第31話 信長の計略――第三次伊勢征伐(2)
信長に率いられた3万余の軍勢と共に藤吉朗と木下勢が京に帰還したのは、永禄12年の秋も深まった10月10日のことであった。
「おぉ、小一郎、京は変わりなかったか?」
本陣にしている稲荷社の門前で馬から飛び降りた藤吉朗は、いつものように屈託なく笑っていた。余分な油が落ちた頬は引き締まり、戦場焼けした顔は精悍そのものである。
「無事のご帰還、まずは祝着! 皆様方も、ご無事で何よりでござりました!」
小一郎は心から言った。
今回の伊勢征伐における木下勢の被害は大きく、怪我をした者、不具になった者、死んだ者などその数は数百人にも上ったが、幸いにして物頭(部隊長)級の人物にはほとんど死者はなく、小一郎が見渡す限り主立つ面子はちゃんと顔を揃えている。
「今日ばかりは無礼講じゃ。小一郎、ありったけの酒と食い物を出して足軽の端々にまで好きなだけ飲み食いさせてやれ。皆、よう働いてくれたわ」
藤吉朗は上機嫌で言うと、主立つ者たちを本殿に集め、慰労の酒宴を開いた。
「いやぁ〜、それにしても、此度は骨が折れたわい」
たった2杯の酒で顔を真っ赤にした藤吉朗が言った。
小具足姿の諸将はいくつかの車座になってそれぞれ酒を酌み、戦場の思い出話や己の武勇譚に華を咲かせている。藤吉朗は一渡りそれらの座を巡り、諸将に酒を注いで廻った後、上座の席にどっかりと腰を下ろした。
「伊勢での活躍ぶりは手紙で読ませて貰うたが、手傷を負うたっちゅうのには驚いたわ。もう傷の具合はええんか?」
「おう、もう傷は塞がった。しっかし、あらどえりゃぁ痛かったぞ」
藤吉朗は自らの襟元をくつろげ、肩口の矢傷を自慢げに見せてくれた。
「まぁ、この傷のお陰で家中の者どもがわしを見る目も多少は変わったようじゃし、そう思やぁ安い買い物じゃったがな」
「大事に至らず、何よりでした」
傍らの半兵衛が藤吉朗と小一郎の盃に酒を注ぎながら言った。
「伊勢での岐阜さまの戦振り、詳しゅう聞かせてもらえませんか」
「おうおう、是非とも我が師の半兵衛殿にも聞いてもらわにゃならん。ありゃ、なんとも奇妙な戦でしたぞ」
藤吉朗は、信長自ら指揮をとった大河内城攻めを語りだした。
藤吉朗の働きによって阿坂城を得た信長は、そこを後方基地にして全軍を南下させ、8月28日に大河内城を囲んだ。
大河内城が建つ丘陵の東にある桂瀬山に本陣を据えた信長は、まず城下町を焼き払わせ、城を孤立させると、城の南側に滝川一益、丹羽長秀らの軍勢を、西側に佐久間信盛、藤吉朗、西美濃三人衆らの軍勢を、北側には坂井政尚らの軍勢を、東側には柴田勝家、森可成らの軍勢をそれぞれ配し、蟻の這い出る隙間もないほどに厳重な封鎖態勢を敷いた。
織田勢は、浅井長政率いる浅井勢が援軍として加わったために、その総数は5万余というところまで膨れ上がっている。対する北畠勢は、阿坂城の敗兵を収容したとはいえ、総数1万に満たない。
信長も、この兵力差で戦をかなり楽観視していたらしい。何の策も講じることなく、最初は正面から力攻めに攻め立てた。
が、城を守る北畠勢の奮戦は、凄まじかった。
伊勢の国司である北畠氏というのは、村上天皇から発する村上源氏の名族である。
たとえば、直系の先祖に北畠親房がいる。
『神皇正統記』の著者としても知られる北畠親房は、後醍醐天皇が行った建武中興の立役者であり、足利尊氏と対立した南朝を正統としてその復権に生涯をささげ、「南朝の柱石」とまで称された人物である。この親房の三男が伊勢の国司となった頃から伊勢北畠氏の歴史は始まっており、戦国のこの時代から数えて二百年以上も南勢地方で勢力を培ってきている。自然、この地域に生きる人々が国司家を敬うこと都人が天子を敬うが如くであり、その深い親愛の情と忠誠心というのは、新興の織田家の武士たちがとうてい持ち得るレベルのものではなかった。
しかも、南伊勢の武士たちを率いる総大将が、なかなか良い。
北畠氏の出自の尊貴さ、その位階の高さというのは武家というよりむしろ公家に近いほどなのだが、当主は代々文武両道に秀でた英明な者が多かったようで、たとえば先代の北畠具晴は高い教養を持った文化人であり、正四位 参議と左近衛中将とを兼ねた殿上人であるにも関わらず弓術と馬術の名人であったことで知られているし、当代の北畠具教にいたっては、従三位 中納言の位階を持ちながら剣豪 塚原卜伝に“一の太刀”の奥義を伝授されたほどの剣の達人で、“剣聖”と讃えられたかの上泉信綱と互角に戦って勝敗が付かなかったとさえ伝えられるほどの男なのである。その勇気と覇気と武技は、絶倫と言っていい。
北畠家の武士たちは、主君である具教を神の眷属でもあるかのように敬い、心服していたから、主君に感化されて雑兵の端々まで常に武勇を心がける者が多く、兵の個々の戦闘能力は織田家の雑兵たちとは比べ物にならぬほどに精強であった。
北畠具教は、この永禄12年で41歳になる。
すでに家督を嫡男の具房に譲り渡しており、形の上では隠居の身なのだが、子の具房は北畠氏の血の英資をどこも受け継がなかったらしく、肥え太ったその身体のために馬に乗ることさえできないという惰弱な男だった。具教は大御所という立場で実質的に北畠家の舵を握り、たとえば戦が起これば常に自ら陣頭に立っていたわけで、北畠家の武士たちの忠誠も大御所の具教に向いていることを思えば、やはり具教をして北畠家の顔と考えるべきだろう。
具教は、隠居にあたって北畠家の居館であった多芸御所(別名 霧山城)を出て、大河内城にその本拠を据えていた。
その大河内城が、信長によって十重二十重に包囲されている。
信長の下知の元、織田勢は何度もこの城に攻勢を掛けたのだが、そのたびに手痛いしっぺ返しを喰らい、甚大な損害を受けるばかりで城の外囲いさえ破ることができなかった。
(どうもこの南伊勢は、南近江のようにはいかんらしい・・・)
と、信長が思うようになったのは、城攻めの流血を10日も繰り返した頃だったろう。
(思うていたよりよほどに厄介じゃ・・・)
苦虫を噛み潰したような気分だったに違いない。
信長が上洛を決意し、南近江の六角氏を攻めた時などは、今回と同様の戦略で苦もなく国を奪えた。本拠の観音寺城を包囲された六角義賢(承禎)は、篭城わずか2日で城を捨てて逃散しているのである。
しかし、北畠具教という男は、これよりよほどに骨があるらしい。
信長は、正面攻撃で血を流し続けることを躊躇した。
大河内城の周囲を鹿垣(バリケード)で二重、三重に結い回させ、道という道を塞ぎとめ、兵糧攻めの態勢に切り替えたのである。
「食攻めですか・・・」
半兵衛が驚いたように言った。
藤吉朗は深く頷いた。
「まぁ、兵糧攻めっちゅうても、大河内の城の兵糧がのぉなるまで本気で囲い続けるつもりじゃったとは思えんで。そういう振りをして見せたっちゅうことでしょうなぁ。囲うてさえおけば、城方の夜襲を防ぐこともできますからの」
「それで?」
「いやぁ、それ以後、さすがに城衆は手も足も出んようになったんですが・・・」
亀のように城に閉じこもって出てこなくなったという。
信長は、戦線がこう着状態になることだけは恐れていた。
信長の領国はまだまだ不安定であり、南近江では北畠氏と婚姻関係を持っている六角氏の残党が絶えず蠢動を続けていたし、四国に逃げ去った三好三人衆も京を虎視眈々と狙っている。本国の美濃や重要拠点である京や堺を手薄にしたまま、大兵力を伊勢に釘付けにされる長期滞陣などしたいと思うはずがないのである。
信長は、城内の将兵に投降を呼びかけたり内応者(裏切り者)を作ろうと矢文などをもって誘いかけたりもしたが、北畠家の武士たちの結束力と具教への忠誠は硬く、ほとんど効果を得られなかった。
焦りを感じた信長は、城への夜襲を考えた。
大部隊による夜襲というのは、軍事作戦上もっとも至難であるとされている。まして、古来より夜の城攻めはしないのが原則になっている。大部隊であればあるほど敵に作戦意図を気取られる可能性が高くなり、逆襲を受けやすい上、夜陰で視界が利かず、音による連絡も使えないために部隊の意志統一や連携行動が難しく、同士討ちなどの不測の事態が起こりやすいからだ。
しかし、信長はあえてその禁を破り、丹羽長秀、稲葉良通(一鉄)、池田恒興らに命じ、城の南側にある搦め手門へ暗夜の強行突撃を行わしめた。
結果は、惨憺たるものだった。
夜半からの雨に祟られた織田勢は鉄砲がほとんど使い物にならなくなり、しかも敵に夜襲の意図を察知されてしまったらしく、待ち受けた城方の防戦と伏兵による強襲によってさんざんに破られ、おびただしい死傷者を出して惨敗したのである。
この敗戦によって、信長の苛立ちはほとんど頂点に達した。
しかし、力攻めで歯が立たず、小技も通用しないとなれば、いかなる手も打ちようがない。
信長は、腹立ち紛れに北畠氏の本拠である多芸御所の周囲の町屋などをことごとく焼き払わせ、周辺の稲田や畑の麦などを刈り捨てにさせたが、もちろんその程度のことで大河内城攻めに影響があるはずもなかった。
北畠氏にとって、信長が伊勢へ侵攻を始めた数年前から、対織田戦略というのは最大の課題であり、関心事であった。南勢地方の中心という地理的条件を鑑みれば、大河内城がいかに重要な拠点であるかは言うまでもないことであり、だからこそ北畠具教自身がここに本拠を移し、信長の大軍が現れたときも主力をこの城に集めて防戦態勢を敷いた。防御力を高めるための普請もすでに入念に行われているし、戦のための兵糧や物資、矢弾などの備蓄も十分にできており、一年は無理としても半年やそこらの篭城ならば楽々と耐え得るだけの準備を整えてある。
他の勢力の援軍を期待できない北畠氏とすれば、戦を長期化させることがほとんど唯一の戦略だったと言っていい。
十日、二十日と、滞陣だけが無為に伸びていった。
いや、無為どころか、織田勢は小さな流血を強いられ続けている。
信長が敵の本拠を直撃する戦略を取り、付近の端城――多芸御所(霧山城)、船江城、田丸城、五箇篠山城、松ヶ島城など――を放置していたため、それらの城から夜な夜な北畠家の武士たちが小勢で夜襲を掛けてきたり、ゲリラ戦術を展開したりして織田勢の周囲や背後を常に騒がせていた。少数とはいえ、地理を知り尽くす地侍たちのゲリラ戦術というのは思いのほか手を焼くもので、織田方は夜は満足に眠ることもできず、苛立ちと焦燥とを募らせることになっていったのである。
「そんな折、一益のヤツが、手柄を焦って無理に戦を仕掛けおりましてな」
藤吉朗は、意地悪く笑いながら言った。
伊勢方面の軍団長である滝川一益は――当然だがこの伊勢征伐に心中期するところがあったのであろう――遠巻きに城を囲っての兵糧攻めに、我慢がならなかったらしい。
信長に直訴して、城への突入作戦を実行に移した。
大河内城の西の丸と本丸の間には、「まむし谷」と呼ばれる深い谷が横たわっているということは先にも触れた。
滝川一益は、伊勢衆を率いて大河内城の西側からこのまむし谷に沿って山に侵入し、道なき山道を這い上がって丘陵の頂上部を目指した。城の西の丸と本丸を分断し、出来得れば一気に本丸まで侵入し、己の手で決定的な手柄を挙げようというのである。
信長はこの一益の決死の突入を援護するように久々に全軍に攻勢を命じ、大河内城の周囲は四方で銃声が鳴り渡り、矢弾が雨のように飛び交った。
滝川一益の吶喊は、戦術的には明らかな無理がある。
まむし谷は文字通りの谷であり、そこに侵入することは高地の西の丸と本丸からの攻撃を無防備で受けることに等しい。頭上から見下ろされるという意味で行軍の隠蔽も非常に困難であり、当然のように城方にあっさりと発見されることになった。
城方の武士たちは、滝川勢を十分に引きつけてから西の丸、本丸の両側から矢、鉄砲をつるべ打ちに撃ち下ろし、岩、竹槍などをあられのように投げ落とし、まむし谷の底で進退窮まった滝川勢を滅多打ちにした。滝川勢の損害は目を覆うばかりで、『勢州軍記』によれば、
「滝川勢はことごとく撃ち殺されて人馬で谷を埋めた」
という惨状であったらしい。
皆殺しというのは誇張であるにしても、織田勢が大敗を喫したというのは間違いがなく、この作戦も完全な失敗に終わった。
信長は、この結果を見て、力攻めによる短期的な勝利は不可能であるという認識を一層強くした。
信長とすれば、この戦の落とし所を考え始めねばならなかった。南伊勢という大田舎で、半年、一年と戦を続けるつもりは、信長にはさらさらないのである。
織田家の名誉が損なわれず、さらに北畠氏の勢力を削いでしまうような形での和議の締結――それが出来るならば、いったんは兵を収めても構わない。北畠氏の力を弱体化させた後で、また別の機会を窺って伊勢を完全に征服すれば良いだけの話だからだ。
信長の感情から言えば、ここまで攻め込んでおきながら当方から下手に出て和議を言い出すのは業腹であった。出来れば北畠家の側から和議の申し出させ、それを信長が寛大さを見せて承諾する、という形がもっとも望ましい。
しかし、ここまでの戦況の推移はむしろ織田方に悪く、局地戦とはいえ織田勢は敗北を重ね続けている。この状況で、北畠家の側から和議の話が出てくるというのは考えにくいであろう。
「・・・それで岐阜さまは、如何になさったのです?」
半兵衛が目を輝かすようにして聞いた。
「半兵衛殿なら、如何になされますかな?」
藤吉朗は逆に、楽しげに半兵衛に尋ねた。
「そうですねぇ・・・・」
半兵衛は自らの顎を撫で、中空を睨んで少しばかり考えた後、
「私ならば、大河内の城の周囲の固めを堅固にし、敵を座敷牢に入れたように封じ込めにします。その上で軍勢を四方に送り、伊勢に散らばる端城を片っ端から抜き、国そのものを奪うでしょう。その時点で敵が和を乞うてくるならそれも良し。和議を言い出さぬようなら、大河内の城は食攻めにしたまま、軍勢の主力は美濃へ引き上げさせます」
と言った。
机上の戦略としては、穴もなく、理想的と言えるであろう。
「さすがは我が師の半兵衛殿じゃ。実に抜け目ない策を申される」
藤吉朗は感心したように言った。
「しかし、それには少々時が掛かりますな?」
「はい。伊勢を平定するのに早くとも半年。大河内の城が落ちるには、一年近く掛かってしまうかもしれませんね」
「仮の話でござる。たとえば仮に、その一年の間に、三好三人衆と六角の残党ども、伊賀や紀州の者どもなどが大きく手を結び、伊勢の侍たちを後押しすれば、戦はどう転ぶか解りませんな?」
「そうですねぇ。それは、その通りだと思います。伊賀や紀州のことはよく知りませんが、北畠国司家と南近江の六角家とは縁が深い。北畠具教殿の妻は、確か――六角義賢殿の娘であったはず・・・。当主の北畠具房殿は、六角義賢殿の孫に当たるわけですからね。三好氏と北畠氏とは過去に弓矢の事(戦争)もあり、仲が悪かったはずですが、織田という共通の大敵があれば、これも手を結ばぬとは言い切れません。六角義賢殿が間に立って膠の役を果たせば、三者がくっついてしまうことは十分あり得ます。そんなことになれば・・・事態はよほど厄介ですね」
「信長さまは、戦を長引かせることをお嫌いになったのじゃなぁ・・・」
半兵衛の言葉を聞いて藤吉朗は変に納得し、詠嘆するように言った。
大河内城攻めに懲りた信長は、藤吉朗に命じて北畠氏の本拠である多芸御所を攻撃させた。
多芸御所は、北畠氏の重臣 大河内 宮内少輔、森本 飛騨守らが2千の兵をもって守っていた。
藤吉朗は再び伊勢衆を率いてこの多芸御所を包囲し、頑強な抵抗に手を焼きながらも連日これに猛攻を加え、同時に敵に内応を呼びかけ、政戦織り交ぜてわずか10日ばかりで陥落させた。
このとき、北畠具教・具房親子の妻子、一族の妻子など37人をことごとく捕らえた。
「その人質を質札にして、信長さまはさらに手の込んだ芝居を打たれたのですわい」
と、藤吉朗は続ける。
信長は、京にある村井貞勝に命じ、朝廷を動かし、戦の調停をさせようとした。
朝廷としても、戦の仲裁は悪い話ではない。織田家と北畠家の双方に恩を売ることができ、失墜してしまっている朝廷の権威を世に顕すことにもなり、信長から多額の謝礼をもらうことさえできるからである。
正親町天皇の意を受けて、北畠氏と縁の深い公家の久我通堅らが奔走することになった。
久我家というのは「清華家」のランクに属する非常に家格の高い公家で、その血筋は村上源氏の嫡流という名誉の家柄であり、村上源氏の枝流である北畠氏にとっては宗家筋に当たる。その久我家の当主である久我通堅は、妻が六角氏の出であったと記録にあり、六角義賢の娘を妻に持つ北畠具教とは遠縁の縁戚でさえあった。和歌のやり取りや季節の贈答などを通じてその繋がりは深かったろうし、北畠氏にとってはよほど親しみやすい人物であったに違いない。
この久我家からの働きかけは、北畠氏の戦意に大きな影響を与えた。
北畠具教としても、このまま徹底抗戦を続け、滅亡してしまうことは必ずしも本意ではない。
戦には確かに勝ってはいるが、織田家の勢力の強大さはすでに肌で感じており、こちらの兵糧が尽き果てるまで戦を続けることさえ、信長にとってさほどの負担ではないであろうことも、具教は実感として認識し始めていた。
どれほど局地戦で勝っても城が孤立無援で包囲されているという現実に変化があったわけではなく、まして今は、自分や重臣の妻子までが人質に取られてしまっている。ここで和議の話を無下に蹴れば、妻子が殺されることはもちろん、大河内城の城兵は一兵残らず死なねばならなくなるだろう。
武門に生きる人間にとって、大いなる者に従うというのは必ずしも恥ずべき事ではない。まして北畠具教とすれば今回の篭城戦の連戦連勝によって武士としての意地と面目は十分に立ったとも言えるわけで、これ以上の徹底抗戦は無駄に人を死なせる「わがまま」に過ぎないと取れないこともない。
それに、信長が出してきた和議の条件も良かった。信長の子を、北畠家の現当主である北畠具房の養子にし、ゆくゆく北畠家の家督を継がせる、というこの一項だけなのである。
これは、信長が同じ伊勢の神戸家や工藤家に対してした和睦の時と同様で、北畠家乗っ取りのための謀略には違いないのだが、裏を返せば、北畠家の側が信長の実子を人質に取ったという風にも解釈できる。
戦国のこの時代の慣習に従うなら、戦に負け、臣従する側が忠誠の証として人質を差し出すのが当然なのだが、信長はこの屈辱を北畠氏に与えず、信長の子に北畠家を相続させることで、ゆくゆくは北畠氏を織田氏の一門として遇すると言ってきているのである。
戦に連戦連勝し、朝廷の仲裁を受けて敵と和を結ぶ――北畠家として、この和議が武門の恥になるはずもない。
まして織田家と北畠家の今後の関係は、信長が出した和議の条件だけを見れば臣従と言うよりはむしろ同盟と言うに近く、屈辱的なものではない。
冷静になって考えれば、必ずしも悪い話ではなかった。
北畠具教は、重臣たちと熟考の末、この和議を受けた。
篭城から実に50日。北畠氏はその名誉を守って織田家に降り、伊勢は織田家のものとなったのである。
信長の、政略の勝利と言っていい。
「なるほど・・・それでわずか二月あまりで伊勢を制せられたわけですか・・・」
藤吉朗の話を聞き終えた半兵衛は、納得したように何度も頷いた。
「奇妙と言えば、これほど奇妙な戦もなかったですわい。信長さまは、戦に連戦連敗しておりながら、うまうまと伊勢を盗ってしまわれた」
と藤吉朗が言ったから、小一郎はあらためてそのことの奇妙さを思った。
信長は、大河内城では結局一度も戦に勝たず、勝鬨も上げられず、そのくせ北畠氏を降してしまっているのである。
「岐阜さまが将として優れているのは、『勝ち易きに勝つ』ところですね。戦に負けることがあっても、国を盗るという最初の目当てをちゃんと果たしている」
「『勝ち易きに勝つ』・・・・ですか?」
「『孫子』という唐土の書物に、『勝兵はまず勝ちてしかる後に戦いを求め、敗兵はまず戦いてしかる後に勝ちを求む』という一節があります」
半兵衛は詠うように言った。
「名将は、あらかじめ必勝の態勢を築いてから戦を始め、凡将は戦を始めてしまってから勝とうとする、というような意味ですね。岐阜さまは、戦を始めるまでに勝つべき態勢を常に整えている。そこが、かのお人の非凡なるところです」
半兵衛は、小一郎にも解り易い表現で、信長という男を評した。
「名を捨てて実を取る、と申しますか・・・これは、簡単なようでいて、なかなかに難しいことなのですよ」
半兵衛が現代人ならば、「戦術レベルの戦いで負けても、戦略と政略のレベルで勝利をもぎ取るところが信長の偉さであり、勝利条件を堅実に築いてゆくその手腕こそが非凡なのだ」とでも表現したであろう。
まさしく、それこそが信長の将としてもっとも優れた部分なのである。
信長は、戦術家として見た場合、お世辞にも戦上手ではない。
華麗な戦術を駆使し、兵を手足の如くに進退させ、寡兵よく大軍を打ち破る、というような戦は、一見するとひどく華やかではあるが、実際は博打のようなもので、信長はむしろそれを好まないのである。
信長は、常に「勝ち易きに勝つ」男であった。
戦に先んじて敵に調略を仕掛けてその勢力を弱体化し、いざ戦に臨んでは敵の何倍もの兵力を集め、あらゆる手を打って敵が取り得る選択肢をどんどんと減らし、負ける要素を少なくし、勝利のための条件を整える。
こういう計算高さと周到さこそが戦略家・政略家としての信長の非凡さであり、その天才たるゆえんだと言っていい。
「ともあれ、これで岐阜さまは当面の敵がいなくなったということになりますね。次に目を向けられる先は、西か、あるいは北か――」
小一郎はその口元を見守ったが、半兵衛は微笑し、それ以上は語ろうとしなかった。