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王佐の才  作者: 堀井俊貴
39/105

第39話 調略(2)

 元亀元年(1570)5月の末。


 小一郎は、むせるような草いきれを嗅ぎながらゆったりと馬に揺られていた。

 先導するように半兵衛が、小一郎のわずかに前で駒をうたせている。供といえば、それぞれの馬について歩く口取りがいるのみである。


「良い日じゃのぉ」


 小一郎はすげで編まれたかさひさしを少し上げ、のんびりとした口調で言った。

 旧暦の5月末といえば新暦の7月初旬にあたるから、季節はすでに夏である。日差しはきついが風は心地よく、遠乗りには絶好の日和と言えぬこともない。見晴るかす伊吹の山並みは、薄い毛状雲に彩られた群青の空を戴きながら濃い緑に輝いていた。


「のどかなもんですなぁ」


「えぇ・・・・」


 半兵衛は、細身の大小を腰に差し、深編み笠を被り、水色の小袖に袖無し羽織、伊賀袴という一見すると浪人風の出で立ちである。岐阜を出立したときから不思議なほどに口が重く、それを気にした小一郎がときどき意味もなくこうして話し掛けたりするのだが、今日は会話がどうしても弾まない。


(調略仕事ちゅうのは、やはり半兵衛殿でも気が重いのか)


 半兵衛は、長亭軒城の樋口三郎左衛門を降誘するべく松尾山へと向かっている。小一郎は、藤吉朗に命じられ、その名代として半兵衛に随員しているのである。


(気が重いというなら、わしも同じなんじゃがのぉ)


 小一郎は、調略などという仕事は初めての経験である。藤吉朗の仕事を間近に見ては来たが、蜂須賀小六にせよ東美濃の大沢康基にせよ、あるいは「西美濃三人衆」などの大物に関しても、降誘した武将に会うのはもっぱら藤吉朗がすべて話をつけた後で、交戦中の敵将の元にのこのこ出向いて行ったなどという経験はないし、それで身の危険を感じたような体験ももちろんない。


(怖い仕事をやるハメになったもんじゃ・・・)


 半兵衛が居てくれるから何とかなるような気もするが、たとえば出向いたところを捕らえられ、有無を言わさず斬られる、などということさえ考えられなくもないわけで、「危なそうな石橋はそもそも渡らない」という性格の小一郎からすれば、決して喜ばしい仕事ではない。


 しかし、考えてみれば、これまでは常に藤吉朗が身体を張ってそれをやってくれていたわけで、主君に危ない橋を渡らせ、臣下の小一郎ばかりが安全な場所で結果を待っている、というのもおかしな話ではあり、それに関して後ろめたさや申し訳なさ、己の不甲斐なさといったものも常に感じ続けていたのである。

 身を捨てても藤吉朗を守るのが自分の仕事であり、役割である以上、藤吉朗に危ない橋を渡らせるよりは、自分が進んでそれを渡るのが当然である、というような想いが小一郎にはあり、だからこそ藤吉朗の名代に指名されたときには一も二もなく即決で話を請けたのだが、このあたりの小一郎の気持ちというのは、なかなか複雑なものなのである。


 ところが、半兵衛の無口の理由というのは、小一郎のそれとはかなり違ったものであったらしい。

 小一郎がそれと気付いたのは、墨俣砦の跡地から少し離れた上流の浅瀬で揖斐川を渡り、対岸の土手に上がったときだった。


「あぁ・・・・」


 先に土手に上がった半兵衛が、馬の足を止めた。

 その横に並びかけた小一郎は、顎を上げ、思わず声を呑んだ。

 見渡す限りの水田の稲が、青々とした色のままで根こそぎ刈り倒され、田の水にふわふわと浮いている。普段なら田の草取りなどに精を出しているはずの百姓たちの姿はどこにも見当たらず、黒々と焼け残った集落の残骸があちこちで無残な姿を晒していたのである。


「・・・先日攻め入ったという浅井・朝倉の――」


 仕業であろう。

 この揖斐川から岐阜城までは、わずか3里(12km)ほどしか離れてない。敵が美濃まで攻め入ったという話は話として聞いてはいたが、岐阜のこんな間近まで迫っていようとは思ってもみなかった。

 赤坂あたりの村々は、ほとんど壊滅という惨状である。

 集落に近付いて行くと、家を焼かれた百姓たちが必死になって焼け跡の掃除をしている姿が目に付いた。ともかくも残骸を整理しないことには雨露をしのぐ掘っ立て小屋さえ建てられない。彼らは泣くでもなく、憤るでもなく、ただ表情を消し――小一郎らを無視するかのように――黙々と作業を続けていた。


 復旧に汗を流す百姓たちの生命力に小一郎は救われるような想いを持ったが、やはり大きな遣り切れなさが残る。


(なんちゅう愚行や・・・・)


 作物は、天の恵みである。それをこのように刈り捨て、焼き捨てるなどということは、天に対する冒涜ではないかとさえ思う。

 確かに、村を焼き、青田を刈り、あるいは敵の収穫を略奪するというのは戦になればどの大名でもやる当たり前の行為だし、小一郎自身、藤吉朗から命じられ、それを配下にやらせたこともある。しかし、小一郎は元百姓であるだけに、何ヶ月も掛かって丹精込めて育てた作物を戦でめちゃくちゃに踏みにじられた百姓たちの憤懣ふんまんと悲哀が痛いばかりに解るのである。


 半兵衛と小一郎は、痛ましげな表情のまま馬を進めた。

 徹底的に青田刈りが行われた田を左右に見ながら、西へ西へと向かう。

 大垣の北部――赤坂から垂井あたりの集落と田畑は、ほぼ全滅だった。


「小一郎殿、少々寄り道をしたいのですが、よろしいですか?」


 揖斐川に流れ込む相川の土手に沿って、半兵衛は北西の山間を目指した。


(この辺りは、半兵衛殿の故郷ではないか・・・)


 小一郎は、この垂井から関ヶ原にかけての地域が竹中氏の領地であったことを今頃思い出した。

 生まれ育った故郷を、ここまで滅茶苦茶にされたのである。半兵衛が暗澹あんうつとした気分になり、無口になるのも、思い合わせてみれば当然であったのだ。


「半兵衛殿の城に向かわれるのですな?」


「私は家を捨て、城を捨てた身ですから、今は弟の城です」


 半兵衛は首を振り、やんわりとそれを訂正した。


 竹中氏の城は、垂井を北から見下ろす菩提山の山頂に築かれている。

 しかし、普段から不便な山の上で暮らしているというわけではない。

 城は戦が起こったときに篭るいわゆる「詰め城」で、竹中氏とその重臣たちは平素は菩提山麓の岩手村に屋敷を構え、そこで暮らしているのである。


 いや、正確には、暮らしていた、と過去形にするのが正しい。

 小一郎らがそこに到着したとき、一重の空堀と土塁で囲まれた竹中氏の居館は無残に焼かれ、すでに跡形もなかった。徹底した略取が行われたらしく、周囲の武家屋敷や町屋もみな焼かれてしまっている。


 その瓦礫の中で、多くの人々が復旧作業に精を出していた。


「おぉ、兄上ではないか!」


 小具足に鉢巻という姿の青年が、数人の男たちの中から大声で呼びかけてきた。バネのような筋肉をもっているらしく、焼け焦げた柱の林をすり抜け、いかにも機敏にこちらに向かって駆け寄って来る。


「久作も帰っておったのか」


 半兵衛は馬から降り、青年に歩み寄った。

 小一郎も、それに倣う。


「小一郎殿、我が弟の久作でござる」


 背後の小一郎にまず紹介し、


「こちらは木下藤吉朗殿のご舎弟の、木下小一郎殿じゃ」


 小一郎を紹介してくれた。


「お話はかねがね伺っておりました。兄上がお世話になっております」


 青年は笑顔を浮かべ、快活に頭を下げた。


「いやいや、とんでもない。わしも我が兄も、半兵衛殿には世話になりっぱなしです」


 小一郎は如才なく挨拶を返した。


 竹中 久作 重矩しげのりは、このとき24歳。半兵衛の実の弟で、「稲葉山城乗っ取り事件」のときは城内で仮病を使い、半兵衛ら主従を城内に引き入れるという大役を果たしたことでも家中で有名になっている青年である。

 半兵衛よりやや上背があり、胸板は厚く腕も太く、いかにも頑健そうな身体つきをしている。切れの長い目と筋の通った鼻はやや半兵衛に似ているが、無精ひげを生やし、陽によく焼けたその相貌は、肌が白く学僧然とした佇まいを持つ半兵衛とは対照的に野生動物のような精悍さを備えていた。


 久作は、信長の美濃取りのときに信長に許されて織田家に帰順したのだが、その爽やかな面つきが信長に気に入られて馬廻り(親衛隊)に取り立てられ、戦場では常に本陣にあって信長の身辺警護などを務めている。


「見よ、見よ、半兵衛さまが帰っていらしたぞ」


 久作の声で半兵衛に気付いたのか、辺りの男女が数十人も群れるように周りに集まってきた。


「おぉ、誰某、無事であったか」


「誰某も変わりないな。何よりじゃ」


 などと、武士はもちろん、見知った百姓にまで半兵衛は気さくに声を掛けた。


 老臣などから聞いた話では、浅井・朝倉連合軍がこの辺りに焼き働きをしたとき、竹中氏の武士たちは久作に従ってほとんどが出陣中で、留守を守っていたのは老人と女・子供ばかりであったらしい。竹中氏の老臣たちは領民までを菩提山の城に入れて篭城したのだが、幸い敵は、町屋に火をかけ、田畑を刈り倒しただけで城攻めをする様子もなく、すぐに引き返していったのだという。

「西美濃三人衆」を筆頭に西濃地方の豪族たちは根こそぎ信長に従って越前征伐に参加していたから、浅井・朝倉の軍勢とまともに決戦できるだけの兵力は美濃にはなかったのだが、それでも各地の小城をいちいち攻め潰していては日数が掛かるし、その隙に信長の本隊が近江から美濃へ迫って来ぬとも限らなかったから、敵も深入りは避けたのだろう。


 ちなみに、このとき竹中氏が取った措置を知った織田家中には、「敵に一矢も報いず城に篭っておるとはいぶかしい。菩提山は浅井に内通しておるのではないか」などと批判する者もあったらしいのだが、信長はそれらの意見を封殺し、


「此度の菩提山の成し様は、まことに分別ある仕儀と申すべきである」


 と、かえって竹中氏の老臣たちを褒めたという。


「皆みなの命が無事であったのは何よりだが――しかし、この惨状では暮らしが立つまいな」


 半兵衛が心配げに言うと、


「信長さまから2千石(5千俵)もの合力米を頂戴したで、城の蓄えも加えれば、半年や1年は飢えの心配をすることはない。とりあえず今年の年貢と諸役しょえき(雑税)は免除にし、村々が元の姿を取り戻すまで我らも力を尽くすつもりじゃ」


 久作は淀みなく言い切った。

 その言葉に深く頷き、ようやく半兵衛は眉を開いた。


「それを聞いて安堵した。久作、立派になったな」


「いつまでも子供扱いなさるな。わしもそれくらいの才覚はできる」


 久作は照れ臭そうに笑った。

 このいかにも健康そうな心根をもった若者がいたからこそ、半兵衛は後顧を憂うることなく安心して城を出る気になったのであろう――と、小一郎はそんなことを思ったりした。


 岩手村を離れ、小一郎と半兵衛は再び馬上の人となった。


「この戦国乱世を鎮め、百姓が泣かぬ世を作るには――大いなる力をもった者が世を統べてしまう他、方法はありませんね」


 ゆったりと馬を歩ませながら半兵衛が言った。


「数多の英雄豪傑がこの日の本にそれぞれに割拠し、領地を奪い合い、戦をし続ける限り、この世が治まることはない――このまま足利の世が続いたのでは、いつまで待っても戦はなくならない――解ってはいたのですが、私はやはり、半端者ですね。こういうことでもない限り、尻に火がつかなかった・・・」


「・・・・・・?」


 馬を並べる小一郎には、半兵衛が何を言わんとしているのかが解らなかった。


「岐阜さまに、天下を取ってもらわねばならぬと、ようやく思えるようになりました。木下殿をたすけることで、私も岐阜さまの天下取りのために微力を尽くすことができるなら、仕事の好悪などを言っている場合ではない。私は私のできることを、やらねばなりませんね」


 半兵衛は厳しい眼差しを前に向けたまま、そう言葉を続けた。

 それは、自らに言い聞かせているかのように、小一郎には見えた。




 美濃と近江の国境――伊吹山地と養老山地の隙間を突き通っている街道は、古くから東山道と呼ばれている。


 東山道は東海道と並んで中日本の大動脈と言うべき基幹道路で、江戸期以降は中山道と改称され、「五街道」の1つにも数えられる。江戸の日本橋から近江の草津までの129里――69ヶ所に宿場が置かれ、天下普請の一環として道幅が広げられ、土地土地の大名たちによって整備と管理がなされた。


 もっとも、江戸が大都市となるのはもっぱら豊臣秀吉の天下統一とそれに伴う徳川家康の関東入部の後のことで、戦国のこの時代には広々とした低湿地に太田氏の田舎城があったという程度であり、東山道にしても主要街道として整備されていたわけではもちろんなく、律令時代から使われている古道が細々と繋がっているというに過ぎなかった。近畿より東の地域では平野部でも馬2頭がやっと並べるほどの道幅しかなく、信濃や甲斐あたりの山地では樵道のような細々とした場所さえあり、現代人の我々が想像する「街道」という姿からはほど遠い。


 美濃と近江の国境は、伊吹山地と養老山地の山々によって縁取られ、関ヶ原から醒ヶ井に抜ける東山道があたかも回廊のようになっている、ということは今までにも何度も触れてきた。


 律令の時代には、近畿の人々はこの関ヶ原に関所を設け、東山道を遮断することによって東国からの蛮夷の侵入を防いだ。

 いま、浅井・朝倉連合軍は、この地に大軍勢を配することによって、信長率いる織田軍の侵入を防ごうとしている。


 養老山系の最北――関ヶ原の南西にあって、東山道を頭上から睨み下ろしている山塊が、松尾山である。標高は293m。その山頂には、長軒亭城という浅井方の砦が築かれていた。


 長亭軒城は――現在まで残っているその遺構を見れば一目瞭然だが――広大な縄張りを持つなかなか堅固な山城で、山頂の尾根を利用して大小のくるわが築かれ、それぞれの郭の周囲は1mを越す土塁が巡らされており、要所に配された堀切り、木柵なども厳重で、美濃と近江の国境線においてこれほど大きな防御拠点もない。

 応永年間(1394〜1428)に美濃の守護代であった富島氏によって築かれたとされるのが定説で、斉藤道三が美濃を手に入れる前に浅井氏がこれを奪い、美濃侵攻の橋頭堡として改修し、浅井方の堀氏の兵が駐屯して守っていた。


 余談になるが、この松尾山――長亭軒城――は、後年、「関ヶ原の合戦」が行われた際、合戦の最中に西軍を裏切って東軍大勝の決定的な要因を作った小早川秀秋が陣所を据えた場所で、むしろそのことによって後世まで有名になる。

 西軍の事実上の総帥であった石田三成は、西軍の旗頭である毛利輝元が関ヶ原に参陣した場合、これを長亭軒城に迎え入れ、この城をもって西軍の本拠地とするよう予定していたらしい。関ヶ原を一望に見渡す要衝に位置し、しかも敷地面積が巨大で十分な兵の収量能力を持つことから、東軍の西進を阻む最大の要塞になるはずだったのである。

 しかし、毛利輝元は結局大阪城を動かず、関ヶ原表には出陣しなかったから、その代わりに金吾中納言 小早川秀秋が1万5千の兵と共にここに座ることになり、この小早川秀秋の不戦と裏切りが関ヶ原の一戦の趨勢を決め、徳川家康の天下取りに決定的な役割を果たすことになる。


 そういう意味では、なにやら「裏切り」に縁の深い城であると言えぬこともない。



 半兵衛と小一郎は、垂井から南下し、東山道をとって関ヶ原に入った。


 遠く伊吹山の山麓から湧き出た藤古川が、関ヶ原を割って南東に流れている。今年は空梅雨であったためか水量は見るからに少なく、乾いた石が並ぶ白々とした河原には川遊びをする子供たちの姿があった。近くの村落に住む者たちであろう。

 半兵衛はその藤古川を渡り、松尾村の集落に入ると、山麓にある古寺に寄って古馴染みの住職に挨拶し、そこに馬を預けた。そこからは小一郎を伴って徒歩で松尾山の山裾を巡り、城の大手道と思われる山道を登った。


 一丁ほども登らぬうちに、最初の木戸にぶつかる。

 粗末ながらも櫓門があり、櫓の上の兵が2人、矢をつがえた弓をこちらに向けているのが見えた。さらに近寄って行くと、木柵越しに槍をもった数人の雑兵が二人を訝しげに眺めていた。


「なんじゃおのれらは!」


「見かけぬ風体なりじゃな。敵か!?」


 男たちが口々に騒ぎ出し、番小屋からさらに数人の兵たちが駆け出して来て、木柵の向こうはたちまち十数人の人数になった。


「それより寄るな! 寄れば射殺すぞ!」


 櫓の上で弓を引き絞った兵が叫んだ。

 その矢は、言うまでもなく、半兵衛と小一郎とに向けられている。

 小一郎は肝が縮むような想いがした。


 半兵衛と小一郎は、木戸から十間(約18m)ほど離れたところで足を止めた。すると、当世具足に鉢巻を締めた組頭らしい男が櫓の上に現れ、


「何者か! まず姓名を名乗られよ!」


 大音声の銅鑼声で威嚇するように言った。

 半兵衛は笠を取り、


「竹中半兵衛と申す。樋口三郎左衛門殿にお逢いしたい」


 顎を上げて大声で応えた。

 その言葉を聞き、組頭の男の眉が奇妙に動いた。


「ん? ・・・竹中半兵衛殿と申されたか? 先年まで、当城の裏手の庵に身を寄せておられた、菩提山の竹中殿か?」


「左様。その節はご城代の三郎左衛門殿にもいかいお世話をかけ申した。本日は、久方ぶりに故郷まで帰ったついでに、三郎左衛門殿にかつての厚遇の礼を言い、近頃の無沙汰も詫び、久闊を叙したいと思い、こうしてまかり越しましたる次第。どうかそのようにお取次ぎ願いたい」


 半兵衛は堂々と来意を告げた。


「竹中殿は、昨今は岐阜で織田家の禄を食んでおるやに聞いておるが、もし左様ならば、『織田からの使者は追い返せ』と我ら主より命ぜられておりまするによって、この場をお通しするわけにも取り次ぐわけにも参らぬ。そのことは如何に?」


「織田さまの元におるは事実に相違ござらぬ。が、それは浅井殿の元に身を寄せ、当城にご厄介になっておった時と同じく、食客というようなものでござる。織田さまからはいくばくかの合力米を頂いてはおりますが、家禄を頂戴しておるというわけではない」


 この点は、半兵衛は嘘をついてない。

 半兵衛は信長との対面を済ませ、形式上は織田家の臣ということになってはいるが、信長から禄を受けることはあくまで固辞し、毎月10俵ほどの合力米(年53石)のみを受け取っているという状態なのである。実質は藤吉朗の家来のようになって力と知恵とを貸してくれているが、客観的にその状態だけを言うなら、織田家の食客という表現がもっとも真実に近い。


「本日は、ただの半兵衛として、久方ぶりに三郎左衛門殿のお顔を拝見したいと思い、参上したまででござる」


 半兵衛の言葉とその涼しげな顔つきを見て、組頭の男は明らかに当惑したようだった。主の三郎左衛門と半兵衛が友垣のように仲が良かったというのは、男もすでに聞き知っていたのだろう。己の判断で事を処するのは分を越えていると思ったのか、


「ともかく、わしの一存ではお通しするわけには参らぬ。城に使いを走らせ、主の意向を伺って参りますまで、暫時お待ち願いたい」


 と言ってきた。


「お役目柄、いかにも左様でござろう。されば、お返事を頂けるまでこの場で待たせてもらいます」


 半兵衛は小一郎を誘い、道脇の木陰に入ってそこに佇んだ。


 組頭の男の好意で、二人に床机が貸し与えられた。

 使者が山頂の城に駆け上って話を通し、返事をもらって麓の木戸に戻ってくるまで半刻(一時間)ほどは掛かるだろうから、そのまま立たせておくのも悪いと思ったのだろう。まして客は、己の主がかつて賓客のように遇していたという半兵衛である。粗略に扱って後で叱られてもつまらない、と考えたのかもしれない。


 半兵衛は男に慇懃に礼を言い、小一郎にもそれを勧めた。


「これは有難いですなぁ」


 松尾山に登るとき、半兵衛は小一郎に、「私が話しかけたとき以外は一切口を利かないでくれ」という意味のことを言った。小一郎は従順にその指示に従っていたから、山に入ってからこのときまで、一度も口を開いていない。


 真夏の太陽はすでに中天を越え、辺りは蝉の声がかまびすしく響いている。

 半兵衛は、ゆったりと扇子を使いながら、吉報を待った。

 小一郎はやたらと喉が渇き、さっき馬を寺に預けたときに、水の一杯も所望すれば良かったと、しきりにそんなことを胸中で悔いていた。


 やがて、返事をもった者が戻って来たらしい。

 組頭の男が平服の若者を伴って木戸を抜け、小一郎らの元まで来て、


「残念ながら、お逢いすること叶わぬ」


 と実に気の毒そうに言った。


「はて。何故です?」


 半兵衛が聞くと、


「我が殿が申されまするには――」


 三郎左衛門の小姓らしい若者が――大急ぎで城からここまで下って来たのであろう――額の汗を拭き、息を整えながら答えた。


「浅井と織田が手切れとなった今、織田方の半兵衛殿とお逢いすれば、そのことだけでどんな風評が立つか解らず、人々がどのように思案を巡らせぬとも限らず、結局はお互いのためにならぬ。一別以来、懐かしくもあり、半兵衛殿のお顔を拝みたい気持ちもあるが、わしが浅井方の武士である以上、逢うわけには参らぬ――ということでござりました。せっかくのご足労ながら、この場は速やかにお引取りくだされますよう、お願い申し上げまする」


「いかにも思慮深く、律儀におわす三郎左衛門殿らしい申し様よ」


 半兵衛は好意的な笑みを浮かべ、


「しからば、申し訳ないが、もう一度、手紙ふみことづかっていただけぬか」


 言いながら懐紙を取り出し、矢立から筆を抜いて、さらさらとそれに何事かを書いた。紙片を折り畳み、別の懐紙の中に折り入れ、宛名を書いてから若者に手渡した。


「そこもとらにとっても主筋であられる堀二郎殿に関わる大事じゃ。なんとしても取り次いでもらわねば、三郎左衛門殿に世話になった私としても後々悔いが残る」


 半兵衛は深刻そうな声音で言った。

 このように公の前で堀二郎の名を出され、主筋の大事とまで聞かされてしまえば、家来としてはこれを取り次がぬわけにはいかない。それを取り次がれた三郎左衛門にしても、もし半兵衛に逢わなければ、「主の大事を知らせようとしてくれた半兵衛を、話も聞かずに追い返した」ということが世間に聞こえることになり、主家への忠節を疑われるような事態にもなりかねないから、堀家の執権として主君の采配を預かる立場の三郎左衛門としては、もはや「逢わぬ」と突っぱねるわけにはいかないだろう。


 半兵衛は、口ひとつで、面会せざるを得ないという状況を見事に作り出したことになる。


(さすがは半兵衛殿・・・!)


 小一郎はそこに気付き、声に出さずに感嘆した。


「この手紙ふみを、我が殿に届ければよろしいのですな?」


 真摯な顔で手紙を受け取りながら、若者が念を押した。


「左様。返事を頂けるまで、ここでお待ち申しあげるとお伝えくだされ」


 半兵衛は泰然と、再び扇子を使い始めた。



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