第27話 六条合戦――本國寺事件(4)
三好三人衆の軍勢が京に乱入した永禄12年(1569)正月4日あたりの様子を、この当時の京に住んでいた人物が残した文章によって眺めてみたい。
『言継卿記』という文献がある。
これは、山科言継という公家が残した日記で、戦国乱世の様々な様相が50年にわたって記されているという点で興味深く、公家がものしたものだけに視点が比較的中立で脚色や粉飾が少ないと考えられることから研究者の間でも一級の史料に位置づけられている。
山科家は、公家のうちでは摂関家、清華家に次ぐ羽林家というランクに属している。家格としてはその高さを誇れるほどでもないが、内蔵頭という役職を世襲し、有職故実に通じ、天皇の衣文・装束を整え、また雅楽器の笙を奉仕することをその家業としていたらしい。
その山科家の当主であった言継は、この永禄12年で62歳になる。有力者に寄生するようにしてかろうじて生きているこの時代の公家の中では、出色の人物であったと言っていい。
まず、手に職がある。
言継は、自ら染め物や仕立ての技術を習得し、妻や家人を指揮して装束や時服の製作を手広くやり、天皇の服ばかりでなく市井の人々からの注文にも気軽に応じ、これを商売にしている。また医術や調薬に精通し、薬草を求めて自ら野山に分け入り、それを煎じて薬を作ることに巧みで、しばしば人から頼まれて病状を診察したり薬を調合してやったりしていたらしい。
彼が公家らしい一流の風流人であり、文化人でもあったということは、あらためて言うまでもないだろう。酒は出されればどこまででも飲めるという大変な酒豪で、博打(囲碁や将棋、双六などのゲームを指す)をこよなく好み、歌道や文芸、学問にも深い造詣を持ち、仕事がら音曲にも通じ、また運動神経にも優れていたらしく舞いや蹴鞠にまで長じていた。
もっとも、言継という人物を後世に特徴づけているのは、そのような彼自身に付随する特質ではなく、その広い交友関係であったろう。
言継は非常に社交的な人物で、同業の公家衆や御所に詰める女房たちは言うに及ばず、僧侶や神官、果ては京の市井の人々とまで、四季折々の贈答、会食、酒宴などを通じて実に頻繁に交遊している。また各界の人物との交流も幅広く、若い頃は信秀(信長の父)の頃の織田家や駿河の今川家などに出かけていって歓待されたりしているし、たとえば“剣聖”上泉信綱や連歌師の里村紹巴、絵師の狩野永徳、京や堺の茶人などとも深い親交を持っていた。
他人に対して好悪の情が甚だしい信長も、父の代から付き合いのあるこの老人には好意を持っていたようで、言継がご機嫌伺いに逢いに来るとヒマなときは気持ちよく面会してやっているし、たとえば後奈良天皇十三回忌の仏事のときなどは、その費用を捻出するために老躯を押して三河の徳川家康の元まで出かけてゆかねばならなくなった言継を哀れがり、言継を岐阜に逗留させつつ信長から家康へ話を通してやり、銭2万疋(20万枚)を調達してやったりしている。
言継には、席を共にしていることがなんとなく心地よく、ついつい世話をしてやりたくなるような、人好きする雰囲気があったものらしい。
この言継の社交上手というのは正親町天皇からも重宝されていたようで、言継が信長と懇意と知るや、武家伝奏を飛び越えて直接に織田家との折衝や接待をやらせようとし、天正年間にはしばしば勅命をもって走り回らせている。
山科言継という人物が面白いので、つい余談が長くなった。
『言継卿記』のことである。
『言継卿記』のこの時期の記述を見ると、1月4日に『三好三人衆、京中へ侵入し「以外騒動」となる』とある。それ以前に三好勢来襲の風聞は見えないから、これが寝耳に水の「以外(意外)な騒乱」で、つまり三好勢の「奇襲」であったことがうかがえる。
続く5日は、多少の続報が入ったようで、『三好三人衆、足利義昭の宿所である本圀寺を攻撃。将軍方の足軽衆20余人が討死、三好三人衆の軍勢では死人・負傷者が多数であった』と報じている。
翌6日になると、すでに将軍方が勝利を収め、三好三人衆が撃退されたという確報が入っていたようで、言継は御所の内侍所で公家仲間たちと酒を飲みながら双六に興じたりしている。なんとものん気な話だが、この騒乱が上京にまったく及んでいなかったことが、こののんびりした様子からも見て取れる。
ちなみにこの日、言継は内侍所に梯子をかけてその上から南方を遠望し、市街の所々に火の手が上がっているのを視認している。6日の時点でも、まだ洛南の火災が収まっていなかったことの証拠と言えるであろう。
小一郎と半兵衛、そして木下勢の人々は、まさにこのとき、煤まみれになりながら必死に消火活動を行っていたはずである。
さて――
3日の夜に小一郎が岐阜へ走らせた早馬は、折からの豪雪で路程がよほどに難渋したらしく、6日になってようやく岐阜城に辿り着いた。年始から続くこの悪天候のせいで、せっかく用意していた狼煙の通信がまったく役に立たなかったというのは、運が悪かったとしか言いようがない。
『信長公記』によれば、この6日は岐阜でも近年稀なほどの大雪だったらしい。
信長は、この報に接するや電光のような素早さで行動を起こした。
「馬曳けぇぇぇぇい!」
一声叫んで部屋を飛び出し、装束を調えるやすぐさま馬上の人になった。
「京へゆく!」
と、信長の命令はいつもこうである。
兵農が分離されている織田家では、軍兵は平時でも出陣の支度をしたまま城下で待機するという建て前になっているから、信長のこの一声は、そのまま軍令となる。しかし、そうはいっても、さすがにこの凄まじい速さに即応できる者はいない。
「お、お待ち下されませ! 暫時、暫時お待ちをっ!」
左右の者が泣きそうになりながら駆け回り、大慌てで陣触れの太鼓を叩き、法螺貝を吹き立て、岐阜の城下は灰神楽が舞うような騒ぎになった。
信長は、稲葉山の山麓に金箔を貼りめぐらした絢爛豪華な居館を構え、普段はそこに住んでいる。そこからまず岐阜城へ馬で駆け上がり、大手門で馬から飛び降りて馬丁に手綱を預けると、稲葉山の急な斜面を走るように歩きながら次々と大声で軍令を下してゆく。動員する軍の規模、食料荷駄の量、引き連れる武将の名、留守を任す人間の人選など、その即決はほとんど機械のようで怖ろしく迅速かつ的確であった。
「この大雪でござりまする。ご出立は数日延ばされませ!」
などと諫言する者もあったであろう。
降りしきる雪はまったく衰える様子はなく、岐阜の町は膝まで埋まってしまうほどの雪に覆われている。道中、伊吹山地と養老山地に挟まれた難所もあり、あの山間部などは背丈を越えるほどの雪で埋まってしまっているに違いない。
しかし、信長にすればそれどころではない。
京の危難に対する織田家のこの軍事行動は天下の注目を集めているに違いなく、京を遠隔支配する信長にとれば、これが1日遅れればそれだけ織田家の弱みと恥を天下に晒すことになり、逆に神速をもってすれば天下の耳目を驚倒させるであろう。
ようするに、雪などに構っていられないのである。
「いらざる差し出口をするなっ!」
と一喝し、生ぬるい意見などは吹き飛ばしてしまった。
遠方の諸将に対する軍令書の送付などといった細々とした指示を終えた信長は、再び大手門まで戻って馬を立てた。この間に、数十人の旗本の武者と荷駄隊の一部が大手門の前まで集まっていた。
信長はイライラしながら軍勢の参集を待っていたが、待ちながら荷駄作りにおおわらわになっている小者や人夫たちの姿を眺めるとなく眺めていると、人夫たちが馬に積む荷のことで喧嘩を始めた。
どうも、荷駄の重さに不公平があるといって騒いでいるらしい。
信長は、そういう姿を見てしまうと己が行って裁定しなければ気が済まないようなところがあり、わざわざ馬から降りて人夫たちの間に入り、念の入ったことに自ら荷駄をいちいち点検し、
「これらはいずれも同じ重さである。うぬらは早う出立の支度を致せ」
と言って人夫たちを黙らせ、畏れ入らせたりした。
信長はある程度の人数が集まったと見るや陽があるうちに岐阜を出陣し、ほとんど一騎駆けの勢いで吹雪の中を疾駆した。信長の速度についていけない者は容赦なく置いていかれ、美濃と近江の国境あたりは硬く積もった雪を削りぬくようにして道を作り、ほとんど不眠で進み続けたらしい。その行軍の凄まじさは、折からの寒波のために凍死する者が出るほどだったという。
『信長公記』によると、信長はわずか2日で京に到ったということになっているが、これはいくらなんでも言い過ぎであろう。
先述の『言継卿記』や、奈良 興福寺多聞院の僧 英俊らが書いた『多聞院日記』などを見ると、織田軍が大挙上洛し、本國寺に入ったのが10日となっているから、信長本人が京に到ったのはそれより少し早い9日の夜あたりではなかったかと思われる。それにしても、この悪天候と悪条件を考えれば、わずか3日あまりで岐阜から京へ到ったとすれば、驚異的な速さと言わねばならない。
ちなみに藤吉朗は、信長との謁見と相談を済ませた後、とんぼ返りで岐阜を発ったと思われるから、出立が信長よりは数日早く、京に戻ったのは7日前後であったとしておきたい。
藤吉朗が本國寺に駆けつけたときにはすでに京は平静を取り戻していたが、小一郎を含めた木下勢の人々は精も根も尽き果てたというほどに疲れきっていて、身体中が煤で汚れ、髪は焼けちぢれ、ある者は火傷をし、ある者は手足の骨を折りといった具合で合戦で働いた他の将兵よりむしろ損耗が酷く、半兵衛などは――この寒空にろくに眠らずに働き続けていたためでもあろう――熱を出して臥せっている始末であった。
藤吉朗が小一郎を伴って宿所に半兵衛を見舞ったとき、この行儀の良い男はわざわざ臥所を片付け、衣服まで整えて対面した。
「此度のお骨折り、いちいち小一郎から聞き申した」
半兵衛の手をとって藤吉朗は深く頭を下げた。
「わしの思慮が足りなんだばかりに、半兵衛殿にはいかい(大層)お手間をお掛けしましたのぉ」
「なんの」
半兵衛は、痛々しいほど血の気が失せた顔に微笑を浮かべて言った。
「此度の留守を立派に守られたは、ひとえに小一郎殿のご分別の賜物です。私などは、さしたる働きも致しておりませぬよ」
「とんでもない」
小一郎は大仰に首を振った。
「いま思い返しても、半兵衛殿のお言葉は、怖いほどにひとつ残らずピタリピタリと壷に嵌っておりました。神算鬼謀っちゅうのは、まさに半兵衛殿の知恵のことを言うんじゃと、わしゃ驚かされっぱなしでしたわ」
藤吉朗は何度も頷きながら、
「何より、この京を焼かずに済んだのが第一等の功じゃ。この事はわしからも、信長さまによう言上致しておきまするぞ」
と、心から誠意を込めつつ言った。
「それは、どうかご容赦ください」
半兵衛は苦笑した。
「私は、木下殿があらかじめ下された命に従ったまでのこと。そのことは、木下勢の寄騎の方々にも申し渡しましたし、軍議の席でも申し上げました。敵を退けたは明智殿と京畿の諸将の功、京を守られたは木下殿の功、木下勢を動かされたは小一郎殿の功。それでよろしいではありませんか」
「いやいや、そうは参りませぬわい」
それでは半兵衛の働きに何も報いることができないではないか――と、藤吉朗は言った。
半兵衛は藤吉朗の傍にはいるがその身分はあくまで信長の直臣であり、藤吉朗の家来であるわけではないから、褒美は信長からしか貰えないのである。藤吉朗が声高に半兵衛の功を言い立てねば、このままでは信長は、半兵衛がいかに働いたかを知ることさえできない。
それでも、半兵衛は穏やかに首を振った。
「私は織田家に身を置いてはおりますが、この方寸(心)は――」
と、自らの胸に手を当てた。
「この方寸は、すでに木下殿の家来のつもりでおるのです。そのようなお気遣いは、してくださるな」
ものに感じやすい藤吉朗は、その言葉を聞くとみるみる目に涙を溜めた。
「半兵衛殿・・・・!」
両手をつき、
「あの近江の庵にて語り合い、約定致したこと、わしゃ片時も忘れておりませぬぞ。必ず国持ち大名ほどにも立身し、半兵衛殿を信長さまからもらい受けまするによって、いま暫くご辛抱くだされ!」
腹の底から搾り出すような声でそれを言った。
「辛抱などと・・・私はいまでも、何の不満もありはしませんよ」
半兵衛は笑いながら藤吉朗の手をとり、その顔を上げさせた。
藤吉朗が何と言って半兵衛を口説き、半兵衛が何に絆されて世捨て人の境遇を捨て、あの墨俣砦に足を運んでくれたのかというのは、半兵衛から聞いた程度のことしか小一郎は知らない。まして、半兵衛が隠棲していたという近江の山間のあばら家で、半兵衛と藤吉朗が何を語り合い、どんな約束をしたかというようなことは知りようはずもない。
しかし、この2人がどれほどの深さで繋がっているかということは、目の前で行われているこの光景を見るだけで、小一郎には十分に実感できたのだった。
本國寺までの長くもない帰路、静かに馬をうたせながら藤吉朗は言った
「小一郎よ、よう覚えておけよ」
「ん?」
自らの馬を藤吉朗のそれに寄せ、小一郎は聞いた。
「智者と悪人っちゅうのは、ほんの紙一重じゃ」
両者の違いは、その心事だけであると、藤吉朗は言う。
「たとえば松永久秀っちゅう男は、ありゃ相当の知恵者じゃが、もう小気味良いほどの悪人じゃな。毒気が強すぎるわ」
その人間の心に毒気があれば、知恵者とはすなわち悪人であろう。欲心が強く、己を愛することに深い者は、身に備わった知恵を己の欲望を満たすために働かせるから、その所業はおのずと悪人のものとなる。
「そこへゆくと半兵衛殿は、ありゃぁまことの智者じゃ」
智者の心事とは、常に風が吹き通っているような爽快なものでなければならない、と藤吉朗は続けた。
「家屋敷に喩えるなら、じめじめと湿気が強いのもイカンし、埃っぽいのもイカン。襖を開け、風を吹き通してやらねばならん。あるいは水のようなもんに見立てれば、流れ続ける川は澱むということがないが、流れのない沼は水が澱み、やがては腐る――と、まぁ、そういうことじゃ。・・・解るか?」
「まぁ、解る」
そんな喩え話より、半兵衛の人柄に思いを致せばそれで足る。
「智者の心事は、常に透き通るようでなければならんちゅうこっちゃな。透き通っておれば、物がよう見える」
「ほんなら、兄者はどうじゃ?」
小一郎は逆に尋ねた。
「兄者はよう知恵が回るが、兄者は智者か?」
功名出世に目の色を変える藤吉朗の心事が智者ほどに清々しいものであるはずがないが、しかし、藤吉朗が悪人でないということも小一郎は知っている。
「そりゃ難しいところじゃのぉ」
藤吉朗は少し考えて、こう答えた。
「わしはどうやら悪人じゃな。智者と言うには、欲があり過ぎるわい。じゃが、ただの悪人とはちゃうぞ。わしは、常に智者の心事であらんとしておる悪人じゃ」
「・・・そりゃぁ一番 性質が悪いんとちゃうか?」
と言って、小一郎は笑った。
信長は今回の上洛で、尾張、岐阜、伊勢、南近江、さらに五畿内の領国の武士団を総動員した。これに北近江の浅井氏をはじめ若狭、丹波の同盟国の援軍も参集したため、その軍勢は総計8万という空前の規模に膨れ上がったらしい。
信長はこの大軍勢を京に留め、正式に堺に対して「最後通牒」を突きつけた。
三好家と手を切り、武器を捨てて降伏し、織田家の支配を受け入れて矢銭(軍用金)を供出せねば、徹底的に堺を焼くぞ、と脅しつけたのである。
この効果はてきめんだった。
三好三人衆が木っ端微塵に粉砕されたのを間近に見、信長と織田勢の恐ろしさを肌身をもって知った堺の町衆たちは、信長の脅しに哀れなほどに狼狽し、老若男女を問わずほとんどの者が家財道具を抱えて山野に逃散したと『重編応仁記』にある。
三十六会合衆と納屋衆は一堂に会してこの非常事態に対して協議し、今井宗久、津田宗及らが中心となって政論をまとめ、織田家の仕置きに従うこと、「首代」として銭2万貫を献上すること、今後浪人を抱え置かないこと、三好家の者と一味しないこと、などを定めて信長に誓約し、織田家の支配を受け入れることを決めた。
ちなみに千宗易は、この直前の時期、しきりに今井宗久、津田宗及と茶会を持っている。茶室の中でどのような密談が交わされていたかは想像の域を出ないが、これ以後、堺衆の中で宗易の存在感が急激に高まっていくことを思えば、おそらく堺を織田家に従わせる方向に導いたのであろう。
ともあれ、自由都市としての堺の矜持はこのとき滅び、以後、堺は織田家の重要な経済基盤となり、同時に鉄砲や硝煙、火薬、鎧兜などの軍需物資を生産するための最も有力な基地となった。