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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第41話 調略(4)

「本願寺が挙兵の事、三郎左衛門殿がそう申される以上、事実に相違ないのでしょう。このまま浅井・朝倉がこの松尾山を守って頑張り続ければ、織田は、あるいは畿内を失うことになるやもしれませんね。しかし――それは、それだけのこと。織田殿の『天下布武』が数年遅れることにはなっても、それで織田家が潰れるということはない。まして、それで浅井・朝倉の命数が伸びるということもないでしょう」


 半兵衛は上座を見据え、揺るぎない口調で言い切った。


 カン――!


 三郎左衛門は盆の縁を叩いて煙管の灰を落とし、上体を前に倒して顔を迫り出した。


「わしの考えが違うと?」


「左様。三郎左衛門殿は、本願寺という名のみを大きく思いすぎ、実質なかみを見ておられない」


 実質なかみ――


 半兵衛が言わんとしていることが小一郎には解らない。

 そしてそれは、三郎左衛門にとっても同様であったのだろう。


「いや、本願寺の挙兵はただ事ではないぞ。織田殿の喉首にも、長島の一向門徒どもがおる。領国でも多くの者が一揆を企てるであろう。これらは織田殿にとっても大きな痛手となるはずじゃ」


 語尾に力を込め、そう言った。

 しかし、


「織田家のものとなって日の浅い伊勢のことは知りませんが、少なくとも美濃と尾張では、一揆などは起こりはしますまい」


 半兵衛はさらりと言ってのけた。


「なぜそう言い切れる・・・・?」


「一揆は、領主の側から見れば許し難い大罪。これに加担すれば、当然、親類縁者のことごとくが磔になる。それを覚悟で一揆に加わる者たちというのは、一人一人に、それぞれ切実な事情があるのです。本願寺が立てば、全国の門徒が残らず決起するなどと思うのは幻想に過ぎない」


「門徒でない半兵衛殿には、門徒の気持ちは解るまい。ご法主さま(顕如)から立てと命じられれば、生死を忘れても立つのが門徒の心意気じゃ。人と人とのえにしは一代に過ぎぬが、人と弥陀との縁は未来永劫にわたって続くもの――門徒でこれを疎かに想う者はおらん。現に、三河で起きた一揆騒ぎのときなぞは、徳川家の過半の武士が一揆方に加担したために三河は真っ二つに割れ、徳川殿はその鎮定に半年近くを費やしたと聞くぞ」


 三郎左衛門は、7年ほど前に起こった「三河一向一揆」を引き合いに出して反論しようとした。


「結果、徳川家では一向宗は禁教となり、僧と改宗せぬ門徒はことごとく国を追われ、三河で一向宗の法は絶えた――とも聞いております。が、まぁ、三河のことはきましょう。三河は念仏がことのほか盛んな国ですし、それが美濃や尾張に住む者たちにそのまま当てはまるわけでもない」


 半兵衛は逸れかかった話題をあっさりと元に戻し、畳み掛ける。


「百姓どもが何故に一揆に奔るのか――それは詰まるところ、百姓をしておっても生きてゆけぬからです。取れた米を6分も7分も年貢に持ってゆかれ、諸役(雑税)を取り立てられ、普請があれば徴発され、戦のたびに駆り出され、あるいは田を刈られ、村を焼かれ――そのような百姓たちが、明日に希望を持てるわけがない。誰も彼もが借財で首が回らなくなり、その日食う米にも困り、ひえを食い粟を食い、ついには木を食い草を食い――やがては飢えて死ぬか、徒党を組み、槍をもって領主に歯向かう以外にない。そういった百姓たちを繋がらしめ、纏め、来世の希望を説いて心を掴んでおるのが一向宗の僧たちですが、一揆を起こすまでに百姓どもを追い込んだ領主の方にもその責がある、とも言えます」


 しかし――と半兵衛は続ける。


「昔は知らず、織田殿の世となってからの美濃や尾張の百姓は、そのように生活に困窮する者はほとんどおりません。美濃や尾張に流れ込んで来る百姓はおっても、美濃や尾張から他国へ逃散してゆく百姓はおらぬというのがその証拠。織田殿の治世は正しく、法は粛然として守られ、無体を致すような狼藉者もなければ、年貢を5分以上取られることもない。戦に百姓が駆り出されることはなく、みな安んじて野良仕事に精を出せる。野良仕事の片手間にこしらえた草履やこもや縄などといった物もすべて作り売りが許され、このため誰もが日々の暮らしの中で多少の銭金を蓄えることができるというほどに民の暮らしぶりは豊かです。これら織田殿の善政に対する民の親しみと感謝の心は深いですから、これに歯向かい、美濃や尾張を加賀のような “一揆持ちの国”にしたいと願うような者はまずおりません」


 半兵衛の語り口は非常なまでに解りやすく、ほとんど悪魔的とさえ言えるほどに親切である。半兵衛の言葉のどこまでが真実で、どこからが詭弁なのか――尾張生まれの小一郎でさえよく解らないくらいだから、近江者である三郎左衛門には判断のしようもなかったであろう。


「お浄土を欣求する衆生の想いは、それほど打算に満ちたもんでは――」


 苦しげにそう言うのが精一杯だった。

 が、その言葉さえ終わらぬうちに、半兵衛はさらに声を重ねる。


「現世の明日に希望をもって暮らしている者たちにとって、来世に救いを求める気持ちなどは薄いでしょう。どれほど焚きつけられたところで命を捨ててまで一揆に奔ったりはしませんよ。さらに付け加えるなら、尾張や岐阜の街では武士も庶民も多くが法華宗を奉じ、門徒の数はことのほか少ないですから、ここに一向一揆の芽は育ちません」


「・・・・・・・・・」


 老人は二の句が継げない。


「本願寺の法主殿(顕如)がどれほど吠えても、織田殿の本領ではさほどの影響は出ないでしょう。東の徳川、武田ともよしみが深く、背後は安全ですから、美濃と尾張はまず安泰、ということになる」


 半兵衛の言葉は淀みなく続く。


「たしかに、本願寺が立ち、これが三好、六角らと結び、さらに浅井・朝倉と結べば、なるほど織田殿にとって大きな脅威となりましょう。織田殿は、あるいは畿内を失うハメになるかもしれません。しかし、そもそもいま織田殿が京を握り、畿内に大きな力をもっておるは、衰えた将軍家を援けるためであり、公方さま(将軍 義昭)の上洛の請いを容れられたからです。畿内に織田家の直轄の地などは最初からなく、わずかに堺、大津、草津に代官が置かれておることを除けば、土地土地の大名小名たちはことごとく所領を安堵されたままに残っており、これらは織田殿の家来ではなく、みな織田殿を主と仰いでおるわけではない。公方さまが織田殿に対する信が厚く、その権を委ねられておられるからこそ畿内の者どもは織田家の旗の下におりますが、どれもこれも外様であって織田家の臣ではない。織田殿にしても、京を守ってやっておるつもりはあっても、京を守るために織田家を潰すほどの思い入れはありますまい。畿内など、手放したところで何ほどのこともない。捨てようと思えばいつなりと捨てられるのですよ」


 畿内を失えば織田が滅ぶなどと思うのは、本末転倒である、と半兵衛は断じた。


「美濃、尾張はもちろん、伊勢、志摩、南近江などははいずれも織田の分国としてあり、織田方4万の軍兵は健在です。万一、伊勢で一揆が起こって伊勢衆が動けぬようになったとしても、南近江の諸豪も織田殿に忠義を尽くしておりますし、浅井を攻めるには何の障害さわりもない。織田殿は、畿内を再び取り戻すべく、怒涛のように浅井攻めを繰り返しなさるでしょう」


 これは、つまり――と半兵衛は声を励ます。


「3万近い軍勢が、季節を問わず常に北近江を脅かし続けるということです。そして、その時、浅井の矢面に立って織田殿の鋭鋒を一身に受けねばならなくなるのが、東の最前線にあるこの長亭軒城と、南の最前線にある鎌刃城――つまり、三郎左衛門殿、あなたと堀二郎殿ということです」


 今度は、三郎左衛門の顔色が変わる番だった。

 老人は苛立たしげに再び煙管を取り、葉を詰めてそれを吸い点けた。


「織田の軍勢など、何ほどのこともない。浅井・朝倉の後詰め(援軍)がある以上、戦になっても負けはせぬよ」


「浅井・朝倉の兵は強い。おっしゃるように簡単には負けぬでしょう。しかし、1年、2年と戦が続けば、まず民の力が尽き、軍兵どもも戦に疲れ、気がくじけます。やがては、美濃 斉藤家のときと同じ道を辿ることになる」


 信長の美濃攻めは、まさにそういう戦いだった。美濃 斉藤家は兵の質・量ともに織田家に優り、国力は強大で、戦を挑むたびに信長は負けた。しかし、それでも信長は諦めず、連年にわたって美濃侵攻を繰り返し、間断なく圧力をかけ続けたため、やがて斉藤家の豪族たちの方が先に悲鳴を上げ、織田に靡くようになり、国中で寝返りが相次ぎ、最後にはあれほど強勢を誇った斉藤家がわずか4千の兵と共に稲葉山城に追い詰められ、惨めに敗亡した。

 美濃に接する松尾山にいる三郎左衛門は、信長の美濃攻略をもっとも間近に見ていた男である。その経緯は知り尽くしており、軍略家として信長のやり方に感嘆し、その手腕を高く評価していたし、だからこそ浅井と織田の同盟話が持ち上がったとき、三郎左衛門はこれを強力に支持したのである。

 その意味で、この老人は半兵衛の論旨の正しさが痛いほどに解っており、解っているからこそこれに反論する言葉を持たず、沈黙するより他にどうしようもなかった。


 半兵衛は、それ以上追い詰めようとはせず、


「ところで――三郎左衛門殿は、織田殿が京でどのように迎えられているか、ご存知ですか?」


 ほんの少し声音を優しげに変え、話題を移した。


「・・・・・・・・・?」


「織田殿は、京に住む諸人から神のように尊崇されております。ことに禁裏と幕府御所の威容を整え、その権威を回復したこと、五畿内の関所をなくしたことなどは、織田殿の善政の白眉はくびとでも申すべきもの――京の諸人は暮らしぶりが格段に豊かになり、たとえば公家衆などは公方さまより先に織田殿に挨拶にゆかれるというほどに織田殿を敬っております。織田殿のご威光がこの日の本の隅々にまで及べば、骨肉相食むこの戦国乱世が終わり、戦の種が絶え、たとえば美濃や尾張に暮らす百姓どものように――人々が安んじて豊かに暮らせるような新しき世となるのではないかと――人々はそのように考えている。これは、いわば『天下の声』とでも言うべきものと私は思います。その織田殿が畿内を失うようなことになれば、天下の諸人は浅井・朝倉こそを『悪』と見なし、天下に恨みの声を上げましょう。それらの声を聞きつつ織田殿と戦い続けるというのは、それだけで気が重いことです」


 老人は沈痛な面持ちで何事か考えている。


「京に暮らす者たちは、今さら京が永禄の昔に戻って欲しいとは誰も思わず、このまま織田殿に京のあるじであってもらいたいと願っている。織田殿にとっても、京はできれば失いたくない。だからこそ、岐阜と京との道を塞ぐ浅井殿の離反は、織田殿には痛恨事だったのです。しかし――たとえば堀家が織田に馳走し、この長亭軒と鎌刃の城が織田方となれば、あるいはただ一度の戦をもって美濃と近江の境の地図が変わるかもしれず、浅井は横山城(長浜市堀部町)まで前線を退かねばならぬようになるかもしれません。そうなれば、東山道は確保できますから、たとえ本願寺が兵を挙げたにしても、織田殿は畿内を失わずに済むかもしれません。つまりは、堀家の去就こそが、織田が畿内を失うか失わぬかを左右する、ということですから、これは織田殿にとっても大きい・・・」


「わしに、織田に寝返れと申すのか・・・・!」


「そうではありません。寝返るも寝返らぬもない。そもそも堀の家は、歴とした京極家の根本被官(譜代家臣)。格で言えば堀と浅井に上下の差などはなく、堀にとって浅井は、たかだか近年の盟主というに過ぎぬではありませんか。堀には堀のゆき方があって然るべきであり、浅井に馳走するも織田に馳走するも元から自由。堀二郎殿ご本人が、自らと一族の行く末を見定め、頼まれるべき主を決める権利があるのです!」


 武家とはそもそも大いなる者には従うものであり、そのために寝返りをうち、あるいは裏切りをしても、「自家の生き残り」という究極の選択の末のことであれば、それは「悪」ではないという価値観があった。

 当時の言葉で、そういう裏切りのことを「現形げんぎょう」と言う。

 堀氏が浅井の譜代の家臣であったとしたならまた話は別なのだが、独立した豪族である以上、浅井に就くのも織田に味方するのも堀氏の自由であり、その際、浅井から織田に鞍替えしたとしてもそれは裏切りとは呼ばない。あくまでも「現形」――自家の生き残りのための選択であり、当然の権利の行使だとする考え方である。


「私が申した堀家の大事とは、まさにその事。今こそが、堀家にとっての岐路なのです。幼少の堀二郎殿にご裁断を委ねることがまだご無理となれば、堀家の行く末めでたかるを計るは、堀家の采配を預かる三郎左衛門殿しかござるまい!」


 半兵衛は、ほとんど叫ぶほどの勢いでそれを言った。


 凄い――と、小一郎は思った。

 何が凄いのかよくは解らなかったが、半兵衛のもっている熱のようなものの凄さに圧倒される想いであった。議論とは、舌鋒の鋭さ、その論の巧みさもさることながら、論者の気迫が大きくものを言うのである。


 半兵衛は、堀家の将来をのみ、問題にしている。

 織田が滅びるか、浅井が滅びるかを論じたのも、堀家の将来にとってどちらに就くが良いか、という点を三郎左衛門に解らせるためであり、およそそれ以外に余念がないようにさえ見える。これは、相手を裏切らせる、というような後ろ暗い仕事ではなく、相手の立場になり、その危難を避け、より良い未来を招来するためにひたすら真摯に談じ、心中から忠告し、その選択を援けている、としか見えないのである。


(調略とは、このようなものか・・・・!)


 呆然と、そんなことを思った。


 長い沈黙の末、三郎左衛門は口を開いた。


「わしはのぉ、半兵衛殿・・・・」


 その声音は、小一郎が意外に思うほどに静かだった。


「わしは、浅井長政という大将が、嫌いではない。一本気で義に厚い性格も好きじゃし、武勇もあり思いやりもある見事な武門の棟梁じゃと思う。何より、戦陣で馬を立てた姿が良えな。えも言われぬ風韻があってのぉ。わしが浅井の家来に生まれておったれば、あの殿のためなら喜んで死んだじゃろう。そういう若者じゃ」


「はい」


 半兵衛は頷き、素直に聞いている。


「一方で、堀のお家に対する想いも深い。ご恩を深く蒙ったご先代から若(堀二郎)の守役を仰せ付けられ、産着むつきの頃からそのご成長を見守ってきた。ご先代がお隠れあそばしたとき、今わの際に堀家の後事を託され、それからは若を無二の主と思うて、これまで誠心誠意お仕え申してきた」


「はい」


「武門の意地と、お家の行く末、か・・・・・むごい選択を強いるもんじゃな」


 老人は弱々しく笑った。


「二郎殿は、おいくつに?」


「御年十五じゃ。お心優しくお育ちなされ、近頃は身体つきもずいぶんと逞しくなられた。末は、先代に劣らぬご立派な大将になられよう」


 老人は孫の話でもするように目を細めた。


「十五といえば、もはや頑是無き子供とばかり申しておるわけにはいきません。私の話を、三郎左衛門殿から二郎殿に説いていただけますまいか。浅井への義理を果たすにせよ、織田に馳走ちそうするにせよ――これほどの大事です。三郎左衛門殿のご一存で事を決するわけにも参りますまい」


 半兵衛は、最後は老人にすべての選択を委ねた。堀家のことは、あくまでも堀家で決めてゆくべきであろう。


 沈思黙考を続けていた三郎左衛門は、


秀親ひでちかよ――おぬしはどう思う?」


 横に座っていた男に初めて話を振った。


「拙者には、これといった思案もござりませぬな。すべて、殿のお腹づもりに従うまででござる」


 初めて口を利いたその男は、少しばかり吃音癖があるようだった。

 ついでながらこの人物は島秀親という名で、三郎左衛門の相婿――義理の弟――であり、樋口家では家老を務めている。半兵衛とはもちろん顔馴染みなのだが、小一郎はその名も素性も知らない。ただ、その厳つい武者面むしゃづらと戦場錆びした塩辛い声は、印象深く記憶に残った。


「しかしながら――堀の若殿さまにはこのこと言上せねばなりますまい。老臣おとなの方々とも諮り、よくよくご思案なさるがよろしかろうと存じます」


「・・・・そうじゃな。若はもちろん、老臣たちとも相談せねばならぬな」


 三郎左衛門は深く頷き、


「半兵衛殿よ、話は承知した。お心遣いにも感謝致す。じゃが、必ずしも色よき返事ができるとは限らぬよ」


 と言った。

 半兵衛も頷いた。


「よくよく思案し、是非とも堀家にとってより良き道をお選びくだされ。これは申すまでもなき事ながら、もし織田をお頼りになる分には、織田殿も堀家と二郎殿を粗略そりゃくにはなさいますまい。そのこと、織田殿のちょう厚い木下藤吉朗殿がしかとご承諾くだされておりますし、不肖この半兵衛も、一命に代えてお約束致します」


「乱世のことじゃ。言質げんちも誓紙も当てにはせぬよ」


 三郎左衛門は苦笑した。

 戦乱の世に、約束などというものがいかに心もとないかというのは、この老人は知り抜いている。そんなものよりも、浅井離反のこの局面で、北近江の国境線を守る堀家という存在の重要さのみが問題なのである。


 長亭軒城と鎌刃城に立つ旗が織田色に変われば、北近江の南と東の国境の姿はがらりと変わる。堀家の寝返りは信長を狂喜させるに違いなく、また寝返るとすれば、いま以上のタイミングはない。

 信長にすれば、たとえば織田が北近江に兵を出したときに再び堀家に敵に寝返られ、背後を扼されてはたまらないという恐怖があるから、ここで堀家を粗略に扱い、その感情を損ねるようなことはしないであろう。

 まして、信長が堀二郎を殺すようなことをすれば、それは信長自身の不誠実さとあざとさを世間に喧伝するようなもので、浅井に属する豪族たちは信長の言葉を信じる気をなくし切るであろうし、今後一切、織田家に寝返ろうとする者はなくなるであろう。逆に言えば、堀家を厚遇し、そのことを大いに宣伝すれば、浅井方の豪族のさらなる寝返りさえ期待できるかもしれない。

 そういう意味からも、


(織田殿は、堀の家を厚く遇せざるを得まい)


 ということが、この知恵深い老人には解っているのである。


「いずれにせよ、数日の猶予をいただくとしよう。わしも、お家の行く末につき、とくと考えてみたい」


 老人は――さすがに疲れたのか――瞑目して腕を組んだ。



 会見が終わったとき、すでに日は落ちていた。

 三郎左衛門は城に泊まってゆくよう勧めてくれたが、半兵衛は鄭重にその申し出を断った。

 いよいよ辞去、ということになって、半兵衛と小一郎が広間を出ようとしたとき、


「半兵衛殿よ・・・・」


 背後の老人が半兵衛を呼び止めた。


「はい?」


妙江たえとおになったよ」


 小一郎には何のことやら解らなかったが、それだけで半兵衛には通じたらしい。目を伏せ、


「・・・・ご心中、お察し申します」


 と沈痛な面持ちで言い、その言葉を最後に部屋を出た。


 帰路は、闇である。

 松明を持った小姓に導かれて山を下り、その松明を口取りに持たせ、二人は再び馬上の人となった。


 半兵衛は終始無言だったが、関ヶ原あたりで黒々と闇に静まる松尾山を振り返り、


「お妙江たえ殿と申すのは、三郎左衛門殿の娘御です」


 と言った。


「私があの松尾山の麓に住しておった昔――招かれて、一度、鎌刃の城がある坂田郡に行ったことがありましてね。幾日か三郎左衛門殿の屋敷に泊めて頂いたのですが、そのときに逢いました。当時はまだ5つかそこらの幼子で――人見知りをせぬ可愛い娘でしたな。私にもずいぶんと懐いてくれたのですが・・・・」


「・・・・あぁ――」


 小一郎はすべてを察し、言葉を失った。


「浅井に人質に出したのでしょう。堀が寝返れば、おそらくは――」


 半兵衛も、それ以上は言わなかった。


(半兵衛殿は、このことまでも察しておったのじゃな・・・・)


 調略という仕事のつらさを、小一郎はあらためて思った。




 鎌刃城の堀二郎と長亭軒城の樋口三郎左衛門は、元亀元年(1570)6月中旬に、織田家に寝返った。

 岐阜で兵を休めていた信長は、この寝返りを契機に、本格的な浅井攻めを始めることになる。


 『信長公記』によれば、信長は、元亀元年6月19日に、岐阜を出陣する。



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