第33話 越前討ち入り
小一郎が家来集めのために京を離れるとき、藤吉朗は意味深な笑みを浮かべながら、「春までには帰ってこい」と念を押した。
その言葉の意味が、京に戻ってようやく小一郎にも解った。
元亀元年(1570)春――
信長が、大軍を率いて北方征伐に出陣したのである。
若狭出兵という触れ込みだが、どうやら信長は、越前(福井県)に盤踞する朝倉氏を攻める腹らしい。
信長は、足利義昭に「五ヶ条の掟書き」を送りつけたのと同時期、近隣の大名小名たちに義昭の名で触れ書きを送っていた。
「天下静謐のために上洛し、幕府と朝廷に礼参せよ」
といった内容で、ようするに信長は、将軍の命に従って上洛するかどうかを見ることで、自分にとって誰が味方で誰が敵かを判断しようとしたらしい。
信長は村井貞勝らに命じ、昨年新築した将軍御所とは別に京の六条に義昭の邸宅を作ってやっていたのだが、この別邸が春に完成する。その落成祝いの宴席を設けるから、諸大名はそれに参賀せよ、という名目で、近畿、東海、北陸などの諸大名に上洛を促した。
この平和行事に参加するために、元亀元年の春、織田家の同盟大名たちは続々と京に集まった。
三河の徳川家康、北近江の浅井長政、南伊勢の北畠具教、飛騨の姉小路頼綱、大和の松永久秀、北河内の三好義継、南河内の畠山昭高など、錚々たる顔ぶれである。
信長は集結したこれらの大名の軍勢の大半をそのまま引き連れ、4月20日、電撃的に京を出陣した。
表向きの行き先は、若狭――。
しかし、公家である山科言継の日記にもはっきり「3日の間には越前に攻め込む予定」と記載されているところを見ると、この出兵の意味というのはすでに世間に知れわたっていたらしい。
信長は、上洛要請に従わなかった朝倉義景を討つつもりなのである。
朝倉氏の当主である朝倉義景は、信長より1つ年長で、このとき38歳。
老大国の王にふさわしく、保守的で優柔不断で腰の重い人物であった。
そもそも朝倉氏というのは室町管領だった斯波氏の越前守護代で、尾張の守護代であった織田氏とは、その成り立ちからしてライバル的な存在と言っていい。織田氏の分家である信長の織田家が尾張で戦国大名化したように、朝倉氏は越前において下克上によって守護の座を奪い、戦国大名に成り上がったわけである。5代・90年にわたって80万石近い勢力を蓄えた朝倉氏の力というのは侮りがたく、この当時、若狭の武田氏、北近江の浅井氏などを従属させるほどに強勢を誇っていた。
朝倉氏の本拠である一乗谷は、“北陸の小京都”と呼ばれている。
富強な朝倉氏の武力と財力とに守られた一乗谷には、応仁の乱以降、荒廃した京から多くの公家、僧、職人などが逃れて来た。歴代の朝倉当主たちは快くそれらを受け入れ、芸能・文化の振興と発展に努めたから、一乗谷には独特の「朝倉文化」が花開き、繁栄を極めていたらしい。
その一乗谷には、流浪時代の足利義昭も一時滞在している。
この物語の現在――元亀元年(1570)――から数えてほんの5年前、第13代将軍 足利義輝が松永久秀らによって殺されたとき、僧だった義昭は還俗して諸国を放浪し、近江の六角氏、若狭の武田氏を頼り、次いで越前の朝倉氏の元に身を寄せた、ということは先にも触れた。
朝倉義景は、若狭に亡命していた足利義昭を越前に迎え、一乗谷に仮御所を築いてこれを住まわせ、義昭の元服式のときにはその加冠親役を務めてやっている。足利将軍家と朝倉家の繋がりは以前から強かったのだが、足利義昭と朝倉義景の間にはそのような直接的な情誼までがあって、幕臣たちも朝倉氏には強い好意を抱いていた。
流浪の足利義昭は、朝倉氏の力を背景に京に返り咲き、将軍になるべく、さかんに朝倉義景に働きかけたのだが、義景はその義昭の願いを相手にしなかった。
やがて失望した義昭の方が越前を去り、信長を頼って岐阜に行き、織田家の武力によって上洛を果たした、というのはこれまでに触れてきた通りなのだが、このことは義景にとっては痛恨事だったであろう。
義景のような思考が固陋で果断さのない性格の男には、足利将軍の利用価値も解らなければそれを押し立てた上洛などは現実問題として考えられなかっただろうが、実際に信長によって呆気ないほどの容易さでそれが実現されてみると、千載の好機を逸してしまったという後悔が潮のように彼を満たしていたであろうことは想像に難くない。
(わしがあの時腰を上げておれば、今の信長の位置に自分が座っておったはずなのに・・・!)
という慙愧の想いが義景にはあったはずだし、それが信長に対する嫉妬と憎しみに繋がってもいたであろう。
その信長が、「京に出て来い」と権高に命じてくる。
頭に来こそすれ、素直に従う気になどなれようはずがない。
(わしが信長ずれに頭を下げねばならん謂れはどこにもないわ)
と、信長の再三の上洛要請を無視し続けたのである。
この義景の峻拒は、信長にとっては想定内だったろう。
むしろこの峻拒によって、信長は朝倉氏を討伐するための名目を得たようなものであった。
将軍の命に従わない者は、将軍に代わって信長が成敗する――
「五ヶ条の掟書き」にはそう明記されており、将軍である義昭はそれを支持しているのである。
信長は、朝倉義景を「将軍の敵」と認め、これを攻めることにした。上洛した諸大名の軍勢を「将軍の代理」という資格で引き連れ、電光石火の素早さで行動を起こしたのである。
このとき信長が率いた兵力は、諸説あってはっきりしない。
10万余という説もあり、3万程度だったとする資料もあるが、筆者は、同盟軍を合わせて4、5万ほどであったと考えている。織田家の兵が2万数千、畿内の同盟軍が1万数千、徳川家康率いる三河勢が5千といったところだろう。
ちなみにこの遠征には、浅井長政率いる北近江勢が参加していない。
信長の妹 市の婿である浅井長政は、信長の義理の弟である。
織田家と浅井家は婚姻を契機に非常に良好な同盟関係にあり、上洛戦においても伊勢征伐にしても、長政は信長の要請に応えてよく働いた。しかし、今回の朝倉攻めに関しては、浅井氏の立場は微妙なものだと言わざるを得ない。
先にも触れたが、この当時、浅井氏は朝倉氏に従属していたのである。
北近江を奪って戦国大名化した浅井氏は、南近江の六角氏に対抗するために越前の朝倉氏を頼り、その庇護を受けていた。この関係は長政の祖父 亮政の代から40年近くも続いてきたもので、ほんの数年間に過ぎない織田家との同盟などとはその誼の深さにおいて比較にならないのである。朝倉氏の本拠である一乗谷には浅井氏のための屋敷までがあったほどで、独立の戦国大名であると言うよりは、朝倉氏の被官(家来)であったとする方がどうやら真実に近い。
このため、長政は信長と同盟するとき、「朝倉氏とは矛を交えない」という誓紙まで取ってその確約を得ていた。朝倉氏に従属している浅井氏とすれば、織田と朝倉が喧嘩をしてもらっては困るのである。
しかし、信長は、その誓約を反故にして朝倉氏を攻めようとしている。
この辺り、信長と長政の意思疎通がどの程度できていたのか、実はよく解らない。
信長の気持ちを想像してやるなら、浅井長政に朝倉攻めに加われと命じることには、さすがに後ろめたさがあったであろう。本音を言えば「朝倉を見限って織田につけ」と迫りたい気持ちもあっただろうが、そこまでするのは情誼の上から酷だと、信長は長政を思いやった。
約束を反故にしているという意味で非は信長にあり、信長はそれをよく自覚しているのである。
浅井氏には、織田・朝倉のどちらにも肩入れをせず、不戦の態度をとってくれれば良し、というくらいに考えていたのではないか――
そして、信長が朝倉攻めに踏み切った以上は、長政からその種の「黙認」を取り付けていたと考える方が自然であるように思う。
一方、浅井氏の側はと言えば、若い長政は比較的信長寄りだったのだが、長政の父 久政は大変な朝倉贔屓であり、誓紙まで取った「朝倉を攻めない」という同盟の条件をあっさり反故にした信長に対する反感や不信感も家中で強かった。
約定を守らないという信長の態度は、浅井氏に対する侮りであるという風にも解釈できる。「信長、信ずるに足らず」という非難の声は遼遠の火のように広がり、損得利害ではなく、信長の人間性に対する嫌悪の情と、長年にわたって恩義を受けた朝倉氏に対する親愛の情が家中で支配的になった。
そのような家中のコンセンサスが、朝倉寄りの久政を後押しする形になり、信長寄りの長政を苦しめることになったというのは想像に難くない。
政治とは、一面で感情なのである。
長政は、信長が京を出陣した数日後、隠居の久政と浅井家の老臣たちに押し切られる形で、織田家との同盟破棄を決める。
これを裏切りと見るなら長政は「不義の人」ということになるが、織田家に対して不意打ちをせず、正式に使者を遣わして誓紙を突き返し、同盟破棄をわざわざ信長に伝えた長政のやり様を思うと、彼が筋を通すタイプの生真面目な青年であったことは認めて良いように思う。
そういう人間と見抜いていたからこそ信長は、この妹婿を無条件で信じたのであろう。
信長は、人を見抜くことに鋭く、安易に他人の言葉を信じず、また博打のような考え方も好まず、政・戦いずれに対しても入念な上にも念を入れる慎重な性格の男であった。信長ほど聡明で他人に騙されない男も稀なのだが、しかし、その信長が、結果として何人もの家臣や同盟者に裏切られ、煮え湯を飲まされるというのは、何やら奇妙な感じさえ受ける。
信長は、これから、信じた浅井長政に裏切られる。さらに後には、何度も命を助けてやった松永久秀に背かれ、小大名に過ぎない境遇から抜擢を繰り返して織田家の軍団長にまでしてやった荒木村重に寝返られ、挙句の果てには、浪人のような境涯から拾い上げ、織田家一の出頭人と呼ばれるまでに出世させてやった明智光秀の謀反によって本能寺で殺されるのである。
ここに、信長という男の不思議さがあるように思う。
信長は、「敵」と認識した相手に対しては一切容赦をせず、一片の情けも掛けず、いかなる隙も見せない冷徹無比な男だったが、自分が目を掛けてやった人間に対しては、持ち前の猜疑心の働きが鈍ってしまうようなところがあった。
この俺がよくしてやった人間が、俺を裏切るはずがない――
という信条が信長の中にはあったのか、あるいは「この男は信じられる」といった自分の直感に絶対の自信を持っていたからか、「敵」には騙されたためしがないというほどに読みが深いはずのこの男が、味方に対してはときに甘さを見せ、無用心としか言いようがないほどに無防備に横腹を曝してしまうのである。
信長という人間を考えるとき、このあたりに何やら重要なツボがあるような気がしてならない。
さて――
木下勢は、織田軍の主力としてこの遠征に加わることになった。
京の守備は畿内の小大名たちに任せ、藤吉朗は揮下3千の全軍に出陣を命じた。伊勢征伐に参加できなかった小一郎と半兵衛も、今回は満を持して遠征軍に参加している。
ところで、織田軍は、一般に軍装が華美である。
これは、兵たちに軍装の綺羅(煌びやかさや伊達さ)を競うような気分があるからで、大将である信長の派手好みの性格と、武士たちの経済的な富裕さに由来していると言っていい。
合戦場は、武士にとっての晴れ舞台であり、男の見せ場である。武将たちはそれぞれに身を飾り、思い思いのセンスと拘りで装束を美々しく整えた。
派手好みということでは人後に落ちない藤吉朗も装束には常に気を使っていて、鎧の威し糸などは赤、白、藍色など3、4色も使った手の込んだものをわざわざ作らせているし、陣羽織はド派手な緋色の羅紗製のものなどを好んで愛用している。
これに比べると、小一郎などは地味なものである。
小一郎は、黒糸で威され黒漆で塗られた桶側胴の当世具足に身を包んでいる。馬に乗る身分になってから新調したものだが、余計な装飾などには一切金を掛けずに済ませたために同色の頭形兜には前立てさえ打ってない。使い古した無地の陣羽織を羽織っていることもあり、質朴と言うよりむしろ貧乏臭く見えるほどである。
愛馬は鹿毛の牝。馬齢はさほどでもないが、色といい、馬格といい、名馬には程遠い安物で、その背に置かれた鞍も黒漆が剥げた年代物だった。
5千石もの禄を食む大身の侍にはとても見えない地味さ加減である。
ちなみに小一郎の隣でゆったりと馬をうたせている半兵衛は、萌黄色の木綿糸で威した革具足を着込み、“虎御前”と名づけられた細身の太刀を腰に佩き、浅葱色に染めた木綿の胴服を長々と打ち羽織っている。
革具足というのは馬の皮をつぶ漆で塗り固めたものを小札にしているわけで、鉄砲の鉛弾なら簡単に貫いてしまいそうな頼りなさなのだが、鉄の小札を継ぎ合わせたものより遥かに軽くて着ていて楽なのだそうで、初陣の頃からそれを愛用しているのだという。
黒漆で塗られた兜の立て物は“一の谷”。天に向かって舟が帆を広げたようなデザインで、父親から譲られたものなのだそうだが、小一郎は半兵衛がその兜をかぶっているところを見たことがない。
「重いので、あまり好きではないのですよ」
というのが本人の弁で、この日も兜は小者に持たせ、侍烏帽子に鉢巻という姿であった。
ともあれ、木下勢の後衛の指揮を任された小一郎は、半兵衛と共に織田勢の長蛇の列の中ほどを征く。
左右では、この出陣を見物しようと集まった京の人々が万余の人垣を作っていた。
(戦らしい戦といえば、あの「六条合戦」以来じゃな・・・)
と、小一郎は思った。
あのときは真冬で、豪雪と寒さにずいぶんと苦しめられた。
しかし、今回は、季節はもはや初夏である。陰暦の4月20日といえば我々が使っているグレゴリオ暦では5月24日にあたり、京では五条あたりの鴨川べりに並んだ桜はとうに散り落ち、新緑の息吹がはじけるように季節を色付かせている。五月晴れの空はどこまでも高く、頬を撫でてゆくやわらかな風さえもが光っているようだった。
小一郎たちは、行軍の列に従って将軍御所から室町通りを北へとのぼり、応仁の乱で焼け、以後百年荒れたままになっている室町第(花の御所)の跡地で右に折れた。相国寺の大伽藍を左手に見ながらしばらく進むと、やがて上京の「構え」の北東の端に行き着く。
ここに置かれているのが大原口の木戸で、これを抜けるとすぐに鴨川にぶつかり、立派な橋が架けられている。
この橋を渡って北の比叡山へと向かっているのが後に「鯖街道」の名で整備される朽木越えの旧道で、東へと向かえば半日と掛からず大津、坂本、堅田といった琵琶湖南岸の都市へと行くことができる。
織田勢は、この20日のうちに坂本を経由して近江の和邇まで陣を進め、以後は琵琶湖に沿って北上し、21日に近江の田中に着陣。ここから進路を北西に取って琵琶湖を背に山を登り、22日に若狭の熊川、23日に若狭の佐柿と軍を進め、ここで一時軍を留めた。
近江の田中から琵琶湖に沿ってそのまま北上し、同盟軍の浅井氏の領地を通って直接越前へと向かうルートもあるにはあったのだが、若狭には武藤友益など若干の敵対勢力が残っていて、これらをそのままにして越前に攻め入ると、背後を脅かされる恐れがあったからである。
信長はまず若狭に軍を入れ、織田勢の凄まじい大軍容を示して威圧を行い、若狭の国衆(地侍)たちを大人しくさせた後、満を持して25日、敦賀に侵入し、妙顕寺(敦賀市元町)に本陣を据え、朝倉氏の手筒山城に攻めかかった。
要害を誇った手筒山城は、わずか一日で落ちる。
朝倉方は、今回の信長の電光石火の襲来を、ほとんど予期していなかったらしい。城兵は少なく、一乗谷からの援軍も準備に手間取って間に合わなかった。
織田勢は火を噴くように城に猛攻を掛け、約1400もの首を斬獲するという大勝利を挙げた。緒戦に圧倒的な力を見せ付けるというのは戦争のセオリーだが、それにしても損害を度外視した無理攻めだったようで、味方の手負い、討ち死にの数も凄まじいものだったらしい。
翌日は、敦賀の主城とも言うべき金ヶ崎城を包囲。
藤吉朗が使者に立って守将の朝倉景恒を説得し、これを無血開城させた。
織田勢のあまりの勢いに、抗し切れぬと見たのであろう。
同時に信長は疋田城にも兵を送って開城させ、これを破却した。
信長は、開戦わずか2日で、3つもの城を落としたことになる。
この時点で、北陸の前庭にあたる敦賀平野を完全に奪い取ってしまったと言っていい。
(この信長さまの勢いは、もはや誰も止めることはできんわ)
戦勝に酔いしれる兵たちの雰囲気に巻き込まれながら、小一郎なども無邪気にそう思った。
向かうところ敵なし、とは、まさにこういうことを言うのだろう。
連戦連勝の織田勢は、楽勝ムードの中にある。
「浅井長政、同盟破棄!」という驚くべき報に織田勢が大混乱を来たすのは、このわずか十数時間後のことである。