第28話 「信長景気」――将軍御所造営
今回の三好勢の襲来で、信長は京に城が必要であることを痛感した。
本國寺がいかに立派な城郭寺院であっても、守るに堀一重、壁一枚というのでは、どうにも心細いのである。
(織田の援軍が来る前に、あるいは攻め落とせるのではないか)
というような誘惑を敵に与えてしまうかもしれず、攻めても無駄だと思わせるような戦争抑止力としてはまったく期待できない。京が攻められるたびに周章狼狽し、右往左往していては諸国の大名たちに足元を見られぬとも限らないから、ともかくも十分な防御力のある城を京に築き、そこに将軍 義昭を住まわせておきたい。
それに、京に室町将軍のための城を築いてやれば、そのことが信長が室町幕府に尽くしているというアピールになり、同時に織田家の富強と権威を天下に宣伝することにもなるであろう。
思い立ったら、常に即断即決というのが信長である。
「どこに築くが良いか?」
ということを、さっそく本國寺に参集した諸将に諮った。
「武衛第の跡地が空き地になっておりまする。御所に近く、広さもあり、外堀もすでに穿たれておりますれば、幕府とするにはうってつけかと・・・」
と、京に詳しい幕臣の細川藤孝が意見具申した。
武衛第とは、尾張の守護であり一時は室町管領でもあった斯波氏の京屋敷で、斯波氏が信長によって滅ぼされた後は誰もそこを利用する者がなく、長い間手付かずであったため、幽霊屋敷のような荒れ屋なっている。二条通りと室町通りが交差する地点のやや北――地名で言うと「勘解由小路室町」――にあり、地所といい、広さといい、うってつけと言っていい。
信長は自ら武衛第に足を運び、地所、広さ、要害などをその目で確認すると、村井貞勝、島田秀満の2名を即座に築城の奉行に指名し、
「2ヶ月で作れ!」
と、無茶苦茶な注文を付けた。
しかし、信長の命令というのは織田家では絶対だから、いかにそれが無茶であってもできないで済ませられるものではない。この日から数日後の京は、諸国から集められた凄まじいほどの数の人夫であふれ返った。
『言継卿記』によれば、尾張、美濃、伊勢、近江、伊賀、若狭、山城、丹波、摂津、河内、大和、和泉、播磨より人夫が石を運び召集されたとあり、ルイス・フロイスの『日本史』によると、武衛第の作事場だけで常時2万5千もの大工や人夫が働いていたと言うから、織田家とその同盟大名の軍兵を含めると、優に10万を越える数の人間がこの築城に携わることになった。
その工事の様子は、『信長公記』では、
「洛中・洛外の鍛冶・大工・樵人を呼び集め、隣国・隣郷から木材を取り寄せ、それぞれ持ち場ごとに奉行を置いて油断なく工事の進捗をはかった」
と表現され、フロイスの『日本史』を見ると、
「建築用の石が欠乏していたので、彼(信長)は多数の石像(石仏)を倒し、頸に縄をつけて工事場に引かしめた――(中略)――各寺院から毎日一定数の石を搬出させた。人々はもっぱら信長を喜ばせることを欲したので、少しもその意に背くことなく石の祭壇を破壊し、仏を地上に投げ倒し、粉砕したものを運んで来た。他の者は堀を拓き、また他の者は石を運んだり、山中へ木材を伐りに行ったので、まるでカルタゴ市におけるディドの建築工事の絵を見るようであった」
などと記されている。
ちなみに京都府の地下鉄工事現場で、この武衛第の石垣跡と、このために破壊された仏像が多数出土しているから、このフロイスの記述が誇張でも誤りでもなかったことはすでに実証されている。
この築城に対する信長の意気込みは、信長自身が総奉行を買って出たことでも解るであろう。
信長は、洛中洛外のすべての寺院に時報の鐘突きを止めさせ、この工事に携わる人々を早朝に参集させ、夕刻に解散させるための合図の鐘だけを突かせるという徹底ぶりで、自身はこの寒空にも関わらず粗末な小袖を一枚身につけ、腰に虎皮を巻きつけた姿でほとんど毎日のように早朝から普請場に現れ、大工や人夫たちの仕事振りを熱心に監督した。その右手には、指揮棒のつもりか籐杖が常に握られていたという。
普通、大名ほどの尊貴な身分の者が普請の視察を始めれば、現場現場で働く地下の人々は草履を脱いで土下座し、その通過まで顔を上げてはならないというのがこの時代の慣習であり常識であるのだが、合理性を何より尊ぶ信長の感覚から言えば、こんなくだらない慣習は無駄どころか害悪であった。
「わしに会釈をさせるな。戦陣の流儀でやれ」
信長は奉行たちに命じ、その手の行儀をすべて無礼講にし、作業をしている者たちはもちろん、この工事を見物しようと集まった市井の人々にまで、信長の視界の中を草履のまま歩くことを許した。
己の働きぶりを実際に信長に見てもらえると知った大工や人夫たちの発奮は凄まじく、普請場は活気であふれ、作業は怖ろしいほど捗った。また、信長を直に見れると知った京の人々は、この天下に名高い男を一目見ようと武衛第に群れ集まり、その人出を当て込んだ商売人たちが餅や菓子、茶などを売る出店までを出すようになり、付近はほとんど祭のような賑わいを見せた。
信長は、無軌道でエネルギッシュな祭の雰囲気が飯より好きな男だったから、この築城を、いっそ京の市井の人々を巻き込んだ巨大な祭礼に仕立てようと思い立った。
「藤戸石」の運搬騒ぎなどが、まさにそれであろう。
「藤戸石」というのは『平家物語』の藤戸の段に登場する名石で、小山ほどもあるという巨石である。
信長は、武衛第の中庭に、将軍の御所にふさわしい贅の限りを尽くした庭園を造営することを思いつき、泉水を引き回し、築山をあしらい、洛中洛外の名石、名木を集められるだけ集めて眼福の限りを尽くそうとしていたのだが、慈照寺(銀閣寺)にある「九山八海」の名石と共に、高名な「藤戸石」もそのコレクションに加えようと思った。
その「藤戸石」が細川藤賢の京屋敷にあると知った信長は、この石を錦布で包み、様々な花で飾りつけ、紅白で装飾した大綱を取り付けて曳けるようにすると、これを織田家の武将たちや京の著名人、希望する市井の人々など数千人に曳かせ、信長自らが先頭に立って拍子をとり、笛、太鼓、つづみなどで囃し立てさせ、武衛第までの運搬作業を祇園祭の山鉾曳きのように賑々しくやらせた。
乱世が終わったかのようなこの馬鹿馬鹿しい華やかさと可笑しさはたちまち評判になり、京はおろか畿内の各所から10万を越える人々が築城の見物のために武衛第に連日集まるようになり、ついには圧死する者までが出たという。
信長は常に多忙だったが、彼が決済しなければならない政治案件や人との面談などはほとんど立ったまま済ませるというほどの入れ込みようで、常に普請場のあちこちを歩き回って監視の目を光らせ、朝夕の食事さえ人夫たちに配られる炊き出しの握り飯と汁とで済ませた。主君である信長がこんな調子だから、織田家の家臣たちとしても仕事を怠けるわけにはいかず、毎朝暗いうちから手勢を率いて競うようにして普請場に駆けつけ、あるいは諸国の山々に飛んで石の切り出しや材木の伐採を行い、信長の怒りを買わぬために戦場にあるかのように懸命に働いた。
藤吉朗や小一郎が、この築城のために奔走したのはあらためて言うまでもないであろう。
藤吉朗が京の防備と共にこの築城の輜重役を仰せ付けられたため、小一郎は米問屋 摂津屋の善左衛門に頼み込み、その口利きで五畿内の米問屋に残らず通牒し、毎日10万近い人間が食うことになる米を調達するために駆け回り、味噌、塩、副食などの手配にも頭を痛めた。また、木下家の家臣たちは小一郎の指示に従って摂津や奈良、堺などを飛び回り、馬借らを指揮して米や食料品を普請場に続々と運び込んだ。
永禄12年の2月初旬に石垣積みと外堀の改修を始め、27日に御殿の鍬入れの儀式を行ったこの大工事は、わずか70日ほどで荒々ながら出来上がったという。フロイスがその築城の規模を実見し、ヨーロッパなら少なくとも2、3年は掛かるであろうと予測したことを思うと、2ヶ月ちょっとでやり遂げてしまったそのスピードは、ほとんど奇跡と言うに近い。
この将軍御所は、満々たる水を湛えた広く深い外堀と石垣、分厚い塀によって外界から遮断され、わずか3ヶ所の吊り上げ橋とそれに繋がる巨大な櫓門によってのみ出入りができる構造になっている。これが外廓で、中には小規模ながらも内堀までがあり、大小の櫓が建ち、植え替えられた桜の並木に彩られた馬場や、贅を尽くした庭園など、平城としてまことに見事な造作になっていた。金銀の装飾が施された御殿や義昭の居住部分は新築したが、それ以外の様々な建築物――長屋や蔵、台所や書院など――は普請を急ぐために付近の寺社から必要な部分をちぎり取るようにして持ってこさせ、それを流用するという無茶までやったらしい。
信長は、この周囲に幕臣たちの京屋敷をそれぞれ新築させ、将軍御所の威容を整えると共に、天子が住まう内裏の修理も思い立ち、潤沢な財力に物を言わせてこれも同時に行わしめた。これらは織田家の凄まじいまでの経済力を、天下にアピールする格好のデモンストレーションになった。
と、同時に、立て続けに巨大な普請が行われることとなった京は、応仁の乱以降、未曾有の好景気に沸いた。材木や石は常に不足し、大工、人夫などの手も足りることはなく、これがために彼らの賃金までが上がった。とにかく人が集まるから食品と生活必需品が凄まじく消費され、旅籠と酒屋、遊女屋などは非常な繁盛をしたという。
そのくせ、畿内の関所という関所が信長によって取り払われ、関税がなくなったために、物資の流通が非常な勢いで活性化しており、京はインフレを起こすどころか物価はむしろ下がっているのである。これはもう「信長景気」としか言いようがなく、百年から続く戦乱に苦しめられてきた都人にとっては、まさに天から銭が降ってきたような気分であったに違いない。
「織田さまがいらしてくだされて以来、この京は万々歳じゃ」
という声は辻々にあふれ、殊に商人や職人などを含む庶民たちから信長は絶大な人気を博することになった。
それとはまったく逆に、「座」の経済特権を剥奪され、莫大な矢銭を課せられることになった寺社は、非常な泣きを見ている。
信長は無神論者であったが、人々が信仰している宗教というものを否定したり取り上げてしまおうとまでは思っておらず、その神聖権に対してだけは一定の敬意を払い、黙許の姿勢を取っていた。しかし、僧どもが現世で権力を持ち、寺社が財力と武力とを蓄え、政治介入を企てることだけは断固として許さぬ、という信条を持っており、その意味で信長は――この時代の歴史背景を考えれば驚異的なことだが――明確な政教分離論者であった。
(この世のことは、わしがすべて面倒を見てやる。坊主や神主どもは、あの世の面倒を見ておれ)
というあたりが信長の本音であり、あの世に仕える者どもに現世における巨大な財力や武力はそもそも必要さえないであろう。
信長は織田家の強大な武力を背景に、有力寺社に対しては積極的な締め付けを行い、そこから膨大な軍資金を吸い上げた。
そうして得た資金を公共事業という形で京の人々に還元し、民を富ませていたのだから、信長という男の経済感覚というのは、この時代に生まれたことが信じられないほどに先取性に満ちている。
足利義昭は、4月14日に完成した幕府御所に入った。
この頃が、信長と義昭の関係がもっとも蜜月であった時期と言えるであろう。
義昭はこの1年あまりの一連の信長の働きには非常に満足しており、また感謝もしていた。年齢的にはそう変わらない信長を書面の上で「御父」とまで呼ぶようになっていたし、信長を招いて酒宴を開くと必ず三献の礼を取り、自ら酌をしては信長の機嫌を取った。「副将軍」や「室町管領」の地位を信長に与えようとするなど、この頃は信長を幕府の柱石として信頼し切っていて、このわずか4年後に当の信長によって幕府が滅ぼされ、自らも蹴り飛ばされるように京から追放されようとは、まったく想像だにしていなかった。
信長は、4月の中旬頃に今回の上洛に際して京に集まらせた諸国の大名小名たちに暇を出し、自らも4月21日に義昭に暇を告げ、岐阜へと帰って行った。
義昭は信長を幕府御所の門外まで見送り、その別れに涙を流し、自ら東の櫓に登って信長の軍勢が見えなくなるまでその様子を遠望していたという。
強大な織田軍が京から居なくなるということが、泣けてくるほどに心細かったのであろう。
ちなみに竹中半兵衛は――
この期間の半兵衛は、ほとんど何もしていない。
半兵衛は正月に引き込んだ風邪をこじらせ、現代でいう肺炎のような症状に陥っていたのである。高熱のために立って歩くことさえままならず、1ヶ月以上を寺の書院で横になって過ごさざるを得なかった。藤吉朗からの強い勧めもあってその後は静養を続けており、この間、京の医者などに多少の知己が増えたということはあったにせよ、今回の普請ラッシュにはまったくの役立たずであったと言っていい。
半兵衛の身体がどうにか復活し、神のようなその智謀に精彩が戻るのは、桜が散る季節を待たねばならなかった。