第44話 姉川の合戦(3)
ごく短い射撃戦を終えると、三田村に腰を据えた朝倉勢の陣屋で陣貝が鳴り渡り、太鼓と鉦が乱打された。それに合わせて朝倉勢の先鋒である朝倉景紀隊3千が武者押しの声を上げつつ前進し、姉川に飛び込むと、面も振らずに渡河を始めた。
これに応じるように徳川勢からも陣貝が鳴り、攻め太鼓が轟き、先鋒に配された酒井忠次隊1千が喚きながら駆け出した。
両軍は姉川の中ほどで激突し、凄まじい白兵戦が始まる。
戦いの様子は霧に遮られて川上に居る小一郎たちからはまだ見えはしないのだが、その音と気配だけで、合戦が始まったのは瞭然であった。
これに連鎖するように、織田勢の対岸――野村に陣を敷いた浅井勢からも陣貝、太鼓、鉦などの音が弾け、鬨と武者押しの声が湧き上がった。
浅井勢が、突撃を開始したのである。
織田勢の陣でも前の方で鬨が上がり、先手の坂井隊が陣貝、太鼓、鉦などを響かせ、さらに信長が配した5百挺の鉄砲が一斉に火を噴き、それらの大音響が大気を狂ったように鳴動させた。
(始まった――!)
藤吉朗、半兵衛らと共に本陣で床机に静まっていた小一郎は、痙攣するように震え出す膝をどうすることもできず、握り潰さんほどの勢いで懸命にそれを掴んだ。
「わしらも鬨を作れ!」
立ち上がり、馬に飛び乗った藤吉朗が鋭く命じた。
陣貝の咆哮に合わせ、木下勢3千人の軍兵たちが喉も裂けよとばかりに絶叫した。
「よぉし! 押し出せや!」
采を握った藤吉朗が嬉々として叫んだ。
が、進めはしない。
木下勢の前には第1陣、第2陣あわせて5千人の軍兵の壁があり、これが邪魔をするために亀のようにのろのろと前進することしかできず、合戦どころか敵の姿を見ることさえ不可能であった。
藤吉朗は十数人の斥候を放ち、彼らの目と耳とをもって前線の様子を知ろうとした。
やがて物見が一人二人と馳せ帰り、戦況を報告してまた前線へと駆ける。
前線の戦況は、明らかに味方に悪かった。
織田勢の射撃を掻い潜って渡河を始めた浅井勢の勢いというのは、凄まじいの一言に尽きた。ことに無類の合戦上手として名高い磯野員昌に率いられた先鋒軍2千の強さは尋常ではなく、織田勢の先陣である坂井政尚の1段目の備えと川の中で激突し、これをほとんど一瞬で突き崩し、壊乱させた。
坂井政尚も織田家では勇将として名の通った男で、先鋒大将として不足ない武勇と合戦経験、さらに優れた統率力を持ってはいたのだが、浅井勢の勢いの凄まじさの前ではそのすべてが役に立たなかった。一塊になって突撃してくる8千の敵を、たった1千5百で――しかもその少人数を薄く横に配した陣形で――迎え撃つというのは、転がり落ちてくる巨大な岩石を紙で受け止めようとするようなもので、破られるのが当然であったろう。坂井がいかな戦上手であろうとも――どれほど統率力に優れていたとしても――どうにもならなかったのである。
まさに、鎧袖一触――四半刻(30分)と保たずに備えの1段目は突き破られ、崩された兵たちが2段目の備えに向かって逃げた。
味方同士がぶつかり合い、指揮系統が混乱する。
そこに、勢いもそのままに磯野隊が飛び込んだから堪らない。逃げてくる味方と攻め込んでくる敵が重なったために軍兵たちは大混乱を起こし、2段目の備えまでが瞬く間に崩れ立った。
このとき、挿話がある。
坂井政尚の嫡男に、久蔵という者がいた。
細面で目元が涼しく、陶器のように白い肌と典雅な挙措を持ち、16歳という年齢ながら信長の命で前髪を残しているからさらに幼く清げに見え、その際立った美少年ぶりが家中でも有名であった。
男色趣味のある信長は久蔵を自分の小姓にし、ひどく可愛がっていたのだが、無論ただの色小姓というわけではない。信長が気に入るほどだから性質は聡く気は直情、動きが機敏で剣術にも長じ、将来を嘱望される若者であったと言っていい。
この久蔵が、今回の「姉川」で父の政尚が先鋒大将を務めることが決まったと知ると、父の陣に加わって戦に出してもらいたいと信長に願い出た。
16歳ともなればこの時代の武士としては立派な大人で、初陣は済ませているのが普通であり、小姓にしておくには少々トウが立っているということもあって、信長も断りかねた。渋々これを許したのだが、坂井隊は浅井勢の突撃の第一撃を受けて脆くも壊乱し、逃げ惑う部下たちをどうすることもできず、大将の政尚までが後ろも見ずに逃げた。
が、息子の久蔵はこれを恥とし、逃げなかった。わずかな手回りの者たちと共に踏みとどまって戦い、津波のような浅井の突撃に飲まれながらも一歩も退かず、その場で見事な討ち死を遂げた。
戦後、信長は久蔵の死を惜しみ、家中の者もこれを大いに嘆いた。この若者の勇気と忠義にあやかろうと、久蔵の亡骸のあった場所の土を持ち帰る者が後を絶たず、このためついには地面に大きな穴が開き、辺りが窪地のようになったという。
浅井にまったく歯が立たなかった坂井政尚とすれば、この嫡男の討ち死にによって、辛うじて天下に面目を保ったと言うべきであろう。
ともあれ、織田の第1陣が手もなく破られたということに違いはない。
「もう崩されたてか・・・・!」
その報告を受けた藤吉朗はさすがに驚き、馬上で伸び上がるようにして前方を睨んだ。
陽はみるみる昇り、すでに霧は晴れかかっているが、第2陣の軍兵たちに遮られて前が見えない。が、その第2陣にしても、浅井の突撃によって隊列が大きく乱れ、早くも混戦模様になりつつあった。
「木下殿!」
藤吉朗の傍らに馬を立てた半兵衛が言った。
「第2陣が破られ、お味方が雪崩のように崩れれば、我らもそれに巻き込まれ、どうにもならぬようなことにもなりかねません。この場は横に広げた軍勢を縮め、兵を一所にまとめ、方円に陣を組まれませ」
「心得たわ」
藤吉朗は、金の瓢箪を模した木下勢の馬印を高く掲げさせ、そこに兵を集結させるよう下知した。
が、それも間に合わぬほどに、浅井の突撃というのは凄まじい。
浅井勢は、先鋒の磯野隊が突き崩した穴から織田の陣に飛び込み、それを押し広げるようにして次々と備えを突き破ってゆく。坂井隊に続き、第2陣の池田隊2千が壊乱するのに半刻(1時間)と掛からなかった。
(いかん! いかん!)
と小一郎が慌てている間に蜂須賀小六らの前隊が味方の濁流に巻き込まれ、混乱するままに鉄丸が転がってくるような浅井の突撃を受け、これもあっという間に突き破られた。
視界の中は崩された一陣、二陣の兵で充満し、満足に鉄砲を使うことさえできない。さしもの半兵衛もこうなってしまえば戦術を駆使するような隙間はなく、結局のところ白兵戦で敵を迎え撃つ以外にどうしようもない。
「槍を――!」
小一郎は槍持ちに預けていた持ち槍を馬上で掻い込み、手勢をまとめて藤吉朗を守るように周囲を固めた。
藤吉朗は、なんとか後隊の兵の六割り方をまとめ、これを前後に厚い円陣に組織し、浅井の突撃に備えた。
その様子を見た磯野隊2千は、備えが重厚な木下勢の中央を避け、わずかに矛先を左に向け、薄くなっている木下勢の右翼をちぎり取るようにして脇を駆け抜けていった。
「おのれ・・・・!」
藤吉朗は采配を振り上げようとしたが、
「追ってはなりません!」
半兵衛の鋭い声が飛んだ。
「続いて浅井の本隊が来ます。我らは横手から長政殿目掛けて突き掛かられよ」
敵の鋭鋒を避け、浅井の本隊の右側面にへばり付いた木下勢は千人にも満たなかったろう。至近から鉄砲を撃ちかけ、鼓を鳴らして突撃し、これと押し合いへし合いしながら敵に多少の出血を強いた。しかし、浅井の突撃の勢いはほとんど衰えず、その推進力に引きずられるようにして木下勢も退がり続けざるを得ない。
ついには交戦状態のまま背後の第4陣の中へと雪崩れ込み、周囲はどうしようもない混乱の坩堝と化した。
「たがいに押しつ押されつ、さんざんに入り乱れて、黒煙をあげ、しのぎを削り、つばを割って、ここかしこで――」
と『信長公記』に記されているように、この混戦の様は凄まじいもので、寄り子は寄り親を見失い、組頭は組下からはぐれ、敵味方が入り乱れて収拾がつかない。
「えい、不甲斐ない! 死ねや、死ねや!」
藤吉朗は天下三大音と言われたその大声で怒鳴り散らし、声を嗄らして必死に兵を掻き集め、まとめてはまた突撃し、それを何度も繰り返した。
「うぬらの働きはこのわしの目が見ておるぞ! 臆病者は末代まで恥を残すぞ!」
などと叱咤するが、いかんせん尾張兵というのは白兵戦に弱く、銭で集められた織田家の足軽たちも命を惜しんでか槍先に鋭さを欠き、粘りがなく、強悍で鳴る浅井の兵にはほとんど歯が立たない。
攻めているのだか攻められているのだか、解らない有様であった。
突撃するたびに、大将の藤吉朗はもちろん、馬上にある小一郎や半兵衛には敵の矢や槍先が殺到する。小一郎は己の身と藤吉朗を守るのに懸命であり、半兵衛までが“虎御前”を抜き放って敵を斬り防いでいるような始末で、多くの者が手傷を負い、あるいは首を取られ、その損耗は目を覆うばかりであった。
開戦から3時間が経つ頃になると、前線は姉川から1km近くも押し込まれ、第4陣の柴田勝家隊までがついに壊乱した。
木下勢は、まだしも善戦していたと言うべきであろう。
乱戦につぐ乱戦で隊伍が滅茶苦茶に乱れ、死傷者や本隊を見失った脱落者が多く、藤吉朗の周りにわずか6百人ほどが密集しているに過ぎないが、それでもなんとか円陣を維持し、浅井本隊の側面に張り付きながら戦闘を続けているのだ。
もっとも、これほど小部隊になってしまっては、喩えるなら猛犬の周りを飛び回る蜂のようなもので、煩くはあっても浅井にとってさほどの脅威にはならない。
浅井勢は、さすが突撃の速度は鈍ってきたが、それでもその槍の凄まじさは変わらない。なかでも先鋒大将である磯野員昌の働きぶりは鬼神もかくやと言うほどのもので、疲れも見せずに第5陣の森可成隊に猛烈な波状攻撃を繰り返している。
森可成は勇敢な美濃兵を叱咤し、辛うじてその突撃を支えているが、いかんせん戦場は混乱し、立て続けの敗北に味方は周章狼狽し、統率を欠き、十全の力が発揮できる状態にない。
丘の上の本陣から戦場を見渡していた信長は、さすがに敗北を覚悟したであろう。
そのとき――
そのときである。
安藤守就、氏家直元(卜全)に率いられた美濃勢2千が、姉川の上流から駆けつけ、浅井本隊に左面背後から突っ込んだのだ。
無傷の2千の軍兵に、長政が率いる本隊を背後から直撃されたのだからたまらない。俄かな新手の出現に浅井勢はさすがに狼狽し、この手当てのために足が止まり、突撃の勢いが死んだ。
防戦に必死になっていた小一郎は何が起こったのかまるで解らず、一瞬戸惑ったが、半兵衛の言っていた「奥の手」がまさに行われたのだと直感した。敵軍の乱れ具合から言っても、その狼狽ぶりは明らかであった。
「今ぞ! 押せや! 押せや!」
藤吉朗は絶叫した。
この機を、生かすべきであった。
藤吉朗の大声に励まされるように付近の織田兵は息を吹き返し、柴田勝家、池田恒興らも敗残兵をまとめ、浅井勢を押し包むように殺到し始めた。
が、浅井の軍兵たちの粘り強さというのは、尾張兵の比ではない。
本隊は左面背後の新手を押さえつつ、四方の敵ともそれぞれに渡り合い、一歩も退かない。先鋒の磯野隊にいたっては、その突撃の勢いを少しも衰えさせず、凄まじい吶喊を繰り返し、ほとんど独力で第5陣を突き破り、そのまま佐久間信盛の第6陣へと突っ込み、備えの11段目を半ばまで切り裂いた。
このとき、丘の上から戦場を一望していた信長は、信じられない光景を見た。
戦場の西方――倍の朝倉勢と戦っていた徳川勢である。
朝倉勢は、その数に物を言わせて徳川勢を終始押しまくり、一陣、二陣を突き崩し、家康の本隊にまで迫る勢いで、それまで圧倒的と言えるほど優位に戦を進めていた。寡兵の徳川勢はよくこらえていたと言うべきではあったが、それにしたところでこのまま押しつぶされては負けざるを得ない。
家康は、陣太鼓を乱打させ、兵気を励まし、必死に敵の攻勢を支えていたが、本隊までが巻き込まれたこの乱戦の中から榊原康政を引き抜き、これに一隊を授け、戦場を迂回して敵の側面を衝くよう命じた。
この榊原隊の横撃によって朝倉方の攻めの勢いがわずかに衰え、その乱れに付け入って家康が怒涛のように正面攻撃を繰り返したがために朝倉の先鋒軍が俄かに崩れ、その崩れが連鎖するように全軍が動揺し、攻守が入れ替わった。ほとんど土俵際まで追い詰められていた徳川勢が、奇跡のように敵を押し返し始めたのである。
三河者たちは黒煙を上げるような勢いで押しに押し、朝倉勢は中軍でもその勢いを抑えきれず、ついに四散した。朝倉本隊はその状況に狼狽し、ばらばらと裏崩れに壊走を始めた。
(なんと・・・・・!)
ほとんど無傷であった5千近い朝倉の本隊は姉川から脱兎の如く逃げ、徳川勢は川を渡ってこれを追った。
家康は、加勢にもらった稲葉一鉄隊を苦戦する織田勢の援護に差し向けた。
稲葉隊は田のあぜをまっしぐらに駆け、踏みとどまって戦っている浅井勢の右面背後から突きかかった。
浅井勢は背後を完全に遮断されたために、全軍が激しく動揺した。
何より、朝倉勢の敗走が事態を決定的にしていた。
(あと一歩というところで・・・・・!)
浅井長政は、歯噛みして悔しがったに違いない。
しかし、敵中に孤軍で残されてしまった以上、戦闘の継続は不可能であった。うかうかしていては、織田・徳川軍の総反撃にあい、全滅の怖れさえある。
「もはやこれまでじゃ。退くぞ!」
浅井勢は退き鉦を打ち、背後の稲葉隊を押しのけるようにして全軍で退却に移った。
「追え!」
信長は鋭く叫び、跳ねるように床机から立ち上がった。
自ら馬を出し、全軍に追撃を命じたのである。
信長の本陣で陣貝が吹き鳴らされ、攻め太鼓が轟き、鉦が乱打される。その大音響に誘われるように、織田本隊――無傷の5千の旗本たち――が駆け出した。
「総攻めの下知のようですね。敵を追いますか?」
半兵衛が退いてゆく敵を見、荒い息を整えながら尋ねた。
「追わん。っちゅうか、追えんわ」
藤吉朗が苦笑しながら応えた。
(勝ったんか・・・・?)
汗まみれになった小一郎は、馬からずり落ちそうになる身体をどうにか支えていた。目が眩むほどに疲れ切っている。
が、その目は、逃げる敵の姿を見、それを追う味方の姿を捉えている。
この合戦は、どうやら勝敗が付いたようであった。
不思議なもので、攻守が入れ替わると、これまで何処に居たかと思えるほどに尾張兵が群がり立ち、全軍が猟犬のようになって浅井勢を追って駆け出した。
しかし、木下勢には、敵を追って駆け出すような元気が残っている者は、ほとんどなかった。
木下勢は、隊と呼ぶのが無残なほどに隊伍が無茶苦茶で、物頭もその大半が姿が見えない。ほとんどの者がすでに息も絶え絶えといった格好で、死傷者も多く、とても追撃戦ができるような余裕はなかったのである。
「まぁええわい。小谷に逃げ込まれれば、信長さまも城攻めはすまい。長々と追っても疲れるだけじゃ」
藤吉朗は追撃を禁じ、馬印を高く掲げさせ、兵をまとめることに専念した。
浅井勢の総退却を受け、先鋒であった磯野員昌は全軍の殿になり、浅井の本隊が退いてしまうまで織田本隊の追撃を防ぎ止め、1万を越える織田軍の包囲の輪の中で暴れ回り、やがてその包囲をさえ突き破り、戦場から悠々と離脱し、居城の佐和山城へと帰った。2千を数えたその部隊は半分ほどにまで討ち減らされていたが、この男の鬼神のような働きぶりは、倍の朝倉勢を破った徳川勢の奮戦と共に、この「姉川」における白眉と言うべきであったろう。
信長は、勝った。
しかし、その勝利は薄氷の上の辛勝とでも言うべきで、とても大勝とか完勝とか呼べるような内容ではない。「前半は浅井・朝倉が優勢、後半は織田・徳川が巻き返した」という言い方がむしろ正しく、戦後の浅井・朝倉軍がまだ十分な余力を残していることを考えても、「痛み分け=引き分け」と評価すべきであったかもしれない。
しかし、勝った信長は、この勝利を当然のように誇大に宣伝した。そのため、事情通の山科言継でさえ、「姉川」では浅井・朝倉軍が1万人以上も殺され、浅井親子までが討ち取られた、という風な虚報を信じたらしい。
織田家の強勢と「姉川大勝利」は、少なくとも天下の評判にはなった。
この合戦の戦死者は、浅井・朝倉軍で1千7百人ほどであったとされている。
織田・徳川軍は――諸説あってはっきりしないが――1千2百人ほどであったらしい。
さて――
浅井・朝倉軍はその日の夕刻には小谷城へと逃げ込み、織田・徳川軍はそれを追ったが、城攻めをするところまでの余力はない。敵にはまだ十分過ぎる兵力があり、難攻不落の小谷城に下手に手を出せば味方にどれほどの被害が出るかも知れず、そんなことになればせっかく拾った「姉川」の勝利が消えてしまうかもしれなかった。
信長は深入りを避け、虎御前山の砦に入って今回の合戦の論功行賞を行った。
ここで、挿話がある。
「姉川」の勝利は、一にも二にも朝倉勢を壊走させた徳川勢の奮戦のお陰であり、信長もそれはよく解ってはいたのだが、手伝い戦に来た家康がそれほど大奮闘をしてくれているのに、織田家中ではさしたる働きをした者が見当たらない。わずか8千ほどの浅井勢を相手に、織田勢2万はその13段の備えの11段目までを破られるという醜態を晒したわけで、これらの将に対しては信長は腹が立ちこそすれ、褒めてやるような気は微塵もない。
しかし、織田家の力で浅井・朝倉に勝ったと言いたい信長としては、徳川家の活躍ばかりが宣伝されることは不都合でもあり、面白くなかった。
浅井を撤退に追い込んだのは、あえて言うなら、横山城を包囲していた安藤・氏家両隊の横槍と、浅井勢の背後を衝いた稲葉一鉄隊の働きによるところが大きいであろう。
信長は、徳川勢と共に朝倉勢と戦い、さらに浅井の背後を扼した稲葉一鉄の働きを功名の第一とし、これを諸将の前で大いに賞した。
ところが、この稲葉一鉄という男は、筋の通らないことが大嫌いな上に、己の説を決して譲らぬという頑固者であり、この信長の裁定が面白くない。
信長という世にも怖ろしい大将を前にして、
「殿は、盲でござるか」
と言い放った。
「此度のご勝利、ひとえに三河殿(家康)の働きのお陰であることは、誰もが知っていることでござる。その三河殿をさしおいて、わしが功名第一との仰せは、片腹痛し」
一鉄は加増を固辞し、左右の者がどう取りなそうと褒賞を受けなかった。
信長は癇が強く、極端に短気な男だが、こういうある種の滑稽味をもった変わり者が嫌いではない。
苦笑し、その暴言を許したという。
自分の主義主張を曲げない者のことを「一徹者」というが、この「一徹」という言葉は、実は稲葉一鉄のこのエピソードに由来している。
「頑固者の一鉄」が、「頑固一徹」の語源になったものらしい。