・・」


 半兵衛は小一郎の傍らまで来ると、北近江の風景に目を細めた。


「なんぞありましたか?」


 半兵衛の横顔を見ながら小一郎が尋ねた。


「先ほど京の木下殿から早馬がありまして――良い報せと悪い報せとがあります」


「ほう」


「どちらからお耳に入れましょうか」


「悪い報せを先に――そういうことは先に片付けるに限ります」


「されば――」


 半兵衛が語った「悪い報せ」は、容易ならざることだった。

 戦火が、いよいよ京に迫っているのだという。


 まず、10月中旬に三好三人衆が山城(京都府南部)にまでついに侵入し、京の南郊の御牧城(京都府久御山町)を攻め落とす、という事件があったらしい。

 御牧城は、木津川、桂川、宇治川の三大河川が集まる交通の要衝で、京から10kmと離れていない。京の南西にある勝龍寺城と共に京の南方の守りの要と言ってよく、これが陥落したとなると京までもう障害はない。


 信長はさすがに事態を重く見、すぐさま藤吉朗を南方に派遣した。

 2千の木下勢を率いた藤吉朗は、勝龍寺城の細川藤孝と共に御牧城を猛攻し、数日で城を奪い返したから大事には至らなかったが、三好三人衆と本願寺の一揆勢の勢いは、衰えるどころか増すばかりであった。


 さらに10月下旬には、比叡山に陣取った浅井・朝倉が、その軍勢の一部を割いて京の近辺に出没させ、愛宕おたぎの村々(京都市左京区)を焼き払う、という事件までが起こったという。

 愛宕は京とまさに隣接する地域で、京都御所から北東にわずか5kmである。その黒煙は京から丸見えであったに違いなく、正親町天皇の御心をさえ驚かせたであろう。

 浅井・朝倉のこのゲリラ戦術は、軍事的な実効などはほとんどないのだが、心理的な意味での効果は非常なまでに大きかった。京の諸人の動揺は相当に深刻で、信長と織田家への信用がいよいよ失われつつあるという。


 信長にとれば、まさにジリ貧の時期であったろう。


 ちなみに藤吉朗はそのまま京に居座り、再び京の守備をその役割として働くようになっている。とはいえ、わずか2千ほどの兵を率いているに過ぎず、京付近に神出鬼没する浅井・朝倉勢を討伐して回るほどの人数も機動力もないから、せいぜい京の治安維持と内裏と幕府御所の警備をするので手一杯であった。


「兄者は苦労しておりましょうな」


 小一郎が言うと、


「えぇ・・・・しかし、岐阜さまとしてもそれ以上の兵は割けますまい」


 実際、叡山に陣取った浅井・朝倉勢3万というのは脅威であった。

 これに対する織田勢は、本願寺の決起にともなって各地で一揆が続発したために兵力を分散させられており、北方への防備が手薄になっている。奪い返した宇佐山城に本陣を据えた信長が率いる直属軍は――援軍の徳川勢5千を含めても――総勢2万に満たなかった。

 古来、城攻めは守備側の十倍の人数が必要と言われ、鉄砲が普及した昨今でも4、5倍の兵力を必要とするものなのだが、高所の比叡山に砦を構えた浅井・朝倉3万に対し、攻め手の織田勢が2万ではどうにもならない。結局のところ、敵がこれ以上南下せぬように抑えておくのが精一杯なのである。


 信長は、まさに志賀に釘付けにされていた。伊勢や摂河泉(大阪府)の戦場に援軍を送ることさえできず、完全な手詰まり状態になっている。


「それで、吉報の方ですが――」


 半兵衛は少しだけ声を和らげた。


「六角義賢(承禎)殿との間で、和議の話が出始めているそうです」


 これには、小一郎は素直に驚いた。


 六角氏の当主である六角義賢は、信長に南近江を奪われて以来、六角氏の残党を率いて南近江南部の山岳地帯を根城にゲリラ的な抵抗を続けていた。これまで何度も兵を上げ、柴田勝家ら近江守備軍と戦いを繰り返していたのだが、少数の織田守備軍が奮戦するために大軍を擁しながらも城を攻めきれず、大した戦果を挙げることができないでいた。

 今回の本願寺の決起に際しても、六角義賢はやはりこれに呼応し、南近江の一向一揆と結んで一時は兵気が盛んだったのだが、信長の救援に向かった藤吉朗、丹羽長秀、徳川家康らが率いる約9千の兵が観音寺城の付近でこの一揆勢を大いに破ったために、勢いを失い、さすがに力尽きた感があった。南近江を失ったことに加え、度重なる敗戦で旧臣からの求心力さえ失いつつあり、信長と戦い続けること自体が難しくなっていたのである。

 六角義賢はこの後も何度も信長に背くが、とりあえずこの時は信長と和睦し、南近江南部を領有した独立勢力として残ることになる。


「南近江が静まれば岐阜と京との行き来が安泰になり、兵糧・矢弾などの運搬も容易になりましょう。浅井・朝倉とは根競べですから、この意味は大きいですよ」


「根競べ、ですか・・・・・」


「『時』は、我らの味方です。時が経てば経つほど、浅井・朝倉は叡山で頑張り続けることが苦しくなるはずですからね」


 3万の人間というのは、1日につき3百俵以上の米を食う。当然ながら味噌、塩、副食なども必要になるから、これだけの大軍を維持しようと思えば莫大な戦費を負担することになる。兵農分離が進み、経済基盤も巨大な織田家であればそれも可能だが、軍兵の大半が百姓である浅井・朝倉には苦しかろう。

 まして、浅井・朝倉は比叡山の上に陣取っている。3万人が日毎に出す糞尿を始末するにも限界があるだろうし、何より冬を迎えれば山上は凍えるほどの寒さになるであろう。湖北や越前は雪に埋まるから、本国からの兵糧などの輸送にも支障が出るに違いない。


「岐阜さまは、冬を待っておられるのでしょう。雪が降るようになれば、手詰まりになっている戦局も、おそらく動く――」



 半兵衛の言葉通り、冬の訪れと共に浅井・朝倉軍は窮し始めた。


 北陸の冬は、畿内よりさらに早い。11月の初旬(新暦の12月初旬)には雪がちらつき始め、11月下旬になると湖北の山間も雪に埋もれた。浅井・朝倉軍は退路を断たれた格好になり、同時に本国からの物資の補給も困難になった。

 もっとも、兵糧などは延暦寺が提供してくれているから欠乏するまでには到っていない。しかし、2ヶ月もの滞陣で山上の衛生状態は悪化し、何より真冬の寒気が兵たちの心身を痛めつけ、病気になったり凍死したりする者も出始めていた。


 とはいえ、より切羽詰っているのは、やはり信長であったろう。


 この間、信長は、六角義賢との間に和睦を整え、さらに三好方の名将 篠原長房とも和を結び、情勢を多少好転させてはいる。

 しかし、本願寺の一向一揆の勢いは依然として衰えず、摂河泉では織田方の城が次々と攻略され、伊勢 長島方面では信長の弟 信興のぶおきが守る小木江城(海部郡弥富町)が攻撃を受けていた。織田信興は最後まで抵抗したが、5万を越える一揆勢に対し、城兵は千にも満たない。十数日の防戦の果てに城は落ち、信興は自刃して果てた。

 さらに近江堅田の織田方の砦が浅井勢の猛攻を受け、守将の坂井政尚が戦死している。坂井政尚は『姉川』で先鋒大将を務めたことでも解る通り、宇佐山城で死んだ森可成などと並ぶ家老級の重臣である。

 信長は、織田信治に続きまたも弟を殺され、有力武将を失うことになった。


(業腹だが、ここは一刻も早く和睦あつかいにするほかない・・・・)


 信長は思ったであろう。

 このまま事態を放置すれば、一向一揆の勢力に領国を食い荒らされることになる。武力で浅井・朝倉を滅ぼせぬ以上、ここはいったん敵と和を結び、態勢を立て直すしかない。


 叡山が雪に埋もれるのを待って、信長は足利義昭を使い、浅井・朝倉に和睦を打診した。浅井・朝倉がこれに応じないと見るや、今度は正親町天皇を担ぎ出し、勅命という形で和平を呼びかけた。

 もう、なりふり構っていられないのである。

 信長は、「今後、公家や寺社に対する政治には一切関与しない」と誓約する起請文まで書き、天下の政道を手放し、さらに本願寺や延暦寺に対して手をつけないことを浅井・朝倉に対して確約した。このあたりにも、その必死さが表れている。


 逆に言えば、信長がそれだけ窮地にあるわけで、それがよく解っている浅井長政は徹底抗戦を主張したが、肝心の朝倉義景の方は、すでに戦意を失い始めていたらしい。雪によって退路と糧道(補給線)を断たれ、これが不安であったし、何より寒さが身にこたえていたのであろう。

 朝倉義景は、


「畏れ多くも宸襟(天子の心)を騒がせ、かたじけなき勅諚にあずかったる上は、家の面目もこれに過ぎたるはなし」


 という理由をつけて、渋々というていでこの講和を受けた。

 宗主国の朝倉が和睦に応じた以上、浅井長政としてもこれに従わざるを得ない。


 結果論から言えば、このときこそが、浅井・朝倉にとっての運命の岐路であったろう。


 『信長公記』によると、浅井・朝倉と織田の間で正式な和平の調印が行われたのは、元亀元年12月13日である。

 信長は、今後、浅井・朝倉と相互信頼を築き、疎意なく付き合ってゆく旨を誓紙で誓った。

 代表団による話し合いによって新たな国境線が定められ、美濃と近江の国境線にはお互いに兵を置かないこと、どの城を破却してどの城を残すかなど、細々とした条項が決められ、織田と浅井・朝倉の双方から約を保証するための人質が出された。織田軍は琵琶湖南岸の永原城(滋賀県野洲町)まで兵を退き、浅井・朝倉軍は叡山に築いた砦をすべて破却し、浅井は北近江へ、朝倉は越前へと、それぞれの国へ軍兵たちが引き上げていった。


 織田と浅井・朝倉のこの和睦は、一般に「江濃越一和こうじょうえついちわ」と呼ばれている。

 このことによって、信長にとっての最大のピンチは去った。



 これらの情勢は、横山城に帰ってきた藤吉朗が詳しく教えてくれた。


 信長は、軍勢を引き連れて12月17日に岐阜に戻った。

 が、大人しくしていたのはわずか十日ほどに過ぎない。

 元亀2年(1571)が明けるや、信長は浅井との相互友好の約束を早々と反故にし、藤吉朗に湖北の封鎖を命じたのである。


「北国街道と脇往還に関所を作るぞ。姉川の線で、人と荷の往来を止めるんじゃ。行商人はもちろん、山伏、放下師(旅芸人)、神主や巫女の類に至るまで、北から上ってくる者、北へ下ってゆこうとする者、これらをみな追い返し、何人なんぴとも通すな」


 岐阜で行われた元旦の祝いから戻った藤吉朗は、すぐさま横山城の諸将にそのことを命じた。


「小六殿、朝妻や今浜あたりの『渡り衆』に話をつけてくだされ。琵琶湖においても南北の船の行き来は一切許さぬというのが信長さまのご意向じゃ」


「いや、しかし、いかに信長さまのご命令とはいえ、『渡り衆』に船商いを止めよと言うのは死ねと言うようなもんじゃ。おいそれと承知はせんぞ」


 小六は渋い顔で反対したが、


「信長さまのご命令は絶対じゃ」


 藤吉朗は断固として言った。


「何も船商いすべてがイカンと言うておるわけではない。南近江でいくら商売をしてくれてもそれは構わん。ただ、南近江のみなとと北近江の湊の間では行き来は許さん。敦賀や小浜から来る北陸の荷を畿内に入れてはならんし、畿内から北陸へゆく荷もすべて止める。人の行き来ももちろんじゃ」


 信長が下したこの「荷留め・人留め令」は、本願寺を中心とする畿内の敵対勢力と浅井・朝倉との連絡を断つと同時に、浅井・朝倉に対する経済封鎖でもあった。ことに浅井は琵琶湖の水運を利用して多大な運上金(関税収入)を得ていたから、湖上貿易の封鎖は経済的な大打撃になるであろう。


「浅井・朝倉が滅ぶまでの辛抱じゃ。地の者にはなるだけ難儀を掛けとうはないが、この禁制を破った者は、見つけ次第斬らねばならん。浅井・朝倉が滅んだ暁には、これまで以上に儲けさせてやるで、それまでは堪忍せよと言うてやってくだされ」


 湖南の湊に多数の軍船を並べた織田家の経済封鎖は徹底された。琵琶湖の南北の往来が禁止されたことで、京への道が閉ざされた湖北の塩津、海津、今津などの湊は火が消えたようになった。


(それ見たことか・・・・)


 と、浅井長政は思ったに違いない。


 京との商いの道が断たれたことによって、浅井・朝倉の力はさらに削がれるであろう。

 強力な水軍を持たない浅井とすれば、これに対して有効な対抗策もない。


(叡山で雌雄を決するべきであったのだ・・・・)


 叡山に陣取ったあのときこそが信長を滅ぼす絶好のチャンスであり、多少無理をしてでも乾坤一擲の勝負をすべき「機」であったと、長政は考えている。あのときならば勝算も十分にあったはずだが、その「機」さえ掴めぬ朝倉義景という男の暗愚さに、長政は未来に対する暗い予感を抱かずにはおれなかった。

 目的のためなら手段を選ばない信長という男の性格を考えれば、「江濃越一和」などはほんの一時の時間稼ぎに過ぎないということが、長政には解り切っていたのである。


 ここ数ヶ月にわたる騒乱で、北近江にせよ越前にせよ、百姓たちはかなり疲弊している。これを無視して今後も無理に動員を重ね、戦をし続ければ、百姓たちは経済的に破綻するだろうし、そうなれば浅井も朝倉も足元から崩れることになる。いったん動員を解いた以上、少なくとも半年――来年の田植えを終えるまでは領民を休ませねばならず、新たな軍事作戦を発動させることも極めて難しくなるが、その半年を、あの信長が無為に過ごしてくれるはずがないではないか――

 準備が整えば、再び北近江に兵を向けるに決まっているのである。


 長政は、自らが滅びの坂をゆっくりと転がり始めていることを自覚した。


 しかし、ひとたび信長の信頼を裏切り、公然と敵対したからには、再びよしみを結ぶことはできそうにない。あの詐略に満ちた義兄は決して自分を許さないであろうし、よしんばいったん許されたとしても、後々までその時の恨みを忘れず、自分という存在が不要になった時点で過去を蒸し返して滅ぼそうとするに違いない。信長とはその手の怖さを持った男なのである。

 で、ある以上、もはや朝倉と共に戦ってゆく以外に道は残されていないだろう。


(親父殿が朝倉につきさえしなければ・・・・)


 とは、長政は思わない。

 義に厚いこの若者は朝倉に対する恩義の気持ちは人並み以上に持ち合わせていて、信長を嫌い、独断で朝倉に加担することを決めた父や重臣たちの気持ちもよく解っていた。

 織田につくならつくで、そのことに対してリーダーシップを発揮しなかった自分を悔いることはあっても、その責を他人に転化するような気はなかったし、何より、戻らぬ過去にこだわって愚痴愚痴と思い煩うほどこの若者は老いてはいなかった。未来に対して根拠もなく希望を抱けるのは、若さの特権であるだろう。長政は根本的なところで楽観主義者であったし、性格としても明るく、同時に潔かった。


(わしに運があれば、何とかなろう・・・・)


 叡山での「機」は失したが、今後いかなる天の配剤で再び「機」が巡って来ぬとも限らない。朝倉はどうやら頼りにならないが、本願寺という強大な同盟勢力がある以上、戦い方によっては浅井が生き延びる道はあるだろうし、織田家を滅ぼすことだってできないとは言い切れない。

 そこに希望を掛け、諦めず頑張り続けるしかないのである。



 浅井長政は、節を曲げることなく3年にわたって信長と手ごわく戦い続ける。

 北近江の姉川以南を奪われ、わずか20万石ほどの国力しか持たなくなった浅井氏が、強大な織田家の武力の前に屈せず、臣民一体となって戦い続けることができたのは、この若者が最期の最期まで求心力を失わなかったからに違いない。



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[一言] 北近江の姉川以南を奪われ、わずか20万石ほどの国力しか持たなくなった浅井氏が、強大な織田家の武力の前に屈せず、臣民一体となって戦い続けることができたのは、この若者が最期の最期まで求心力を失わ…
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