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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第32話 足利義昭の「暗躍」

 伊勢の平定を終え、京に凱旋して足利義昭に戦勝報告などを行った信長は、そのまま数日畿内の政務をこなし、10月の半ばに岐阜へと帰っていった。


 永禄12年は、そのまま何事もなく暮れた。

 翌永禄13年(1570)は、4月23日をもって元亀元年と改元される。

 混乱を避けるためにも、この物語では元亀の年号で通すことにしたい。



 信長は、元亀元年の正月を期に再び家臣団の再編成と論功行賞を行った。


 伊勢平定に先立ち、志摩の豪族たちの盟主的な存在であった九鬼氏が織田家によしみを通じて来ていた。織田家の領地は尾張、美濃、伊勢、志摩、南近江の五ヶ国まで増えており、堺、京、大津、草津、岐阜、清洲などの大都市から上がってくる運上金(税収入)も莫大で、その経済的実力はすでに三百万石を優に超えていただろう。北近江、三河、遠江、山城、大和、摂津、河内、和泉、若狭、丹後、丹波などもすべて同盟国となっており、本州の中心部がほぼ織田一色に塗り替えられたと言っていい。


 先年の「六条合戦」および伊勢征伐における木下勢の活躍と、京奉行としての藤吉朗の功績を認めた信長は、藤吉朗の禄をそれまでの二万石から一気に五万石にまで引き上げた。

 五万石といえばその実力は小さいながらも大名と呼べるほどで、織田家中を見渡しても十指に入る大身になった。


 これに伴い、木下家の第一の臣である小一郎の禄も、一躍四千石まで増えた。


 そもそも小一郎にはほとんど出世欲のようなものがなく、己の禄高などはそれほど気にしていなかったのだが、藤吉朗の家来の中で、小一郎の禄高は常に群を抜いて大きかった。木下家の第一の臣として藤吉朗の働きを影で支え続けている小一郎の存在の有難さと大きさを、藤吉朗自身が誰よりも認めていたし、それに感謝もしていたからであろう。


 伊勢平定が終わってからの小一郎は、平穏な中でも忙しい日々を送っていた。

 差し当たっての最重要課題は、木下家の家臣団を作ることである。


 木下家が5万石の身代を持つようになった以上、これからは戦場では5万石分の戦役を果たさねばならぬ義務があり、最低でも千五百人程度の人数は家来として抱えておかねばならない。何より必要なのはまずその頭数だが、木下家の今後というものを考えれば家来の質もまた重要になってくる。


 そもそもが土百姓の出である藤吉朗には、武士の親戚や縁者もなければ譜代と呼べるような郎党もない。その意味では、ここで抱える人間たちこそがそれに代わる重要な人材ということになってくるわけで、いい加減な人間を集めてお茶を濁すわけにはいかないのである。


 織田家に属していた小身の侍で、この時期、木下家に移籍した者は多い。


 加藤光泰、山内一豊、仙石秀久、中村一氏、一柳直末、堀尾吉晴、脇坂安治、山口正弘、森吉成(後の毛利勝信)などがそれで、これらはいずれも50石とかそれ以下で織田家に仕えていた足軽に毛の生えたような若者たちだが、藤吉朗自らが信長にねだり、下級将校として貰い受けた。


 また、有名どころでは、浅野長政がいる。

 浅野 弥兵衛 長政は、蜂須賀小六の叔父である安井重継の息子で、藤吉朗の妻である寧々の妹 弥々(やや)の婿になり、浅野家を継いでいた青年である。藤吉朗とは相婿という関係で、つまりは義理の弟ということになる。


 寧々の義父 浅野又衛門が、織田家で“三指に入る精兵(弓の名手)”と謳われ、弓組頭を務めていた男である、というのは先にも触れた。

 又衛門は子宝に恵まれず、養女として寧々らの姉妹を引き取って暮らしていたのだが、姉の寧々を藤吉朗に拝み倒されて嫁に出してしまったため、浅野家を絶やさぬために妹の弥々には婿養子を取るしか仕方がなくなった。そこで、懇意にしていた安井重継の息子を貰い受け、弥々と娶わせ、浅野家の跡取りとしていたのである。


 又衛門は、織田家の弓組頭である浅野家というものに誇りを持っており、浅野家を織田家から離籍させて木下家の家来にすることには最後まで反対だったらしい。

 しかし、藤吉朗の熱心な説得に、ついにほだされた。藤吉朗の近年の目覚しい出世振りということもあり、この娘婿に、浅野家の命運を託す気持ちになったということだろう。浅野家当主の長政ともども木下家に転籍してくれた。


 長政は利発で明るく勇気もある将来有望な若者で、このとき23歳。藤吉朗や小一郎とは義理の兄弟、蜂須賀小六とは年の離れた従兄弟という関係もあり、木下家の今後にとって重要な役割を演じてゆくことになる。


 さらに、竹中半兵衛――


 と言いたいところだが、半兵衛は、この元亀元年の段階では木下家には属さない。

 これは蜂須賀小六などにも言えることだが、半兵衛や小六は、木下家に転籍を願うには少々大物過ぎた。木下家の家臣筆頭である小一郎の禄がまだ四千石という状態だから、それと同格かそれ以上の禄を要する彼らをまとめて木下家の臣とするには少々荷が重かったのである。

 小六を筆頭とする「川並衆」の棟梁たちや、尾藤知宣、生駒親正、神子田正治、戸田勝隆、石川光政など後に「羽柴家の武将」として名を馳せる面々も、小粒ではあるが事情は変わらない。藤吉朗の指揮下に属してはいるものの、その立場は相変わらず寄騎(与力)あり、籍は織田家に置いたままであった。

 半兵衛の地位が、信長の直臣であり「木下勢の軍監」であるという事実も、今まで通りである。


 半兵衛や小六たちが木下家に籍を置き、正式に藤吉朗の家来となるのは、北近江の浅井氏が滅び、藤吉朗が北近江3郡を信長から頂戴し、長浜で12万石の城持ち大名となる天正元年(1573)まで待たなくてはならない。



 ともあれ、こうして木下家の家臣団を整えるのは主として藤吉朗の役目だが、実際問題として藤吉朗一人ではとても手が回らない。京奉行の激務が相変わらずで、満足に時間を割いていられないからだ。

 物頭(部隊長)級の人材の選定や最終的な決済は藤吉朗がするにしても、それ以下の人材の人選びや面接、下交渉など家臣団作りの主要な部分は、やはり小一郎が責任を持たざるを得ない。


 ただ頭数を揃えるだけなら、さしたる苦労はなかったであろう。

 世は興亡の激しい戦国乱世である。主家滅亡の後、仕えるあるじを探して歩いている浪人者も多いし、足軽を募れば働き口を探している有象無象はいくらでも集まって来るから、京に居ながらでも人を集めるのには事欠かない。

 しかし、「身元がしっかりした人間」となると、これは途端に難しくなる。安易に人を雇って、そこに間者の類が混じっていても困るのだ。


 できれば出自がはっきりしている農家の次男や三男坊が良い。それもお国言葉が通じて気心が知れる同郷の者か、織田家に馴染みの深い尾張や美濃に暮らしている者が良い。また浪人者なら、多少は名の知れた者や経験豊かな者が良いに決まっているが、元の主家と履歴がはっきりしている者でなければとても召抱えられないし、性格的に倣岸な者や協調性に欠ける人間ではやはり困る。

 急がねばならないことは解っていても、こうして選り好みをしていては京で志願者を待っているだけではなかなか眼鏡にかなう者は集まらないのである。


 結局は、小一郎が足でもって人材を集めて回らねばならなくなった。


 小一郎は元亀元年の正月から京を離れ、尾張の郷里や知行地、美濃の村々などを巡り歩き、郷里の縁者や友人知人、農家の次男や三男、浪人者などで使えそうな人材を探して回った。


「とにかく4月までには戻ってこい。春から何やら忙しくなりそうじゃからの」


 出立するとき、藤吉朗はこう念を押した。

 小一郎は3ヶ月を掛けて尾張と美濃を歩き、三百人以上の男たちを京に連れ帰った。

 このとき、加藤清正、福島正則といった後に豊臣家の大名として名を馳せる藤吉朗の遠縁に当たる少年たちも共に連れて来られているのだが、これは余談。


 いずれにせよ、こうして木下家の家臣団は徐々に体裁を整えていったのである。




 さて――

 話が多少前後する。


 元亀元年の正月23日、信長は、朝山日乗と明智光秀を使者として、足利義昭に5ヶ条の掟書きを突きつけた。

 これは、今後の幕府運営と義昭の行動に足枷をはめるもので、信長が義昭を傀儡化するために行った最初の具体的行動と言っていい。


 その掟書きは、


・御内書(将軍が発給する文章)を下すときは、事前にそれを信長に見せて承認を得、信長の添え状と共に発給すること。


・これまでに義昭が発した命令は、すべて無効とすること。


・義昭が誰かに恩賞、褒美を与えるとき、与えるべき土地がない場合は信長の分国の中から土地を与えること。


・将軍の命令を聞かない者は、義昭に代わって信長が成敗すること。


・天下は落ち着き始めたのだから、今後は朝廷に対して油断なきよう接すること。


 という内容で、武家の棟梁としての将軍の権能を大幅に制限するものであった。

 ことに、御内書発給の自由を奪ったことと、諸将に対する恩賞を信長から出すというのは重大で、室町幕府の政権機能を奪い、あからさまに義昭を「飾り物」にしてしまおうという信長の意図が見て取れる。


(六十余州はことごとくわしが平らかにしてやる。将軍は天下の政道に嘴を入れようとせず、禁裏の機嫌でも取って暮らしておれ)


 というあたりが信長の本音であったに違いない。


 足利義昭は、信長によって将軍にしてもらった男である。

 すでに述べた通り、義昭は元々は奈良 興福寺 一乗院の僧であり、兄である第13代将軍 足利義輝が殺された事件をキッカケに還俗し、諸国を放浪していたところを信長に拾われた。

 信長の感覚で言えば、義昭などはたまたま「将軍継承権」を持っていたがために拾ってやったただの流浪人であり、己の銭を使ってこれに飯を食わせ、屋敷を建て、衣服や調度を整え、女を囲ってやり、織田家の武士たちの血と汗を流して畿内平定を行い、京に復さしめ、将軍の地位までも与えてやったのは、己の天下取りのために将軍の権威を利用する腹であったからに過ぎない。

 信長にとれば将軍にはその程度の意味と価値しかなく、義昭は京で将軍としての敬意を受け、生活に不自由しなくなったことだけで満足すべきで、なんの実力も持たないくせに為政者として世に君臨し、政権まで自由にしようというのはそもそも虫が良すぎるだろう。

 信長の目標はあくまで「天下布武」であり、己が天下を掴み取ることであった。古びきった室町体制を維持してやるつもりも復古させるつもりも、信長には毛ほどもなかったのである。



 足利義昭は、表面上、この信長の要求を温厚に受け入れた。

 しかし、その内心は、腸が煮えるような想いであったに違いない。


(信長とは、いったい何様のつもりじゃ・・・!)


 新築されたばかりの将軍御所の御座所の御簾の奥で、歯噛みして憤慨していたはずである。


 義昭は、信長に対して感謝する気持ちはさほど持ち合わせていない。

 産まれながらに将軍の実弟であった義昭にすれば、兄が死ねば自分が将軍になるのは必然であり、諸国の武士たちが将軍のために奉仕するのは当然の義務であり、将軍である自分が室町政権を自由にするのは天から与えられた権利であると信じていた。


 歴史の流れを知り、後世に生きている我々には、この義昭の気持ちは解ってやりにくい。

 我々は、足利幕府がこの数年後には信長によって滅ぼされ、滅亡してしまうことを知っており、室町体制がすでに形骸化し、過去のものになってしまっているような錯覚を持っている。足利幕府の権威とはすでに亡霊のようなもので、それにしがみつこうとする義昭を愚者であるかのように考えてしまいがちだからだ。


 しかし、この元亀元年という時代には、足利幕府は厳然として生きている。

 「将軍の権威」は、ことに畿内ではまだまだ根強い影響力を持っており、裏を返せば、この権威を掲げたがために信長は、瞬く間に畿内を平定することができたとも言えるのである。


 近畿一帯の大名小名たちは、信長に従っているというよりは「将軍の権威の代行者」に従っているのであり、彼らが信長に従う法的根拠も「将軍の家来」であるからに過ぎない。彼らは信長を「己の主君」とまではまだ考えておらず、畿内に暮らす地下の人々もまだ信長が将軍より偉いとまでは思っていない。

 足利幕府が現実に存在する以上、織田家というのは幕府体制下の一大名であるに過ぎず、力が大なるがために畿内に影響力を持っていると言うに過ぎないのである。


 信長のように将軍を擁して京に旗を立て、天下に望んだ実力者の例は、過去にいくらでもある。近年では大内氏、細川氏、三好氏などがそれで、それらの大名たちは、誰一人として「幕府体制」そのものまでを壊そうとはしなかった。

 畿内に住む誰もが――いや、正確には日本に暮らすすべての人々が――信長もそれらの覇者たちと同じだと素朴に規定していて、信長が幕府体制を滅ぼし、この日本にまったく新しい秩序を敷こうとしているとまでは考えもしなかった。


 その意味で、将軍の権威や現実にまだ存在する幕府体制というものをまったく意に介さない信長こそが異端者であり、そういう考え方そのものが奇形であった。義昭が幕府を日本の政治の最高機関と捉え、将軍を最高権力者と考えていることの方がむしろ自然で、日本に住むほとんどすべての人間がそれと同じような考え方を持っていると言っても言い過ぎではないのである。


(信長だけが大きな力を持つのは、まずいな・・・)


 と義昭が考えるようになったのは、理の当然と言うべきであったであろう。


 諸国の大名たちの上に超然と乗り、それらの利害を調整してやるのが「将軍」というもののそもそもの役割であり、その存在意義であった。

 義昭とすれば、信長に将軍のありがた味と尊貴さを知らしめるには、これにきつい灸を据えてやる以外にないと思った。信長と同じかそれ以上の実力者を京に呼び、これと自分が深く結びつけば、信長が傲慢に振舞うこともできなくなるに違いない。


 義昭は、己の思惑を「信長に対する裏切り」だとは微塵も思わない。

 法理論から言えば、将軍を傀儡化し、幕府権力を専断しようとする信長の方がむしろ「悪」であり、それを阻止し、信長を足利幕府下の一大名で居させることは、将軍としての当然の「正義」であり、務めであるとさえ思っていた。


 信長は、義昭が与えてやろうとした「副将軍」の地位も「室町管領」の地位も受けず、将軍や幕府といったものに対する軽視が甚だしい。信長には将軍にしてもらった恩があり、織田家を滅ぼしてしまおうとまでは思わなかったが、「このまま信長の力が大きくなり過ぎるのは危険だ」という直感が義昭にはあり、諸大名の勢力バランスを取らねばならないという想いが、義昭の中の自己保存の本能とでもいうべきものと結びついた。


(信長に、思い知らせねばなるまい・・・)


 と、義昭は思った。

 将軍である自分の力を、あの尾張の田舎者に知らしめてやれば、少しは自分を敬するようにもなり、おとなしくもなるだろう。



 義昭の「暗躍」が、この元亀元年から始まる。

 その動きは、後に「信長包囲網」と呼ばれる諸勢力の一大連合へと発展してゆくのだが、当の信長は、このときまだ義昭の影響力というものを過少に評価しており、己の楽観と軽率が織田家を思わぬ死地に引き込むということまでは想像もしていなかった。


 藤吉朗や小一郎はもちろん、半兵衛の視線さえ届かぬところで、順風だった織田家への風向きが、静かに変わろうとしていた。





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