第46話 摂津騒乱
浅井・朝倉は、「姉川」で一敗地に塗れた。
この敗戦は、領国の南部を失う結果になった浅井氏にとっては大怪我ではあったが、それでも小谷城を中心とする北部地域にはまだ十分な余力を残しており、致命傷と言うには遠い。朝倉氏にすれば、油断していて向こう脛をぶつけたという程度のかすり傷に過ぎず、この敗戦によってようやく「目が覚めた」といったところであったかもしれない。
織田氏の側から言えば、浅井の離反によって動揺した畿内の政情を多少なりと安定させ、何より岐阜と京との往来の安全を確保し得たという部分が大きかったであろう。
いずれにしても、織田と浅井・朝倉の対立の構図が明瞭になったことで、諸国の反織田勢力を大いに力づけ、その活動を活性化させた、ということは確かであった。
まず反抗の狼煙を上げたのは、四国で力を回復させた三好三人衆である。
「姉川の合戦」が行われる少し前の6月中旬――再び摂津国(大阪府北部)にその触手を伸ばし始めた。
その頃の摂津は、織田方の「三守護」によって分割統治がなされている。
高槻城の和田惟政、池田城の池田勝正、伊丹城の伊丹親興という3大名がそれで、これらはいずれも信長から守護に任命された者たちであった。
和田惟政は、元は近江国甲賀郡の豪族で、先代将軍 義輝が殺されたとき、還俗して三好氏の包囲から逃れて来た足利義昭を匿い、そのまま諸国を放浪する義昭に付き従い、明智光秀と共に織田家との橋渡しを務めるなど、義昭の将軍就任に多大な貢献をした男である。幕臣の中では細川藤孝と共に政戦の能力があり、信長に信頼されて特に摂津の守護と京の治安行政の一部を任された。「三守護」の筆頭格と言っていい。
池田勝正と伊丹親興は、共に摂津の有力豪族である。
が、経歴はまるで違う。
永禄11年に信長が上洛し、摂津に兵を進めたとき、伊丹親興はいち早く織田に寝返り、三好氏に反抗したのだが、池田勝正の方は三好方として池田城に篭り、圧倒的大軍の織田勢に包囲されながら最後まで抵抗して戦っている。
降伏後、信長は勝正の罪を咎めず、それどころか加増まで行い、守護に任じるほどに優遇した。摂津において池田党というのはもっとも有力な豪族であったから、これを殺して族党から恨みを買うよりは、懐柔して味方につけようとしたのであろう。
池田勝正はこの信長の措置に感激し、「六条合戦」のときは援軍として三好氏と戦っているし、越前征伐にも従軍するなど、以後は織田方の忠良な武将になっていた。
三好氏は、この池田氏に目をつけた。
当主の勝正は織田派に変心してしまったが、池田氏は長年にわたって三好家の家来であったわけで、族党の中には今も三好派の者たちが多い。三好氏は、勝正の弟の知正という男にクーデターを起こさせ、勝正ら織田派の者たちを追い落とし、池田城を奪い取ってしまったのである。
このクーデターが、信長が浅井討伐のために北近江に出陣したのと同日の6月19日。
「姉川」で織田と浅井・朝倉が戦っている頃には三好氏の軍勢の一部が摂津に上陸し、池田城に入り、付近の織田方の小城を攻撃し始めた。
これには、京の足利義昭も仰天した。
義昭にしてみれば、信長も憎いが、それ以上に三好三人衆が憎い。
三好氏には、実兄であり第13代将軍であった義輝を殺されたという恨みがあり、それ以上に重大なことは、三好氏が今も義昭の命を狙い続けているということであった。
足利義輝を殺した三好氏は、義輝の実弟である義昭とは別の将軍候補 足利義栄を擁し、義昭がまだ諸国を流浪していた頃、これを第14代将軍に即位させた。義昭にとっては幸いなことにこの14代 義栄は即位後半年ほどで病死し、結果として将軍が空位になっていたからこそこれをそのまま継ぐことができたのだが、その後の三好氏は義栄の弟を次の将軍に立てようとしており、義昭を殺すために宿舎の本國寺を襲ったことさえある。
つまり、義昭にとって三好氏は、信長以上により直接的な意味での「敵」であり、憎悪すべき存在だったのである。
この頃、まだ室町幕府が現実に存在し続けている、ということは先にも述べた。
足利義昭は三好氏襲来というこの事態を重く見、幕府奉行衆――和田惟政、三淵藤英、細川藤孝ら――を動員し、三好討伐を命じた。
摂津に赴いた幕府軍は、吹田城(大阪府吹田市西の庄町)を包囲・攻撃中だった三好氏の先遣隊を破り、一時は敵を追い払った。
しかし、この合戦が呼び水になったように三好氏は続々と後続軍を摂津に送り、義昭も三好義継、松永久秀、畠山昭高など畿内の大小名に出陣を命じたため、摂津は万を越える軍兵が睨み合い、血を流し合う混沌とした状態になった。
7月の下旬――「姉川」から1ヶ月後――になると、ついに三好氏の本隊が摂津に乗り込んできた。室町管領 細川家の最後の当主である細川昭元や、美濃を追われた斉藤竜興らの残党をも伴い、その数1万数千という大軍である。本願寺の石山御坊にほど近い淀川河畔の野田、福島にそれぞれ砦を築き、幕府軍を圧倒する形勢になった。
これらの報は、無論、岐阜に続々と届けられている。
が、信長は岐阜を動かなかった。
いや、動けなかった、と言う方が正確であったかもしれない。
京から岐阜に戻った信長は、兵馬を休ませつつ、京の村井貞勝などを使って本願寺と水面下の交渉をさせていた。
言うまでもないことながら、すでに信長は――半兵衛が樋口三郎左衛門から得た情報なども含めて――複数のルートから「本願寺が挙兵の準備を始めている」という容易ならざる報告を得ている。
信長としても、いま本願寺に挙兵などされてはたまったものではないから、石山の地の退去命を取り下げたり、寺領の返還や本願寺教団に対する安全保障などをちらつかせ、脅したり賺したりしながらなんとかこの挙兵を思い留まらせようと躍起になっていた。
こんな時期に大軍を率いて摂津に赴けば、そのこと自体が本願寺を追い詰めることになり、門徒どもを暴発させる結果に繋がらぬとも限らない。だからこそ信長は岐阜を動けなかったのだが、一ヶ月以上を掛けて粘り強く交渉を重ねた結果、ついに本願寺側から不戦の黙約を引き出すところまで漕ぎ着けた。
準備が整ったと見た信長は、
「三好の奴輩を、浪花の海に追い沈めてくれる!」
自ら1万5千の兵を率い、8月20日に岐阜を出陣した。
織田勢は、この20日の夜には木下勢が守備する横山城まで進んだ。
今度の出陣の行き先や意図、およその旅程などは、すでに前日に早馬によって触れが来ている。信長がこの夜と翌日、横山城に滞在するということもあらかじめ知らされていたから、小一郎は御殿を掃き清めさせ、信長やその重臣たちの食事、軍兵たちの弁当なども整え、横山丘陵が燃えるほどに篝火を大いに焚かせると、藤吉朗や幕僚らと共に本丸の櫓門の前に並んでその到着を待った。
平素なら、藤吉朗以下全員が土下座して主君を迎えねばならない場面である。しかし、横山城は敵地に突き出た城で、常に臨戦態勢下であり、いわば戦場であるから、礼は軍礼で済ませる。木下勢の主立つ面々は片膝をついた姿で頭を垂れ、信長を出迎えた。
「猿、大儀じゃ」
近侍と重臣を引き連れて足早に横山を登って来た信長は、叫ぶようにそう言って藤吉朗を短く慰労した。
「ご無事のご光来、大慶至極に存じ上げまする」
藤吉朗は笑顔で先に立ち、何やかやと賑やかに喋りながら信長を先導して御殿に入った。
このとき、非礼と知りつつ好奇心に負けてわずかに顔を上げてしまった小一郎は、生まれて初めて信長を間近に見た。
(これはこれは・・・・)
目の切れは長く、鼻筋が通り、形の良い薄い唇が真一文字に結ばれている。顎が尖り、その尖った顎の先に髭がわずかに蓄えられている。細身だが痩せぎすというわけではなく、肩が張り、腕などもしなやかで、引き締まった肉体、という印象である。純白の小袖の上から漆黒に金を散らした伊達な羽織をはおっているのだが、篝火に照らされた小袖が夜の闇の中で柔らかく光り、漆黒の羽織が身動きするたびにキラキラと輝き、神秘的なほどの美しさである。心持ち顔を上げ、胸を張って歩くその様には自然の威が備わり、正直なところ、これほど威厳に満ちた人間というものを小一郎は見たことがない。
(信長さまを、摩利支天の化身と言う者もあるというが、なるほど・・・)
摩利支天は、陽炎を神格化した神であるとされ、「陽炎は実体が存在せず、傷つかない」というところから、武士の間では武運の神として尊崇されていた。日蓮宗では特にこの神を護法神として重視しているのだが、織田家は日蓮宗をもって宗旨としているから、信長に神が憑いているとすれば――現に織田家の大成長というのは神懸かったものであるのだが――この軍神 摩利支天を措いてないであろう。
(どっちにしても、神々しいほどの美男にまします・・・・)
ため息をつくような気分でそのことを思った。
その後、大広間に主立つ者が集められ、信長の謁を賜った。
藤吉朗はもちろん、半兵衛や蜂須賀小六ら、織田家直参の者たちは、「お目見え」といって主君に直接顔を合わせることができる特権があるのだが、陪臣(家来の家来)である小一郎には、その権利がない。
しかし、藤吉朗は、
「汝も来い。特別に信長さまに逢わせてやるで」
と言って、「木下家の家老筆頭」という資格で特に広間に入ることを許してくれた。
一段上がった上座の背後に織田家の旗――赤地に白抜きの5葉の木瓜紋――が掲げられ、その前に信長が腰を据えた。向かって右側に織田家の重臣が居並び、左側に藤吉朗と木下勢の寄騎の将たちが連なった。小一郎はその列の末席――信長から遥か離れた広間の隅に席をもらい、小さくなって座った。
見慣れぬ者が座に混じっていることに、信長はすぐさま気付いたらしい。
「先ほどわしの顔を見たヤツだな」
調子外れとしか思えぬ大声で突然そう言った。
が、左右の者は何を言っているのか解らない。当の小一郎でさえ、返事をすれば良いのか不敬を反省して畏まるべきなのか、どういう反応をすれば良いのさっぱり解らず、咄嗟に平伏はしたものの極度の驚きと緊張と畏れでほとんど思考停止のようになってしまった。
「お前は誰だ?」と問うたつもりが小一郎に返事がなく、無視されたような格好になった信長は、早くも額のあたりにイライラと癇が立った。信長にとって自分の言葉を理解できない者はすなわち無能であり、無能者ほど信長が嫌いなものはない。
「我が弟の小一郎でござりまする。木下家の家老筆頭を務めておる者でござりまして、お屋形さまに謁を賜りますれば、末代までの身の誉れになると思い、特に末席に座らせておりました」
ほとんど反射的と言えるほどの速さで、藤吉朗が声を上げた。難解な信長の言動の意味を的確に看取するということにおいて、家中に藤吉朗ほどの巧者はいない。
「猿も、老臣を持つほどになったか」
信長は、そのことに奇妙な可笑しみを感じたらしい。
老臣を持つも何も、藤吉朗はいまや5万石もの禄を食む織田家中でも十指に入る大身の武士――いわば大名――であり、そんなことは当然過ぎるほどに当然のことなのだが、信長に対するときの藤吉朗というのは身の高禄を誇りがましく思っているような素振りが微塵もなく、常に草履取りであった頃のような物腰の軽快さと信長に対する謙譲さを維持し続けていたから、信長の方もついその頃のような気安さで藤吉朗に接してしまっており、そういう当たり前の現実をすっかり失念していたのだろう。
「面を見せろ」
広間の隅で平伏している小一郎に向け、改めて信長が言った。
陪臣である小一郎に主君から直接言葉が掛けられるというのはそれだけで非常な名誉であり、信長の好意であったと言える。
小一郎は畏れつつ、3寸先の床の板目を眺めるようにしてわずかに顔を上げた。
この頃の武家に浸透している室町礼式では、高貴な人と対面するような場合、顔を上げろと言われればその威を畏れるが如くにわずかだけ上げ、それを三度ほども繰り返してやっと顔を上げるというのが当然の作法であった。小一郎はそれを京の生活の中で恥をかかぬようにと習い覚えたわけだが、信長は礼式などというものを屁とも思っていない男だから、そんな常識はまったく通用しない。
「二度言わすな」
自分の命令が速やかに実行されないことの方が問題であり、不快なのである。
その不快そうな声だけで、小一郎は頭が真っ白になり、全身に冷たい汗が流れた。
「お屋形さまがこう申してくだされておるんじゃ。お言葉を賜り、ご尊顔を拝するなぞ、陪臣にとっては望外の幸せぞ。早う顔を上げんかい」
藤吉朗が急かすように言った。
「はっ」
慌てた小一郎はもうどうして良いか解らなくなり、平伏した格好のまま首だけで上を向いた。
「わりゃぁ、タァケか。顔だけ上げてどうするんじゃ。背を立てよ、背を」
藤吉朗が絶妙のタイミングで大笑いしながら突っ込みを入れたから、周囲の者たちが釣り込まれるように声を立てて笑った。
小一郎は顔面から血が噴き出したかと思うほどに赤面し、消え入りたいほどに恥ずかしかったが、見ると、上座の信長までが「しょうのないヤツ」という風に苦笑してくれている。
小一郎がかいた大恥は、座の雰囲気を一気に明るくし、くつろいだ空気を作り出したようであった。
「戦陣のこととてろくなお持て成しもできませず、紅顔の至りでござりまするが、ともあれ夕餉を整えましたので――」
頃も良し、と見たのであろう。藤吉朗が持ち前の大声で言い、自ら一時中座して膳を運んで来、それを恭しく信長の前に据えた。藤吉朗に続いて小姓が膳を持ってぞろぞろと現れ、各人の前にそれぞれ膳部を運ぶ。
無論、この膳部は小一郎が宰相して整えさせたものである。
最前線の横山城で贅沢な食事なぞは望めないが、家来たちに近隣の漁師の家などを駆け回らせ、姉川の落ち鮎やヤマメなどの川魚をどうにか手に入れ、それを塩焼きにした。他には山鳩の実を入れた吸い物と根菜の煮物、香の物などを並べたが、信長が濃い味付けを好むと聞いたので台所の者にも特にそのように料らせ、果物が好物らしいということで梨と干し柿も付けておいた。
酒は、出さない。戦陣のことでもあり、何より信長が酒を嗜まないからである。
信長はそれらを面白くもなさそうな顔で食いながら、半兵衛に顎を向け、
「猿は怠けておらぬか?」
と聞いた。
「懈怠なく、日夜忠勤に励んでおられまする」
箸を置いた半兵衛は、常と変わらぬ口調でゆったりと応えた。
半兵衛は信長から派遣された公式の木下勢の目付け(軍監)で、藤吉朗と木下勢の働き振りを信長に報告することをその本来の役目としている。事あるごとに信長に報告書を送り、これまで何度となく藤吉朗と共に信長の前に伺候していたし、あるいは単独で呼びつけられるようなことも多かったから、信長と話をすることに関してはすでに慣れている。
ふてぶてしさなら織田家一であろう藤吉朗でさえ信長を前にすると緊張の面持ちをし、腫れ物を扱う以上の繊細さで気を使っていることがありありと見えるのに、半兵衛は普段といささかも変わった様子がない。そのことが、小一郎から見れば心憎いほどであった。
「お前はいつも猿に甘い」
信長は無表情に顎を振り、
「悪口を言え」
と言った。
悪い部分を挙げよ、ということであろう。
「これは難題――」
半兵衛は少し考え、
「木下殿に取り立てた傷などはござりませんが、あえて申しますならば――」
「もったいぶるな。早く言え」
「木下殿はご当家のために日夜働き過ぎるのあまり、女房孝行を致すヒマがなく、未だお世継ぎを得ることが叶いませず、また女房殿も、岐阜で毎夜のように袖を濡らしておるやに聞いております。これが、傷と言えば傷でござりましょう。女房孝行に精を出し、家を継がせる子ができれば、自然、功名の励みにもなり、働きにもなお一層の張りが出るかと思われますが――」
悪びれもせず微笑した。
「この猿に人の子なぞできてたまるか」
話をはぐらかされたと知った信長は鋭く悪態を吐いたが、その顔は笑っている。カラリとした笑顔で、どこか悪戯でもする悪童のような無邪気な匂いがあり、ひどく人間臭い。それまで信長を覆っていた氷のような威厳が霧消したかのように、小一郎には思えた。
「わしが猿を働かせ過ぎると言うか」
「とりも直さず、それはお屋形さまが木下殿を寵愛なされておる、ということの証拠ということに相成りましょう。士にとって、その忠心と力とを認められ、働く場を与えられること――これに優る喜びはございません。ひるがえって言えば、木下殿が寝る間すら人並みに取ることをせず、日に夜に身を粉にしておりまするは、ご当家のお役に立ち、お屋形さまのお役に立つことを、自らの喜びとしておるからでござりましょう。ご存分にお使いなさることが、木下殿のお為にもなると存じます」
「口の減らぬヤツじゃ。もうよいわ」
信長は苦笑し、吐き捨てるように言ったが、その表情はさほど不快そうでもなかった。
食事が済むと、信長は人々を散会させ、その日は早々に床に就いた。岐阜から横山城までは直線でも30km以上の距離があり、途中、峠越えの難所もあるから、さすがに疲れていたのだろう。
が、小一郎ら木下家の人々には寝る間はない。
小一郎はいわば横山城の警備責任者であり、曲者の侵入など不測の事態が万一あっては首が飛ぶから、手勢を指揮して本丸御殿の周囲を隙間なく警邏させ、自らも終夜寝ることはしなかった。
翌日は、終日軍議である。
信長は、木下勢から藤吉朗と半兵衛だけを呼び、重臣らと共に今後の軍事・政治日程や浅井氏対策などについて入念な打ち合わせを行った。
この間、小一郎は、1万5千の軍兵たちが摂る三度の食事の手配りでほとんど忙殺されている。
もう一晩、横山城に泊まった信長は、22日の朝、日の出と共に城を発った。
近江を横切り、京を過ぎ、摂津の戦場へと向かうのである。
怒涛のような2日間を終えた小一郎は、戦場で働くよりもぐったりと疲れている自分を発見して驚いた。
(信長さまのお側近くに長年仕えておる兄者には、頭が下がるな・・・・)
藤吉朗が常日頃、いかに心身をすり減らしているかということが、小一郎にも初めて実感できたのだった。