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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第29話 小一郎の日常――永禄12年 初夏

 信長が上洛を果たした頃に、歌われたという里謡がある。



 木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間



 というもので、おそらく岐阜の庶民や織田家に属する者たちの子弟が歌ったものであろう。「藤吉」は藤吉朗、「五郎左」は丹羽長秀、「柴田」は柴田勝家、「佐久間」は佐久間信盛のことをそれぞれ指している。


 この里謡は、「藤吉朗は木綿のように使い勝手が良く、丹羽長秀は米のように常に無くてはならないものであり、柴田勝家は先鋒大将としてこれ以上の人材はなく、もっとも難しい退却戦は佐久間信盛に任せれば安心である」といったような意味で、人の仇名をつける名人であった信長が作ったとも言い、そうでないとも言うのだが、ともかくこのように歌われていたというそのことだけで、織田家では武将としてこの4人の名が高かったことが解る。

 これに、「進むも滝川、退くも滝川」と謳われた滝川一益を加え、この時期の織田家の有力武将5人衆ということになる。


 他にも、織田家の宿老である林通勝や信長の乳兄弟である池田恒興。信長に古くから仕え、その信頼を得ている者では森可成、坂井政尚、中川重政、蜂屋頼隆。美濃攻略から織田家に従った者では西美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全、稲葉一鉄)や不破光治。畿内平定後では和田惟政、蒲生賢秀、松永久秀、三好義継、筒井順慶などが武将として有力で、さらにこの後、明智光秀、細川藤孝、荒木村重、塙直政、簗田広正といった武将が頭角を現してくるのだが、ともかくもこの永禄12年(1569)の段階では、先に挙げた5人が、まず織田家の中核を担っていた男たちと考えて良い。


 この5人の中で、藤吉朗との繋がりが深いのが、丹羽長秀と佐久間信盛である。


 丹羽長秀は、信長がまだ尾張半国の主であった時代から織田家中で政事・軍事両面において重きをなしていた譜代の重臣で、このとき34歳。戦はもちろん築城や普請事、さらには兵站輜重役まで何でもそつなくこなす器用さと安心して仕事を任せられる実務力があって、まさに織田家にとって「無くてはならぬ」存在であった。温厚にして沈毅な性格で人当たりも良く、周旋や交渉事をも得意としているあたり、藤吉朗ほどの陽気さと軽さはないものの万能タイプという意味ではよく似ている。しかし、信長の姪を妻にしているくらいだから織田家臣としての毛並みでは下郎上がりの藤吉朗とは比べ物にならず、信長からの信頼も絶大なものがあった。

 聡明にして度量の広い男で、まだ足軽に毛の生えたような身分の頃から藤吉朗に目を掛けてくれ、藤吉朗が異数の出世を遂げてからも変わらぬ好意を寄せてくれる数少ない人物である。織田家で味方が少なかった藤吉朗は歳が1つ違うだけの長秀を父のように慕い、武将となった今でもその恩を変わらずに感じ続け、狎れることなく常に長秀を兄貴分として立てているから、非常に良好な関係と濃い繋がりを保っている。

 長秀は、去年の信長上洛以後、京に残って信長の代官のようになり、公家や寺社への交渉を任され、藤吉朗の直接の上司であったのだが、今回、大津が織田家の直轄領になるにあたり新たにその代官に指名された。これは、南近江から京、若狭あたりの地域の軍団長を務めるということでもあったから、今まで京に置いていた軸足を大津へと移さねばならなくなった。

 長秀は、信長の岐阜帰還と共に京を去っている。


 一方、佐久間信盛はこのとき40代の働き盛りで、織田家には先代の信秀(信長の父)の頃から仕え、信長が弟に叛かれて家督を争ったときには一貫して信長を支持し、以後、信長に重用され、現在では家老の座に就いている男である。「退き佐久間」の異名に恥じない歴戦の武将で、信長が行ったあらゆる合戦に従軍し、人目を驚かすような働きこそないものの大きな失敗を犯すこともなく、堅実に武功を積み重ねることで累進し、南近江攻略戦では別動部隊の大将に指名され、蓑作山城を落とす功を挙げている。

 信長が好むカラリとした武辺者肌の男で、悪い人間では決してないのだが、性格として多少頑固で融通の利かないところがあり、門閥や血統に対する意識が強く、己の織田家における毛並みの良さを誇るような不遜さと倣岸さとを持っている。自然、下郎から成り上がった藤吉朗を好む気分にはなれず、さほど親しいわけでもないのだが、どういうわけか仕事を共にする機会は多く、政戦共によく藤吉朗の上司になった。信盛にとって藤吉朗は、いけ好かなくはあるが便利で使い勝手が良い下僚、といった程度の存在であったろう。

 信長の上洛以後は、丹羽長秀と共に京にあり、軍政面の最高位にいたのだが、丹羽長秀が京を去ることになったため、それ以後は京から堺あたりの地域の軍団長というような役割を担うことになった。



 さて――


 藤吉朗が、信長の上洛以後、京奉行の職についていたことは、公家や寺社と交わした数々の公文書、書簡などに「木下藤吉朗」の署名があることから見て歴史的な事実と断定できる。

 それらの資料を精査して面白いのは、信長が京を去る4月21日以前の文章では、丹羽長秀、村井貞勝、明智光秀などと必ず連名で署名しているのに、信長が京を去って以降、藤吉朗が単独で署名したものが増え始めることである。これは、信長が京を去るにあたり、藤吉朗にこれまで以上の巨大な権限と責任とを与えたことを示している。

 藤吉朗の折衝能力、調整能力が認められたということもあるにせよ、「六条合戦」において木下勢が示した働きに信長が満足した結果でもあったろう。


 丹羽長秀が京を離れたこともあり、京に残る織田家の高官といえば先述した佐久間信盛と文吏派トップの村井貞勝があるのみで、藤吉朗は京で実質的にナンバー3の地位にまで上ったことになる。

 村井貞勝が主として市政を、藤吉朗が京の守備と治安維持を担当し、また交渉事では村井貞勝が主に朝廷、公家衆の相手をし、藤吉朗は寺社と幕府関係をメインに受け持った。佐久間信盛はこの2人を上から総覧するいわば顔役で、上席の位置に就いてはいるが、京の行政に限って言えば実質的には村井貞勝と藤吉朗の2人がすべてを動かしていたと考えて良い。


 言うまでもないが、藤吉朗の仕事は増える一方であった。


 信長の代官に過ぎないとはいえ、いまや京都守護職とも言うべき藤吉朗の元には、これと繋がりを持ちたいという有象無象が群がるように集まって来る。藤吉朗の身分が上がり、その責任が重くなり、多忙になるにつれ、藤吉朗の第一の臣である小一郎に対する人々のアプローチも当然のように増え始めた。


 将を討たんとすれば、まずその馬を射よ、というわけである。


 藤吉朗に取り入ろうとするのは、公家や高僧といった貴人から畿内の大名小名たち、果ては京や堺の商人まで、実に多種多彩な人々である。それらがいちいち手土産を携え、毎日のようにやって来ては小一郎に面会を求め、様々な要求や嘆願を置いていく。


 なかでも難しいのは、訴訟事の裁定であった。


 たとえば、「父祖以来の我が土地を、誰某が不当に占拠して困っている。織田さまのお力でこれを取り返していただけないか」などという土地の相続権に関する訴えがあったとする。その土地に関する古文書を当たったり、関係者に事情を聞いてみると、確かに気の遠くなるような昔には、訴え出た者の先祖がその土地の権利が認められた事実があるのだが、時代が変わると別人にまったく別の安堵状が発給されたりしていて、結局はその土地を奪い合っている双方の言い分がどちらも正しい、などという事例が実に多い。

 この時代、古くからの寺社領などはほとんど勃興した武家によって横領されているのだが、寺社側にすれば、都の為政者が変わった今こそがチャンスで、信長の威光と鶴の一声をもって領地を取り返してもらおうと、ここぞとばかりに古い権利書を振りかざして声高に訴え出てくる。それが、やれ由緒ある寺院の高僧だの国師号まで頂いた偉い坊主の使いだのといった人々だから、これを無下に追い返すことも突っぱねることもできかねるのだ。


 これらの訴えに対応することは、小一郎にとって決して楽な仕事ではなかった。そもそも小一郎は20歳過ぎまで泥田をかき回す百姓だった男であり、都の貴人や分限者(金持ち)と上手に付き合ってゆくような作法も常識もまったく持ちあわせていない。そのくせ、なまじ真面目で思いやりのある性格であるため、いい加減な裁定でお茶を濁すこともできず、寝る間もないほどに多忙な藤吉朗に問題を丸投げすることもできないから、結局は自分で前後関係をいちいち丹念に調べ、川辺に生える葦のようにもつれにもつれた事情を丁寧に聞き質し、その正邪を判断してから藤吉朗に報告し、最終的な決済を仰ぐという形にならざるを得ない。


(なんの因果でわしがこんなことに頭を痛めにゃならんのじゃ・・・)


 連日持ち込まれるこれらの訴えのために、大げさに言えばノイローゼになりそうであった。


「難しくお考えになることはないですよ」


 半兵衛は、細々とした事務仕事を手伝いながら、小一郎をよく支えてくれた。


「岐阜さまが、なぜ木下殿を京の奉行になされたか――そこのところを考えれば、小一郎殿がどのように振舞われれば良いのかも、おのずと決まって参りましょう」


「兄者が京奉行をやっておる理由ですか・・・・?」


「都人に親しまれ、幕府や朝廷の方々の機嫌を取り結ぶことだけが仕事なら、典礼作法に通じ、教養もある明智殿などの方が木下殿よりはるかに適任です。しかし、岐阜さまはそれを承知で、わざわざ木下殿に京を任せておられる・・・。この都にある者たちのやり方に、こちらが合わせてやる必要などないということですよ。織田家には織田家のやり方というものがある」


「それはそうなのかもしれませぬが・・・」


 生活が豊かになり、装束が立派になっても、小一郎には自分の卑しい出自と無教養とに対する拭いがたい劣等感があり、都に暮らす貴人たちに対する引け目や遠慮がどうしても抜けなかった。


 そういう気持ちは、小一郎とまったく同じ出自である藤吉朗にもあって良さそうなものだが、藤吉朗は自分の出自の卑しさと無教養の上に平気でふんぞり返っているようなふてぶてしさがあって、蔑みの目で見られたり悪口を投げつけられても常に陽気に笑い飛ばして来たし、この京にあってもその行き方で通している。

 将軍 義昭やその側近、公家や朝廷などとの接触の機会が多い藤吉朗は、考えてみれば小一郎よりはるかに強いプレッシャーの中にあるはずで、そう思えばこの兄の腹の据わり方というのはまったく見事と言うほかない。


 そんなある時、藤吉朗が将軍 義昭の側近を怒鳴りつけた、というような話が噂として伝わってきた。


「なんでも木下殿は、自分は尾張の田舎者だから礼などは知らぬ、とうそぶいたそうですよ」


 小一郎の執務室になっている禅寺の小院で、半兵衛は可笑しそうに笑った。


「あの大声でどやしつけられては、礼や作法もさぞ遠くまで吹き飛んだことでしょう。公方さまのご側近がどんな顔をなされたか、見てみたかったものです」


「はぁ・・・なんというか、兄者も無茶をしますなぁ・・・」


 織田家と幕府の関係というようなことを考えると、小一郎は無邪気に笑う気にはなれない。


「いやいや、それでこそ木下殿を京奉行に据えた甲斐があったと、岐阜さまなどはかえってお喜びになっておられるでしょう。遠慮をするというのは、この場合は、相手をつけ上がらせるだけなのですよ」


 半兵衛の言い方にも凄みがある。


「貴人というのは情けを知らぬと言いますし、恩を感じるに薄い生き物です。生まれたときから下々の者たちを当然に見下し、奉仕されるのが当たり前であると思い込んでいますからね。古き慣習と申しますか、昔からの決まり事と申しますか・・・何百年もそうして暮らしてきておるのですから、これはもう、病と言うほかありません。しかし、岐阜さまは、そのような者たちを必要としておられない」


「・・・信長さまには、幕府はいらんと・・・?」


 小一郎は声を落とした。


「あぁ・・・いやいや、そういう者たちを生む元となった古き秩序を、壊そうとしておられる、ということですね」


 半兵衛は少し考えて言い直した。


「たとえば京に公方さまがあるように、国々にはそれぞれ守護があります。しかし、そのほとんどの者は力を失い、有名無実の存在になっている。守護のままに大名でおるのは、近国では甲斐守護である武田氏と伊勢の国司である北畠氏くらいのもので、他はみな滅びるか、守護代などの下克上で領地を乗っ取られるか・・・いずれにしても没落しておりますでしょう?」


 小一郎の生まれた尾張でも、守護であった斯波氏は零落し、一族の者がわずかな捨扶持を信長から与えられ、家名の存続だけは許されているものの、守護としては完全に滅び去っている。


「乱世というのは、実力ある者だけが生き残り、実力のない者は滅んでいかざるを得ぬ時代ですから、力の伴わぬ権威というのは成り立ちえないのです。権威に力があるのではなく、力が権威を作るということですね」


 半兵衛はいちいち実例を挙げて話してくれるから、教養のない小一郎などにも非常に解りやすい。


「たとえば遠い昔――鎌倉の右大将殿(源頼朝)は、律令の世を壊し、武家の世を拓かれるにあたり、さかんに『天下草創』という言葉を使われたと聞きます。世に新しき秩序を敷く、というような意味でしょうが、岐阜さまが目指されておるのも、まさにそういうことであるのだと思うのです。力をもって、乱世に新しき権威と秩序を打ち立てる――と。ですから、室町風の古い権威や慣習などには、岐阜さまは頓着なさらないのですよ」


 なるほどその通りだ、と小一郎は思った。

 信長は、すべてのルールを自分の思うままに定めていかねば気の済まないような男で、古い慣習やしきたり、形骸化した決まり事などには毛ほどの執着も見せない。


 乱世に新しき権威と秩序を打ち立てる――『天下草創』。

 信長はそれを、『天下布武』というスローガンで呼んでいる。

 まさに、信長のルールを天下のルールにするということではないか。


「兄者は、そういうことをすべて解っておるっちゅうことですか! だから、あのように傍若無人に振舞えると・・・」


「それも、理由の1つではあると思います。古くからの慣習や秩序、権威などを好み、それに親炙するような者では、岐阜さまの代官は務まりませんでしょうからね」


 半兵衛は微笑した。


「古くからあるものにも、良いものはたくさんある。そのすべてを、古いという理由で壊すことはない。たとえば岐阜さまも、熱田神宮や伊勢神宮を、古いという理由で焼こうとはなさいませぬでしょう?」


 焼かぬどころか、信長は熱田神宮や伊勢神宮には多額の援助さえしている。


「しかし、古いがゆえの悪弊は、これを取り除かねばなりません。たとえば『座』の特権などは解りやすいかもしれませんね。あのように世に蔓延る悪政、悪法、悪弊は、人の暮らしにとって百害あって一利もない・・・」


 信長は、見事なまでに生まれながらの天下人だ、という意味のことを半兵衛は言った。


「岐阜さまは、己が目指す天下の姿を、すでに胸のうちに描いておいでなのでしょう。その絵に向かって、邪魔なもの、道を塞ぐものは躊躇なく打ち壊し、ひたすらに進んでゆかれる。木下殿は、そういう岐阜さまをよく解っておいでなのですよ」


 信長の価値観を自分の規範にしているからこそ出自の悪さや教養のなさなどで嘆くことはなく、かえってそれさえも利用し、信長の良き手足であることに徹し抜いてゆく――

 それが、藤吉朗のやり方ということなのだ。


(わしも、それでええのか・・・・)


 小一郎は思った。

 織田家の臣、木下家の臣であることに誇りを持ち、藤吉朗の良き手足であることに徹していれば、己の出自や教養の無さなどにコンプレックスを感じる必要はないではないか――


「岐阜さまが描いておるその絵を、一度見てみたいものですねぇ・・・」


 半兵衛は書類を整理する手を止め、遠い目をした。


 季節はそろそろ初夏――梅雨に入ろうとしている時期であった。





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