第26話 六条合戦――本國寺事件(3)
深々と降る雪が、永禄12年(1569)正月4日の京を白く塗りこめている。
京の六条にある本國寺は、数多の篝火によって闇中に浮かび上がるようであった。
忙しげに歩き回る人影たちが発するわずかな甲冑の音や、足利家の紋章である「二つ引両」が染め抜かれた幔幕の中で交わされる男たちの声音なども、降り積もった雪の中に吸い込まれてしまうようで、小一郎は不自然なほどの静寂の中に居る自分を発見し、目が覚めたような驚きを覚えた。
厚い雪雲に覆われた空は漆黒としか表現のしようがない闇色で、月もなければ星もない。しかし、視界の中の雪景色は篝火を反射してかやわらかな光を発しているようで、闇に慣れた目には不思議なほど明るかった。
木下勢がたむろする山門のあたりへと歩きながら、小一郎はふと夜空を見上げた。
ブナの大樹が、葉が落ちた枯れ枝を闇に向かって手のように伸ばしている。その手をすり抜けるようにして顔に落ちかかってくる雪の粒が、闇の中から湧き出てくるようで妙に美しかった。
「小一郎殿・・・・」
傍らを歩いていた半兵衛が、立ち止まった小一郎の耳元で囁くように言った。
「明日のことですが――」
幻想の世界から現実に引き戻されたような気分で、小一郎は振り返った。
「なにか?」
「この戦、我らが働き過ぎるのは禁物です。ほどほどになされるがよろしいかと・・・」
「ほどほど、ですか・・・」
とっさにはその真意を測りかねた。
半兵衛は眉間に少しばかりの縦皺を刻みながら続けた。
「木下殿が京におられたなら、この戦はかの人の武名を世にあらわす好機。我らはそれこそ刀の鍔が割れるほどに働かねばなりませんが、この場にいらっしゃらぬ以上、我らが人目を惹くほどの武功を挙げるのは、いささか――」
憚るところが多い、という意味が言外に込められていると、小一郎は察した。
軍隊が人間の集団であり、人間が感情の動物である以上、主将が不在の状況で隊が大きな活躍をするのは、必ずしも好ましいこととは言えないであろう。
小一郎や半兵衛が木下勢を率い、この戦で華々しい活躍でもしようものなら、士卒の心が、その場にいなかった藤吉朗から小一郎や半兵衛に向いてしまうというようなことに繋がるかもしれないし、あるいは何の役にも立たなかった藤吉朗に対して侮りや軽蔑といった感情を持ってしまうかもしれない。また、共に戦って武功を挙げた者たちとその場にいなかった藤吉朗とは、同じ矢弾をくぐり、艱難を共にし、その上で成果を得たという軍隊組織の一体感にとってもっとも重要な気分や雰囲気が共有できないわけで、そういうことをことさら口に出す者はいないにせよ、今後の木下勢の統制に何かしらの悪影響が出ないとも限らない。
そういう気分は、藤吉朗にとっても変わらないだろう。己が不在の木下勢が華々しい武功を挙げたと聞けば、それを無邪気に喜ぶような気持ちにはなれないに違いなく、その場にいられなかったという慙愧の想いが自分の内に向けば、武名をあらわすチャンスを逃した己の見通しの甘さを呪うかもしれず、自分の外に向けば、出すぎた小一郎や半兵衛に対して嫉妬に似たような感情を抱くというようなことにもなりかねず、あるいは功を誇る寄騎の将たちとの間に感情的なわだかまりができるかもしれない。
どう転んでも、それが藤吉朗にとって好ましかろうはずがない。
もちろん、藤吉朗の陽気な個性と度量の広さ、その桁外れの人心収攬の能力を考えれば、ことさら小一郎あたりが細々した配慮をするには及ばないのかもしれないが、いずれにしても、ここで木下勢が大働きに働いて武功を挙げるということは、木下勢の人間関係にとってはマイナスばかりが多く、プラスが少ないというのは間違いがないのである。
しかし――
「しかし、我らの働きが鈍ければ、そのことで兄者が信長さまからお叱りを受けるっちゅうことにもなりゃしませぬか? それに、わしらに付いてくれておる寄騎の方々にすれば、戦場にあれば武功を挙げたいと当然思うでありましょうから、手を抜いて働けと命じるわけには・・・」
「ご懸念は、ごもっともです。ですから――」
小一郎が辿りつく程度の疑問には、半兵衛は当然のように回答を用意してあるらしい。
「我らは戦以外のところで、大いに働くことにすれば如何でしょう?」
「と、申しますと?」
半兵衛はその先を語らず、一拍おいて逆に小一郎に問うた。
「小一郎殿はこの戦、公方さまを守り抜けば我らの勝ちと、そうお思いですか?」
半兵衛がこういう話し方をするときは、必ずその先に、元の話題を納得させるための答えが用意されているということを、日々の付き合いの中で何度も経験している小一郎は知っていた。
だから小一郎は、半兵衛が言った「戦以外の働き」とは何か、という疑問を一時保留し、少し考えて半兵衛の質問に答えた。
「・・・そりゃぁ、公方さまをお守りし、敵を退ければ我らの勝ちでしょう。違うのですか?」
それは、少々お考えが浅い――と、半兵衛は首を振った。
「この本國寺は、あの立派な水堀と練塀で四方を囲まれておりますし、先日来の雪で火矢も役に立たぬでしょうから、これを守るにさほどの困難はありません。ここに4千からの兵が篭って待ち構えておる以上、いかなる戦上手がこれを攻めようとも1日2日で落とすことはまず無理です。ですから、純粋に戦ということだけで言えば、三好三人衆の奇襲の日取りを知り、それを一時防ぐ術をととのえた時点で、我らはすでに勝っておるのです。朝からの戦況がどう転んでゆくか――それが三好三人衆にとって有利であろうが不利であろうが――それは大きな問題ではありません。なぜなら彼らは、背後に松永勢が現れたという報に接すれば、どういう状況であっても諦めていったん兵を引かざるを得ぬからです」
半兵衛が現代人ならば、さしずめ、戦略レベルで勝利の条件を整えてある以上、戦術レベルで三好勢がどれほど奮戦しても織田家の勝利をひっくり返すことはできないのだ、とでも言ったであろう。
この半兵衛の観測こそが、藤吉朗をして安心して京を離れさせた理由であり、小一郎がいま恐慌に陥らずに済んでいる根拠でもあった。半兵衛がそう言い切る以上、今日はそのように戦が推移してゆくのに違いない。
「しかし、戦に勝つだけでは駄目なのです」
半兵衛は小一郎を見据えて言った。
「この点がまさに肝要なのですが――たとえ公方さまを守り抜き、敵を退け得たとしても、京の町を焼かれてしまえば、これは我らの負けです。なぜなら、京が焼ければ岐阜さまは京を守れなかったことになり、その声望は地に落ち、岐阜さまに好意を抱いていた都人の人心も離れ、織田家が来ねば町は焼かれずに済んだはずだと、我らに対する怨嗟の声が天下に満ち満ちるでしょう。天子さまやお公家衆も迷惑なさるに違いなく、公方さまも岐阜さまを頼るに足りぬと不安がるかもしれず、そこから飛躍して他の大名との結びつきを強めようとなされるかもしれません。つまりは――」
この京を守ることこそが、我らのまことの役儀と心得るべきなのです、と半兵衛は続けた。
「三好勢は、兵を引くまさにそのとき、この辺り一帯の町屋に必ず火を放ちます」
退却する三好勢とすれば、織田方の目をくらまし、追撃を邪魔するために――あるいは退却の腹立ちまぎれに――付近の建物に手当たり次第に放火して回るに違いない。
「京を守るためには、その火の延焼を防ぎ、災禍が洛中に及ばぬようにせねばなりません。これに木下勢をして働かせれば、武功にはならずともその働きは、岐阜さまと木下殿、さらには京の人々までを、必ず喜ばせることになると思うのです」
「ははぁ〜〜なるほど・・・」
先ほどの話がここに繋がってくるのかと、小一郎はようやく合点した。
戦場の武功とは敵の首を挙げた数で決まるから、火事場の火消しのような地味な働きは功名を競いたい武将たちは嫌がるに違いないが、木下勢のそもそもの役割は京都の守護にあるわけで、その本分であると言えば木下勢に属している寄騎の諸将からは文句の出ようもない。それが信長の期待に沿う働きであるというなら藤吉朗の顔も立ち、木下勢は武功にはならぬながら立派に役割を果たすことができ、小一郎や半兵衛が戦場の功を競うことも避けられ、さらに京の人々から評判と信頼さえ得られるかもしれない。
(これ以上ない、一石四鳥の働きということか――!)
小一郎は、半兵衛の深い知恵の働きに心の底から感心した。
「追い討ちの武功なぞは、明智殿や新参の京畿の諸将に譲っておやりなされば良い。そんなところで首の数を競い、小さな功を誇らずとも、我らが武名を挙げる機会はこの先いくらでも巡って参りますよ」
半兵衛は微笑した。
「お考え、胃の腑に落ちました。寄騎の方々にもそのように申し伝えましょう」
小一郎は納得して深く頷き、半兵衛と共に再び歩き出した。
半兵衛や光秀が予想した通り、正月4日の朝が明ける前に三好勢の先鋒部隊が本國寺付近に出没し始めた。
旗印から知れたこの先鋒の大将は、薬師寺 九朗左衛門 貞春という三好家で名の知れた豪の者で、猪突型の猛将であるという。
これは、織田家に降った三好義継から得た情報で、半兵衛は昨年のうちに、畿内の地理を調べるついでに義継が領する河内(大阪府中部)まで赴き、直接、三好家の主立つ武将の名、その性格や嗜好、戦術癖などを聞き込んでいたのだが、その成果であると言えた。
三好義継という男は三好長慶の甥で、長慶が死んでから三好三人衆に担がれ、三好家を継いだ人物である。その後、三好三人衆と松永久秀の仲違いに巻き込まれて三好三人衆に追われ、松永久秀と共に上洛した信長にすがって救われ、今は河内半国を与えられて若江城に住している。まだ17歳という少年と言っていい年齢だが、松永久秀と共に三好家の内情をもっとも深く知る人物であるから、その情報の確度は非常に高かった。
小一郎にとって多少意外だったのは、敵が奇襲部隊であるにも関わらず手に手に松明を持ち、本國寺の櫓からその接近の様子がまる解りであったことと、戦を始める前に本國寺門前の町屋を焼き払い始めたことだった。この寒さだから、あるいは暖を取りたかったのかもしれない。
そのように小一郎が言うと、
「いや、あの大将は、もう少し上の武将であるようですよ」
と、半兵衛は息を白くたなびかせながら応えた。
「恐らく昨夜のうちに何度も物見を出し、この本國寺に篝火が多いことを知り、すでに我らが敵の朝駆けに備えておると見て取ったのでしょう。奇襲にならぬと解った以上、火を使わずに隠れ寄せることにも、寒さに耐えることにもそれほど意味はないですからね。あのように町屋を焼き立てておるのは、そこに織田方の伏兵が潜んでいる危険を怖れたためだと思います。なかなか、物に古りた仁と見受けます」
小一郎は自分の浅慮が情けなかった。
空が白み始めると共に、三好勢の先鋒が鬨の声を上げ、本國寺に向かって矢を射掛け始めた。
本國寺勢がこれに応射する形で矢合わせが始まり、ときに鉄砲の轟音が鳴り渡り、早朝の凍えた空気をさかんに切り裂いた。
守備側の織田勢にとって幸いだったのは、連日降り続いた雪によって本國寺にある屋根という屋根に30cm近くも重い雪が積もっており、桧皮葺の屋根はたっぷりと水気を含んでいて、敵の火矢がほとんど役に立たなかったことだろう。結局、建物は一棟も燃えず、多少の火がついてもすぐさま織田勢の兵によって消し止められ、火災による混乱に悩まされるということがなかった。
本國寺に篭っているのは、木下勢と明智勢を主力とする織田勢と、義昭の直臣である幕臣たちの手勢、合わせて4千数百といったところである。幕臣には細川藤孝と和田惟政をのぞけば武将としての能力がある者はほとんどいないが、この本國寺にある者ではかろうじて細川藤孝の兄である三淵藤英と、室町管領 細川家の当主 細川藤賢が少なからぬ合戦経験を持っており、他には義昭が流浪時代からこれに付き従っている若狭(福井県)の武士たちが数十人いて、これらは多少の戦力になりそうだった。
すでに述べたが、本國寺の敷地は正方形ではなく、南北に654mと長く、東西は218mと狭い。
部署は、すでに決まっている。主戦場でありもっとも華々しい舞台である西側――山門の周囲の守備は明智光秀が受け持ち、木下勢以外のすべての人数を光秀が自由に使える直属兵力とした。その数は、合わせて2千弱。2千数百の木下勢はその人数を本國寺の東、南、北にそれぞれ配り、裏門がある東側に小一郎と半兵衛が率いる千2百、激戦が予想される南側に蜂須賀小六率いる「川並衆」4百、北側に寄騎の諸将の兵5百をそれぞれ配し、残りを予備兵として本堂の脇に控えさせた。木下勢は基本的に専守防衛に徹することになっているが、光秀の新たな命令があればそれに従うことになる。
練塀の内側は、光秀の指示によってすでに足場が組まれており、塀越しに敵を狙撃できる態勢が作られている。7mもの水堀と2m近いこの塀が敵を遮り、塀の上からは矢弾が霰のように浴びせかけられるわけだから、そうやすやすと敵の侵入を許すことはないであろう。事実、三好勢は侵入どころか本國寺に近づくことさえろくにできず、結局、1人の敵兵の突破も許さなかったのである。
早朝は、もっぱら山門の周囲が騒がしかった。
三好勢は数度にわたって山門に対して突撃を企て、付近の家屋の戸板を外して盾とし、雪を蹴立てて攻め寄せて来たが、織田方の櫓と塀の上からの矢弾が凄まじく、いくらかの死体を残していずれも撃退された。
光秀の部隊指揮はなかなか堂に入ったもので、ときに自ら槍を抱えて打って出、しばしば門前の敵を蹴散らした。光秀が撫育した明智勢の働きも整然として素晴らしく、殊にその鉄砲隊の運用は独特で精妙だった。
この時代の鉄砲は先込め式のいわゆる火縄銃で、1発撃つたびに銃身を掃除し、銃口から火薬と鉛弾を転がし入れ、それをさく丈をもって突き固め、ようやく射撃できる。掛かりすぎるこの手間が鉄砲という武器の最大の弱点なのだが、光秀は2百人の鉄砲足軽を3人1組に組織し、腕の良い1人を射撃手と決め、残る2人を装填作業に専念させ、3挺の鉄砲を順繰りに回すようにして間段なく轟発させ続けた。
光秀自身もこの鉄砲の運用法を実戦で使うのは初めてのことだったらしいのだが、その効果は抜群で、これを見た半兵衛も、後にこの話を聞いた信長も、この工夫には痛く感心し、やがて織田家で広く使われるようになった。
辺りが明るくなり、銃声が喧しくなり始めると、本國寺周辺の大路小路に家財道具を抱えて逃げ惑う都人の姿が目立つようになった。彼らの多くは長く京を支配していた三好勢の旗印を見慣れていたから、誰が何処を攻めているのかといったことは瞬時に悟り、本國寺に近づこうとはしなかったが、気が動転して前後を忘れたものか戦場付近に紛れ込んでしまった慌て者も中にはいて、流れ矢に当たって死んだり、三好家の足軽たちに殺され、持ち物を奪われたりする不幸な者も出た。
普通、武士なら無辜の民に対して無法を働くことはしないが、足軽という連中はその点で倫理観がなく、戦時の略奪略取は当然の権利くらいに思っている者が多かったから、織田家以外の軍勢では普通に行われる光景だと言っていい。
日が高くなるにつれ、三好勢の数はいよいよ増え始め、小一郎たちも防戦の指揮に忙しくなった。
このとき、勝龍寺城の細川藤孝、摂津の荒木村重、池田勝政、和田惟政、河内の三好義継らの軍勢が西より駆けつけ、2手に別れて京に迫っていた三好勢の一隊に背後から食いつき、桂川の河畔で激戦が行われているという物見の報告が入った。
これは、半兵衛が戦前に予想した刻限よりもかなり早く、東から攻め寄せる手はずになっている丹羽長秀率いる南近江勢は当然ながらまだ京に姿を現していない。どころか、この丹羽勢は昼を過ぎてもまだ現れず、結局半兵衛の読みよりも3時間近く遅れて到着することになる。
この丹羽勢の遅参のために、三好勢にはまだ2方面作戦をするだけの余裕があり、桂川で援軍を防ぎ止めつつ本國寺を攻めるという姿勢を保つことができたのだが、それも長くは続かなかった。松永勢が遠く攝津に現れ、後方から攻め寄せて来るという情報が入るに及んで慌てふためき、夕方を待たずに雪崩を打つようにして退却し始めたのである。
(結局は、半兵衛殿の読みの通りじゃな・・・・)
小一郎は引き始めた敵を見て思った。
光秀はこの機を逃さず、全軍に追撃を命じた。
三好勢は、先鋒部隊を殿として残すと、京の大路小路に散らばりながら南を指して逃げ、同時にそこここに放火して回った。たちまち辺りに火の手が回り、立ちのぼる黒煙が視界を覆った。
あらかじめ光秀に断りを入れていた小一郎は木下勢を追撃戦には参加させず、六条、七条あたりの消化活動に駆け回らせた。消化活動といっても、火そのものを消し止めることはほとんど不可能だから、火の手が延焼していかないよう、その家と付近の家屋を取り壊すのである。
手回しの良い半兵衛は京の大工の棟梁たちと繋ぎを取ってあったらしく、彼らが槌だの鋸だのといった大工道具を多数抱えて駆けつけてくれ、共に働いてくれたため、この作業はよほど捗った。命がけでもあり、骨が折れる作業ではあったが、この日から2日間、ほとんど不眠で働いた甲斐もあって、火災の延焼は最小限に抑えられた。
丹羽長秀に率いられた南近江勢が京の東方に現れたのは、ちょうど三好勢が退却を始めた頃だった。この軍勢は、勝ち馬に乗るような格好になったと言っていい。本國寺勢と共に猟犬のようになって敵を追い、敵の殿部隊を追い散らし、淀川と桂川に三好勢を蹴落とした。
三好勢の殿と逃げ遅れた兵たちは東寺に逃げ込んで陣を構え、ちょうど本國寺の織田方がそうしたように東寺の伽藍を利用して防戦したため、この4日うちに攻め滅ぼすことはできなかった。織田勢は東寺を包囲して敵を封じ込め、一方で逃げた三好勢の本隊を追いに追い、京の南郊は三好勢の首のない死体であふれた。
後日、この首は鴨川の川原にずらりと並べられ、晒されたという。
日が暮れてからは銃声も絶え、この日の合戦はほぼ終わった。夜の城攻めはしないのが原則になっているから、東寺に篭った三好勢の掃討は翌日まで掛かかったが、幸いにも東寺そのものが焼失することは避けられた。三好勢は松永久秀と争ったときに東大寺の大仏殿を焼き、天下に悪評を撒いたという苦い経験を持っているから、有名な大寺院を焼くことは躊躇したのかもしれない。
いずれにせよ、世に「六条合戦」とか「本國寺事件」とか呼ばれるこの騒乱は、こうしてわずか2日で幕を閉じたのだった。
『信長公記』の「六条合戦」の件を見ると、この合戦で本國寺に篭り、活躍した者の名が数々挙げられている。
その中には、明智光秀や細川藤賢、果ては織田家には属さない若狭の武士たちの名前までが記されているのだが、京奉行であった木下藤吉朗の名は一度も出てこない。同様に、桂川付近で戦った細川藤孝や荒木村重、池田勝政の名はあっても木下勢に属していた物頭(武将)の名は1つも現れてこない。これは、藤吉朗が京にいなかったからであり、木下勢が証拠に残る武功(敵の首)をほとんど挙げなかったからであり、この時代の論功行賞の常識から言っても、小一郎や半兵衛の働きが「武功」と呼ぶようなものではなかったからだと筆者は考えている。
この合戦によって洛中に被害が及ぶことが一切なかったことを思えば、そして正月4日から丸2日間燃え続けたと記録にある洛南の火災が大火に発展しなかったことを思えば、そこにこそ小一郎たちの活躍があったのだと見てやりたいのだが、残念なことに、史書はその点は沈黙している。
ただ、ひとつだけ確かなことは、「六条合戦」の後も藤吉朗が信長の信頼を変わることなく得続けたということである。少なくとも、この騒乱が藤吉朗にとって出世のマイナスになったというような形跡は、どこを探しても見当たらない。
この時の木下勢の働きがもし不甲斐ないものであったならば、当然、信長はそれに腹を立てたであろうし、その場に居なかった藤吉朗を殺さんばかりに叱り飛ばしたに違いない。京奉行だった藤吉朗としても家中に面目を失うことになり、その後の出世に少なからぬ影響が出たのではないか――と、筆者は思うのだが、これは牽強付会と言うべきであろうか。
いずれにしても、各種の史書を見る限りでは、この合戦に竹中半兵衛の名は1行たりとも出てこない。
木下小一郎の名も、また同様である。