第40話 調略(3)
樋口 三郎左衛門 直房という男は、ノミで刻み込んだような彫の深い相貌と人好きする優しげな瞳をもっている。
顎からもみあげにかけて大髭を蓄え、その髭と髪とにかなり白いモノが混じってはいるが、全体として見ると57という年齢よりはいくらか若く見える。筋肉質で背がやや高く、肌は戦場焼けして浅黒い。全身に両手の指に余るほどの戦場傷があるのだが、ことに頬の矢傷と二の腕の刀傷がよく目立っている。
この時代、六十代も間近といえばもう立派な老人だから、子に世を任せて隠居していても少しもおかしくはないのだが、責任感が強く、主家と幼君に対する思い入れも人一倍強かったから、現役を退くことは少しも考えなかったらしい。家老という立場で堀家をまさに一身で背負い、十数年前から浅井にとっての東の最前線である長亭軒城に腰を据え、この守将を務めていた。
身は堀家の重臣であり、浅井家から見れば陪臣(家来の家来)に当たるのだが、主君の堀二郎がまだ幼いこともあって浅井家との交渉事などは三郎左衛門に任せきりであり、たとえば戦が起こったときに主人の采配を預かって堀家の兵を率いるのは常にこの男であったから、堀家の臣としてよりも浅井方の武将としての名の方がむしろ高く、浅井長政からも深い信頼を得ていた。浅井家の中でも、その存在感は軽いものではない。
たとえば、信長が浅井家に婚姻を持ちかけ同盟を打診したときなどは、三郎左衛門は織田家と信長の将来性を見越し、この同盟を強力に後押しし、同盟締結までの下交渉の担当者の中にも名を連ねた。そういう意味では、三郎左衛門は浅井家中では織田贔屓として知られた男であり、信長からの覚えも良いということもあって、織田と浅井が手切れとなって以来、その立場は微妙なものになっている。
もっとも、三郎左衛門自身、性格が大らかで磊落な男であったから、そんな家中の雰囲気などはどこ吹く風といった体である。
「半兵衛殿が参ったか・・・・」
その報せを受けたとき、三郎左衛門は、松尾山の山頂にある本丸御殿――そう呼ぶには貧弱な平屋の屋形であったが――の己の居室で、雲雀の声などを聞きながら家臣の老人と碁を打っていた。
言うまでもないが、即座に半兵衛の来訪の意図を察している。
(わしに寝返れと言う気じゃな)
明敏な男である。織田からその手の誘いが来るかもしれぬということは重々解っていた。
(それにしても、よりによって半兵衛殿を寄越すとは、信長殿もあざといことをなさるものよ・・・)
思わず苦笑した。
斬り殺して首を送り返すというわけにもいかないではないか――
というのも、半兵衛とこの三郎左衛門とは、なまなかな付き合いではないのである。
まだ美濃が土岐家の昔であった頃、浅井は美濃への侵入をたびたび企てていたのだが、最前線の長亭軒城を任された三郎左衛門は常にその先鋒だった。その際、これを防ぐ側の美濃勢の最前線に居たのが菩提山の竹中氏であり、半兵衛の父 竹中重元であった。
その重元が卒中で死んで、病弱な兄に代わって竹中氏の家督を継いだのが、半兵衛である。以来、三郎左衛門は半兵衛と数度にわたって戦場でまみえ、その小部隊戦闘の采配の見事さを実際に目にするうちに、年若い半兵衛に敵味方を越えた好意を抱くようになっていた。
その半兵衛が、わずかの手勢で稲葉山城を奪ったと聞いたときには心からこれに感心し、その武略と知略を惜しみ、なんとかこの男を味方につけるべきだと浅井長政に進言したのも三郎左衛門だったし、長政の意を受けて三郎左衛門自身が使者となって稲葉山城に赴き、半兵衛に対面し、浅井家に加わるよう熱心に説得したりもした。
無論、半兵衛は稲葉山城を浅井に売るつもりなどはなく、慇懃に礼を言ったのみで申し出は断ったのだが、その際、半兵衛の涼やかな人物を間近に見た三郎左衛門はますますこの男が好きになり、半兵衛が斉藤家を退転し、近江に流れたときにはこれを長亭軒城に迎え入れ、浅井長政にも話を通し、松尾山の山麓に住まわせて手厚く庇護までした。
半兵衛は――松尾山が故郷の菩提山に近く、諸事都合が良いということもあって――三郎左衛門の好意を受け、松尾山の麓で庵を結び、晴耕雨読の生活を2年ほどしていたのだが、その間、三郎左衛門は、半兵衛に米塩や衣服の援助をすることはもちろん、何度も城に迎え、ある時は碁を打ち、ある時は季節の花を愛でながら酒食を共にし、あるいは夜を徹して時勢談や軍談に興じたりといった風に友誼を暖め、ほとんど惚れ込むというほどにこの若者に親炙していた。
半兵衛の方も、三郎左衛門の沈毅で思慮深く情けにも厚いというその人柄に惹かれ、叔父にでも接するような気安さで付き合いを重ねていたから、目的もないままその居心地の良さについ長居をしてしまったわけである。
もしその庵に藤吉朗という風変わりな男が訪ねて来なかったならば、あるいは半兵衛はそのまま松尾山に居ついていたかもしれない。
しかし、結局半兵衛は藤吉朗の請いを容れ、三郎左衛門の元を去って墨俣へゆき、その後、浅井と織田は同盟し、さらにさまざまな経緯があって両者は手切れとなった。
図らずも、三郎左衛門と半兵衛は再び敵味方に別れてしまったのである。
(人の世とは思うに任せぬな・・・)
と、この老人は思ったに違いない。
三郎左衛門は、現在のところ織田家に寝返る気などは毛頭ない。半兵衛と逢ったところで色よい返事ができるわけもなく、それならば逢わぬ方がまだマシだと思い、小姓にそう言い含めて追い返そうとした。
しかし小姓は、その半兵衛からの手紙を持って帰って来た。
三郎左衛門とすれば、苦笑せざるを得ない。
「若殿(堀二郎)の大事と申されたか・・・・」
それでは手紙を読まぬわけにはいかず、半兵衛に逢わぬわけにもいかないではないか――
手紙には、流麗と言えるほどの筆致で、
「堀家存亡の危機につき、至急面談したきことあり」
とだけ記されていた。
手紙の内容にほとんど意味などはなく、要するに堀二郎の名を出してそれを家来たちに聞かせ、半兵衛と逢わざるを得ない状況を作り出すことだけが目的だったのだろう。
この老人は、これだけのやり取りでそこまで看取できるほどに知恵が深かった。
(わしの気性を知らぬ半兵衛殿でもあるまいに・・・・)
寝返りをうつ気がない以上、どれほど説得されたところで迷惑でしかないということが、解らぬ半兵衛ではないはずだ。
「・・・広間にお通しせよ。鄭重に、決して粗相があってはならぬぞ」
深いため息をつき、三郎左衛門は小姓にそう命じた。
半兵衛と小一郎は、額から流れる汗を拭きつつ松尾山を登り、長亭軒城へと至った。
小姓に案内されるままに土塁が巡らされた郭をひとつふたつと抜け、やがて山頂の本丸御殿へと辿りつく。
(こんな山に、思いのほか大きな砦があったもんじゃ)
実際、砦の規模や堅固さは、山の下から眺めていたのでは解らない。守備兵は優に千人を超えるだろうし、櫓の数も多く、堀切りと郭の配置も巧妙で、塀や木柵、逆茂木(バリケード)なども物々しく、見るからに厳重である。
(こりゃ、朝倉の手筒山城にも劣らぬ備えじゃな。この城を力で攻めるとすれば、どれほどの人死にが出るか知れんぞ)
手筒山城攻めのときは――越前からの援軍がなかったにも関わらず――織田勢は2千人近い死傷者を出した。もしこの長亭軒城を攻めたとすれば、美濃と近江の国境付近に駐屯している浅井・朝倉の大軍勢が半日もせぬうちに援軍に駆けつけるであろうから、被害は手筒山城のときの比ではなく、勝敗の行方さえ解ったものではない。
(兄者がこの城を調略で落としたがるわけじゃ・・・)
そんなことを、小一郎は思った。
本丸御殿の玄関で足を清め、二人は中へ通された。
案内されたのは、20畳ほどもあろうかという板敷きの広間である。三方の襖が板張りで、陽が入らないから当然薄暗い。上座に灯明があり、円座と煙草盆が置かれている。部屋の中央からやや上座に近いあたりにも二枚の円座が置かれており、その傍の灯明に火が入れられていた。
二人がその円座に腰を据えると、待つほどもなく左手の襖が開き、五十年配の男とそれよりやや若い男が入って来た。髭を蓄えた年かさの男が上座に座り、若い方の男が小一郎らの横やや前方に座った。
「一別以来――」
上座の男が頭を下げた。
「三郎左衛門殿も、ご健勝の様子、何よりです」
半兵衛が答礼し、小一郎もそれに習った。
「少し痩せられたか?」
三郎左衛門が柔和な表情で訊いた。
「こちらで過ごさせて頂いた日々は、穏やかに静かに時が流れ、戦のことなども忘れておりましたゆえ、いささか手足も鈍っておったやもしれませぬ。あの頃よりは、少しは身体も締まりましたかな」
半兵衛も目元に笑みを浮かべた。
「して、そちらは?」
三郎左衛門の視線が小一郎に移った。
「三郎左衛門殿に隠し立てをするわけには参りませんから、正直に申し上げましょう。織田家で一方の大将を務められる木下藤吉朗殿がご舎弟、木下小一郎殿でござる」
「ほう・・・」
その瞳が、柳葉のように細まった。
「木下殿とは、くるくるとよう働く御仁であられるそうじゃな。金ヶ崎でのご活躍と共に、そのお名は聞いておる。で、その木下殿のご舎弟殿をご同道とは――半兵衛殿、まさかこのわしに、織田に寝返れと申すつもりではなかろうの?」
無駄なことはするな、と釘を刺すような口調である。
しかし、半兵衛は己のペースを少しも崩さない。常の如くゆったりとした口調で、
「いやいや、三郎左衛門殿のご気性は、この半兵衛、多少なりと解っておるつもりです。そのような無礼で無粋な用件で参ったつもりはありませんよ」
と言った。
「ならば、早速にご来訪の向きを聞かせてもらいたいもんじゃな。いろいろと物語りしたきこともござるが、年寄りは気が短くてイカン」
三郎左衛門は、顎をかくようにして笑った。
「私の用とは、その『いろいろと物語りする』ところにこそあるのです。長々と話を聞いてもらわねば、私の用は済みません」
「堀家の大事とやらを知らせに来てくだされたのではないのかの?」
「その堀家の大事をお解り頂くために、多くの言の葉を費やさねばならぬ、ということです」
三郎左衛門は軽く頷き、腕を組んだ。
「ならば、くれぐれも気をつけて語ってくだされよ。半兵衛殿の口から漏れた言葉の次第によっては、お二方の首、不本意ながら頂戴せねばならなくなるかもしれんでな」
小一郎は表情を消し、視線を床に投げてひたすら聞き入る姿勢を取っていた。声でも出そうものなら、内心の動揺がそのまま出てしまいそうであった。
半兵衛は、こんなときでもやはり泰然としている。その声音は、普段とまったく変わらない。
「さて、どこから話を始めたものか・・・・・」
半兵衛は扇子を握り、パチパチと開け閉めを始めた。
「やはり、まずは此度の浅井殿の離反のことから聞いて頂く――」
「待たれよ」
と、三郎左衛門はその半兵衛の出鼻を挫くように語尾に声を重ね、大きく広げた手を突き出した。
「離反離反と申されるが、そもそも先に約定を破り、此度の浅井・織田の手切れの原因を作ったは、織田殿の方じゃぞ。浅井は、朝倉を攻めぬを条件に織田と手を結んだ。そのこと、身命に誓っても偽りない。つまりは織田殿が約を破ったときに、浅井と織田の盟は切れておるということじゃ。で、ある以上、浅井が年来の友誼に従って朝倉を援けるは道理。これを離反、裏切り、寝返りなどと言われるのは、浅井方のわしとしては心外じゃな」
「お気持ちは解りますが、そのお言葉は、正確ではない」
半兵衛が言うと、三郎左衛門は訝しげに小首を傾げた。
「織田と浅井の盟約――浅井の側の条件は、『織田がもし朝倉を攻めるときは、浅井に相談し、その了解を得る』というものであったと聞いております。『未来永劫、朝倉を攻めてはならぬ』というようなものではなかったはず」
「それは――その通りじゃが・・・しかし、どういう違いもあるまい」
「いえ、大違いですよ。織田殿は、浅井長政殿に対し、朝倉攻めの了解を求めた、と私は聞いております。そして長政殿は、織田殿にその黙許を与えられた。織田・朝倉のどちらにも組せぬ、という約定をしたのです」
「・・・まことか?」
これは、三郎左衛門にとっても初耳であったらしい。明らかに驚いている。
「長政殿は、織田殿と共に乱世を歩んでゆかれるおつもりであったのです。しかし、長政殿の父なるご隠居殿(久政)はこれに反対し、朝倉への義理を立てようとなされた」
浅井親子の不和の噂は、織田家にいる小一郎あたりの耳にまで届いている。浅井家にいる三郎左衛門が知らぬはずはあるまい。
「私は浅井の大殿(久政)のことは知りません。どのようなお方であられるか、三郎左衛門殿がこそ、よくご存知でありましょう。しかし、もし事実が三郎左衛門殿が申されるようなものであり、織田殿が浅井に無断で朝倉攻めを始められたのならば、浅井長政殿はただちに同盟の誓紙を突き返し、織田と断交して、堂々と兵を駆り集め、自ら陣頭に立って敦賀へ向かわれるべきであったと思います。長政殿がそれをしなかったということが、このあたりの事情を如実に表していると言えるのではないでしょうか」
三郎左衛門は苦々しく表情を歪めた。浅井久政という男に対して何かしら思い当たるフシがあったのか、半兵衛の論旨に真っ向から反論できるだけの言葉を持たなかったのか――あるいはその両方であったのだろう。
「半兵衛殿の申されることは、証拠が何もござらんな。それは織田殿が自らの破約を糊塗するために言いふらさせていることかもしれぬ。よしんばそれを信じたにしても、浅井と織田がすでに手切れとなったという現実に何も変わりはない。誰に非があったにせよ、もう過ぎたことじゃ」
「いかにも左様でござる。浅井に浅井の言い分があるように、織田にも織田の言い分がある。これは水掛け論になるだけで、済んだことを言い募っておっても栓ないこと。今は越し方(過去)より、行く末(未来)の事をこそ語るべきでしょう。そのために、私はここに参ったつもりです」
「行く末――か・・・・」
「左様。肝心なのは、今日と言わず、明日と言わず、むしろ五年先、十年先の事であると思うのです」
半兵衛が言葉を切ると、ふと気付いた、という風に三郎左衛門が小姓を呼び、茶を持って来るよう言いつけた。
座の緊張が、急に緩んだ。
息をすることさえ忘れるほどの緊張感の中で、全身を耳にするうようにして二人のやり取りに聞き入っていた小一郎は、我に返ったように大きくひとつ息をついた。
(寿命が縮むような仕事じゃな・・・・)
背中一面に、冷たい汗をかいていた。
茶で喉を潤した半兵衛は、怒涛の如く言葉を紡ぎ始めた。
その論旨は、浅井は遠からず滅ぶ、というものである。
「百姓が槍を持たぬ織田家の強みは、年中戦を続けることができるということです」
考えてもみなされよ――と、半兵衛は畳み掛ける。
「浅井・朝倉はもちろん、天下の大名のことごとくは、百姓どもを足軽として動員し、戦をしております。つまり、田植え、稲刈りの時期は戦ができず、それどころか戦をすればするだけ百姓たちは倦み疲れ、田畑は荒れ、作物の取れは悪くなり、大名の力が細ることになる。これに対して織田家は、1年でも2年でも戦を続けに続けることができ、どれほど戦を続けようとも民の力が衰えることはなく、それどころか力を太くしてゆくことができる。日に日に織田は強くなり、逆に浅井は、日を追うごとに戦をし続けることが苦しくなり、息が続かなくなる。朝倉殿などは、遠く越前から戦のたびに近江まで出張って来ねばならず、その戦費の負担はさらに重く百姓たちにのし掛かることになりましょう」
たとえ今、実力が拮抗していようとも、戦を続ける限り織田の力は日に日に大きくなり、浅井・朝倉の力は日に日に衰える。この拮抗状態が長く続くことはあり得ず、やがて両者の勢いの違いがそのまま噴出し、なぎ倒されるようにして浅井・朝倉は潰れる、というのである。
「おそらく1年、2年は保ちましょう。しかし、5年先には浅井・朝倉は共に世からなくなっておるやに思います」
「なんの。先に滅ぶは、むしろ織田の方じゃ。織田殿とて、5年先まで生きてはおられぬよ」
三郎左衛門もなかなかの論客であり、時勢に目の利く知恵者でもある。織田家が置かれた状況をかなり客観的に掴んでいた。
「織田殿は、少々派手に暴れすぎ、敵を作りすぎたわ。北は浅井・朝倉、南は六角、西からは三好三人衆に加え、やがて石山(大阪)の本願寺が立つ」
と言ったから、小一郎は仰天した。
「本願寺・・・!」
この情報には、さしもの半兵衛も顔色が変わっている。
「半兵衛殿も知っての通り、わしは父祖以来の一向門徒でな。挙兵に向け、いま着々と支度が進められておること、耳に入っておる」
摂津石山に本拠を据える本願寺というのは、強大な武力と財力とを有したこの当時最強の宗教勢力で、摂津、加賀、伊勢、紀伊などを中心に全国に百ヶ所を越える拠点を持ち、数百万にも及ぼうかという膨大な信者を抱えている。その動員力というのは、軽く見積もっても全国で数十万という規模になるだろう。
これまでの本願寺の動きからすればにわかに信じられない話だが、事実とすれば大変な事態であった。
本願寺が奉じる浄土真宗の教えには 「王法為本」 というものがあり、これは 「世俗の権威(土地の統治者)に従い、平和と秩序を助けることが仏法の道である」 というような考え方で、本願寺の法主である顕如も、全国の門徒たちに武力による蜂起を勧めず、これまではむしろそれを抑制しようとしてきた。信長が上洛したときも、顕如は自ら京まで足を運び、信長に挨拶し、織田家との衝突を避けようとしたし、信長から5千貫という巨額の矢銭(軍用金)の供出を求められたときも、これを二つ返事で受け入れ、織田家に対して恭順の意を示していた。
しかし、信長の方は、この本願寺の潜在的な武力を早くから見抜き、これを怖れていた。
戦国のこの時代、各地で起こる一向宗の一揆ほど領主を悩ませたものはない。
たとえば加賀では門徒衆の一揆によって国主の富樫氏が倒され、加賀一国がまるまる一向宗の共和国のようになっているし、三河で起こった一向一揆では徳川家が崩壊しかけるほどの大騒動に発展した。越後の上杉謙信や越前の朝倉氏の背後を常に脅かしていたのも加賀の一揆勢力であり、長島の一向門徒のおかげで信長もずいぶん動きが制限されたりした。
一向宗は、庶民から熱狂的に支持されることによって戦国期に爆発的に普及した宗教である。ことに百姓たちは大半がその信者と言ってよく、つまり本願寺を敵に回せば、各地に散らばる一向宗の寺院がそのまま敵の拠点に変わるということはもちろん、領国の民衆、家来などで一向宗を信心する者たちまでが軒並み敵に回ってしまうかもしれない、ということなのである。
領国を支配する大名たちにとって、これほど厄介な事態はない。
このため信長は、なんとかこの本願寺の力を弱体化させようと躍起になっており、信者の動きを逐一織田家に報告するよう求めたり、勝手に他の大名家と結びつくことを禁じたり、本願寺が門徒に動員をかけるときは織田家の許可を求めるよう命じたりした。
しかし、これらの圧力は当然ながら本願寺側の反発を生み、上層部の者たちは織田家と信長に対する悪感情を肥大化させていた。
そこに、決定的な事態が起こる。
越前征伐に入る直前の時期――信長の威勢がもっとも盛んだった頃――信長は、本願寺に向け、本拠である石山御坊からの退去を命じたのである。
石山の地は、後に大阪城が築かれることでも解る通り、天下の府となるだけの地勢的な条件を備えている。信長は、石山を本願寺から取り上げて、そこに西日本侵攻のための策源地を築こうとし、同時に、本願寺の力をごっそりと削いでしまおうとしたのだ。
当然だが、この信長の要求は、全国の一向門徒たちを激怒させた。
下からの突き上げに抗し切れなくなった本願寺顕如は、ついに信長との武力対決を決意し、このときから二ヶ月ほど後の元亀元年8月に挙兵する。全国の門徒に「仏敵・信長を討て」と聖戦蜂起を呼びかけ、「この戦いに参じない信者は破門する」とまで宣言し、足掛け十年にわたる徹底抗戦へと突入してゆくのである。
本願寺は、これから信長にとって最大にして最強の敵になる。
もしこの話が本当なら、滅ぶのはむしろ織田家ではないか――
と小一郎あたりが思ったのは言わば当然で、浅井が敵対するという最悪のこの状況で、本願寺に挙兵などされてはたまったものではない。近畿一帯の百姓たちは織田家のための動員に応じなくなるばかりか年貢を納めることさえ止めてしまうかもしれず、あるいは槍を逆様に持ち替えて一斉に蜂起するかもしれず、織田家の近畿支配はその基礎からズタボロになるかもしれなかった。
「半兵衛殿よ、おぬしが織田家に身を寄せた理由――わしは解らんでもない」
半兵衛の論鋒にやや押され気味だった老人は、見るからに余裕を取り戻していた。
「己の力を天下に向かって縦横に振るってみたいという欲は、能ある者であればあるほど、押さえきれぬものでもあろうわい。古今にも稀なる軍略の才をもって生まれた半兵衛殿じゃ、あのまま世に埋もれさせるはあまりに惜しいと思い、織田にゆくこと、わしは反対せなんだ。織田殿は、血縁門閥に関係なく、たとえ卑賤の出であっても能ある者から抜擢し、大きな仕事を与えてくださる大将じゃと聞いておったでな。そこな木下殿の兄殿も、足軽小者から累進に累進を重ねて瞬く間に今の地位にまで昇りつめたと言うしの。そういう織田家であればこそ、先々に期待を抱く気持ちも解らんではない。しかし――」
と、三郎左衛門はその唇を舐めた。
「しかし、織田殿は、あまりに短い間に大きゅうなりすぎた。大きな波が起これば、その返しもまた大きいものじゃ。いま、天下の諸侯は、ことごとく織田殿に反感をもっておる。これらがやがて次々と手を結び、四方から織田家を潰しに掛かれば、いかに織田殿が鬼神でも、敗亡は免れぬところじゃろう」
かつて半兵衛が予見した、もっとも避けるべきシナリオである。
そしてこれこそが、三郎左衛門が織田家に靡く気になれぬ最大の理由でもあった。滅びるであろう織田に寝返ったところで、何一つメリットはないのである。
「のう、半兵衛殿。浅井に来いとまでは言わぬ。じゃが、織田家にはどうやら先がない。見切り時は間違わぬが御身のためと思うぞ。聞いたところによれば、幸いまだ半兵衛殿は、織田家の客分――歴とした臣であるわけでもないようじゃしの」
三郎左衛門はそこで言葉を切り、傍らに置かれた煙草盆を引き寄せると、煙管に器用に葉を詰め、深々とそれを一服吸い、紫煙を吐き出した。
(こりゃぁダメじゃ・・・・・)
小一郎は絶望的な気分で思った。
降誘するために逢った三郎左衛門から、このような言葉を吐かれるようでは、どうにもならないではないか――
小一郎には、三郎左衛門の「織田滅亡論」に反論できるような言葉がひとつも浮かばなかった。
その信念と確信を打ち砕かない限り、この男はテコでも動かないだろう。
小一郎は、気遣わしげに半兵衛を見やった。
ところが――
「残念ですが、お考えが違います。織田殿が死ぬようなことでもない限り、織田家は滅びはしませんよ」
半兵衛の双眸に浮かぶ光は、まだ少しも衰えてない。