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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第38話 調略(1)

 信長の越前征伐というのは、畿内に住む人々にとって非常な興味の対象であったらしい。


 たとえば正親町天皇は、信長が京を出陣していった5日後、御所の内侍所で信長のために「千度祓」を行った。

 内侍所というのは三種の神器を奉安する場所であり、ここで行った「千度祓」とはつまり戦勝祈願である。「はらえ」というのは密教の修法などと同じく要するに祈祷(きとう)のことで、百度祓、千度祓、万度祓などがあり、回数を増やすほどご利益があるとされていた。

 正親町天皇はこの「千度祓」を4月25日から3日間をかけて行い、さらに念の入ったことに翌28日には石清水八幡宮で百遍の法楽(神事)を修して再び織田軍の戦勝祈願を行っている。

 今谷明氏の『信長と天皇』によれば、ときの天皇が特定の大名のために神事を行ってその戦勝を祈願するなどということは、南北朝の騒乱以後、絶えて行われていなかったらしい。これが当時の京に生きていた人々にとってある意味でセンセーショナルな「事件」であったことは間違いがなく、これらの祈祷や神事が、信長が天皇に依頼したものか天皇が自発的に行われたものかというのは解らないにしても、少なくとも正親町天皇が信長の「天下布武」を応援する姿勢を取っていたということだけは事実であったとせねばならない。


 畿内に住む人々というのは、現代に生きる我々が想像する以上に耳が早い。

 京と越前というのは道のりとしては遠く思えるが、琵琶湖を介して直線で考えればその距離は思いのほか近く、その情報伝達の速度は意外なほどに速いのである。

 織田軍が悪鬼のように働いた手筒山城、金ヶ崎城の戦勝の報は2日後には京に伝わっていたし、信長の越前撤退にしても、その3日後には奈良あたりの僧侶(多聞院英俊)までがその情報を掴んでおり、信長の帰京などはその翌日には畿内の津々浦々まで知れわたっていた。


 信長が京に帰還したのは――小一郎らの帰京より丸1日早い――4月30日であった。

 ただちに夥しい数の人間がその宿所である清水寺に駆け集まって来たが、さすがに信長は不愉快であったからか、あるいは単に疲れていたからか、誰にも逢おうとはしなかった。正親町天皇から見舞いを命じられた山科言継も、この日は虚しく引き上げている。


 翌5月1日になって信長は、幕府御所に入り、将軍 義昭や公家衆などに対面し、浅井長政が敵に寝返ったこと、織田勢がほとんど無傷で帰京したこと、敦賀を捨てて帰ったことなどを報告したが、その姿は常のごとくに英気に溢れ、憔悴したり萎れたりした様子は微塵もなかった。


 信長が自身の健在ぶりを示すことで京の諸人は大いに安堵したであろうが、それにしても今度の越前征伐の大失敗は大きな痛手であったことに違いはない。

 人的な被害はさほどでもなかったが、慌ただしい撤退で装備や兵糧などを多く捨ててきてしまったため、それらが不足を起こす事態になっており、信長は藤吉朗に命じて、堺の今井宗久にただちに武器弾薬をかき集めるよう依頼したりしている。



 さて――


 浅井長政の離反というのは、織田家の置かれた状況を劇的に変化させた。


 まず、何より浅井氏の盤踞する北近江という地域が重要であった。

 岐阜に本拠を据え、京を中心とする畿内を遠隔支配する信長にとって、この北近江が敵に回ってはどうにもならない。近江路が塞がれ、岐阜と京との連絡が途絶してしまうことはもちろん、たとえば朝倉氏と浅井氏が、京にいる織田主力を無視して本拠である美濃に直接攻め入るということさえ出来てしまうからだ。


 信長のこの懸念は、早くも実現する。

 織田勢の越前撤退から数日後、朝倉義景は朝倉景鏡を大将とする2万の軍勢を北近江に派遣し、浅井氏の軍勢と共に美濃に侵入したのである。

 浅井・朝倉連合軍は、垂井・赤坂あたりの村々を焼いて回り、信長の肝を冷やさせた。幸い敵はそれ以上深入りしようとせず、兵を引いてくれたから大事には至らなかったが、たとえば本拠の岐阜城を攻撃されでもしていたら一大事であった。もちろん岐阜城は短期間で落とされるような柔な城ではなく、それどころか天下の堅城と呼ぶべきほどのものだが、本拠を襲われたというその事実が天下に与える悪評や影響、城下町が焼かれることによる経済への打撃と人的被害、そこに住む家臣たちの妻子がどうなるかといったことまでを含めて考えれば、これはやはり大変な危機ではあったのだ。


 その後、浅井・朝倉軍は、伊吹山の南方の山腹にある刈安尾城とそのさらに南西の長久寺にある長比たけくらべ城を大改修し、ここに朝倉勢2万がそのまま腰を据えた。美濃と近江の国境線には数珠球のように城や砦が築かれているのだが、これらの防御拠点にもそれぞれ兵員を増強し、蟻一匹通さない厳重な封鎖態勢を敷いたのである。

 美濃と近江を繋ぐ細い回廊は、完全に遮断されたと言っていい。


 また、浅井氏の造反に力を得たのが、南近江の六角氏の残党どもだった。

 そもそも六角氏は浅井氏とは仇敵であったはずだが、信長という共通の大敵がある以上、「昨日の敵も今日の友」ということになる。早くも手を結んだらしく、伊賀に近い南近江の山岳地帯や京の周辺地域などでは六角氏や浅井氏の指嗾による一揆が相次ぎ、それまで友軍と思われていた大名小名たちが態度を不明確にするなど、まるで火のついた火薬庫のようにいつ爆発するかも解らないという不気味な政治状況になってしまっている。


(ともかくも、いったん岐阜に戻らねばどうにもならん)


 と、信長は思った。

 本拠を手薄にできないことはもちろんだが、越前討ち入りの失敗とその後の怒涛のような撤退で織田勢は疲弊し切っているし、減少した兵の補充もせねばならない。装備、弾薬、兵糧なども不足しているから、いずれにせよ本拠に戻って態勢を立て直す必要があったのである。


 しかし、このような混乱の最中で織田の大軍が畿内から消えれば、織田家の影響力が極端に低下し、日和見している諸大名が雪崩を打つようにして織田から離れていかぬとも限らず、どのような政変が起こるか知れたものではない。何よりの急務はまず畿内の混乱を沈静化させることであり、これ以上の醜態をさらさぬことだった。


 信長は、実に素早く手を打った。


 信長は、まず若狭で再び敵対した武藤友益に対し、丹羽長秀を主将とする征伐軍をすぐさま派遣した。丹羽長秀は、京から休む間もなく再び若狭に赴き、5月6日、石山城を落として武藤氏を滅ぼした。

 これは、若狭を再び固め、朝倉氏の南下に備えるためである。


 さらに、急を要するのが南近江であった。伊賀に近い南部山岳地帯までは手が回らぬものの、琵琶湖南岸から東岸の地域だけは断固として維持せねばならない。

 信長は全軍を率いて近江へ出陣し、5月9日に大津の宇佐山城に入り、これを森可成に預け、さらに東進し、12日に永原城(野洲市永原)に入り、これを佐久間信盛に守らしめ、長光寺城(近江八幡市長光寺町)に柴田勝家を、安土城(蒲生郡安土町)に中川重政をそれぞれ入れ、総勢1万ほどの軍勢を配してこの地域を堅固に固めた。幸い、かつての六角氏の重臣であった日野の蒲生賢秀ら湖東地域の大小名たちは信長に忠誠を尽くしてくれているから、どうにか街道に沿った平野部を維持することだけはできそうであった。


 そのまま北へ向かえば、浅井・朝倉の連合軍が道を塞いで待ち構えている。

 信長は、決戦を避けた。

 残る1万5千ほどの軍勢を引き連れてそのままさらに東に進み、獣道のような千種峠を通って鈴鹿の山を越え、伊勢へ向かったのである。

 これには、浅井・朝倉軍は肩透かしを食らった格好になった。


 信長は伊勢の桑名から船を使って尾張に渡り、5月21日、ようやく岐阜へと帰還することができた。もしあらかじめ伊勢を押さえてなかったならば、浅井の離反一発で、信長は進退に窮し、織田家はあるいは滅びていたかもしれない。

 ともあれ、これまで3日で往来していた岐阜と京との移動に、実に半月近くの時が掛かってしまったことに変わりはなく、信長の近畿支配に重大な支障が生じてしまっている現実は動かぬところであった。


 ついでながらこの岐阜への帰路――千種越えをとって鈴鹿の山を抜けているとき、信長は六角氏の残党が雇った杉谷善住房という名の鉄砲名人によって二ツ弾で狙撃されるというオマケまでついた。幸い弾丸は袖をかすった程度で信長に怪我はなかったが、一時は一気に天下を掴み取るかと見えるほどだったこの男が、それだけ危機的な状況に陥っているということを端的に表しているようにも思う。


 ちなみに小一郎は、藤吉朗らと共にこの信長の軍勢の中に居た。織田勢の中でも木下勢の疲弊と損耗はもっとも酷かったから、京の守備の任は丹羽長秀、明智光秀らに変更になり、岐阜に帰還することになったのである。


 小一郎が「信長狙撃」の事実を知ったのは、すでに伊勢に入って桑名城の付近で宿営しているときだった。

 これもついでだが、桑名城は滝川一益が預かっている城で、信長は今夜はここに泊まり、明日、手回りの者たちと共に船で尾張の熱田に渡り、清洲を経て岐阜に入る予定になっている。織田勢の大半は、そのまま陸路をとって美濃へ入り、岐阜を目指して歩くことになる。


「信長さまは、自らの身体に弾がかすっても少しも騒がず、『捨て置け。急ぐ』とだけ言って周囲の者たちを静まらせ、行軍を続けさせたんじゃそうじゃ」


 話を聞き込んできた藤吉朗は、なぜか我がことのようにそれを自慢した。


 木下勢は、桑名郊外の荒れ寺に一夜の本陣を据えていた。

 本堂に集められた幕僚たちは車座になり、それぞれ飯と汁とが配られている。

 藤吉朗は汁椀を掴み、飯粒を口から零れさせながら喋っていた。生来、行儀が悪い男なのだ。


「鉄砲声などしたかのぉ? 気付いたか?」


 蜂須賀小六が傍らの前野将右衛門に顎を向けた。


「いや、まったく気付かなんだな」


「わしらはだいぶ後ろを歩いとったからのぉ」


 藤吉朗が声を挟んだ。


「しっかし、さすがに信長さまは、肝が据わっておらっしゃるではないか。天下の大将軍に、当たる弾があろうはずもないっちゅうこっちゃな。弾の方が信長さまの威を畏れて道を避けるわ」


 藤吉朗はゲラゲラと笑ったが、小一郎は笑う気になれなかった。

 京を中心とする日本の中央を支配下に収め、ほんの二月前まで得意の絶頂だった信長が、浅井長政が離反したというだけでここまで苦しめられている。これまで燦然と輝いていた織田家の未来に重い雲が垂れ込めてきたような気配がして、根が心配性で気苦労性の小一郎の胸裏から楽観的な気分を失せさせてしまっていた。


(織田家は大丈夫なんじゃろうか・・・)


 決して口には出さないが、そんな心配が多くの兵の心にも同様に芽生え始めているに違いなかった。


「半兵衛殿は、信長さまはこれからどうなさるとお考えですかいな?」


 ネギと大根の味噌汁を啜りながら小六が尋ねた。

 大柄な小六は握り飯をすでに5つも平らげ、汁もこれで3杯目だ。


「浅井殿の離反は、岐阜さまにとってはまさに痛恨事――」


 汁をかけた飯を品良く食べていた半兵衛は、箸を止め、椀を膝元に置いて応えた。


「京を押さえ畿内を支配する岐阜さまにとって、北近江の通行は絶対条件です。岐阜に戻れば、真っ先に関ヶ原から醒ヶ井に抜ける東山道を突き通そうとなさるでしょう。しかし、逆に言えば、敵もここを厳重に固め、美濃からの侵入を何としても拒もうとするでしょうね」


「岐阜に戻れば、またすぐにも戦になるっちゅうことか。ろくに骨を休める間もないのぉ」


 小六が渋い顔で愚痴ると、


「それこそ望むところじゃ。殿戦しんがりいくさも悪しゅうはないが、戦はやはり攻めねば面白うない」


 将右衛門が太い眉をひらいて嬉しそうに言った。

 血の気の多いこの男は、戦が飯より好きなのである。


「美濃と近江の境と言えば、あの辺りは――昔、半兵衛殿が世を隠れて暮らしておられた・・・」


 藤吉朗が小首を傾げた。


「はい。木下殿もおいでになられましたな。まさにあの辺りですよ」


 半兵衛は頷いた。


「あの近江のいおは、松尾山とかいう山の麓でありましたな。山のすぐ上辺りに、浅井方の砦があった・・・あれは確か――」


「長亭軒という名の砦です。ご存知のように美濃と近江の境には数珠球のように浅井方の砦が築かれておりましてな。須川山の城、大峰の砦などと同じように、松尾山に置かれているのが長亭軒の砦です。守将は――代わってなければ、ですが――樋口 三郎左衛門 直房殿と申す五十年配の男で、私が斉藤家を退転し、近江に隠棲しておりました折、ずいぶんと世話にもなり、友誼を暖めもしました」


 それを聞いた途端、藤吉朗の表情が微妙に変わった。


「して、その樋口殿と申すご仁は、どのような?」


 話の続きを促す。


「三郎左衛門殿は、性は快活にして豪胆。度量広くして聡明。忠節を重んじ、戦にも明るい老巧の物師(戦場巧者)です。また、下の者を労わる心強く、軍兵からも領民からも慕われている。私の知る限り、北近江ではまず第一等の人物ですね」


「ふむ・・・・」


「樋口氏というのは、近江の鎌刃城に居を構え坂田郡を代々領している堀氏の重臣なのですが、堀家の当主である二郎 秀村殿がまだ幼少であるため、三郎左衛門殿が主君に代わって家中を束ね、執権のようになって家を取り仕切っておられます。家中の人望厚く、主君からの信任も厚い」


「なるほど・・・。半兵衛殿と入魂とは、こりゃ好都合じゃな。半兵衛殿、その樋口三郎左衛門――調略で味方に引き込めませぬかな?」


 浅井方の最前線基地の司令官を味方に引き抜こうというのだから、相変わらず大胆な発想である。


「その樋口殿が転べば、鎌刃城の幼君も一緒に転ぶということになる。一挙両得じゃ」


 鎌刃城(米原市番場)というのは浅井の本拠である小谷城にも優るとも劣らない湖北では最大級の規模を持つ雄大な山城で、この時代、すでに立派な石垣をもっていたということでも有名な堅城であった。城に石垣を用いるのは後年でこそ当然になるが、信長が安土城を築く以前の時代において石垣が多用された城というのは極めて珍しく、近江ではこの鎌刃城と、六角氏の本拠であった観音寺城があったのみであろう。

 鎌刃城は小一郎も岐阜と京を往来する際に何度も目にしているが、地理的には湖北と湖南の境界にあり、浅井氏にとっては南方からの侵攻を防ぐ最前線基地であり、非常に重要な城と言っていい。それが調略で落ちるならこんな楽な話はないが、そう易々といくものであろうか。


 小一郎は、半兵衛を見た。

 案の定、半兵衛は酢でも飲んだような渋い表情をしている。


「聡明にして硬骨の忠臣――となると、なかなか難しいでしょうかな?」


 藤吉朗が言ったので、小一郎はそれに乗った。


「のこのこ逢いに行けば、その場で斬られちまうかもしれんで。そんな危ない橋を渡らずとも・・・」


「しかし、樋口殿にとっての主家は、堀家であって浅井ではあるまい。まして堀家にとっての主家とは先の北近江の守護であった京極家であって、浅井に仕えておるっちゅうてもそれはここ最近の話。浅井が累代の主家というわけでもないはずじゃ」


 わずか40年ほど前に北近江を奪って独立した浅井家の泣き所は、譜代の家来が少ないということであった。

 浅井氏は、長政の祖父 亮政のときに戦国大名に成り上がったのだが、それ以前は京極家の一家来に過ぎなかったわけで、いま浅井氏に従っている豪族たちというのは、もともとは皆その亮政の同僚朋輩であった。浅井氏は大名としての歴史が浅いだけに譜代の家来というものをほとんど持っておらず、北近江の豪族たちにとれば、浅井家とは累代の主家ではなく、「力が大なるがために北近江の盟主になっている」といった存在に過ぎないのである。

 それはちょうど美濃を奪って戦国大名化した斉藤家の場合と酷似した政治状態で、だからこそ、そこに付け入る隙があるだろう、と藤吉朗は言っているのだ。


「おっしゃる通りです。その線で口説けば、三郎左衛門殿を寝返らせること、不可能ではないかもしれません」


 目を伏せた半兵衛は、少しばかり哀しげであった。

 その様子を眺め――何かを察したのであろう――藤吉朗が明るい声で話を締めようとした。


「岐阜に帰ったら、さっそくわしが逢いに行ってみるとしよう。戦をせず、無駄な血も流さずに済めば、それが何よりじゃからの」


「いえ――」


 しかし、半兵衛はそれを否定した。


「木下殿はすでに、押しも押されぬ織田家の重臣。織田家が旭日の勢いのときならともかく、いま自らが出向かれるのは、かえって不心得を起こす者が出ぬとも言い切れません」


 織田と浅井が手切れになった直後という時期でもあり、信長の寵が厚い藤吉朗がのこのこ浅井の武将の元に出かけて行けば、これ幸いとその首を刎ね、軍神の血祭りにあげようと思うような、血の気の多い者がいないとも限らない、ということだろう。


「三郎左衛門殿は昔馴染みでもありますし、ここは私が参らねばなりますまい。木下殿の名代の方を、誰か一人付けてください」


「よろしいのですかな?」


 藤吉朗が気遣わしげに聞いた。


「はい」


 半兵衛は、何かを振り切るように、きっぱりと言った。


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