第37話 金ヶ崎の退き口(4)
戦勝による一時的な興奮と高揚が去ると、金ヶ崎城で夜明けを待つ木下家の人々の顔には、当然ながら重い疲労の影が浮いた。
勝ち戦のお陰で士気こそ下がってないが、誰もがすでに20時間以上も不眠で動き続けているわけで、この後、敵の攻撃を受けつつ京まで逃げねばならぬと思えば、暗澹とした気分にもなるだろう。
小一郎は、この兵たちの士気と疲労のことが気になっていた。気組みが萎えてしまっては退却戦などできたものではないし、それは生存の可能性の激減に直結する。
(何ぞわしにできることはないもんか・・・)
思いはするが、小一郎にはあの兄のような強烈な求心力もなければ人々の気持ちを煽り立て浮き上がらせるような特技もない。小一郎にできることと言えば、せいぜい兵糧の計算をすることとそれを配ることくらいのものなのだ。
「半兵衛殿・・・」
いたたまれず、傍らの半兵衛に声をかけてしまった。
「・・・はい?」
半兵衛は、床机に腰を据え、顎をわずかに上げて夜空を睨みながら何事か考えている様子だったが、小一郎の声で我に返ったのか、居住まいを正してこちらに向き直った。
「その・・・何かわしにできることはないもんでしょうか? こうしてただ朝を待っておるちゅうのは、どうにも不安でして・・・」
「良いお心がけです。私も同じことを考えておりました」
半兵衛は微笑した。
「それでは、小一郎殿には大将の演技をしていただきましょうか。これは、小一郎殿にしかできぬことですしね」
「大将の振り・・・ですか・・・?」
そう言われても、小一郎は何をすれば良いのかが解らない。
「軍兵たちを、勇気付けてやることです」
半兵衛は言った。
「木下家の方々には、この春に新規に召抱えられ、此度の越前討ち入りが初陣という者も少なくないはず――当然、死処を知らず、戦にも不慣れ。初陣がこのような危難では、今頃は不安のどん底でしょう。そのような状態では、常の力を出すことさえできぬものです」
実際、金ヶ崎に残っている兵の4割近くがこの春に小一郎自身が募兵した新兵たちだった。彼らにしてみれば、仕官して1ヶ月もせぬうちにこのような絶体絶命の危地に放り込まれるとは想像もしていなかったに違いない。
「確かに今は、十の力を、二十にも三十にもせねばならぬときですな。皆には、なんとか決死の覚悟を持ってもらわねば・・・」
小一郎はそう受けた。
「死中に活あり」などという俗諺もある。必ず死ぬと想いを決し、生死を忘れて働けば、そこにこそ生き延びる道が拓けることがあるのではないか――
そのように言うと、
「確かにそういうことはあるかもしれません。しかし今は、そのような考え方はするべきではないと私は思います」
と半兵衛は目を伏せ、別のことを言った。
「岐阜さまは、今頃は若狭の熊川宿あたりまで足を伸ばされておるか――あるいはもっと先にまで進んでおられるか――いずれにせよ、我らの金ヶ崎での殿の役目は、すでに成功しています。我らが死なねば岐阜さまが生き延びられないというなら死に甲斐もありますが、今さら我らがここで死ぬのは何としても無意味――つまり、木下勢の役目は死ぬことではなく、今は生きて帰ること。そして我らの役目は、1人でも多くの者を生きて京まで帰らせること、ということになる」
「はい・・・」
それは、その通りだろう。
だからこそ、兵たちに決死の覚悟を持たせて働かせれば、より生き延びる可能性が高まるのではないかと小一郎は思ったのだが――
「死を決した者というのは、たとえ一縷の生きる望みが残っていようとも、自らの満足のために死を選ぶということがある。主のため、武名のため、意地のため、あるいは恥をかかぬため――理由はいろいろとあるでしょうが、最後の最後の土壇場で簡単に死の方を選ぶ。それを生き死にの潔さというなら確かにそうですが、私はどうも、それが今、この場で正しいこととも思えないのです」
半兵衛は眉根を寄せた。
言いたいことが、上手く言葉にできないようであった。
「たとえば――死を決した者と、そうでない者とが戦うというのなら、確かに死を決した者が勝つこともあるでしょう。『死に華を咲かす』ということもある。武士には死なねばならぬ場所があるというのも事実です。しかし、死を決した者と絶対に死にたくないと思っている者とが共に逃げるとき、どちらがより生き残れるか――今は、それこそが問題であると思うのですよ。死ぬが当然と思っている者が、果たして最後の最後まで生き延びようと懸命になれるでしょうか?」
「・・・・・・・・・」
「死を決した者が強いのは、ひとえに死に対する怖れを持たぬからです。臆した者から死んでゆくのは戦場の常。確かに決死の者は強い。しかしながら、生きるために懸命になり、遮二無二働いて怖れを忘れた者というのも同様に強い――それは、決して死兵に劣るものではないと思います」
小一郎は半兵衛の言葉を咀嚼し、懸命に考えている。
その様子を見た半兵衛は、さらに言葉を継いだ。
「人が生きようとする想いは、ことのほか強いものです。今はそこにこそ、望みを賭けてみたいというのが私の本音です。今ここで千にも満たぬ我らが全員死兵になったところで、敵の大軍をどうこうできるものではありません。それこそ全員死んで、それで終わりですよ。私はそれよりも、少しでも生き延びられる可能性が高まる策をひとつでも多く積み重ね、皆みなが絶望することなく、生き延びようと懸命になれるような道をつけ、それを手繰れるようにしたいと――そんなことを考えていました。無駄な足掻きに終わるかもしれませんが、生あるうちは、足掻けるだけ足掻いてみるのも、武士らしいのではないかと思うのです」
小一郎は、頭を殴られたような衝撃を受けていた。
命を捨ててかかれば――などと軽々しく言う自分は、要するに何も考えてないだけだったのだと思い知らされた。それは、人事を尽くす前に運を天に任せてサイコロを振るようなもので、偶然や僥倖に縋って思考を放棄することに等しいのである。
半兵衛の思考は、常に現実に根ざした具体的な形を成している。どうすれば生還の確率を高められるかということを懸命に考え、それを1つ1つ具体的な策に仕立て、少しでもその確率が上がるように最後の最後まで人事を尽くそうとしているのだ。
「・・・それでは、わしは――」
「小一郎殿には、大将として、皆に死ぬなと訓戒して頂きたいのですよ。京に戻ったら美味い酒を飲ませてやるとか、女を抱かせてやるとか、方々が喜ぶ、気が浮かぶようなことなら何でも良い――景気の良い言葉で、木下殿がするように兵たちを笑わせてやってくだされ」
半兵衛は、城に施すいくつかの「小細工」を小一郎に献策し、まずその準備をさせ、さらにすべての将兵を大手門前に集めるよう依頼した。集まった兵たちを前に、精神論などにはまったく触れず、ただ黙々と退却戦時の陣立てや戦術、戦闘時における心得やコツ、果ては本隊からはぐれてしまったとき何処を目指して落ちて行けば良いか、何に気をつけて逃げれば良いかというようなことまでを、いちいち具体的に、かつ噛み砕くようにして諭して聞かせた。
「この場に半兵衛殿がおられる以上、何も心配することはないぞ!」
小一郎は皆を前に、腹の底からの大声でそれを言った。
「大船に乗った気で、半兵衛殿の軍配に従っておればええんじゃ! 敵の首なぞは1つも拾わずとも、我らは生きて京に帰るだけで大手柄じゃで、ここで死んでは阿呆らしゅうて死んでも死に切れんぞ! 皆、たとえ散り散りになり、はぐれることがあっても、這ってでも京まで辿り着いてくれ!」
その後、その場で全員に腹ごしらえをさせ、酒を振舞った。
夜明けは、もうすぐそこまで迫っている。
小一郎は2日分の腰兵糧だけを皆に持たせると、全軍を率い、夜陰に紛れて城を出た。
金ヶ崎からの退却戦は、難渋を極めた。
空が白み始める直前に城を出た小一郎たちは、先頭の1人のみに松明を持たせ、あとの者は無灯火という隠密行動をしつつ、若狭を指して駆けに駆けた。敵が追いすがって来る前に、できる限りの距離を稼がねばならない。まさに命からがら、息の続く限りひたすら走った。
朝倉勢は――やはり戦場諜報には不熱心だったようで――木下勢の逃亡にさえ気付かず、夜が明けるのを待って金ヶ崎城へ攻撃を仕掛けた。
さんざんに矢を射掛け、城方の反応のなさに朝倉勢がようやく事態を悟ったちょうどその頃、城内の火薬蔵と兵糧蔵、武器蔵、炊事小屋などで凄まじい爆発が次々と起こり、あちこちで火災が発生した。
これは、敵を驚かすと共に、城に残した資材、矢弾、糧食などを廃棄するために半兵衛が施した「小細工」である。長く紙縒り繋げた火縄で簡単な時限発火装置をつくり、残っていた火薬、硝煙、油などを余すところなく使って建物を自焼させたのだ。
このため、残敵掃討と検分のために城内に入っていた朝倉勢の一部に怪我人が出るなどの被害があり、兵の一部を割いて城の消火活動もしなければならなくなり、多少の時間稼ぎになった。
とはいえ、こんなものはほんの小手先仕事に過ぎない。
鼻面を良いように引き回され、愚弄され続けている朝倉勢はそれこそ烈火のように怒り、猛烈な勢いで追撃を開始した。
木下勢は、その大半が徒歩である。
騎馬武者はせいぜい1割ほどに過ぎず、雑兵たちを置き捨てにするわけにもいかないから、どうしても移動速度は徒歩のそれに合わせざるを得ない。
しかし、追いすがる朝倉勢は、騎馬武者だけでも3千騎を越える。後続を置き捨てにしてでもこの騎馬武者たちは猛追してくるわけで、追撃開始時には3里ほども先行していたはずが、この距離がたちまちのうちに縮まり、その日の昼過ぎには朝倉勢の先頭が追いついて来た。
敵に補足されたとき、小一郎たちはすでに敦賀から関峠を越えて若狭に入り、佐田の海岸近くにまで辿り着いていた。
「この場は私が。小一郎殿は、前軍を連れてそのまま走ってください!」
半兵衛は街道の坂を登りきったあたりで叫んだ。2百の鉄砲隊と2百の弓隊を率いてそこに踏みとどまり、敵を迎え撃とうというのだ。
この退却戦で小一郎の命を救ったのは、ひとつにはこの鉄砲であったろう。
この当時、日本における鉄砲と火薬の最大の生産地といえば、一も二もなく堺であった。木下勢は、日本一の兵器工場とも言うべき堺にもっとも近い京に長く駐屯していたこともあり、千宋易を通じて堺の豪商富商に顔が利くということもあって、鉄砲や弾薬を比較的入手しやすい立場にあった。
「弓と違い、鉄砲という武器は人の技や力で差がでにくい道具です。立て続けにご加増を受け、次々と増えておる木下勢の雑兵たちというのはなかなか錬兵も行き届かず、弓の上手を作るというのも難しいでしょうから、余裕があれば、少しでも多くこの鉄砲を増やしておかれるが良いと思います」
という半兵衛の勧めもあって小一郎はこれを以前から熱心に買い集めていて、今や木下勢の鉄砲の装備率は織田家の中でも群を抜いて高い水準にある。京の守備のために信長から貸し与えられた2百の鉄砲足軽の他に、木下家としての鉄砲も2百ほどは揃えてあり、つまり3千の木下勢だけで4百挺もの鉄砲を持っているのである。織田全軍の鉄砲の数がまだ2千挺ほど――これは他の諸侯から見ればあり得ないほどの大量の保有数である――だから、実に織田家の2割の鉄砲が木下勢に集中していることになる。
この鉄砲の弾幕が、敵の足止めにどれほど有用だったか解らない。
半兵衛は、街道を追いすがって来る騎馬武者たちを十分引き付け、一斉射撃でその先頭を打ち砕いた。
「敵の馬を狙え! 一発で討って取れ!」
半兵衛はこのことを、あらかじめ鉄砲足軽たちに徹底していた。
騎馬武者というのは、鉄砲の攻撃とは相性が悪い。
足軽雑兵ならば竹束の盾をもって身を守ることもできたであろうが、騎馬武者は的が大きくて狙いやすい上、身を守るすべもなく、それどころか鉄砲の轟音に馬が怯え、狂乱するなどして進退の自由を奪ってしまうからである。敵を猛追している朝倉勢としては、勢いがついているから急に馬首を返すこともできず、前の馬が倒されれば後続の馬はその上に乗り上げて転ぶか、あるいは将棋倒しのようになって倒れざるを得ない。無駄弾はほとんどなく、実に2百騎近い敵を一瞬に殺傷した。
「弓勢!」
繰り代わって前に出た弓隊に矢を矢継ぎ早に射掛けさせ、鉄砲の装填時間を稼ぐと、さらに隊列を入れ替えて銃隊で射撃し、それを2度まで繰り返し、敵を滅多打ちにした。
最先端に居た5百ほどの騎馬武者たちはたまらず一時退却し、距離をとり、後続を待って態勢を立て直す。
その隙に、半兵衛は全軍を退却させる。
さしもの半兵衛も、この期に及んでできることと言えば、この遅滞戦術を粘り強く繰り返すことしかなかった。
が、木下勢が組織立った抵抗を示せたのは、このあたりまでだった。
攻撃を繰り返していればやがて矢弾は尽きるし、何より兵たちの疲労が甚だしかったのである。
木下勢はすでに35時間以上を不眠で働き続け、しかもここ15時間はほとんど休みなく合戦と全力疾走を繰り返している。いかに戦国に生きた人々が現代人と比べて頑健であるにしても、人の体力にはおのずと限界があるだろう。
疲れれば、気が萎える。
気が挫ければ、士気は急速に低下し始める。
そしてそれは、同時に軍隊組織の崩壊を意味していた。
抵抗の気力を失った雑兵たちは身を隠せる場所を求めてほとんど散り散りになって逃げ始め、追撃してくる朝倉の大軍に飲み込まれ、次々と討たれていった。
元亀元年(1570)4月28日――
小一郎にとって、この日は生涯忘れ難い一日になった。
その思い出とは、一言で言えば、文字通りの「悪戦苦闘」――無間地獄を這い回るような極度の疲労と恐怖の記憶と言っていい。後にも先にもこのときほど精根尽き果て、心身ともに疲れ切ったことはなかったし、この日ほど自分の周りでバタバタと人が死んだということも生涯なかった。
小一郎は、後々までこの日のことを夢に見、うなされるほどだったのである。
その地獄の中で、小一郎は半兵衛の姿にどれほど救われる想いをしたか解らない。
半兵衛は、どのような苦境の中でも――どれほど疲れていようとも――柔和な表情を一切変えなかった。
「やがて前をゆく木下殿の軍に追いつけます。それまでの辛抱です」
絶望しがちになる兵たちに馬上から常に声を掛け、希望を与え続けてくれた。このとき半兵衛が居てくれなかったなら、小一郎などはとうに絶望し、生きることを諦めていただろうし、小一郎の部隊は間違いなく全滅していたに違いなかった。
(死ぬの生きるのと愚痴愚痴言っておった自分が恥ずかしい――!)
最後の最後まで物事を投げず、希望を捨てず、節を曲げない精神力。
執拗なまでに粘り強く、異常なまでに打たれ強く、意固地なまでに我慢強い。
半兵衛が普段、さほど物事にこだわらないサラリとした性格であるだけに、このとき見せた半兵衛の精神的な強さというのは、後々まで小一郎の印象に強烈に残ることになった。
休ませることも水を飼わせることもできない小一郎たちの馬は、当然だが次々と潰れていった。
それからは半兵衛も小一郎も、徒歩立ちになって駆けに駆けた。
自らの足で駆け続けている雑兵たちは、すでに疲労の極みにある。どの顔も蒼白になり、あるいは口から泡を吹き、それでも槍を杖にして足を引きずるように懸命に走る。
半兵衛はたびたび踏みとどまって鉄砲隊で敵を銃撃し、敵の追撃の足を止めさせ、そのたびに敵の猛烈な矢弾を浴びつつ退却を続けた。その鎧の袖には何本もの折れ矢が突き立ち、ゆったりと長い浅葱色の胴服はドロと埃に塗れ、弾痕さえいくつか見える。幸い大きな手傷こそないようだが、疲労の色はさすがに濃い。
それでも半兵衛は、変わらぬ口調で言うのである。
「あともう少しの辛抱ですよ」
その声を聞くだけで、勇気付けられる。
弱音など吐けるか、という気にさせられる。
小一郎も半兵衛に負けぬようさかんに声を出し、味方の将士を励まし続けた。
追撃を掻い潜りながら海に沿った丹後街道をさらに10km以上駆け、三方湖南方の田園あたりまで来たとき、小一郎たちは先行していた藤吉朗の部隊についに追いついた。
疲弊し切った小一郎の部隊を見かねたのか、蜂須賀小六らの部隊が引き返して来て追って来る朝倉勢を足止めしてくれ、ようやく虎口を脱することができた。
「おぉ! 小一郎! 半兵衛殿も! 無事じゃったか!」
藤吉朗は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
が、それでも惨憺たる退却戦の状況はさほどに変わることはない。
追って来る敵の数はいよいよ増え、浴びせかけられる矢弾はさらに激しさを増し、味方は鉋で削られるようにして次々と脱落者を出していった。
小一郎らにとっての僥倖は、さらに先に退却していた徳川家康の部隊に追いつけたことであったろう。
豊かな頬と穏やかな大きな瞳を持つこの三河の年若い大名は、5千もの精兵を率いている。しかもこの5千は、「尾張兵の3倍強い」とさえ評される三河武士たちであった。退却で疲労しているとはいえ、やはり大部隊の三河勢は強い。ほとんど散り散りになり、隊伍をなさないほどに崩されていた木下勢にすれば、これと一塊になり、共に援け合いながら退却できたことは、非常な幸運だったと言う他ない。
それでも、朝倉方の追撃は執拗を極めた。
古記録によれば、このとき家康自身が馬上で鉄砲を撃たねばならぬほどに朝倉勢に肉薄され、さんざんに苦戦したらしいが、なんとか態勢を維持して戦っては退き、繰り代わっては退きつつ、やがては若狭を過ぎ、近江の山岳地帯まで逃げ込むことができた。
陽が没してからは、夜陰に紛れ、そのまま不眠不休で走った。視界が利かなくなることで、敵の矢弾の命中精度がぐんと下がってくれたから、これにはよほど救われた。
山間の田の畦を駆け、村落の小道を駆け、足で道を探るようにして闇の山の中を南を指して進み続ける。
小一郎らがようやく足を止め、蘇生するような思いを味わったのは、山深い朽木谷付近まで辿りついた頃だったろう。さらに南下し、蓬莱山の尾根から陽光に輝く琵琶湖を眺めたときは、帰り着いたという実感で涙があふれそうになった。
5月1日の夜、ついに小一郎は、藤吉朗、半兵衛らと共に、散り散りになった敗残兵をできる限り収容しつつ、叡山の脇を通って京へと帰還を果たしたのだった。
結局、木下勢に属した者で京まで生きて辿りつけたのは、2千人を割り込んでいた。もちろん、大半の者が傷を負い、まともに歩くことができないような者も多く、五体無傷の者となるとさらにその半数以下という惨状だった。
行方不明になった者は、実に千人余。朝倉勢の槍にかかって首を取られ、あるいは矢弾の的になって果てたか、落ち武者狩りの土民の錆び槍によって命を奪われたものであろう。中でも最後尾で撤退した木下家の人々の生還率は低く、小一郎が率いた8百の部隊は、生き残った者が半数に満たなかった。
しかし、それでもよく残ったと言うべきであったろう。
もし半兵衛があの場に居てくれなければ、この4百がゼロになっていたであろうことを、小一郎は誰よりもよく知っていたのである。
信長は、京に帰還した藤吉朗と徳川家康を即座に引見し、その働きを諸将の前で激賞した。
「もし三河殿(家康)がおらねば、この猿は生きて帰れなんだであろう」
信長はまず慇懃に家康の労に謝し、当座の褒美として黄金30枚をすぐさま与えた。
「猿、此度の働き健気であった。汝がおらねば、我らが勢は、若狭、近江の山野に累々と屍を晒すところであったわ」
と、藤吉朗には珍しく長い言葉を掛け、やはり黄金30枚を褒美として下賜した。
余談だが、この「黄金」というのは当時においては大変に珍しいもので、後世のように通貨としてはまだ機能も流通もしておらず、非常なまでに価値が高かった。
日本において金貨が大量に出回り始めるのは、このときの藤吉朗が後に豊臣秀吉となって天下を統一し、全国の鉱山を直轄領にしていわゆる「天正大判」をはじめとする大小の金銀貨を鋳造させ、それらが流通するようになってからのことなのである。それ以前といえば、金山開発で有名な甲斐の武田信玄が「甲州金」として大判金貨を鋳造したりもしていたがその数は微々たるもので、砂金ならともかく、この「黄金」というのは当時は人目に触れることさえ稀という極めて稀少な存在だった。たとえば藤吉朗がもらった黄金30枚をそのまま米に換えたとすれば、楽々と千俵や2千俵は手に入ったであろう。
「もったいないお言葉、有難き幸せにござりまする!」
藤吉朗は死ぬほど疲労していたが、それを顔には出さず、満面の笑みを浮かべて深々と拝礼し、黄金の乗った三方を高々と頭上にいただいたのだった。
(この猿は、ただの口巧者のお調子者ではない。身を捨ててもわしのために――織田家のために尽くすことができる男じゃ)
平蜘蛛のように下座で這い蹲る藤吉朗を眺め、信長は思った。
そうであろう。
藤吉朗は、なんといっても、織田家のために人柱になることをさえ自ら買って出てくれたのである。
金ヶ崎での殿は、誇張でなく九死に一生という役割であった。半兵衛の戦術レベルの武略と徳川家康率いる三河勢の奮闘とによって辛うじて過半数の者が生き残ることができたとはいえ、少しでも風向きが違っていれば、木下勢は全滅の憂き目に会っていたとしてもおかしくはなかったし、むしろその公算の方が大きかった。もし藤吉朗が己の功名出世のみを求める奸臣・佞臣の類であったなら、あそこで自ら死に役を買って出るなどということはしなかったに違いない。
藤吉朗は、文字通り身を捨て、自分にその命をくれた。
浮浪人のような境遇から拾い上げ、織田家の重臣にまでしてやったその恩を、自分が絶体絶命の危機に臨んだまさにその時、そういう形で返そうとしてくれた。
信長は、藤吉朗が両膝を掴んで必死に震える身体を抑えながら殿を志願したその姿を見たとき、藤吉朗を抱きしめてやりたいほどの情愛を感じたし、心の底からこの小男を信頼する気になったのである。
織田家中でのそれまでの評判を一変させたという意味でも、信長から絶対の信頼を勝ち得たという点においても、今回の金ヶ崎での働きは、その後の藤吉朗にとって、巨大な財産になったと言っていい。
木下 藤吉朗 秀吉のこの活躍は、「金ヶ崎の退き口」という名で、同時代はもちろん後世にまで有名になる。
小一郎の献身と半兵衛の努力は「秀吉」の名の前に隠れて見えないが、もしこの両人がなかったなら、「豊臣秀吉」はこのときあるいは死んでいたかもしれず、日本史は今とまったく違ったものになっていたかもしれない。