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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第43話 姉川の合戦(2)

 姉川における決戦の前夜。


 木下勢の本陣に戻ってきた藤吉朗は、木下家の物頭たちと蜂須賀小六、樋口三郎左衛門ら寄騎の将を集め、6陣13段構えの翌日の布陣を説明した。


「坂井殿、池田殿の勢に続き、我らは第3陣じゃ。全軍を前列と後列とに分け、備えの5段目と6段目を作らにゃならん。前の備えは小六殿、御辺が大将となってくだされ。樋口殿の勢をこれに付ける。後ろの備えは木下家の者どもで作り、これをわしが率いる」


「心得た」


 小六は頼もしげに請合った。

 前隊の寄騎衆が1千5百、後隊の木下勢が1千5百だから、数の割合は悪くない。


「朝倉に当たる徳川勢は大変じゃろうが、浅井に当たるわしらは気が楽じゃのぉ」


 小六が言うと、


「2万の織田に対し、浅井の勢は万にも満たぬと言うな。明日は手柄の立て得じゃ」


 前野将右衛門が笑顔でこれに和した。


 真正面から裸の野戦をする場合、敵の倍の兵数をもっていればよほどのことがない限り負けることはない。大軍の朝倉に当たる徳川勢は苦労するだろうが、寡兵の浅井に当たる織田勢の楽勝はまず疑いないところであろう。そのような楽観論が、織田勢ではすでに雑兵の端々にまで瀰漫びまんしていた。


 しかし――


「そうとばかりも言いきれぬと思いますよ」


 と半兵衛が言ったのは、この弛緩した雰囲気に危機感を持っていたからか、あるいは明日の決戦によほどの不安を抱いていたからか――おそらくその両方であったのだろう。


「なんじゃぁ。半兵衛殿は、戦の前に辛気臭いことを申されるのぉ」


 自らの気炎に水を差される格好になった将右衛門は不満げだ。

 小一郎はすでに気付いていたが、藤吉朗の説明を聞いてからのこの軍略家の表情は、明らかに冴えなかった。


「なんぞ思うところでもおありですか?」


 気を回した小一郎が訊ねると、


「いや・・・・戦というのは、実際にサイを振ってみるまでその出目が解らぬものだ、ということです。油断は禁物ですよ」


 歯切れ悪く半兵衛はそう返した。

 合戦の前に、味方の苦戦を口にするというのは、軍陣の法度である。


 敵味方の強弱を語る者は、すなわち死罪――


 味方に無用の恐怖心を与えたりその士気を下げるような発言をするのは絶対のタブーであり、半兵衛にとってもおいそれと口にできる事項ではなかったのだろう。


「なんにしろ、敵味方合わせて5万近い軍兵が戦う大戦じゃ。わしにしてもこれほどの合戦は初めてじゃで、戦がどう転がってゆくのか――そのあたりがどうにも読めん。半兵衛殿、お得意の神算で、明日の戦を占ってくだされや」


 藤吉朗が半兵衛の発言を促した。


「いやいや、私などはせいぜい千、2千の小戦こいくさしか知らぬ田舎の地侍。百戦を経たお歴々に解らぬものが、若輩の私に占えるはずもありません」


 半兵衛は謙遜したが、小六の隣に居た三郎左衛門が好意的な笑みを浮かべ、


「半兵衛殿よ、常に謙虚なのはおぬしの美点じゃが、それも時によるぞ」


 と言ったから、半兵衛も苦笑せざるを得なかった。


「おぬしが古今の合戦を知り尽くし、本邦はおろか、唐土からの戦にまで通暁しておるというのはすでに皆が知るところじゃろう。今さらそのように韜晦とうかいし、知恵を出し惜しみすることもあるまい」


「半兵衛殿は、木下勢の軍師。わしらに気遣いは無用じゃ。まず存念を思うままに申してくだされや」


 藤吉朗が三郎左衛門に和し、小六らも腕を組んで頷いた。


「されば――」


 意を決したのか、半兵衛はようやく重い口を開いた。


「姉川の周囲は、遮るものとてない広々とした地勢で、まことに大軍が合戦をするのに適しています。寡兵の浅井勢とすれば、弄する策もありますまい。勇猛果敢な浅井長政殿のご気性を考えても、やはり浅井勢は、岐阜さまのご本陣を目掛けてまっしぐらに突撃して来る、ということになりましょうな」


 半兵衛は三郎左衛門を見やった。

 この場にいる者の中で、浅井の軍法と浅井長政という男をもっとも深く知っているのはこの老人だから、その意見も聞いておこうと思ったのだろう。


「異存はないな。まず明日はそのようになろう」


 三郎左衛門は重々しく頷いた。


 ところが、続いて半兵衛の口から出た言葉は、誰にとっても意外なものだった。

 明日の合戦――苦戦は必至だという。


かみないがしろにするつもりはありませんが――言いにくい事ながら、このたびの戦立ては、いかにもまずい――お味方が大軍であるという利点を、少しも生かせぬ布陣です」


 大兵力を持つ側は、相手を包囲し、多方面から攻めるのが常道である、という。

 まして――


 半兵衛はその場にしゃがみ、木の枝でもって地面に線を描いた。


「これが、我らの布陣です。13段――このように薄く何枚も陣を重ねれば、確かに一見すると、突撃してくる敵を受け止めるに適しているように見えます」


 藤吉朗やその幕僚たちは、車座のようになってそれを覗き込んでいる。


「しかし、実際に敵に当たれるのは、最前列の一陣のみ。つまりは坂井殿3千のうち前隊の1千5百で浅井の突撃を支えねばならぬということです。後の陣は味方に当たるために飛び道具さえ使えず、前の陣が崩されるまでまったく敵に手出しができません。それどころか、前の陣が崩されれば、その軍兵たちは後ろに向かって逃げますから、2陣、3陣はそれだけで混雑し、戦う前から陣立てが乱され、敵を討つための矢弾を逃げてくる味方に浴びせかけるようなことにもなりかねません」


 諸将は、虚を衝かれたような表情になった。

 言われてみれば、まったく道理である。


「浅井の突撃を止めたいというなら、先鋒に浅井に負けぬほどの大軍勢を配せば良く、それでもなお不安ならば、その陣の前に馬防ぎの柵や逆茂木さかもぎ(バリケード)などを植え、守勢に徹するよう下知すれば良いのです。そうして足止めした敵を見ながら、左翼が弱しと見れば左翼に兵を送り、右翼が乱れたと見れば右翼から攻めたて、あるいは敵の背後に兵を回すなどして新手を次々と投入し、敵を奔命に疲れさせ、守勢に回らせ、徐々に圧倒するというのが、大軍を擁する我らのいわば正攻法――」


 小一郎はもちろん、諸将は食い入るように半兵衛の説明を聞いている。


「もっとも、お味方は2万という大軍であり、浅井はおそらく7、8千。兵力にこれほどの差がありますから、どうにか浅井を抑え切ることはできるかもしれません。しかしながら、さらなる問題は――」


 と、半兵衛の言葉は続く。


「我らの隣で朝倉と戦う徳川殿のことです。三河兵の精強なことは私も金ヶ崎で目にしておりますが、万を越す朝倉の兵に対しては、やはり寡兵に過ぎると言わざるを得ません」


 これは、ある意味で当然の指摘であった。

 織田が大軍で浅井に当たることができるのは、1万を越す朝倉勢を5千に過ぎぬ徳川勢が一手に押さえてくれるからこそなのだが、誰が見ても、この方面での兵力バランスは崩れている。


「いや、これは、徳川殿ご本人の申し出なのじゃ」


 信長のために藤吉朗が弁護した。


 徳川勢を朝倉に当たらせるにつき、信長は家康に、


「敵は大軍じゃ。我らから加勢を出す。欲しいだけの人数を申されよ」


 とわざわざ言ったらしい。

 しかし、家康は、徳川一手で朝倉に当たることを主張し、譲らなかった。

 勇猛で鳴る北陸兵1万2千に対し、いかに三河兵が強いといっても5千の人数では過少すぎるであろう。信長はさすがに不安になり、強いて加勢を加えるよう促した。

 すると家康は、稲葉一鉄率いる美濃勢1千だけを申し訳のように借りた。


「たったそれだけで良いのか?」


「よろしゅうござる」


 家康が自信ありげに請合ったために、信長としてもそれ以上無理強いすることは出来かねたのである。


「そういうわけじゃから、これは信長さまの手落ちとばかりは言えぬ」


 信長もその点は不安視していたのだと、藤吉朗は言い募った。

 半兵衛は逆らわず、頷いた。


「しかし――経緯はどうあれ、この陣立てで明日の戦に臨むということに変わりはありません。我らがたとえ浅井に勝っていようとも、隣で徳川殿が負けるようなことになれば、余勢を駆って朝倉が川下から我らの側面に食いついて来ましょう。我らの13段の備えは、前から寄せ来る敵を防ぐためのもので、横の備えは薄い。岐阜さまのご本陣にさえ、左右の備えがない。朝倉がもし横手から攻め寄せて来るようなことになれば、我らは後手後手に回らざるを得ず、苦戦では済まなくなるかもしれません。逆に言えば、徳川殿が朝倉を押さえておる間に浅井を壊走させることができなければ――お味方は非常に苦しい立場になる、ということです」


 藤吉朗を含め、幕僚たちには声もない。


「なるほど。確かにこの戦立ては、博打の要素が大きいか」


 戦理に明るい三郎左衛門が言うと、


「おっしゃる通りです。常の慎重な岐阜さまとも思えぬやり様ですね・・・・」


 半兵衛は頷いた。


「戦には、常の形というものがありません。戦立てを定めるときは、水が高きから低きに流れるように――あるいは器に応じてさまざまにその形を変えるように――千変万化する敵の動きに応じて無理なく形を換えられるよう柔らかに備えるのが肝要。そのためには備えの形を固めすぎず、戦の形を決め付けず、自由に使える後詰め(予備隊)を常に手元に置いておくべきなのですが、明日の戦は、そのすべてが欠けています。型にはまれば勝ちましょうが、岐阜さまの思いもよらぬような形になったとすれば――」


 負ける、という言葉はさすがに使わなかったが、半兵衛が言外にそう匂わせている、ということは皆に解った。


「いちいち半兵衛殿の申される通りじゃ。じゃが、この戦立ては軍議で決められ、信長さまもご承認なされたもの。今さらこれは動かせぬ」


 藤吉朗が少し苛立たしげに言った。


「左様。動かせぬと決まっておりますから、私も苦慮しているのです」


 半兵衛は眉根を寄せた。


「なにか知恵はござらぬか?」


 藤吉朗が、縋るような目で訊ねた。

 知恵もなにも、木下勢は全軍の第3陣に組み込まれ、勝手な動きができる立場にない。藤吉朗としても、与えられた持ち場で懸命に働く以外にないことは解っている。

 ところが、半兵衛の不思議さは、この状況でも、


「ないこともございませんが――」


 と、すでに妙手を考え付いているらしいことであった。


「そ、それは・・・・?」


「お味方が浅井に苦戦し、陣が大いに破られたときの、万一の場合に備える策、ということですが・・・・・」


 半兵衛はくどいほどに前置きし、


「丹羽長秀殿率いる4千が、横山城の押さえに残されております。横山城は丹羽殿の2千に任せ、我が舅殿と氏家殿の美濃衆2千に、浅井の腹背を衝かせる、という手があります」


 と言った。


「これならば、戦立てを変えることにはなりません。お味方が浅井にそのまま勝つようなら、それはそれで良し。もし、万々一に、お味方が中筋(中央)を深く斬り立てられ、ご本陣まで危機にさらされるような状況に陥った場合のための奥の手、ということですね」


 藤吉朗は突き出た頬骨のあたりを掻きながら、難しい顔で考え込んでいる。


 浅井勢の突撃が信長の予想をさえ上回るほどのもので、織田軍の陣が次々に壊乱するような事態に万一立ち至ったとするならば、半兵衛の示したこの策は、非常な成果を上げるかもしれない。

 前掛かりになり、織田軍の中に深く突き入ることで前後の隊列が間伸びした浅井勢に、無傷の新手が横手なり背後なりから突っ込んだとすれば、敵も動揺し、あるいは混乱し、突撃の勢いも死ぬことになるだろう。いったんその突撃の勢いさえ削いでしまえば戦の流れは変わるだろうし、それまで劣勢だった味方は息を吹き返すかもしれず、包囲され、退路を絶たれる危険を悟った浅井勢の方が退却を始めるかもしれない。


 そんなピンチには陥らない方が良いに決まっているが、半兵衛が言わんとしているのは、要するに「万一のために保険を掛けておけ」ということであろう。そのまま勝つなら良し。もし苦戦するようなら、そのときのための取って置きの手を別に用意しておく。その用意があるのとないのとでは、その「万一の場合」に至ってしまったときに大きな違いになる。まして、合戦とは失敗が絶対に許されない究極の勝負事なのである。いずれにしても、備えはあるに越したことはない。


「木下殿は、丹羽殿とはご懇意でありましたな?」


「あぁ、五郎左殿には古き頃より何くれとなく世話になり――まぁ、腹をうち割って話せる間柄じゃな」


「丹羽殿に、その心積もりを持っていただいてさえおれば、我らも幾分かは心安く戦に臨めるのではないかと――」


 全軍にそれを報せるのは、味方の苦戦を予言するようなものであり、兵たちに無用の心配や恐怖心を与えることになりかねないし、何より軍中に紛れ込んでいるであろう間者を通して敵にまでこの秘策が漏れてしまうことになる。あくまで内密にし、横山城包囲部隊の大将である丹羽長秀にだけその秘策を授けておけば、それで足りる、と半兵衛は言った。

 現在いる横山城の周囲から姉川河畔の予定戦場までは、2kmほどの距離がある。実際に織田軍が危機に瀕するような事態になったとき、横山城を囲んでいる部隊がこれに即応するためには、あらかじめその心構えと準備とが必要であるだろう。


「解った。姉川へ出る前に、わしがひとっ走りして五郎左殿に逢い、このこと話しておこう。そのようなことにならねばそれが最上じゃが、万一に備えておくが悪しかろうはずもないしの」


 藤吉朗が言った。

 大戦を前に味方の苦戦を想定するというのはデリケートな話であり、難しい話柄ではあるが、丹羽長秀なら冷静に話を聞いてくれるだろうと、小一郎は思った。


 丹羽氏は織田家では譜代家老という門閥の家柄で、長秀は信長の姪を妻にするほどに家中で重きを成す人物だが、まだ藤吉朗が足軽組頭に過ぎない頃から目を掛けてくれ、武将となった今でも変わらず好意をもって接してくれる心の爽やかな男である。

 昔は身分が隔絶していたからおいそれと話ができる相手ではなかったが、藤吉朗が累進し、京奉行になった頃から長秀が京における直接の上役になったこともあって、小一郎とも顔を合わせる機会があり、酒宴の席に連なったこともあるし、兄の使いとして用務で話し込んだりしたこともある。あの温厚で聡明な男なら、織田家のためを想う藤吉朗の気持ちを正しく酌んでくれるだろう。


「ともあれ、明日は信長さまが後ろからわしらの働きを見てござっしゃる。他の陣に負けぬだけの奮戦をせねばならんぞ」


 藤吉朗が座を纏めるように大声で言った。


「まずは、素早く粛々と姉川まで出張り、持ち場の備えを整えねばならん。飯はその後じゃ。炊事をしておる暇はないじゃろうから、今夜と明日の明け方に、皆に腰兵糧を使わせよ。戦は夜が明けてからになるとは思うが、敵の夜討ち、朝駆けがないとは言い切れん。兵馬を休ませるのは当然じゃが、くれぐれも夜警を怠ってはいかんぞ。それぞれの組で必ず不寝番を置き、休息も兵の半分ずつ取らせるようにせよ」


 藤吉朗はさらに細々とした指示を諸将に与え、軍議を散会させた。

 諸将はそれぞれに手勢の元に戻り、出陣の準備を整える。


 その後、木下勢は、他の諸隊と共に松明を掲げ、歩武を揃えて姉川河畔へと移動した。



 夜は、何事もなく明けた。


 姉川南岸には織田・徳川軍約2万5千が無事布陣を終え、対岸では浅井・朝倉軍約2万が開戦の法螺貝かいを待っている。


 伊吹山系の新穂山に水源を発する姉川は、山々の細流を集めながら南に下り、伊吹山の麓で西にその流れを変え、そこからはゆるやかに地を洗いながら琵琶湖へと注いでいる。北近江では随一の水量を誇る大河で、この野村・三田村のあたりでは川幅が実に1丁(108m)近くにも達し、水深も3尺(91cm)以上はあるという。


 辺りは、一面の霧である。

 諸隊の旗が風になぶられる音と馬のいななきだけが、乳白色の世界に動きを与えていた。


(いよいよか・・・・・)


 小一郎は、兜の緒の結び目を苦しげに摩りながら床机に静まっていた。

 霧に閉ざされて視界は開けず、ほんの2、3丁前にいるはずの第2陣はその影さえ見えない。


「この霧は、川風が払ってくれましょう。やがて、先陣で戦が始まりますよ」


 傍らに座っていた半兵衛が、前方を見据えながら言った。


「先手の坂井殿が、川べりに弓・鉄砲を立て並べ、渡河して来る敵を水際で迎え撃つようにして戦うならば面白き戦になると思うのですが・・・・・。さて――」


 お手並み拝見、とでも言いたげな口ぶりである。


(このお人は、相変わらずじゃな・・・・)


 小一郎は微笑した。

 どの戦場に臨んでも、半兵衛には常にゆったりとした余裕がある。その余裕が、それを見た周囲の人々に伝わり、自然とその気持ちをくつろげる作用を果たしている。この軍略家がこうして余裕綽々で居てくれる限り、戦は大丈夫だ――負けるはずがない――という安心感を与えてくれる。

 兵たちの気分を陽気にすることで士気を高揚させる藤吉朗とは、また違った統率力と言うべきだろう。


 眼前を覆う霧がようやく薄くなり始めた頃、遥か川下の方で轟々と銃声が鳴り響いた。

 1kmほど西に陣を据える徳川勢が、朝倉勢と射撃戦を始めたのだ。


「おぉ、徳川殿が戦を始めおったぞ!」


 藤吉朗が叫ぶ。

 戦の前の興奮がそのまま出たのか――はしゃいだような声だった。


「口火を切ったは、徳川殿か――」


 対照的に半兵衛が、呟くように言った。


 小一郎は、金ヶ崎でさんざん世話になった三河の年若い大名とその率いていた軍勢の姿を思い出した。


 三河は、経済が発達して富裕な尾張から見ると、これが隣国かと驚くほどに遥かな後進地帯で、そこに住む人々の暮らしも貧しかった。当然のことながら、軍装が華美華麗な尾張兵と比べると三河兵たちの装備や服装は地味で貧しげに見えたが、しかし、兵の質においては三河兵は東海地方で最強と謳われ、「尾張兵3人に三河兵1人」とまで評されるほどに強い。

 小一郎には、その三河兵の勇猛果敢な戦いぶりを金ヶ崎の退却戦の折に間近に見、これにずいぶんと援けられたという経験がある。徳川家康という男と直接口を利いたことこそないのだが、なんとなく彼らが負けるという姿を想像できないでいた。


(ご武運を、お祈りしますぞ)


 敵の朝倉が大軍で、徳川勢の苦戦は火を見るより明らかだということはよく解っているのだが、なんとか頑張って欲しいと願わずにはいられなかった。


 この徳川勢が、小一郎はもちろん、半兵衛の予測さえも超えるほどの凄まじい働きを示し、「姉川の合戦」における織田軍の勝利に決定的な役割を果たすことになるのだが、このとき、敵味方を通じて、そんなことを予想できた者は誰一人いはしなかった。


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