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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第42話 姉川の合戦(1)

 小一郎と半兵衛が松尾山の長亭軒城において樋口三郎左衛門と会見したのは、元亀元年(1570)5月の末である。

 このとき半兵衛は、


「長亭軒と鎌刃の城が織田方となれば、あるいはただ一度の戦をもって美濃と近江の境の地図が変わるかもしれず、浅井は横山城(長浜市堀部町)まで前線を退かねばならぬようになるかもしれません」


 と予測した。


 しかし、その半月後――実際に堀氏が織田に寝返り、長亭軒と鎌刃の城に立つ旗の色が変わると――現実は半兵衛の予測よりもさらに奇態な形勢になった。


 この時期――くどくどしく言うなら信長による越前征伐の失敗から現在に至るまでの約2ヶ月間――朝倉勢2万が浅井の援軍として北近江に出張っており、美濃と近江の国境線にある長比城と刈安尾城を大改修し、ここに腰を据えていた、ということは先にも触れた。

 この朝倉勢が、堀氏の寝返りが明らかになり、織田方の大反攻が近いという風聞に接するや――まったく驚くべきことだが――城を捨てて本国へ帰ってしまったのである。


 これは浅井と合意の上の予定の撤退などではなく、自侭な逃散としか言いようがないのだが、浅井長政には宗主国である朝倉の軍勢に対する指揮権などはないから、撤退してゆく朝倉勢を押し留めるいかなる方法も持っていない。結局、浅井は国境線を固めて守るという当初の防衛戦略を捨てざるを得なくなり、伊吹山地やその周辺にある城や砦をすべて放棄し、防衛ラインを横山城まで退き下げた。


 この朝倉勢の撤退の理由は、実はよく解らない。

 研究者によっていろいろな解釈がなされていて、定説と言えるほどの決定的な理由はまだ確定されていないように思うのだが、以下、少々随筆風に、筆者の考えていることをつらつらと述べておきたい。


 この撤退が、純軍事的な事情から行われたというのは、状況から考えてまずあり得ないように思う。


 防衛側の浅井・朝倉とすれば、織田の大軍を迎え撃つのに狭隘な山岳地帯より有利な地点はなく、長亭軒城と鎌刃城が敵方になってしまったとはいえ、東山道を押さえる長比城や北国脇往還を押さえる刈安尾城などまだ国境線にはいくつもの城や砦が無傷で残っていた。それらに篭って守勢に徹するだけで数ヶ月は楽々と支えることができたであろうし、たとえば朝倉の大軍がこれらの拠点に拠りつつ織田軍を足止めし、浅井勢が遊軍となって神出鬼没し、城攻めをする織田勢の側面なり背後なりを脅かすような戦い方をすれば信長も苦戦したに違いなく、いずれにせよ7月に起こる三好三人衆の襲来や8月の本願寺の挙兵までに信長が近畿に大軍を移動させることは不可能になったであろうことはおそらく間違いがない。三好氏と浅井・朝倉の間にどれほどの繋がりがあったかは解らないが、本願寺の決起が間近に迫っているということは当然伝わっていたであろうから、これら無傷の防御拠点を捨ててまで慌ただしく退却し、織田勢の近江入りを許すのは、利敵行為ということにさえなるであろう。


 朝倉は、それでも敢えて北近江から兵を引き上げた。

 で、ある以上、そこには何かしらの理由があるはずなのだが、どうも理由らしい理由が見当たらないのである。


 朝倉氏の本拠である越前というのは、現在の福井県から若狭地方を除いた地域である。

 西は海であり、東は峻険な山岳によって閉ざされ、南方は北近江の浅井氏が守っている。唯一の不安は北の加賀で、この国は本願寺の一向勢力が牛耳っており、朝倉氏はこれと連年にわたっていざこざを繰り返して来ていたが、本願寺は信長と敵対するために反織田勢力とは手を結びたがっていて、反織田の急先鋒である朝倉氏とはいち早く秘密同盟を結んだらしく思えるから、これも安全だと言っていい。

 つまり、朝倉氏は何の不安もなく大軍勢を国外に出せる状態にあり、事実、この元亀元年から3年間は長途の外征を立て続けに繰り返している。ここで長滞陣ができるだけの余力は十分にあったと見るべきで、送ろうと思えば北国街道を経由していくらでも物資を輸送できたであろうことを考えても、兵糧などの不足から撤退したとするのも無理があるように思う。


 以上のような考察から、筆者は朝倉の撤退が軍事的な理由からではなかった、と考えているわけだが、それにしたところで、2万もの軍勢が戦場から撤退したという事実がある以上、それなりの理由を求めねばならないだろう。


 結論から言えば、筆者は、朝倉に属する軍兵たちの感情が、この撤退を引き起こしたのではないかと想定している。


 朝倉の軍兵たちは、春先から続く長期の外征にんでいた。まして、浅井の矢面に立ってまで北近江を守ってやる気になれなかったのではないか――


 人間の集団というのは、自分たちが強勢な勢力に属しながら弱小の勢力に対するというような場合、それがまるで当然の権利ででもあるかのように態度が酷薄になる。朝倉氏にとって浅井氏という従属勢力は、いわば越前の南方を守る番犬であるに過ぎず、北近江という地域は、本国から離れた属国というに過ぎない。これを守るのはあくまで浅井の仕事であって、朝倉が浅井の前面に立ってまで織田と戦い、多くの血を流してこれを守ってやらねばならぬというほどの思い入れは、朝倉の軍兵たちにはまったくなかったのではないかと思うのである。


 朝倉勢の戦陣生活は、信長の越前征伐から延々2ヶ月以上にわたって続いている。


(浅井なぞのために、なにゆえ我らが長々と戦陣の苦労をせねばならぬのだ)


 という不満が雑兵の端々にまで満ちていたとしても不思議はなく、田植えが終わったばかりの農閑期であるとはいえ田仕事が滞ってしまっている足軽たち――つまり百姓たちである――からも強い不平の声が上がっていたであろうことは想像に難くない。これらを纏める朝倉家の貴族たちにしても浅井を軽視する気分は強かったであろうから、下の者たちの突き上げを無理やり押さえつけてまで北近江に留まり、浅井のために織田と戦ってやろうとは思えなかったのではないか――


 まして戦況は浅井家で最大の豪族のひとつである堀氏が寝返り、最前線基地が敵に取られてしまったという最悪の状況であり、まさに織田の大軍勢が自分たちに襲い掛かって来ようとしている。


(ここで怪我をするのは阿呆らしい)


 と思ったとしても無理はなく、そういう当事者意識の希薄さと危機感のなさが、戦場放棄という最悪の行動に繋がったではないかと思うのである。


 いずれにしても、五代・百年にわたって越前を支配し、若狭、北近江を従属させるほどの強勢を誇り、先代の時代には将軍相伴衆として名門守護大名にまで数えられた朝倉氏は、この時点では新興勢力である織田家の武威とそれを率いる信長という男を、かなり甘く見積もっていた、というのはどうやら間違いがない。

 信長が危機に立ったとき、常にこれを救ったのは、ひとつには肥大化した名門意識の上にふんぞり返っている朝倉義景という大将の愚昧さと、刻々と変化してゆく時勢を読み解きながらこれに的確に処するという乱世においてもっとも必要な能力を失い切っていた朝倉家の貴族たちの蒙昧さだったと言えるかもしれない。


 朝倉は、この種の戦場放棄を今後もたびたび繰り返す。たとえばこの2年後、甲斐の武田信玄が「信長包囲網」に参加し、上洛の軍を発して信長を絶体絶命の苦境に陥れたとき、北近江で織田と交戦中だった朝倉勢はやはり勝手に本国に帰ってしまい、信長を大いに援けたりしているのである。


 長々と余談を続けてしまったが、いずれにせよ信長は、朝倉氏のこの撤退に救われたと言っていい。


 この状況を知った信長は、


(不思議な形になった)


 と首を傾げたが、無論、この好機を逃すようなことはしない。


「この奇禍、くべし!」


 と勇躍して軍を発し、2万の織田勢は瞬く間に関ヶ原の回廊を突破し、一滴の血を流すこともなく北近江に雪崩れ込んだ。


 朝倉のために織田と戦ってやろうとしている浅井にとれば、「いい面の皮」としか言いようがなかったであろう。


 そもそも浅井が織田と敵対したのは、宗主国である朝倉との友誼を重んじたからであり、損得や利害を越えた「義」の行動であった。当主の長政は朝倉よりもむしろ織田を選ぶつもりであった形跡が濃く、隠居の久政がその長政を無理やりに引きずって朝倉加担を決めたがために織田と戦わねばならなくなったわけだが、そうと決断してからの長政はいかにも武士らしく、北近江を焦土にしてでも信長に対して徹底抗戦をしようと腹をくくっていたのである。

 この浅井を放って、盟主であるはずの朝倉が国に帰ってしまうというのはまったく理不尽としか言いようがなく、浅井家の士にとっては泣けてくるほどに情けなく、唾を吐きかけてやりたくなるほどに腹立たしい事態であったに違いない。しかし、だからといって、すでに信長に敵対してしまっている浅井としては、朝倉を捨てて再び織田を選ぶなどということもできない。


 浅井の国力は、39万石ほどであったとされている。堀氏が寝返ったために兵力は2千ほども減り、百姓まで総ざらえにかき集めても1万2千ほどしか軍兵は集まらない。しかもこの兵力を国内の城や砦に配らねばならず、野戦用の決戦兵力としてはどう頑張っても8千ほどしか出ないのである。わずか8千では、いかに浅井家の兵が強悍でも2万の織田勢とは戦えないから、つまり、浅井一手で織田を押さえ切るのは不可能と言うしかなく、朝倉の後ろ盾がなければどうにもならない。


 浅井長政は、越前に何度も使者を出し、朝倉の当主である義景に直接懇請し、再び援軍を送ってくれるよう泣きついた。

 それ以外に、いかなる手も打ちようがなかったのである。



 織田勢の進軍は、疾風のように速かった。


 6月19日に岐阜を出陣した信長は、その日のうちに捨てられた長比城に入り、翌日には浅井方の重要拠点である横山城を包囲。敵を封じ込めて身動きできなくすると、さらに21日は浅井の本拠である小谷城を目前に見る虎御前山とらごぜやままで進み、ここに本陣を据え、小谷城下はもちろん、付近の村々までことごとくを焼き払った。

 そうこうしているうちに、南近江に配されていた柴田勝家、佐久間信盛らの軍勢や、京にあった丹羽長秀、明智光秀らの軍勢がおいおい駆けつけて来たため、織田軍は総勢2万5千ほどにまで膨れ上がった。


 この間、寡兵の浅井は手出しができない。

 亀のように城に閉じこもって守勢に徹するほかどうしようもなく、いかに勇猛な浅井長政といえども、小谷の山上から焼かれる村々を歯噛みしながら眺めているしかなかった。


 朝倉義景は、勝手に戦場を放棄して帰って来た朝倉景鏡を叱りつけ、新たに朝倉景健を大将とした軍勢をただちに北近江へと派遣した。織田との決戦に本気になっていたなら義景自らが総大将になるべきであったし、全力で出撃する気なら2万5千ほどは動員できたはずだが、このとき義景は越前を動かず、北近江に派遣した軍兵も1万2千ほどに過ぎなかった。

 兵力の出し惜しみや逐次投入というのは、戦略としてもっとも愚かである。

 近江国境の拠点を捨てる撤退といい、過少な軍勢を再度派遣するそのやり様といい、この時の朝倉氏の行動はいちいち間が抜けており、愚劣としか評しようがないのだが、朝倉義景がそれだけ信長を侮っていた、ということは言えるかもしれない。


 ともあれ、浅井としては朝倉の援軍が来るまでは決戦を挑むことはできない。

 いくら挑発しても浅井が守勢に徹して動かないと見て取った信長は、難攻不落の堅城である小谷城をいきなり攻めることは諦め、いったん兵を南下させて再び横山城を囲んだ。


 横山城というのは長浜市堀部町にそびえる横山丘陵に築かれた城で、小谷城から十二kmほど南方にある。横山の山頂に北城、南の峰に南城がそれぞれ独立した本丸として築かれ、相互に援け合いながら守備できる造りになっている。石垣はないが土塁と堀切で守られた城郭はなかなか広く、麓から山頂までの比高が200m近くあることもあって、攻めにくく堅い城である。大野木秀俊を守将とし、三田村国定、野村直元ら総勢2千ほどがここに篭り、頑強に守備していた。

 この横山城は浅井にとっては主城の小谷城に次ぐ重要拠点で、東に北国脇往還、西には北国街道を見下ろす絶好の位置にある。北を望めば琵琶湖畔の青々とした水田地帯があり、姉川とそれに流れ込む草野川が見え、さらに小谷山、虎御前山などが一望で見通せる。顎を西に向ければ琵琶湖の広々とした水面が輝き、東には伊吹山の山並みが鎮まっている。北近江の北方の中心が小谷城であるとすれば、横山城は南方のかなめと言えるであろう。


 信長がこの城を囲んだのは、小谷城に立て篭もった浅井勢をおびき出すためである。

 1万近い敵が篭る難攻不落の小谷城を力攻めに攻めたところで、出るのは味方の被害のみであり、これを短期間に落とすのはまず不可能であった。不安定な畿内の政情を心配する信長としては小谷攻めに何ヶ月も掛かりきりになるわけにはいかないから、敵をなんとか城から引きずり出して野戦で勝負を決してしまいたい。

 野戦ならば、勝敗は1日でつくであろう。

 横山城を包囲、攻撃することによって、これを救援に出てくるであろう敵を迎え撃ってやろうというのである。


 信長が「竜ヶ鼻」と呼ばれる横山丘陵北方の峰に本陣を据え、横山城の四方を2万5千の軍勢をもって包囲し、これに猛攻を加えたのが6月24日である。城に篭った浅井勢の奮戦は凄まじく、3日攻めても落とすことができなかった。

 6月26日になって、朝倉の援軍1万2千が小谷に到着する。

 これに力を得た浅井長政は、8千の兵を率いて27日に小谷城を出陣し、横山城の3km北西にある大依山に陣を据え、城攻めをする織田勢の背後を脅かす形勢を見せた。


 敵の出戦を待っていた信長にすれば、予定の展開であったに違いない。


 信長にとっての幸運は、三河の徳川家康の援軍5千が、この27日に到着したことであった。三河兵は東海地方において最強という評価があり、事実この家康率いる三河者たちは戦場では奇妙なほどに強かった。5千の徳川勢で、織田勢1万にも匹敵する働きが期待できるであろう。


 信長はただちに城攻めの態勢を解き、横山城には押さえの軍勢4千(安藤守就隊1千、氏家卜全隊1千、丹羽長秀隊2千)を残し、残る全軍を反転させて姉川の南岸に移動するよう命じた。

 この軍議が行われたのが27日の夕刻で、実際に陣換えが始まったのは夜である。織田勢は大軍であり、さらに視界の利かぬ夜間のことでもあり、陣換えはなかなか手間取った。

 つまり、小一郎ら織田家の軍兵たちは、ほとんど眠らずに28日の朝を迎えたということになる。

 翌28日の早朝から行われるのが歴史に名高い「姉川の合戦」なのだが、この合戦における織田勢の苦戦は、ひとつには連日の城攻めと前夜の不眠で軍兵たちが疲れ切っていたことにその原因があったと言えるかもしれない。


 ともあれ、小一郎は半兵衛らと共に木下勢の中にあり、信長の命に従って姉川南岸へと移動し、決戦に備えた。


 浅井・朝倉軍は、27日の夜半、無数の松明の群れとなって大依山を下り、姉川の対岸に移動した。夜明けを待って、攻勢を掛けるつもりであろう。浅井勢が野村、朝倉勢がその西の三田村というところに布陣した。

 この移動を見た信長は、浅井勢の前面に織田勢、朝倉勢の前面に徳川勢をそれぞれ配し、姉川の南岸で備えを整えた。


 定説では、このとき信長は、織田軍約2万を6陣12段に編成し、本陣を含めた13段の備えで浅井勢を待ち受けた、ということになっている。


 兵に端数はあるものの、おおよそ次のような布陣であったらしい。

 先陣は、織田家で柴田勝家と共に猛将の誉れ高かった坂井政尚隊3千。第2陣・池田恒興隊2千、第3陣・木下秀吉隊3千と続き、第4陣・柴田勝家隊2千、第5陣・森長可隊2千、第6陣・佐久間信盛隊2千。本陣に、信長直属の5千の旗本が控えている。

 藤吉朗に比べ、柴田勝家や佐久間信盛が率いる兵数が少ないのは、柴田や佐久間が南近江で守るそれぞれの城に守備兵を多く残さねばならず、1千ほどの手兵しか引き連れて来れなかったからである。信長はこれらの部隊にそれぞれ寄騎を付属せしめ、おおよその兵数を揃えて配置した。


 一方、姉川の下流に陣を据えた徳川勢は総勢6千(9千だったとする説もある)。先鋒は酒井忠次隊1千。第2陣に小笠原長忠隊1千、第3陣に石川数正隊1千をそれぞれ配し、家康率いる本隊に2千。これに、稲葉一鉄率いる美濃勢1千が加勢として加えられ、1万2千の朝倉勢と対峙した。


 ところで、藤吉朗が率いた軍勢が3千となっているが、ここは若干の解説が必要であろう。


 ここまでこの物語で述べてきた通り、これまでの木下勢には京都守護という重要任務があったために寄騎が多く付与され、藤吉朗が小身の頃から常時3千ほどの兵力を持たされていたのだが、今回の岐阜帰還に伴って寄騎の数が減らされ、木下勢そのものは2千ほど――木下家の家来が1千5百、「川並衆」ら寄騎が約5百――になっていた。ところが、寝返らせた堀氏と樋口氏が、その申し次(仲介担当者)であった藤吉朗に付属することとなり、樋口三郎左衛門が1千ほどの兵を率いて今回の戦役に参陣してきたため、藤吉朗の指揮を受ける軍兵が再び3千ほどに増えていたのである。

 軍兵の数そのものは以前と同じだが、内容は少々変わったものになっている。


 ちなみに藤吉朗は、この「姉川の合戦」の後に横山城を与えられ、浅井の押さえをその役割として働くことになるのだが、堀氏と樋口氏は、このときから藤吉朗にとって心強い味方になり、鎌刃城を守って横山城の藤吉朗の脇を固める重要な存在になる。ことに樋口三郎左衛門はその戦術能力と聡明で重厚な人柄を高く評価され、木下勢の中で蜂須賀小六などと並ぶほどの厚遇を受けるようになるのだが、これは余談。


 いずれにせよ、これまで軍事的評価が低かった藤吉朗が、柴田勝家や佐久間信盛らと肩を並べ、第3陣の大将を任されるまでになっている、というのは、注目すべきである。伊勢攻略や「金ヶ崎」での奮戦などで誰もが藤吉朗という男を見直した、ということはもちろんあるが、何より信長が藤吉朗の武勇を高く評価し始めた、ということが、この布陣にも表れている。



 「姉川の合戦」は、この28日の早暁から始まる。


 両軍合わせて5万以上の軍兵が血で血を洗うような激闘をまさにこれから繰り広げるわけだが、朝霧に沈み込んだ姉川はそんな気配は微塵も感じさせず、嘘のような静けさを保っていた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 三河兵は日本でも有数の強さだったと思う 個人的には薩摩、上杉謙信が率いてた時代の越後、武田勢などと5本の指に入ると思ってます
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