第45話 姉川の合戦(4)
「聞きましたぞ!」
虎御前山での論功行賞から木下勢の本陣へと戻って来た藤吉朗は、集まった幕僚の中に半兵衛を見つけると真っ先に声をかけた。その顔は笑み崩れ、いかにも嬉しそうである。
「いやいや、見事なるご活躍。半兵衛殿も、さぞ鼻が高いことでしょうなぁ」
「は? 何のお話ですか?」
半兵衛が当惑して尋ねると、
「弟御のことでござるよ。未だお聞き及びでないですかな?」
「一向に。・・・・久作がなんぞしでかしましたか?」
「そりゃぁもう、どえらい事をしでかしましたぞ」
藤吉朗は悪戯っぽく笑うと、そこで一堂を見回し、
「浅井随一の剛の者と言われたあの遠藤喜右衛門を、見事討ち果たしたのですわい」
と、ことさら声を大きくして言った。
その場にいたほとんどの人間が、驚きと感嘆の声を上げた。それほどに、この遠藤喜右衛門という名は重かった。
遠藤 喜右衛門 直経は――史料からその年齢は確定できないが――この時すでに六十前後の老将である。浅井長政の祖父・亮政の代から浅井家に仕え、若かりし頃から強力無双の豪傑として名高く、その武名は近隣にまで鳴り響いていた。武勇のみならず知略にも優れた男で、一説には浅井長政が幼い頃からの守役であったとされ、長政が長じてからはその参謀となり、伊賀の忍びを操って浅井家の諜報活動を担っていたとも言われるが、いずれにせよ浅井家の舵取りに多大な影響力を持つ重臣中の重臣であったことは間違いない。
たとえば浅井が織田と同盟し、信長がわずかな供回りのみで浅井長政の元を訪ねた際、直経は、信長という男の天才とその怖ろしさをいち早く見抜き、
「織田殿は武勇には優れるものの、権謀に長けた表裏ある仁であり、その言葉は信ずるべきではござりません。独尊の気性が強く、猜疑深いかの人が大いなる力を持つようになれば、後日、必ずご当家を取り潰そうとなさりましょう。もし、ここでかの人を殺せば、美濃と尾張を奪うのは容易いこと――その兵を率いて京と五畿内を押さえれば、天下を望むことも難しくはありません。どうかご決断くだされ」
と、信長暗殺を長政に進言したと言われている。
また、信長が越前征伐を行い、浅井長政が織田と朝倉の間で苦悩していたときには、すでに時を失しているとして強大な織田家に抗うことの非を説き、朝倉を見限って信長に従うよう長政に熱心に勧めたりもしたらしい。
歴史を知る後世の我々から見ても、直経の進言というのはその時その時の情勢に対して常に的を得ており、その時勢眼の鋭さと戦略眼の正しさは、この男の知恵の深さを物語っている。
直経の進言は、惜しいことに常に入れられていない。
信長暗殺を企てたときは、長政は、
「窮鳥は猟師もこれを殺さぬと言う。かの人はわしの義兄でもあり、わしとの約束を信じて当家に来たものである。これを殺したのでは、わしの義が立たぬ」
と言って直経の提案を退けているし、織田と朝倉の間で揺れていたときは、長政は隠居の久政に押し切られる形で朝倉加担を決めてしまい、直経の進言はまたしても取り上げられなかった。
(優柔不断な朝倉殿などを頼りとされたのがご当家の不運。信長を殺さぬ限り、浅井は遠からず滅ぶ)
そう想いを決した直経は、「姉川」で朝倉勢が逃げ、浅井の敗北が濃厚となったとき、とっさの知恵で再び信長暗殺を企てた。敵の旗指物を奪い、織田家の武者に成りすますと、乱軍の中で味方の死骸から首を取り、その首を掲げて、
「殿はいずこにおわすや! 浅井にさる者ありと言われた遠藤喜右衛門を仕留め申したぞ! 首改めをお願い申す!」
などと叫びながら信長の本陣へ大股で歩み寄って行ったのである。
織田家では、この手の武功誇りは認められていない。
信長は合戦中にいちいち首改めをするような悠長な性格ではなく、首を持参するのは首実検の場でなければならないと堅く定められている。まだ合戦が終わってもないのに己が取った首を本陣の大将の元まで持ってくるなどというのはあるべきことではない。
しかし、乱戦の中のことでもあり、崩れ逃げ去る敵を追うことに織田家の武士たちは懸命で、誰もこの不審な武者の動きに気がつかなかった。ひとつには同じ戦場で徳川家の武者も働いており、見知らぬ顔の者が居たとしても、それを三河者が戦場で迷ったのかと一人合点するなどして気にも留めなかった。
本陣では、物見や使い番(連絡将校)など人の出入りが激しく、しかも信長が総攻めの下知を下した直後であったために辺りが騒然と騒がしく、誰もが慌ただしく出陣の準備をし、あるいはまさに駆け出そうとしているところで、のんびり他人の手柄話を詮索してやろうというヒマな者などはない。この武者を不審に思ったとしても足を止めてまで追求するような者はおらず、直経は幔幕をスルスルとすり抜けてついに信長の床机まであと数十歩というところまで入り込んだ。
そのとき、この異変に気付いたのが、半兵衛の弟 竹中久作であった。
久作は、信長の馬廻り(近衛将校)を勤め、常にその本陣で信長を守っていたのだが、このときも仲間の武者たちと共に信長の床机周りに詰めていた。
「御大将はいずれにおわす! 首改めをお願い申す!」
という声に振り向くと、右手に槍を握り、左手に首を下げ、きょろきょろと周りを見回しながら歩いてくる見覚えのない顔の武者がある。
とっさにそれと気付き、
「謀られるな! その者、敵でござるぞ!」
と叫びつつ脇差を抜いて殺到し、直経に組み付いた。
「えぇい! 邪魔をするな!」
直経は首を捨て、その強力をもって久作を振り回し、振りほどこうとしたが、早朝から五時間にも及ぶ合戦の後だけにさしもの直経も疲れ切っていた。常ならばこんな若造に後れを取る男ではないのだが、久作の足絡みで地に転がされたところを包囲した馬廻りの武者たちの槍を受け、最期は久作にその白髪首を掻き取られた。
「信長さまのお命を狙うとは、敵ながら豪胆なヤツじゃな。しっかし、遠藤の詐略を見抜き、これを見事討ち取った弟御はご立派じゃ。ご本陣ではその話題で持ちきりでござったぞ」
藤吉朗は我が手柄でも誇るようにそれを語った。
(あの久作殿か――)
小一郎は、岩手村の焼け跡で出会った若々しい顔を思い出していた。陰のない笑顔が似合う、いかにも健康そうな若者であった。信長の覚えもめでたいと聞いているが、別に信長でなくとも、ああいう清げな若武者ならば誰もが好もしく思えるだろう。
見知っている相手であるだけに、小一郎も嬉しかった。
ところが半兵衛は、
「将の武者働きなぞ、褒められたものではありません」
などと言い、苦笑とも呆れともつかない微妙な表情を浮かべた。
「あやつは昔から、戦となれば、真っ先を駆けねば気が済まぬようなところがある。何度諭しても葉武者のような心栄えが抜けぬのです」
久作は、岩手の兵を率いる竹中氏の大将である。で、ある以上、身の危険は避けねばならないものだが、そういう顧慮が、戦場では働かなくなる性質の男であるらしい。
たとえば今度の場合なら、敵に気付けばまず同僚朋輩に知らせ、あるいは手勢を呼び集め、人数を頼んで取り囲み、確実に敵を仕留めるのが分別ある武将のなし様であろう。ところが、久作は自らが真っ先に敵に組み付いてしまっている。生死を忘れた働きというのは葉武者としては褒められるが、武将がなすべきことではない、と半兵衛は言いたかったのだろう。
「いやいや、それは若気と申すものであろうよ」
樋口三郎左衛門が久作を弁護した。
「わしのような年寄りとは違って、久作殿は、まだ血が熱いのじゃろう。華も実もある良き若武者ではないか。心配せずとも、もう少し物に古れば、分別や思慮なぞは自然に身に付くよ」
「勇気」が人にとっての最大の美徳であった時代である。少々思慮が足りない面があったとしても、武勇に優れることは、その欠点を補って余りあるであろう。
「樋口殿の申される通りじゃ」
藤吉朗も、この老人に和した。
「手柄を立てた時は、天晴れ、見事と、大いに褒めてやればよろしいのじゃ。半兵衛殿が喜んでやれば、弟御もさらに働きに張りが出よう」
藤吉朗は、たとえば部下で多少の武功を挙げた者があれば、これを口を極めて褒め、本人が驚くほどの褒美を与えたりする。譜代の家来を持たず、人集めに苦心し続けてきた藤吉朗にとって、それが人心収攬の基本でもあった。これがやがて「木下殿は大気者である」という評判になり、この下郎上がりの大将の魅力にもなり、人々が競うように藤吉朗の元に集まってくる種にもなるのだが、これは意識してそうしているという面も少なからずあったにせよ、それより多分に、人を喜ばせることが好きな藤吉朗の性格に根ざした哲学であったろう。
「確かに、そうかもしれませんね」
半兵衛は逆らおうとせず、微笑し、頷いた。
口では厳しいことを言っても、弟が大手柄を挙げたと聞けば、当然の人情としてやはり嬉しくはあったのだろう。
しかし、半兵衛のこの懸念というのは、杞憂では終わらなかった。
久作は、自ら真っ先に進むというこの性癖が生涯抜けず、この12年後、美濃で土一揆が起こり、これを討伐に出た際、やはり率いる軍勢の陣頭を進み、そのために敵の鉄砲玉をまともに浴び、戦死してしまうのである。
もっとも、そのときすでに半兵衛は病死していたから、この弟の悲報を聞くことはなかった。
あの世という場所がもしあったとすれば、半兵衛は「困ったヤツだ」と首を振り、寂しげに苦笑したに違いない。
さて――
横山城というのは、標高312mの横山丘陵の山頂に築かれている。
丘陵全体を要塞化しているため城域の広さは500m四方にも及ぶが、本丸に当たる山頂部はわずか 20m四方のスペースしかない。ここに小ぢんまりとした2階建ての本丸御殿が置かれているのだが、白壁の天守などはもちろんなく、壁は火除けの泥を塗っただけの粗壁、屋根は瓦さえ置かない板葺きで、館の作りもごく簡素なものである。
この本丸御殿が建っているのが横山城の北城で、南東の尾根に独立した南城がある、ということは先にも触れたが、山頂から南西に伸びた尾根にも堀切りと土塁で囲まれた郭が作られている。丘陵の山腹に何重かの柵を植え込み、大手と搦め手に切り通された山道には要所に空堀を穿ち、櫓を置くなどして防御力が高められている。
一般的に言ってこの当時の「城」というのは大抵この程度のもので、満々たる水を湛えた堀や塁丈見事な石垣があるわけではなく、砦とか山塞と言う方が我々のイメージには近いかもしれない。
「姉川」で勝利を得、浅井・朝倉軍を追って小谷山麓まで進んだ信長は、その翌日には軍を旋回させ、再びこの横山城を囲んだ。
横山城の守将であった大野木秀俊は、抗戦の無駄を悟り、兵の命の無事を条件に降伏・開城に応じた。すでに後巻き(援軍)に来た浅井・朝倉軍が撃退されてしまった以上、これは致し方なかったであろう。
この横山城は、織田家にとっては浅井・朝倉の南下を食い止める防波堤であると同時に、敵地に突き出た北近江侵略の橋頭堡であり、岐阜と京との通行の安全を確保するための重要な拠点であると言える。
信長は横山城に藤吉朗を入れ、さらに1千近い軍兵を寄騎に付けてこれを死守するよう命じた。
藤吉朗に与えられた権限は、これまでになく大きい。
まず、横山城と3千の直属兵力がある。さらに堀氏と樋口氏の軍兵2千がこれに付属し、鎌刃城、長比城、長亭軒城を含む北近江南部の過半がその支配地域に入った。北近江の方面司令官とも言えるし、湖東地域の軍団長という言い方もできる。浅井氏攻略の担当官に指名されたと言ってもいい。
いずれにしても、京都奉行の任を解かれて以来、再び大きな役割を与えられることになった藤吉朗は、躍り上がるように喜んだ。
当然だが、小一郎や半兵衛も、以後はこの横山城が活動の拠点になる。
信長は、横山城を接収したその翌日にはさらに軍を南下させ、磯野員昌が篭る佐和山城(彦根市佐和山町)を囲んだ。
後に石田三成が大城郭を築いたことでも有名になる佐和山は、東山道と北国街道がぶつかる交通の要衝である。ここを敵に押さえられたままでは近江の南北の移動に支障を来たすから、信長としても放置しておくわけにはいかなかった。しかし逆に言えば、堀氏が寝返り、鎌刃城が織田家のものになった今、残るこの佐和山城さえ封じ込めれば北近江の南部は奪ったも同然であり、岐阜と京との往来の安全は完全に確保できることになる。
信長は、佐和山城の四方に砦を築かせ、周囲を鹿垣(ししがき/バリケード)で厳重に結いまわすと、丹羽長秀を主将、河尻秀隆、水野信元、市橋長利らを将とする4千ほどの軍兵を配して蟻の這い出る隙間もないほどの強固な封鎖態勢を敷いた。「姉川」で鬼神の如く働いた磯野員昌を檻の中に封じ込めようとするものであり、丹羽長秀はさしずめその監獄の牢番といったところだろう。
横山城の陥落とこの佐和山城の封鎖によって、浅井氏は両腕をもがれたような格好になり、北近江南部の支配権を完全に失った。
さしあたって浅井・朝倉の脅威を封じ、湖東地域の安全と京への通路をほぼ確保できたと判断した信長は、ひとまず満足したらしい。南近江の守備軍などの再配置を終えると、馬廻り(親衛隊)だけを率いてその足で上洛した。
「此度の戦勝、まことに祝着じゃ」
将軍御所で信長から戦勝報告を受けた足利義昭は、手を打って大いに喜ぶ風情を見せ、
「弾正忠(信長)は、戦に強いな。わしも心強い」
などとおべっかを言い、信長の機嫌を取った。
が、その内心はまるで別のことを考えている。
(なんという運の強いヤツじゃ・・・・)
越前征伐中の突然の浅井離反で決定的な危機に陥ったはずが、織田軍は大した傷も負わずに京に帰還したどころか、南近江では六角氏の残党を討ち、「姉川」では浅井・朝倉の連合軍をさえ破り、当座の危機を乗り切ってしまった。
このときまだ信長は気付いてはいなかったのだが、浅井の裏切りから始まる一連の信長の危機は、実はこの義昭が一枚噛んでいる。
義昭は、信長と織田家の勢力が強大になり過ぎることを怖れ、この力を削ぐためにさまざまな策謀を巡らしていた。隠密裏に諸方の大名に御教書を遣わし、大名同士の喧嘩を仲裁し、上洛を促し、反信長同盟とでも言うべき勢力の一大連合を策していたのである。
たとえば浅井が織田から離反するとき、朝倉加担という浅井久政(長政の父)の決断を後押ししたのは将軍の御教書であったし、それまで仇敵として数十年にわたって争い続けた六角氏とすぐさま同盟し、共闘関係を築けたのも、義昭が六角・浅井双方に働きかけた結果であった。
その義昭の構想から言えば、今度の「姉川」では信長こそ負けるはずであったのだが、この男の悪運の強さというのは義昭の予想以上のものであるらしい。
(じゃが、今に吠え面をかかせてやるわ・・・・)
義昭は、表情を動かさずにほくそ笑んでいた。
この策謀家の耳には、すでに本願寺の決起が近いことが伝わっている。
西で本願寺が挙兵し、各地の門徒寺院で一揆が続発し、さらに浅井・朝倉が北から、六角氏の残党どもが南から一斉に信長に討ちかかれば、いかに信長が運の良い男でも、今のように余裕の面をしていることはできなくなるであろう。やがて四面楚歌に追い込まれ、西に東にと振り回されて疲れきるに違いなく、次々と敗北を重ねた挙句、畿内を捨てて逃げ出し、美濃、尾張の一大名に戻らざるを得ぬようになる。
そのときこそ自分が将軍の権威をもって戦を仲裁し、信長に将軍の偉さを思い知らせてやろう、と義昭は思っている。天下に覇を唱えた信長を膝下に組み敷き、諸国の大名たちの上に超然と載って天下を睥睨すれば、足利将軍家の威光は再び往年の輝きを取り戻すであろう。
義昭は、日向で信長の機嫌を取りながら、陰ではまるでスポークスマンのようになって信長の悪評を世間に振り撒いていた。このため遠国の大名たちの間でも織田家と信長の評判は日増しに悪くなり、これに対する反感が時を追うごとに強くなっている。
「戦勝祝いの祝宴を張らねばならぬな」
能天気な笑顔を作りつつ、義昭はぬけぬけと言った。
信長の「天下布武」にとって、この足利義昭という策謀家こそが最大の癌であると言えるだろう。
まだ信長はそのことに気付いていないが、人の心を読むことに鋭い男である。義昭になにやらキナ臭いものを感じ始めていた。
「諸事多忙でござる。そのことは、また他日」
義昭の提案をにべもなく断り、溜まった畿内の政務を猛烈な速度で片付けると、信長は7月上旬には早々と岐阜に帰っていった。