第34話 金ヶ崎の退き口(1)
岩肌に打ち寄せ砕け散る波の音が、遠く時を刻んでいる。
頭上を仰げば、落ちてきそうなほどの満天の星。
けれど、月はどこを探しても見あたらない。
(夜明けの頃になれば、あの手筒山の上に有明月が顔を出すじゃろう)
楠の大樹の根元にもたれかかり、眠れぬままに夜空を見上げていた小一郎は、そんなことを考えながら、つかの間の安息の時を過ごしていた。
左手に黒々と聳える手筒山の山頂には、昨日激戦が行われたばかりの手筒山城がある。そこから立ち昇る白煙が弱々しい篝火に照らされてかうっすらと浮かび上がり、中空にたなびきながら闇に溶けてゆく様が、遠目にもなかなか美しかった。焼けた城のあちこちが、まだ燻ぶっているのだろう。
(死んでしもうたら、あの煙のように空に消えてゆくのじゃろうか・・・)
小一郎は、多少感傷的な気分になっている。ほんの数時間前、荷車に山積みにされて京へと運ばれてゆく数多の生首を見たせいでもあったろうか。
この越前征伐の「緒戦の快勝」を喧伝するために将軍に献上され、やがては京の六条河原に曝される無数の首。その首の1つ1つに、親があり、妻があり、子があり、死んだことに涙する人々が確かにいるはずだった。敵の首と味方の首とに、いったいどれほどの違いがあるというのだろう。
(修羅道というヤツじゃなぁ・・・)
仏教では、「世に6つの世界がある」と僧は説く。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道というのがそれで、総じて「六道」というらしい。中でも修羅道とは、「戦いの業」にとりつかれた者がゆく場所で、衆人は常に諍い、闘争が絶えることのない世界であるという。
(首を賭けて他人と争い、首をいくつ取ったと朋輩と競い合う。侍っちゅうもんは、どうにも救いようがないわい・・・)
ごく素朴な念仏信者である小一郎でさえ、その程度の仏教知識は持っている。たとえば小一郎が生まれ育った尾張中村には寺の共同墓地に「六道の衆生を救済する」と謂れのある苔むした六地蔵があり、先祖の墓――墓といっても石を積んだだけの供養塔だが――に参るたびにその地蔵たちにも手を合わせたものだ。
もちろん、別にありがたいと思うわけでもなく、それで来世が救われると信じているわけでもない。「人が尊いと言うものならば拝んでおいて間違いはない」という程度の気持ちであるに過ぎず、小一郎に仏教や念仏に対して深い思い入れがあるわけではなかったが、それでも顔馴染みの古坊主が檀家を集めて説教をたれるときには最後まで飽きずに話を聞いたし、念仏講や庚申講などの村の集まりにも欠かさず参加し、抹香臭い夜話を肴に酒を飲みもした。
そういう日々の暮らしの中から自然と身に付いた一種の「常識」が仏教であり、常識であるがゆえにこの時代の人々の心に深く根ざしているとも言えるのである。
小一郎は、金ヶ崎城のある小高い丘のような山の麓――第一の木戸(大手門)がある外廓からすこし離れた林の中にいた。
金ヶ崎の城内に、4万を越す織田兵すべてを収容できる建物はない。屋根のある場所に寝床を確保できたのは、おそらく千人にも満たないであろう。木下勢を含め、多くの部隊が城の周辺や山麓に陣屋を設け、野営をしていたのである。もっとも、今回の朝倉攻めは季節に恵まれているから、雨さえ降らねば外で寝起きするのに何の不自由もない。
敦賀の主城である金ヶ崎城の立地は、3方を海に囲まれた天然の要害である。
敦賀平野は、西に海、南北東には衝立のようにそれぞれ山岳が立ちはだかっているのだが、北方にあるのが昨日攻め落としたばかりの天筒山で、そこから北西に延びた尾根がそのまま敦賀湾に突き出て小さな半島になっていて、金ヶ崎城はその半島の山頂部に築かれている。
この城の起源は古い。
平通盛が木曽義仲の南下を防ぎとめるために築いたとされているのが通説で、つまりは源平の昔のことである。
『太平記』の記述によると、
「三方は海に依って岸高く岩滑なり。巽(東南)の方に当れる山(天筒山)一つ。城より少し高くして 、寄手城中を目の下に直下すといえども、岸絶へ、地けわしく崖にして、近付け寄れぬれば」
といった有様だから、正面攻撃しかできないという意味で非常に攻めにくい城であると思ってもらえば、まず間違いない。
金ヶ崎城には朝倉一門の朝倉景恒が敦賀の代官として在城していたのだが、頭上の手筒山城が落ち、半島の根元を埋め尽くすような織田の大軍を目の当たりにして戦意を喪失したらしい。城兵の命の無事を条件に開城し、兵を率いて去った。
信長はすぐさまここに本陣を移し、さらに越前へと攻め込むべく態勢を整えた。
先鋒は、客将である徳川家康が率いる三河勢5千と明智光秀が率いる織田勢2千。金ヶ崎の落城後、休む間もなく木の芽峠を目指して先発して行った。
木下勢を含めた織田勢の主力は、明日の27日をもって出陣するとすでに通達がなされている。
(明日はいよいよ越前か・・・・)
そう思うと、小一郎にも多少の感慨がある。
尾張で泥田をかき回す百姓であった頃、小一郎にとっての遠出といえばせいぜい清洲の城下まで買い出しに行くことであり、他国の山野を見ることなどは考えられなかった。母や妹に野良仕事を押し付けて自分だけが遊山の旅をするなどはできることではなかったし、まして各地に無数にある関所を通してもらうような銭があろうはずもない。尾張から見れば越前などというのは日本の裏側で、大げさに言えば現代人が地球の裏側へ旅をするというような、気の遠くなるような感覚なのである。
考えてみれば、それもこれもすべて、信長というたった一人の男に起因している。信長が尾張半国の主になってから、わずか二十年ほどで、尾張を――日本を――ここまで変えてしまった。
小一郎は己の心境をあらわす適当な言葉を見つけることができなかったが、
(とにかく、これは凄いことや・・・)
と、そんなところで信長の偉さを実感したりした。
深更というほどの真夜中でもないが、あたりは静寂に包まれている。
小一郎のすぐ背後の林間には、幔幕を張り巡らせただけの木下勢の本陣があり、つい先ほどまで藤吉朗とその幕僚たちが集い、明日の行軍予定などについて軍議が持たれていた。しかし、不意に信長が主立つ武将たちに参集を命じて来たため、藤吉朗は大慌てで金ヶ崎城へと出向いて行った。
藤吉朗が不在のままに議論をしていてもしょうがないから、自然、軍議はお開きになり、諸将は三々五々、己の手兵の元へと戻って行った。今頃は具足も脱ぎ、横になったり座り込んだりしながら身体を休めているはずである。
(この空の様子ならば、明日も天気は良さそうじゃな・・・)
小一郎は木の根に寄りかかったまま、いつしか眠りに落ちていた。
翌朝――
小一郎は未明に目を覚ました。
「殿はまだ戻られんのか?」
寝ず番の兵に確認したが、藤吉朗はまだ城から戻っていないらしい。
しかし、行軍予定に変更の知らせがあったわけでもない。
小一郎は、ともかくもその日の出陣の支度を始めることにし、身支度を済ませると全軍に起床を命じた。
朝は、小一郎がもっとも忙しい時間帯である。
荷駄隊の者や小姓などを指揮して木下家の人々が食べる朝餉(朝食)と1日分の腰兵糧を整え、それを各隊に支給する。これを手早く、しかも順序良く行わないと、刻限までに出陣の支度を終えることができなくなる。
木下勢の寄騎(与力)の各隊には昨夜のうちに必要な糧食や物資はすでに配り終えているが、3千人が食事を取るのだからなかなかに時間が掛かる。大将である藤吉朗の手勢が他の隊より遅れては皆に示しがつかないから、宰領する小一郎にとってはこれも真剣勝負である。
小一郎は、卯の刻(午前6時)にはすべての手配りを済ませ、本陣をたたみ、荷造りを終え、街道に軍勢と荷駄を整列させ、進発の軍令を待つのみ、という状態にまで仕立てた。
しかし、それでも藤吉朗は戻らない。
やむを得ずそのまま待っていると、しばらくして城から使い番の騎馬武者が駆けて来て、
「出陣を一時見合わせる! 新たな下知あるまでそのままに待たれよ!」
と馬上から叫ぶや、大慌てて次の部隊を目指して駆け去って行った。
「何やらおかしいですね」
傍らの半兵衛が小声で言った。嫌な予感がする、と、顔に書いてある。
小一郎も、無言で頷いた。
(我らの背後で、なんぞ起こったか・・・?)
考えられることは、いくらでもある。
たとえば、一揆。信長の支配を快く思わない寺社勢力や六角氏の残党などが、信長不在の畿内で一揆を起こすということは十分にあり得る。噂では六角義賢(承貞)は伊賀に逃れ、南近江の奪回を虎視眈々と狙っているというし、一向門徒を中心とする一向一揆も、なかなか侮れない軍事力がある。
また、外敵の襲来というのもあり得る。四国でおとなしくしている三好三人衆などはまだまだ地力があり、織田勢が大挙して北陸征伐に出たと知れば、手薄な京を狙って攻め寄せて来たとしても少しもおかしくない。
(信長さまには、敵が多いからのぉ・・・)
本国の尾張、美濃あたりは同盟国に囲まれているから周辺が割りあい安全だが、近畿はまだ完全に織田家に服属しているとは言いがたく、政情が不安定だった。どんな不測の事態が起きたとしても、それほど不思議はないのである。
しかし――
(解らんもんは、考えても無駄じゃな)
と、小一郎は考えるのを止めた。
正確な情報がない中でいくら推測してみたところで正解に辿りつくことは不可能だし、下手な予断をもって浮き足立ってもしょうがない。隊を率いる小一郎がそわそわしていては、その不安は何層倍にもなって下の者たちに伝わってしまうのである。
「ともかく、このまま兵を立たせておいて疲れさせてもつまりません。一度隊列を解き、兵を林に入れて休ませておきましょう。荷駄はもう作れておりますから、出陣の軍令があっても、すぐに出発できますから」
半兵衛の意見を容れ、小一郎は全軍に休息を与え、藤吉朗が戻ってくるのを待つことにした。
その間、使い番の武者が何人も、引っ切り無しに街道を往復していた。
陽もだいぶ高くなった頃、2騎の武者が、砂煙を巻き上げるようにして駆けてきた。木下勢の前を通り過ぎ、金ヶ崎城へと向けて駆けて去って行く。
男たちが背負う指物は、“三つ盛亀甲”――浅井氏の家紋である。
(浅井の武者が、今頃、何用じゃ?)
小一郎は首を捻った。
浅井勢は、今回の北陸征伐にどういうわけか参加していない。大将の浅井長政は京から国へ帰り、湖北の小谷城に居るはずである。
何か報せを持ってきたのであろうか――
などと思ううちに、四半刻(30分)もせぬうちにその男たちは来た道を戻って帰っていった。
男たちの張り詰めたような表情を遠目に見た小一郎は、
(悪い報せじゃな・・・)
と、なんとなく直感した。
それからさらに半刻――昼を過ぎる頃になって、ようやく藤吉朗が戻ってきた。
「いったいどうなっとるんじゃ。なんぞあったんか?」
小一郎が尋ねると、
「退き陣(撤退)じゃ。浅井が裏切った・・・!」
藤吉朗は、顔を異様に紅潮させながら吐き捨てるように言った。
織田勢の大半は、金ヶ崎城の周辺に布陣している。
先鋒の徳川勢、明智勢などはすでに敵国の入り口とも言うべき木の芽峠まで先発していたし、これに続く柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛らの2陣、3陣も、金ヶ崎のやや北方に宿営して今日の進発の号令を待っていた。
前方の越前には、まだ無傷の朝倉本軍がいる。朝倉氏の国力を考えれば、3万近い軍兵が満ち満ちていることだろう。
この状態で、背後の浅井氏が敵に回ったのだからたまらない。
織田勢は、狭い敦賀平野に閉じ込められ、南北から挟撃される形勢なのだ。
(・・・これは、いくらなんでもマズいのとちゃうか・・・)
小一郎でさえそう思ったくらいだから、この場にいた誰もが、瞬間的にこの危機的状況を理解していた。
絶体絶命とまで言っても、決して大げさではないのである。
「それで、これからどうするんじゃ!?」
普段温厚な蜂須賀小六までが、血相が変わってしまっている。
「信長さまは、敵が殺到してくる前にこの場から撤退し、京まで戻って態勢を立て直すおつもりじゃ」
「一戦もせずに、せっかく取ったこの敦賀を捨てるちゅうんか?」
前野将右衛門が驚きの声を上げた。
「そうよ。まだ戦になっておらぬ以上、織田が朝倉に負けたことにはならぬでな――」
と、言いかけた藤吉朗の背後から、凄まじい馬蹄の響きが近づいて来た。
振り向いた小一郎らが見たものは、街道を駆ける信長を先頭とする一団だった。
信長は、重さを嫌ったのか、鎧さえつけていない。凄まじい速度で街道を駆け抜け、馬廻りの武者たちが必死にこれに付き従い、槍持ちなどの徒歩が懸命にその後を追って駆け去った。さらに金ヶ崎城にあったはずの部隊が続々と城を出、数千人の行列がもみあう様にして南を指して駆け、小荷駄を積んだ馬の列がこれに続いてゆく。
「さしあたって若狭。その後、近江の朽木谷を目指されるっちゅう話じゃ」
それを見送りながら、藤吉朗が言った。
「もうお退きになられたんか・・・!」
小一郎はその素早さに呆れるような思いだった。己の軍勢を置き去りにして、大将が真っ先に戦場を離脱するなどという話は古来聞いたこともない。しかも、戦に負けて逃げるのではない。戦になる前に逃げ出したのである。
ここまで進退が鮮やかだと、ある種の清々しささえ感じてしまうではないか。
「浅井の離反の噂が広まれば、近江の豪族たちもどう動くか解らん。六角の残党どもがこれに結びつかんとも限らんしな。じゃが、幸いにして琵琶湖の西側にまでは浅井の目も届きにくい。朽木谷まで辿りつければ、まずまず京へは帰り着けるじゃろう」
「ならば、わしらも急がねばならんな!」
小一郎は我に返ったように言った。
退却するならするで、そのための準備がいる。
(兵には2、3日分の腰兵糧のみを持たせ、残りの兵糧荷駄は捨てて行くか――惜しいが、背に腹は代えられん。命あっての物種じゃしな・・・)
差し当たり、京まで戻れれば後はなんとかなるだろう。
そんなことを考えていた小一郎の思考を、
「その必要はないわい」
という藤吉朗の一言が遮った。
藤吉朗は、底光りするような異様な眼光を小一郎に向けた。目尻がつり上がり、小鼻が膨れ、内心の興奮を必死で抑えている、といった表情である。
「わしらは全軍の殿払いじゃ」
「殿払いじゃと!? わしらが殿っちゅうことか!?」
藤吉朗のとんでもない一言が、その場に居る者たちの思考をほとんど停止させた。
殿――殿軍、殿払いなどとも呼ぶが、意味は変わらない。要するに、全軍が無事に撤退を終えるまで、盾となって敵の追撃を防ぎ止める役割のことである。全滅さえ覚悟せねばならない悲痛な仕事で、今回のように圧倒的大軍を前に撤退しようとする場合、捨石というよりは人柱という方がむしろ実情に近い。
おそらく、百にひとつも生きて帰れないだろう。
「なんでわしらにそんな役が回ってくるんじゃ!? わしらの前には、丹羽さまも柴田さまも佐久間さまもおらっしゃるではないか!」
敵を防ぎとめつつ逃げねばならない殿は、戦場においてもっとも難しい役割とされている。その軍の最強部隊をもってこれに当てるのが当然で、多くの場合、先鋒に配置された部隊が逆順になってそのまま最後尾の殿を努める。
しかし、今回の越前征伐では、客将である徳川家康が全軍の先鋒になっていた。援軍に来てくれた部隊にもっとも損耗の激しい殿までやらせるというのでは、織田家は天下の失笑を買うであろうし、その節義が疑われてしまうことにもなろう。
つまり、殿はどうしても織田家の部隊で果たさねばならないという事情があり、それは小一郎にも十分理解できるのだが、それにしたところで木下勢の前方には、織田家で最強とされる柴田勝家の部隊もいれば家老の丹羽長秀、佐久間信盛の大部隊もいる。比較的後方にいる木下勢がわざわざ殿を引き受けるというのは、いささか不自然すぎるだろう。
しかし、藤吉朗はこともなげに言った。
「わしがやると願い出た。信長さまは、それをお聞き入れくだされたのよ」
「な・・・!?」
小一郎は絶句した。
(己の功名のためなら、わしらを死処に放り込んでも平気か!)
いきり立って怒鳴り返してやろうとした小一郎を、
「小一郎殿・・・」
半兵衛が静かに制した。その表情は、この場においてさえ、さざなみ1つ立たない水面のように落ち着き払っている。
「木下殿は、織田家の危難を救うために、自らこの難役を買って出られたのです。もう何も申されますな」
半兵衛のこの一言と、蜂須賀小六らの苦りきった表情を見たことで、小一郎は己の置かれた立場というものにようやく気が付いた。
この場にいる主立つ武将たちの半数以上は、織田家から出向している寄騎(与力)であり、藤吉朗の家来ではない人々であった。藤吉朗の身勝手で損なクジを引かされ、危険極まりないな役目を強いられ、その理不尽を迷惑に思っているのはむしろ寄騎の諸将であり、彼らの方こそ藤吉朗に嫌味の1つもあびせてやりたかったであろう。
しかし、この場に居る誰もが、間近に迫りつつある危機に憔悴しつつも、藤吉朗を罵るどころか不満の声ひとつ上げてはいないのである。
(・・・わしは、なんと浅はかな・・・!)
小一郎は痛感していた。
藤吉朗は、木下家においては「殿様」である。で、ある以上、極言すれば木下家の家来を生かそうが殺そうが藤吉朗の勝手であり、それに対して家来が不満を言うのは筋が違う。小一郎などは、藤吉朗の兄弟であり、木下家の家臣筆頭である以上、こういう時には、藤吉朗のためにも、寄騎の諸将の手前という意味でも、真っ先に死を買って出るのが当然で、文句など言えた筋合いではなかったのだ。
(この場でわしが何を言うても、己の身可愛さに臆病風に吹かれ、見苦しくもうろたえておるわと人に思われ、恥をかくだけなんじゃ・・・)
それどころか、藤吉朗の兄弟である小一郎がこの藤吉朗の身勝手に不満などを言えば、その身勝手に付き合わされる寄騎の諸将などは藤吉朗のために奮戦してやろうという気を失くし切ってしまうであろう。
小一郎は、藤吉朗のために、自ら進んでもっとも多くの矢弾を浴び、もっとも多くの血を流さねばならない立場だったのである。
小一郎は、瞬時にそこに思い至った。そして、失言を吐いてしまいそうだった自分を止めてくれた半兵衛に心から感謝した。
神妙さを取り戻した小一郎の表情を見て取ったのか、
「さぁ、金ヶ崎の城に入るぞ! あの城に篭り、敵を斬り防いで時を稼ぐんじゃ!」
藤吉朗は諸将に宣言するように言った。




