第25話 六条合戦――本國寺事件(2)
足利義昭がその仮の幕府としている本國寺は、日蓮宗の大本山である。
日蓮宗というのは日蓮上人をもって開祖とする法華経を奉じる仏教宗派で、その歴史は古く、鎌倉時代の初期――建長5年(1253)から始まるという。本國寺の歴史ということで言えば、鎌倉幕府が滅び、政権が京都に移った貞和元年(1345)、光厳天皇の勅諚によって京都六条に東西2町(218m)、南北6町(654m)という広大な永代寺領を賜り、その地に日静という高僧が本堂を建立した時からであろう。
ちなみに日静上人というのは足利幕府をひらいた足利尊氏の叔父にあたる人物だから、当然その権勢も非常なものだった。本國寺は皇室の庇護と幕府の巨大な外護を受け、室町時代の初期に興隆を遂げる。さらに後醍醐天皇によって皇室の勅願道場となり、御所の裏鬼門(南西)の守護所として大変な権威を持つようになり、その後も多少の浮沈はあったにせよ京の代表的な大寺院としてこの物語における現在に至っている。
つまり、本國寺と足利家とは非常に濃い因縁があったわけで、京に住処がない義昭とすれば、ここを好んで宿舎としたのも当然であったと言える。
少し余談を続けると、天文5年(1536)――この時期から30年ほど昔――に起こった「天文法華の乱」のとき、京にあった法華宗の寺院は比叡山の僧兵らによって残らず焼かれた。この騒乱はそれぞれの信徒をも巻き込んで市街戦の様相を呈し、その戦火は2日2晩にわたって燃え続け、ついには下京のほぼ全域と上京の3割以上を焼亡させるという途方もない結果を生んだ。応仁の乱以後、京で最大の災厄であったと言っていい。
ともあれ本國寺はその乱で灰燼に帰し、法華宗の衆僧は残らず堺へ追われた。以後、法華宗は幕府から京における寺院の再建を許されず、実質的に禁教のような扱いを受け、6年後の天文11年(1542)の暮れになってようやく許されている。
つまり、いま建っている本國寺はほんの25年前に再建されたもので、京の寺社の建築物としてはもっとも新しい部類に入るということになる。
さて、本國寺――
その広大な寺域には、主立つ建物だけでも、巨大な本殿と拝殿、釈迦堂、大師堂、鐘楼、庫裏(台所)などがあり、数多の塔頭(境内にある小院)と共に桧皮葺の甍を並べている。山門は雄大で、その間口の広さ、鉄鋲が打たれた門扉の厚さ、柱の太さというのは、そのまま城の大手門として使っても遜色ないほどに見事なものである。
寺域の周囲は白の練塀によって囲われ、その外側には近所を流れる堀川から水を引き込んで7mもの幅を持つ立派な水堀がめぐらされている。このものものしさは、本能寺、妙覚寺などと並んでこの時代の京における典型的な城郭寺院の姿と言ってよく、さらに本國寺では義昭の宿舎にするということで山門の周囲にいくつか櫓を組み上げ、山門に至る道には鹿砦(バリケード)を植え込むなどしてより防戦能力が高められている。
本國寺には、明智光秀を主将とする5百ほどの軍勢が義昭警護のためだけに配備されている。藤吉朗が本陣にしている禅寺がこのすぐ傍にあるのも、要は義昭を守るためと言うに尽きる。
小一郎と半兵衛は、洛中に配ってあった手勢を引き連れ、3日の夜にこの本國寺に入った。
半兵衛が指示した通り、木下勢に属する2千ほど軍兵がすでに戦支度を済ませて本國寺に集結している。また、小一郎からの通牒を受けて京の周辺にいた味方の軍勢も続々と集まりつつあり、やがてその陣容は4千余というところまで増えた。
小一郎はさしあたり、藤吉朗の代理という立場で義昭に面会し、今現在本國寺が置かれている状況を説明し、軍議を開き、諸将と今後の方策を決めなければならない。
(・・・えらいことになってまったもんじゃ・・・)
真冬のこの寒さにも関わらず、小一郎は背中に嫌な汗でもかくような想いでいる。藤吉朗不在のとばっちりで、とんでもない大役が巡ってきてしまったものである。
「半兵衛殿、どうか、万事よしなにお引き回しくだされ」
小一郎はほとんど泣きそうな顔でそれを言った。
木下勢を代表して外の軍議に出るなどという経験は、小一郎にあろうはずもない。小一郎は木下家の家臣筆頭ではあるが、織田家という視点から言えば陪臣(家来の家来)に過ぎない身分なわけで、通常なら織田家の軍議に出る資格さえないのである。
頼れるのはもう、半兵衛しかいないではないか――
「そう思い詰めなさらずとも・・・」
当の半兵衛は穏やかに微笑した。
「小一郎殿は陣代(代理)とはいえ、いまこの京で飛びぬけて大きな軍勢を率いる大将には違いないのです。公方さまにせよ、京の人々にせよ、三好家が攻め寄せるというこの状況では、木下勢を頼まずばどうにもなりますまい。細々としたことは私などに任せて、大度に構えておいて下さい」
半兵衛は公式に木下勢の軍監だから、その立場は大将を補佐する副将格で、藤吉朗不在の木下勢の中ではもっとも序列が上の人間と言うことができる。やろうと思えば信長の威を借りて小一郎から「藤吉朗の代理」という立場を奪い取り、半兵衛自身が木下勢を掌握することさえ楽々とできるはずだが、この痩せた軍略家にはその手の権勢欲が皆無で、そういう思案は持とうともしないらしい。
「大度ですか・・・わしにゃぁ難しいですなぁ」
小一郎は歩きながらかじかんだ指に息を吹きかけ、両手をこすり合わせた。
元旦から降り続いた雪のせいで、本國寺の境内は白く塗り込められている。草鞋で固めた足が歩を踏むたびに、ギュギュっと小さな音を発した。
風こそないが、とにかく寒い。
「戦は、早暁からということになると思います。それまで兵を凍えさせるわけにはいきませんから、皆に半分ずつ休みを与え、また篝をどんどん焚かせて暖をとらせましょう。あと、油を入れた甕を用意させておりますので、それを兵たちの手足と顔に塗らせれば、多少なりと寒さが防げるはずです。それと、寅の刻(午前4時)を過ぎたら何か汁を作らせ、酒と餅とを一緒に配り、腹ごしらえをさせましょう。腹が減っては戦はできぬと申しますからね」
「何もかもお任せします」
足早に歩を進めながら、半兵衛は左右の者にテキパキと指示を出した。
まったく、心強いことこの上ない副将である。
「あぁ、小一郎殿、お待ち申していた」
黒糸縅の具足に身を包んだ壮年の武者が、本殿の玄関前に据えられた篝火の脇から声を掛けてきた。
明智 十兵衛 光秀である。
この寒さの中、外で待っていてくれたらしい。
光秀は織田家では新参者ではあるが、信長から大抜擢を受け、藤吉朗とはほとんど同格の同僚という立場にある。信長と足利義昭を引き合わせたという功があり、織田家に席を置きつつも義昭の直臣であるという変り種で、義昭からの信任も厚い。現在は義昭の身辺警護をしながら、織田家と足利幕府との橋渡し的な仕事をしている。
小一郎と半兵衛は、光秀とはすでに初対面ではない。京に腰を据えて以来、何度か顔を合わせる機会があり、挨拶程度ではあるが口をきいたこともある。
「此度の敵の動き、よくこそ知らせてくだされた」
公家のような温厚な瓜実顔を持つこの男は、まずそのことに対して慇懃に礼を言った。
「敵の様子を知りえたのは、我が兄とこの半兵衛殿の手柄です。わしは何も致しておりません」
相手の礼に恐縮しながら慇懃に答礼し、小一郎は正直に答えた。小一郎は律儀が自分の取り柄であるということをよくわきまえているから、良くも悪くもやり方はいつもこうで、隠し立てもしなければ自分を飾ることもしない。
「敵は、1万2、3千と見申した。先鋒はすでに桂川の辺りまで出ておるようじゃから、夜明け前には櫓から見えるところまで寄せて来ると存ずる」
気鋭の指揮官らしく、すでに光秀は独自の斥候を多数放って敵軍の様子を探り出しているらしい。的確に状況分析をし、それをすでに足利義昭の耳にも入れているという。
光秀は小一郎らを義昭が寝起きしている小書院の庭へと導き、そこを臨時の指揮所にすることを提案した。すでに篝火が焚かれ、幔幕が張り渡され、床机もずらりと並べられており、そこここに数名の武者の姿も見える。
書院の襖は、大きく開け放たれていた。薄暗い部屋の中に、畳の上に床机を据え、落ちつかぬ様子で座っている人影がある。鎌倉武者のような古風で煌びやかな緋縅の大鎧を身に巻きつけた痩身の三十男で、皮の足袋と草鞋で固められた足元が小刻みに揺れていた。
室町幕府の第15代将軍 足利義昭である。
とっさにそれと悟った小一郎は慌てて地面に這い蹲り、土を舐めるように土下座した。貴人は見てはならぬもの、というのが、根が土百姓である小一郎に染み付いた常識であり、作法である。
「木下藤吉朗殿のご舎弟の、木下小一郎殿でございます」
片膝をついた姿で義昭に言上した光秀は、
「小一郎殿、軍陣のことでござる。煩瑣な礼や作法は無用にされよ」
と、言い添えた。
「は、はっ」
見ると、光秀どころか半兵衛までもが片膝をついた姿で軍礼している。
なにやら自分が小虫か何かのようで、ひどく卑小に思え、無性に情けなかった。
しかし、考えてみれば、ほんの15年前まで尾張中村で泥田をかき回す百姓に過ぎなかった小一郎が、諸国の武門に連なる人間の中でもっとも尊貴な室町将軍の顔を、間近に見ているというこの現実はどうであろう。なにやら足元が雲にでもなったようで、気分がふわふわとしてまるで現実感が伴わない。
「直答を許す。・・・弾正忠(信長)は、いつ来る?」
義昭は、やたらと甲高い声でそれを聞いた。
「す、すでに夕刻に岐阜へと急使を発しましてございまする。恐らく、5日の後には・・・!」
思わず声が裏返りそうになることをどうすることもできなかった。
京と岐阜との往来は、季節と天候に恵まれても片道3日は掛かる。伝馬の駅を整えてあるから、馬を乗り換え乗り換えして不眠で走る急使は普通なら明日にも岐阜に辿りつけるはずだが、この雪と寒さでは道々苦労するだろうし、軍勢の移動ともなればさらに難渋するに違いなく、信長の到着は下手をすると5日後では済まないかもしれない。
「5日・・・・!?」
義昭は頬の辺りを痙攣させている。
「十兵衛、どうするのじゃ?」
「岐阜さまの来着を待たずとも、三好の奴輩などはたちどころに追い返してご覧に入れましょう」
光秀は頼もしげに請合った。
「しかし、当方は兵が少ないぞ」
「ごもっともでござりまする。しかしながら、京畿のお味方がおっつけ駆けつけて参りましょうほどに、軍勢は明日にはいまの倍になりまする。ご心配には及びませぬ」
倍になるというのは言い過ぎだと小一郎は思ったが、光秀にすれば義昭を安心させるための方便であったのだろう。
義昭は小さな瞳をせわしなく動かしながら、ひどくゆとりのない声で聞いた。
「負けぬか?」
「無論のこと」
「・・・ならば良い。十兵衛の良きようにせよ」
義昭は座を立ち、背後の襖を開いて奥の間へと消えた。
それからが、実質的な軍議となった。
義昭が「十兵衛の良きように」と言い残したことによって、光秀は諸将の座長のような格好になった。
もっとも、このとき織田家の高官で京に居残っていたのは文吏派の村井貞勝くらいのもので、丹羽長秀は近江の大津にあり、佐久間信盛は岐阜に戻っており、たとえば幕臣きっての器量者である細川藤孝や和田惟政などもまだ本國寺に入ってはいなかったから、禄高で言えば武将としての格は光秀がもっとも高かった。人選として不適当だったわけでもない。
顔を付き合わせた諸将の思惑は、わざわざ語り合わずとも「篭城」ということではすでに一致している。寡兵の織田勢が、わざわざ3倍近い敵に対して野戦を挑むほど愚かなことはないであろう。
「半兵衛殿・・・」
話の成り行きを見て、小一郎は目配せした。
「承知」
半兵衛は、用意してきた畳2枚ほどもある絵地図を地面に広げ、諸将の見参に入れた。京はもちろん、奈良、摂津、河内あたりの地勢が示され、街道と川筋、地名などが書き入れられている。
「敵は――」
と、半兵衛が扇子で指し示したのは、青で着色された淀川である。
「堺からこの淀川に沿って北上し、桂川が淀川に流れ込むこの辺りで軍を二つに割り、北進を続けておりまする。我らとすれば、敵をこの本國寺の付近にまで引き付け、水堀や練塀を頼みにしてあしらい戦をしつつ、時間を稼ぐが上策であると存じます」
半兵衛はそこで声を落とし、あらかじめ藤吉朗が今日の事態に至るであろうことを予見しており、これに対する策が練ってあったこと。さらに、すでに畿内の味方には事態を通牒してあり、藤吉朗の命に従ってそれぞれに今後の方策を指示してある、という内容のことを告げた。
「敵の先鋒が矢を放ち始めるのが恐らく明日の早暁、後続が本國寺を囲むは陽が高くなる頃でありましょう。刻限を昼まで見合わせ、敵を十分に引き付けてから、勝龍寺城の細川藤孝殿、摂津の池田党、荒木党、和田惟政殿、河内の三好義継殿らには西から、大津におられる丹羽長秀殿に南近江の諸豪を率いていただいて東から、呼吸を合わせてそれぞれ敵に横槍を入れ、その後に本國寺に入るよう指図してござる。また、奈良の諸豪には、敵の退路を扼させます」
扇子が、奈良の郡山あたりから生駒山を越えて摂津に出る暗越奈良街道を指した。
「すでに松永弾正殿のご舎弟 長頼殿に、奈良の諸豪を率いて攝津に出、その後、淀川をさかのぼって京に迫るよう命じました」
この松永勢は、明日の昼か、どんなに遅くとも夕刻には摂津まで出張り、敵の最後尾に喰いつくであろう。腹背に敵を受け、怪我を重ねている三好勢とすれば、この上退路まで断たれそうだと知れば、恐らく慌てふためいて退却を始めるに違いない――と、半兵衛は言う。
「その機に合わせて打って出、桂川へと追い落とすようにして敵に攻め掛ければ、お味方のご勝利は疑いなしと存じます」
諸将からため息にも似た声が漏れた。
実に精緻な作戦案と言わねばならないだろう。
「しかし、松永党というのは反覆常ない。彼奴らが万一兵を出さねば、敵の退路を断つことは叶わず、この策は成り立たぬと思われるが、信用できますかな?」
ある一人が発言した。
半兵衛は落ち着き払って答えた。
「弾正殿ご本人が奈良におるなら、百にひとつその危険もありましょうが、いま弾正殿は岐阜にあります。ご舎弟の長頼殿とすれば、織田家の指図に従わぬわけには参りますまい」
実質的な人質になっているということである。ここで松永勢が織田家の命に従わず、利敵行為を行うようなら、松永 弾正 久秀は信長によって確実にその首を刎ねられるであろう。
「いや、半兵衛殿、見事なるご軍略」
無言で半兵衛の策を吟味していた光秀がようやく発言した。
「ここまで細工が整うておるなら、もはや議論は不要と存ずる。肝心なことは、我らに後詰め(援軍)があるということを敵に悟られぬようにする、というこの一点ですな。敵の朝駆け(早朝の奇襲)に対しては、我らはしばし知らぬ振りをし、手出しをせず敵を十分に引き付け、逆に敵が食いついてからは、貝のように閉じこもるのではなく、ときに本國寺から打って出るなどしてこちらの戦意も見せ、時間を稼いでおるとは思わせぬようにするが肝要と存ずる」
これを聞いた半兵衛は微笑し、
「さすが、斉藤山城入道殿(道三)の衣鉢を継がれた十兵衛殿。戦というものをよくご存知であられますな」
と言ったから、諸将は異見が差し挟みにくくなった。これに異を唱えるのは、知恵者と評判の高い半兵衛から「戦を知らぬ者」と名指しされるのに等しい。
「方々にはくれぐれも、明日にも後詰めがあるということを手の者に知らせぬようお願い申します。それを知れば兵の士気は上がりましょうが、このことが万一にも敵に漏れれば敵方も警戒し、寡勢のお味方は逆に各個に討たれてしまうやもしれず、大怪我をせぬとも限りませぬゆえ」
半兵衛は釘を刺した。
「また、此度は守戦ではありますが、京の町を焼かぬよう、ことさらに気配りをくだされたく、これも重ねてお願い申し上げておきます」
戦時において、守戦側が付近の家屋や障害物を排除するのは、古今東西を問わない戦争の常識であると言える。なぜなら、それらが残っていれば、それは攻め寄せる敵にとって格好の隠れ家になり、矢弾を防ぐトーチカの役割を果たしてしまうからである。守戦側は、戦が始まる前に視界をさえぎるような遮蔽物はできる限り取り除いておくのが当然で、家があれば家を焼き、林があればすべての樹を切り払い、敵が身を隠す場所をなくしておかねばならないのである。
しかし、そうはいってもこの人口密集地帯の京で家屋に火を放てば、それは30年前の「天文法華の乱」がそうであったように京の町を焼き尽くす結果になるかもしれない。そうなれば京の人々の怨嗟の声が織田家に向けられるだろうことは間違いがなく、今後の京の占領行政にも大きな差しさわりが出てくるだろうから、得策とは言い難い。
「半兵衛よ、そこまで考えておるなら、いっそお主が采を振るか?」
本気か冗談か判断が付きかねる声音で、座で最も年かさの村井貞勝が言った。
貞勝は、織田家の奉行衆 筆頭を勤める辣腕の吏僚で、その温厚で篤実な性格をもって信長から厚い信頼を得ている人物である。信長が幼少の頃から織田家の文官として立身し、信長とその弟が家督を争ったときには一貫して信長を支持し続け、信長の世となってからは主に財政、内政面で働き、奉行として数々の行政や訴訟を取りさばき、その実務能力を認められて奉行衆の筆頭となった。京では織田家の代表として公家衆の周旋や朝廷との交渉、訴訟事の裁定などを担当している。
その年齢はすでに50を幾つか越え、髪にも髭にも白いものが目立ち始めている。馬上槍を持って戦うという武将ではなく、また戦術・戦略が解る男でもないのだが、三好勢襲来の急を聞くやわずかな手勢を率き連れて本國寺に駆けつけ、この場に臨席していた。
「右衛門(佐久間信盛)なり五郎左(丹羽長秀)なりがおったればそれで済んだ話じゃが、おらぬ以上は詮もない。信長さまが京に参られるまでの間、我らの仮の大将は決めておかねばなるまいよ」
真意はともかく、その意見はしごくもっともなものである。
「せっかくのお言葉ですが、私のような若輩者には手に余ります。仮の大将であれば、木下藤吉朗殿がご不在のいまは、公方さまのご守護を任されておる明智十兵衛殿がこそ適任でありましょう」
半兵衛はどこまでも慇懃にその申し出を断った。
光秀は織田家では新参者ではあるが、将軍である義昭の信頼が厚く、細川藤孝、和田惟政といった幕臣とも付き合いが深く、彼らにすれば従うに安心感があるであろう。それに、半兵衛とのやり取りなどを聞いている分には、明智光秀という男の武将としての器量も、期待するに足るものであるように小一郎には思えた。
「ならば、この場は仮に、明智十兵衛を大将として采を預けようではないか。各々がバラバラに働いては、勝てる戦も勝てぬようになるからの。軍令は、ひとつ所から出ねば上手くゆかぬもんじゃ」
貞勝が皆をまとめるように言った。
最年長者であり、信長の文吏としてその繋がりがもっとも深い貞勝の言葉だから、誰もこれに異を唱えようとはしなかった。
「方々がそう申してくだされるなら、僭越ながら・・・」
光秀は恐縮の体を示しながらもそれを受け、その後は実にテキパキと的確な指示を諸将に与え、忙しく防戦の準備をし始めた。