第47話 信長の窮地――志賀の陣
元亀元年(1570)8月22日に横山城を発った信長は、南近江に配っておいた守備軍を吸収しながら琵琶湖南岸を西進し、8月23日の夜には京に入った。
1万5千ほどだった織田勢は、すでに2万余にまで増えている。
信長は本能寺を宿舎にして一両日兵馬を休ませると、25日に京を出陣し、淀川沿いに南進して摂津に入り、天王寺に本陣を据えた。
信長本隊2万の参陣によって、摂津で苦戦していた幕府軍は大いに力づけられたであろう。織田方は勢いを盛り返し、各所で三好方を破り、敵を圧倒した。
信長の犀利さは、この戦陣に足利義昭を半ば無理やり出馬させたことであった。
こと畿内においては、室町将軍の影響力というのはまだまだ根強く残っている。「将軍親征」となれば、信長が摂津で戦うことの正義を、将軍の権威において天下に示すことにもなるであろう。
実際、「源氏の棟梁」を示す白旗と足利家の紋である「二つ引き両」の旗が戦場に立つと、
「公方さまのご親征なれば、我らもお供せねばなるまい」
ということで従軍を願い出てくるような地侍が畿内には多かったし、織田方の将士の士気もにわかに騰がり、敵である三好方の軍勢にさえ狼狽の色が見えた。
「将軍の権威」などというものを持ち出すのは信長にとってみれば必ずしも面白いことではなかっただろうが、使える道具は何でも躊躇なく使うというのがこの男の真骨頂であったろう。
ともあれ、義昭は信長の要請を断りきれず、8月30日に京を出馬し、9月2日に本願寺の石山御坊からすぐ西にある摂津 中之島城に入った。
このことで織田方はさらに勢いづき、海老江にあった敵の砦を攻め潰して三好方を野田・福島の砦へと追い詰め、川口・海老江・神崎・上難波・下難波などにそれぞれ陣を張り、信長自身は本陣を天満ヶ森へと進めた。
『信長公記』によると、織田方は、野田と福島の砦の周囲に城の外囲いより高い土手を築き、櫓を多数建てると、城を見下ろしながら矢弾を浴びせ、信長が特注して作らせた大鉄砲(大砲)を撃ち込むなどして敵を痛めつけたらしい。
この時点で戦況は織田方にとって圧倒的に優勢であり、信長はこのとき三好方から申し込まれた和睦の提案をさえ一蹴している。この際、三好氏を徹底的に叩いてやろうと思っていたのだろう。
信長がこのとき本陣を据えた天満ヶ森というのは、本願寺の石山御坊から淀川の支流を一筋隔てたすぐ北――現在でいう大阪北区――にある天満宮の社領があった地域で、戦国のこの当時、広大な森になっていた。本願寺に脇腹をさらすようにしてわざわざここに本陣を据えたのは、信長が本願寺の不戦の約束を信じ切っていたことの証拠と見るべきであろう。
しかし、このことは信長の不覚であったと言わねばならない。
本願寺の門主である顕如は、この時すでに信長と戦うことを決めていたらしく思える。不戦の黙約を与えたのは、信長を油断させ、時間を稼ぐための方便であったらしい。
顕如は、信長が天満ヶ森に布陣する以前の9月6日の時点で、畿内近国にある一向宗の夥しい寺院に、決起を促す檄文を送っている。
「信長上洛以来、当本山は非常な迷惑を蒙ってきた――」
という文句から始まるこの檄文は、石山御坊を破却すると脅されたことなど信長のこれまでの様々な横暴を罵り、「親鸞聖人以来の門流の途絶の危機である」と叫び、今こそ門徒たちが「身命を顧みず、忠節を尽くしてくれるよう」訴え、「万一にもこの激をないがしろにする者があれば、それらは永く破門とする」とまで宣言し、最大級の口吻でもって信長と戦うことを門徒に命じている。
本願寺は、すでに朝倉氏、三好氏、六角氏などと款を通じており、9月10日には浅井親子とも同盟し、巨大な反織田同盟の形成に成功していた。信長をおびき寄せ、三好氏と結んでこれと戦うことで織田の大軍勢を摂津に釘付けにし、その隙を衝いて全国の門徒を蜂起させ、同時に同盟した六角、浅井・朝倉などに信長の背後を襲わせる、というのが本願寺側の戦略であったのだろう。
すべての手はずが整ったと見た顕如は、9月12日の夜、ついに決起を命じ、一向門徒を中心とする数万の一揆勢が天満ヶ森へと雪崩のように襲い掛かった。
後に「石山合戦」と呼ばれることになる10年に及ぶ抗争が、その火蓋を切られたのである。
中立を守ると思い込んでいた本願寺勢に、突然に本陣を夜襲された信長は、激怒する以前に恐怖したであろう。
鉄砲傭兵集団として名高い紀州の雑賀党などを引き入れた本願寺勢は一揆軍とは思えぬほどに強く、不意を衝かれて後手に回った織田勢は見る間に壊乱し、信長も命からがら逃げざるを得なかった。信長は海老江の砦まで退き下がってなんとか態勢を立て直したが、織田方は三好勢と本願寺勢に挟撃される形になり、非常に厳しい状況に追い込まれた。
この状況を、待ってましたとばかりに動いたのが、浅井・朝倉である。
2万5千を越える大軍を動員した朝倉義景は、浅井勢4千余を引き連れて琵琶湖の西を風のように南下し、9月16日、坂本に陣を敷いて一気に京を襲う形勢を見せた。
一揆勢との局地戦が散発的に続くなか、京が危ないと知った信長は、この期に及んで三好氏や本願寺と和睦しようと働きかけたりしたが、受け入れられるはずもない。織田方劣勢のまま戦況はこう着状態になり、摂津は泥沼の消耗戦の様相を呈してきた。
その間、浅井・朝倉は織田方の宇佐山城を包囲・攻撃している。
宇佐山城は大津市錦織町の宇佐山の山頂に築かれた城で、比叡山 延暦寺の監視と京の北を守る防波堤のような役割を担っている。家老級の重臣であった森可成、信長の実弟である織田信治などが1千ほどの兵を率いて守っていた。
3万の浅井・朝倉に対し、城兵たちは寡兵ながらもよく守り、一時は城から突撃して敵を突き崩したりもしたが、圧倒的な多勢に無勢である現実はどうしようもない。壮絶な防戦の果てに、森可成、織田信治ら主立つ武将たちは残らず討ち死にし、城兵はほとんど皆殺しにされ、9月20日、宇佐山は落城した。
この宇佐山城の陥落によって京は剥き身になったと言ってよく、これを守る城はもう存在しない。
急を聞いた信長はただちに明智光秀、柴田勝家らを本隊から引き抜き、これを京に派遣し、将軍御所と内裏の警護をさせたが、その軍勢は2千にも満たず、とても浅井・朝倉に対抗できるような数ではない。
浅井・朝倉軍は坂本周辺の織田方の防御陣地を残らず焼き払うと、一部の先遣隊をさらに南下させ、醍醐、山科、果ては京南郊の山崎、伏見あたりにまで足を伸ばし、付近の村々を放火して廻り、京に暮らす諸人を恐怖のどん底に陥れた。すでに京は裸同然であり、これを放置すれば浅井・朝倉に軍事占領されることは目に見えている。
信長は窮していた。
藁をも掴む想いで、天皇を動かして勅命という形で本願寺に停戦させようと策したのだが、浅井・朝倉軍が京の周囲に出没し、あちこちを放火しているために勅使が京から動けず、このため勅命が摂津まで届かず、本願寺の攻勢は依然として止まない。
歴史を知る後世の我々から客観的に見ても、信長の生涯において、誇張でなくこの時こそが最大のピンチであったろう。
これらの報は、無論、横山城まで早馬によって続々と届けられているのだが、日々刻々と凄まじく変化する畿内の政情を、横山城に居ながらにしてすべて正確に掴むのは至難であった。
信長が窮地にある、ということは間違いない。
本願寺が挙兵し、これに呼応するように浅井・朝倉が3万もの大軍を発し、志賀に陣取っている、という確報も入っている。
しかし、北近江にはなお3、4千の浅井の留守部隊がおり、これがいつ横山城に攻めかかって来ぬとも限らない上、本願寺の決起によって南近江では一向一揆が続発し、さらにこれに乗じて六角氏の残党までがまたもや兵を挙げ、この横山周辺でも民衆が暴発せぬとも言い切れぬ情勢になっていたから、木下勢が横山城を空けて信長の元に馳せ参じるわけにはいかず、いかなる動きも取りようがない。
四面楚歌――まさに四方で敵の歌ばかりが響き渡っているのである。
「半兵衛殿・・・・!」
藤吉朗は日に何度も半兵衛を呼び、善後策を協議したが、いかに半兵衛といえども魔法が使えるわけではない。有効な手など打てようはずもなかった。
ここに至り、信長は果断な決断を下した。
摂津を、捨てたのである。
三好勢が立て篭もった野田・福島の砦の包囲を解いた信長は、全軍を総退却させた。摂河泉(摂津・河内・和泉の3国。現在の大阪府)の国衆にはそれぞれの城で防戦するよう命じ、織田勢と幕府勢の計3万ほどを率き連れると、足利義昭と共に京へ退き返したのである。
この信長の決断が、9月21日。
織田軍は追撃してくる本願寺勢を撃ち退け、途中道を阻んだ土一揆を蹴散らしながら退却し、京の周辺で焼き働きなどをしていた浅井・朝倉の先遣隊を追い散らし、23日の夜に京に入った。
織田本隊がいなくなった後の摂河泉の国衆たちこそ哀れであったろう。
本願寺の総本山である石山に近いこの地域では一向衆の影響力がことのほか強く、遼遠の火の如くに一揆が広がりを見せた。河内南半国を領する畠山昭高は高屋城で一揆の海の中に孤立し、三好勢の総攻撃を受けることになり、河内北半国を治めていた三好義継などは城を支えきれず、大和(奈良県)の松永久秀の元に逃げ込まざるを得なくなった。その松永久秀にしても、領国では国衆の反乱や一揆が相次ぎ、信貴山城に封じ込められて身動きすらままならない。
こういう騒動を待っていた者というのは、京の近辺にも居たらしい。山城(京都府南部)の地侍たちは、どさくさ紛れに徳政(借金帳消し)を求めて一揆を起こしたりしている。
徳政一揆が一向一揆と結びつき、山城の諸豪族が敵側に寝返るようなことになってはたまらないから、足利義昭としてもこれを承知せざるを得ず、渋々ながら徳政令を発布したわけだが、事態がこのような推移を見せるなどとは、義昭は想像もしていなかったであろう。
義昭が策した反織田包囲網は、すでに彼の構想を超えて一人歩きし始めていた。
義昭にすれば、浅井・朝倉、六角、本願寺を結ばせて信長に対抗し、それによって信長の力を抑え、相対的に将軍の権威を高めてやろう、という程度の思惑で始めた「火遊び」であったろうが、織田家と足利幕府は軍事面では今や一体であり、信長が潰されれば幕府軍も滅びる、というところまで事態が進んでしまっている。
義昭は京の将軍御所に篭り、震えるような気持ちで事態の推移を見守るよりほかどうしようもなかった。
一方、信長はどこまでも不撓不屈である。
京の周辺から浅井・朝倉の先遣隊を追い払った信長は、そのまま敵を追い、洛北の野を風のように駆け、宇佐山城を猛攻して奪い返すと、浅井・朝倉が本陣を据えた坂本まで一気に兵を進めた。
浅井・朝倉は織田勢の速すぎる反攻に驚き、正面決戦を避け、比叡山に軍勢を登らせて持久戦の構えを取る。
比叡山の山裾を取り巻いた織田勢と、広大な山上のあちこちに布陣した浅井・朝倉勢は、睨み合いの形になった。
比叡山というのは、京の鬼門を守る王城鎮護の霊場であり、伝教大師(最澄)以来の仏法の聖地である。その存在そのものが宗教的権威と言ってよく、信長が嫌悪する旧秩序の象徴の1つであった。
さらに加えるなら、延暦寺は4千ともいう僧兵団を抱えている。
「山法師」とも呼ばれるこの連中は、延暦寺が自らの寺領を守るために抱えている武装集団で、頭を丸めて僧形はしているものの内実は無頼漢の集まりと言ってよく、たとえば歴代の天皇の中でもっとも専制的な権力を握ったかの白河法皇が、
「自分の意のままにならないのは、鴨川の流れと双六の賽の目と、山法師である」
と憤慨したとされる故事でも解る通り、その暴慢と横暴で古くから悪名が高い。
要するに比叡山 延暦寺というのは、「巨大な武力を持つ宗教勢力」という意味で、本願寺と共に信長がもっとも嫌う存在なのである。
「叡山の糞坊主どもが・・・・!」
比叡山の諸所に靡く敵の旗を見上げながら、信長は日に何度も呟いたであろう。
織田家が畿内を支配するようになって以来、寺領を織田方の武将たちに横領されていた延暦寺は、当然ながら織田嫌い、信長嫌いであった。もっとも、坊主たちも織田家の武力の強大さと信長という男の危険さは十分に解っていて、さすがにこれまで表立った反抗はしていなかったが、潜在的に織田家の敵であることには違いない。
信長は、
「我らに味方するか、それができないならばせめて中立を保て。浅井・朝倉を援けるようなら、全山を焼き払うぞ」
と延暦寺を脅しつけた。
延暦寺の坊主たちも、愚かではない。表面上はあくまで謙譲を装い、「仏法を守る叡山は世俗の争いごととは無縁であるから」と表向きは中立の立場を表明したのだが、比叡山に腰を据えた浅井・朝倉の軍勢を排除しようとはせず、裏では兵糧や物資の提供などを行って支援していた。
浅井・朝倉は、広大な比叡山のあちこちに砦を築き、少人数のゲリラ戦術を駆使して神出鬼没し、野に陣を据える織田勢を翻弄した。山岳戦が苦手な信長はこれに有効な対抗策がなく、十日、二十日と、時間ばかりが無為に過ぎてゆく。
その間も、摂津、河内などでは一揆勢が凄まじく荒れ狂い、泣くような救援要請が頻々と届けられていた。また、南近江で兵を挙げた六角氏の残党どもが一向一揆勢と結び、琵琶湖南岸の織田方の城を攻め、これを圧迫している。さらに、一向宗の一大拠点であった伊勢 長島でも数万人規模の巨大な一揆が起こり、足元の尾張にまで火がついた。
が、信長と織田勢は坂本を一歩も動けない。
援軍もないまま、摂河泉の野では織田方の小城が次々と攻略されていった。このままこの方面を放置すれば、やがては三好勢や一揆勢が山城(京都府南部)にまで槍を伸ばし、京を南から脅かす形勢になるであろう。
信長は京を守らねばならないが、目の前の浅井・朝倉3万が意気盛んで、実際のところ手も足も出なかった。南近江の情勢も予断を許さないのだがそれに兵を割くこともできず、まして遠すぎる伊勢 長島などは手当てのしようもない。
信長は、まさに進退が窮まっていた。
この苦しすぎる状況を救ったのは、またしても徳川家康だった。
信長からの援軍要請を受けた家康は、再び5千の精兵を率き連れて9月の下旬に遠州 浜松を出陣し、三河から尾張、美濃と進み、関ヶ原を通って北近江へと出張って来た。
「織田殿からのお申し越しで、拙者は近江 坂本へと出向きます。城の前を通りまするが、お騒がせすることをお許し願いたい」
律儀で有名な三河のこの大名は、横山城の藤吉朗までわざわざ使者を送り、慇懃に通行許可を求めてきた。
「三河殿の勢が加われば、南近江を押し通ることもできましょう。木下殿、岐阜さまの元へ往かれませ」
これを聞いた半兵衛は、即座にそう勧めた。
藤吉朗は、これまで何度も信長の救援に出ようとしていたのだが、半兵衛はそれを押し留めていた。南近江では一向一揆勢と結んだ六角氏の残党が1万とも2万ともいう軍勢を集めており、これが神出鬼没するために、千や2千の小勢では動きが取れなかったのである。
しかし、5千の徳川勢と一塊になれば、万一敵に道を阻まれても十分戦えるであろう。
「・・・・この横山の守りはどうする?」
「人数を千も残してくだされば、城は小一郎殿と私とで守ってみせます」
その言葉に小一郎は耳を疑った。
浅井氏を抑える重要拠点のこの横山城を、たった千人で守るというのか――
見ると、半兵衛はチラリとこちらに視線を飛ばし、微笑した。
「半兵衛殿は、わずか16人で稲葉山城を奪ったほどの仁じゃ。それが千もの兵を率いりゃ、城を守るくらいわけなかろう」
前野将右衛門が景気の良い声を重ねた。別に嫌味で言ったわけではなく、心からこの軍略家の手腕を信頼し切っているのであろうが、城に残される小一郎としては、とてもそんな楽観はできない。
半兵衛は苦笑したが、あえてその発言を咎めることもなく、藤吉朗に決断を促した。
「木下殿は2千の兵を率いてください。途中、佐和山へ寄り、丹羽殿からも兵を借りれば、三河殿の勢と合わせて8千やそこらにはなりましょう。敵は万を越すとは言え、錆び槍を抱えたような一揆の勢、よもや負けるようなことはありますまい」
藤吉朗はしばらく細い腕を組んで考えていたが、
「解った。そうさせてもらうとしよう」
半兵衛の言に従うことを決め、
「そうと決まれば事は急ぐ。さっそく五郎左殿にも報せねばなるまい」
丹羽長秀がいる佐和山へ早馬を送り、状況と今後の動きを報せると、自ら2千の兵を率いて家康と徳川勢を出迎え、これと共に信長の元へと向かった。
小一郎は、藤吉朗の名代として横山城に残った。
木下家の1千の兵の大将であり、横山城代と言っていい。
「兄者は大丈夫でしょうか?」
二人きりになったとき、小一郎は半兵衛に尋ねてみた。
「まぁ、よほどの事がない限りは、岐阜さまの元へは辿り着けると思います」
半兵衛はいつもの微笑を浮かべた。
「三河殿の援軍の意味は大きい――坂本で頑張っている岐阜さまを力づけることはもちろんですが、六角の残党と一揆勢を破れば南近江が静まりましょうし、さらには木下殿や三河殿の勢をそのまま京の守りに回すことができる。摂津や河内にまでは手が回りませんが、我らの今の窮状も、ひとまず歯止めがかかるかもしれません。その先は、岐阜さま次第、ということになりますか・・・・」
「信長さま次第――というのは?」
小一郎は問いを重ねた。
「浅井・朝倉、六角に三好、さらに本願寺と――これらすべてを一度に敵とすることは、どだい無理なのです。岐阜さまも、そこのところはよくお解かりでしょう。ここは、なんとかして敵と和を講じ、敵対する者たちを切り離し、1つ1つ片付けてゆくほかありません」
「しかし、和睦と言っても――」
浅井・朝倉、六角氏の残党、三好三人衆、本願寺と全国の一向門徒。これらはすべて信長とは相容れない者たちである。信長が絶対の窮地にある今、彼らが和睦に応じようとは小一郎にはまったく思われない。
小一郎はそう言ったが、半兵衛はそれには答えず、
「ところで小一郎殿、今年の雪はどうでしょう? 早いですか、遅いですか?」
まったく別の質問をした。
「雪ですか・・・・?」
小一郎は20歳過ぎまで大自然を相手に百姓をしていたということもあり、天候予測や気候予測が得意で、これだけは半兵衛にも負けないと密かに自負していた。半兵衛は半兵衛で、小一郎のそういう特技を知ると、合戦の前などは必ず翌日の天気を小一郎に占わせたりするようになっている。
「蜂の冬篭りの支度などを見てみぬことにはハキとしたことは解りませんが、今年は残暑が厳しいですし、秋雨も少なくて、二度目の麦などもよく育ってるようですから、そういうことから見ると雪は遅いように思います。去年の大雪のような――あんな風に降ることは、まずないと思いますが・・・・」
小一郎は首を捻った。
「それが何か?」
「いえ。大したことではないんですが――」
半兵衛は尖った顎のあたりを撫で、
「京に居た頃は冬の比叡おろしに泣かされましたが、あのように冷たい北風が吹いて来るとなれば、叡山の山上というのはことのほか寒いのだろうな、と――ふと、そんなことを思ったものですから・・・・」
曖昧に笑った。