第24話 六条合戦――本國寺事件(1)
京に留め置かれた木下勢というのは、京の防衛軍であると共に、治安維持のための警察軍でもある。その日常の職務は京の安寧秩序を守ることであり、都人が京の支配者に望むことというのも極言すればこれに尽きるであろう。
藤吉朗が京奉行を命じられた直後、小一郎を含めた藤吉朗の周囲の者たちは、この「治安維持」ということについて具体的にどのような手を打てば良いのかがまったく解らなかった。蜂須賀小六をはじめとする「川並衆」の棟梁たちは基本的に野武士に毛が生えたような連中で、治安を乱すことはあってもそれを取り締まった経験などはなく、信長から預けられた寄騎(与力)の諸将にしてもそれは似たようなもので野戦攻城の士ではあっても治安行政に長じた者はおらず、まして京のような自治都市に対する知識もそれを治める経験も持ってはいなかったから、ほとんど為すところがなかったのである。
結局は、半兵衛が一人で知恵を絞ることになった。
京は自治都市としての伝統が長く、この頃すでに120もの町組が自然発生的に組織され、それぞれの町組の有力者の中から乙名と呼ばれる代表者を数名選出し、それを頂点とする階層的な自治組織を形成していた。また京は先述した通り寺社の数が多く、ことに仏教寺院は宗派法統ごとに上下関係が割りあいはっきりしているから統制が取りやすいという利点があった。
半兵衛は、まず藤吉朗の名で町組の乙名と有力寺社の代表者を集めてこれを論説し、京の治安維持のために協力させる態勢を作ると、京の出入り口付近の寺社などに軍勢の屯所を設け、そこに将兵を篭めた。京は「構え」と呼ばれる土塀によって囲われた城壁都市であり、その出入り口は上京、下京にそれぞれ数箇所しかなく、しかもそのすべてに木戸が設けられている。この木戸に衛兵を立てることで、洛中に不審者が入り込むことを防ごうというのである。
また木下勢を細かく編成して巡邏隊を組織し、それをもって洛中洛外を隙間なく警邏させた。ことに洛東――加茂川の東岸というのは遊女屋が立ち並ぶ歓楽街と乞食や川原者などが棲む貧民窟が雑居する地域で、応仁の乱以降、京でもっとも治安の悪い場所であったのだが、この警邏隊が信長流の厳罰主義をもって犯罪者に臨んだため、これを恐れてか夜盗や物取りなどの騒ぎがめっきり減ったという。
さらに「川並衆」の者を浪人や旅人に扮させ、それを常時百人近く市中に放って情報の収集と不審者の捜索にあたらせた。
これらは、犯罪者の取り締まり対策であると同時に、三好氏の諜者の侵入に対する用心でもあった。
というのも、この永禄11年(1568)から数えてわずか3年前、京の二条御所で、三好氏と松永久秀によって将軍 足利義輝が暗殺されるという大事件があったのだが、このとき三好軍は、2千ほどの軍勢を浪人や京見物の旅人などに扮装させ、5人、10人とばらばらに数日かけて京へと送り込み、夜陰に紛れて二条御所を囲み、これを襲撃するという方法をとったらしいのである。これは合戦ですらなく文字通りの暗殺で、こういうやり方は近畿を支配する大大名という立場からすれば本来ありうべきことなのだが、この静かなる軍事行動のお陰で、襲われた足利義輝は敵兵が御所の中に侵入して下人を斬り殺す頃になるまで自分が敵勢に包囲されているとは気づかず、危機が目前に迫っているとも思わず、下京の人々はもちろん、二条御所があった上京の住人でさえ御所に火の手が上がるまでその大異変を知らぬ者が多かった。
京を押さえる信長にとって、京の防衛と将軍 義昭の守護というのは最重要課題と言うべきだが、そもそも京には防御力を期待できるような城がなく、まして義昭は洛外――京の「構え」の外――にある本國寺をもってその御座所にしているくらいだから、三好氏が軍勢を催した合戦の形態を取らず、再び暗殺というような手段を選択してきた場合、その発見が困難で、しかも防衛がしにくいというのが大問題であった。
京に足を向ける人間をすべてチェックするなどは実際的に不可能である以上、次善策として秘密警察的な人間を京にばら撒き、あるいは都人から怪しい輩に対する密告を奨励し、それによって不審者を炙り出すしか方法がなかったのである。
半兵衛は、これらをたちどころに構想し、献策した。
半兵衛の非凡さは、組織や制度を作ることが巧みであったことと、己の立案した策を文章化する能力をもっていたことであろう。
この時代、文章を読み書きするというのは一種の職能で、下級武士や足軽の中には文盲の者が多く、かろうじてカナが読める者でも漢字が読める者は少なく、それが書ける者となるとさらに稀で、漢文などは特別な教育を受けたよほどの教養の持ち主でないと使いこなせなかった。これを補うために、武将ほどの身分の者は「祐筆」という秘書 兼 文章家を必ず手元に置いていて、公文書や手紙などはすべてその祐筆の筆でもって文章にしていたのである。
その点、本場中国の兵法書や歴史書にさえ精通している半兵衛は当然のように漢文を自在に使いこなし、豊富な語彙から案件を文章化することが的確で、しかもその速さは藤吉朗つきの祐筆さえ到底およばないほどだった。ほとんどの者が無教養という藤吉朗の幕僚の中では、半兵衛のみはまったく異質であったと言っていい。
藤吉朗は、軽躁といえるほどの素早さで半兵衛の案を行政化し、分担を割り振ると、翌日からすぐさま実行に移した。
藤吉朗の知恵をもってしても半兵衛の案に付け加えるべきものが見つからなかったということもあるだろうが、この二人というのは、まさしく二人三脚と言っていいほどに呼吸が合っている。
半兵衛が敷いたこれらの治安行政を司るのはもちろん藤吉朗だが、実際にこれを日々運用してゆく責任を持つのは、他ならぬ小一郎であった。
藤吉朗は、昼間は織田家の臨時の政庁が置かれている清水寺に詰めている。たとえば行政上の問題が起こったり訴訟事などが持ち込まれたとき、織田家の上司や幕府や公家衆の間を走り回って事態を調整したり調停したりするのが藤吉朗や明智光秀などといった織田家の中堅武将たちの仕事で、織田軍上洛という状況の変化によって多くの混乱が起こっているときでもあるから、彼らは尻を落ち着ける暇もないほどの忙しさの中にいる。そのような状況では、さしもの藤吉朗も治安業務そのものの面倒までは見ていられなかったのである。
もっとも、システムさえ作ってもらえれば、小一郎にはそれを堅実に運営してゆくだけの十分な実務能力と調整力とがある。
小一郎は毎日のように洛中の軍勢の屯所を巡回し、それぞれの兵糧や燃料が不足を起こすことのないよう気を配るとともに、将兵に対する監督を厳しくし、軍紀をことさらに引き締め、都人に無用な迷惑が掛からぬよう心がけた。
京を巡邏している木下勢というのは、言ってしまえば突然に都会に出てきた尾張の田舎者の集団に過ぎないわけで、まして時代は戦時の略奪略取が兵の当然の権利であった戦国乱世のことであり、乱世の足軽である彼らが自分たちが占領軍であるというような錯覚を起こし、優越感を抱いてつい調子に乗り、ハメを外し、万一にも無辜の民に対して無法を働いてしまうようなことがあれば、織田家の評判というのは一夜にして地の底まで落ちてしまうであろう。織田家が一般に風紀と軍紀に厳しい家風をもち、信長の威令がよく行き届いているとはいっても、華やかな文化の匂いが酒の香のように甘く漂う京にあっては、用心してしすぎるということはないはずで、この点には小一郎は厳しかった。
しかし、同時に、将兵に対するきめ細やかな配慮も忘れない。
小一郎の立場は相変わらず「藤吉朗の代理」という微妙なものであり、自分自身が偉くなったわけでも権力を得たわけでもないということを小一郎はよくわきまえていた。ことに藤吉朗に付けられている寄騎の諸将はそもそも木下家の家来ではなく、藤吉朗の部下ではあっても織田家の臣ということでいえば藤吉朗と同格の人々であり、織田家から見れば陪臣(家来の家来)に過ぎない小一郎よりも身分の格は上なのである。小一郎はこのことを常に意識し、彼らに対してはことさら辞を低くし、会釈も鄭重にし、その不満や悪意が藤吉朗に向くことがないよう心がけた。
この点、半兵衛が木下勢の軍監であることが小一郎にとってプラスになった。
軍監というのは信長の目となり耳となって木下勢の働きぶりを信長に報告するためにある存在なのだが、その半兵衛が小一郎と非常に仲が良く、常に好意的であったから、へたに小一郎に無法を吹っかけたり困らせたりすれば、半兵衛から信長にどんな報告をされるかも解らないという恐怖が寄騎の諸将にあり、それがために小一郎に対しては多少の遠慮を持たざるを得なかったのである。
もっとも、そもそも小一郎は他人に対して えこ や贔屓が少なく、誰に対しても慇懃、謙譲、しかも公正な男であった。木下勢の人々も日々のつき合いの中でそういう小一郎の人柄が解ってきており、小一郎がことさら他人の感情を損ねるような振る舞いをすることもなかったから、ほとんどの者が小一郎には好意的か、少なくとも悪意を持ってはいなかった。
木下勢というのは、大まかに分類すると、信長に命じられて藤吉朗の部下になっている寄騎の諸将とその手勢、野武士あがりの傭兵集団である「川並衆」、織田家に奉公にきた足軽、木下家の家臣団という四種の人々が混在して成り立っているのだが、この立場が四様な人間たちが反目したり諍いを起こしたりせず、それなりに円滑な人間関係を保てていたのは、小一郎の周旋の才によるところが大きい。
小一郎は木下勢の中で、潤滑油と緩衝材の役割を果たしていたわけである。
千宗易からの示唆もあり、この時期、小一郎は三好家の動静によほど注意を払っていた。
「川並衆」から気はしの利く者を数名選び、これを浪人に扮させて浪人集めをしている堺に送り込んで潜伏させた、というのはすでに述べたが、彼らがもたらす情報は、同じく行商人などに扮した繋ぎ役を通じて小一郎へと集められる。洛中警備で捕らえた複数の三好家の間者の尋問結果を含めても、集まってくる情報は宗易の言葉を裏付けるものばかりであった。
三好家の軍勢が大挙堺に入ったという報こそまだないが、そう遠くない将来、間違いなくなにかしらの動きがあるだろう。
(宗易殿は、年明け早々に――と申されておったな・・・)
小一郎は、そのことを考えると、憂鬱になる。
年始というのは、小一郎たちにとって厳しい時期であった。
というのも、近畿で新たに織田家に降った武将たちの多くが、年始の挨拶のために岐阜に赴くことになっていたからである。
年始の参賀は、この時代の武士にとってはもっとも重要な行事の1つであろう。織田系列の地方豪族にとって、戦場以外で信長にじかに逢えるほとんど唯一の機会であるし、織田家に随身したばかりの近畿の武将たちにとってみれば、少しでも信長の機嫌を取り、その繋がりを深め、親しみをもってもらうというのが至上の「政治課題」でさえあるから、それぞれの身上からすれば分不相応なほどの手土産を用意し、競うようにして岐阜へ下ってゆくに違いない。
畿内で最大の大物である松永久秀をはじめ、主立つ武将たちが参賀することはすでに決まっているし、あろうことか藤吉朗までもが岐阜に帰ると言い出し、これには小一郎はよほど参っていた。
「兄者は、いわば京の守将ではないか!」
小一郎は何度も翻意を促したが、藤吉朗は聞かない。
「信長さまには直接に言上せにゃならんことが色々とあるし、今後の京の仕置きについてもいちいちお伺いを立てておかにゃぁならんのじゃ。勝手をすれば――」
我が首を撫でながら、藤吉朗は笑った。
「このわしの首が飛ぶわい」
信長は、家来の仕事の怠慢をなにより憎むが、同時に行過ぎた独断専行も嫌う。
現状などの様々な報告をし、今後の指示を仰がねばならないし、京の治安行政――とりわけ寺社行政と、足利将軍家への対応に関してはその方針を入念に打ち合わせておかねばならないから、どちらにせよ近いうちに一度は岐阜に戻らねばならないわけで、それならばこの際、正月参賀を兼ねて帰れば一石二鳥だと言うのである。
信長の機嫌を取り結んでおくことは藤吉朗にとっても最重要な「政治」であったから、この点にだけは手を抜くわけにはいかなかった。
「京を空けるのは、晦日から都合6日の間だけじゃで。なんぼ三好の奴輩がタァケ(阿呆)でも、松が取れる前にゃぁ来やぁせんでしょう」
尾張訛り丸出しで藤吉朗は嘯き、
門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
一休禅師が作ったという有名な狂歌を詠いつつ、とびきり滑稽な顔と所作をして小一郎を苦笑させた。
この味のある狂歌の意味は、門松を立てるごとに年齢を重ねるわけだから、門松を見るたびに死に一歩ずつ近づいているのだよ、ということなのだが、今の小一郎にとってみれば含みが重すぎ、皮肉のスパイスが効きすぎている。門松を見る頃に三好家が攻めてきて、それが「冥途の旅」になってはかなわないではないか。
「なんちゅう不吉な歌じゃ。今のわしの気分にはぴったりじゃわい」
小一郎はせいぜい嫌味な顔を返したが、それが精一杯であるとも言えた。
「半兵衛殿も、なんとか言うてやってくだされ。兄者は一度言い出したら、わしの言うことなんぞは聞きゃぁせんのです」
傍らの半兵衛に救援を求めると、半兵衛は苦笑して言った。
「しかし、実際、危険ではありますよ。万一、木下殿が留守のときに敵に攻められては、我らの士気にも関わります」
「半兵衛殿は、どう思われる? 三好勢は正月に合わせて動きますかな?」
「そこは、五分五分でしょう」
自分が三好家の大将であればこの好機を逃しはしないが、三好家には三好家の都合なり予定なりがあるはずだから、なんとも言えない、という意味のことを半兵衛は続けた。
「木下殿がお帰りになるのを、三人衆が待っててくれれば良いのですが――」
「しかし、まぁ、万一そうなったにしても、防ぎの工夫はすでに立っておるのでしょう。ならばわしの采配を半兵衛殿に預けておきさえすりゃぁ、まずまず安心ですわい」
藤吉朗が妙に強気なのは、半兵衛が立てた防戦策があったからに違いない。
「負けぬ工夫はできるでしょうが、それも、三好家が軍勢を催して攻め寄せて来てくれた場合のこと。またぞろ公方さまを目掛けて闇討ちというような手を使ってこられては、これは防ぎようがありません。いっそ――」
半兵衛は悪戯っぽく笑った。
「公方さまも同道されては如何です?」
これには小一郎は大いに笑った。
「そりゃ名案じゃ! 公方さまを岐阜に連れてきゃぁ間違いないわ。兄者、そうせい」
藤吉朗は苦い顔をし、
「犬や猫とちゃうんやぞ、そうそう気楽に連れて歩けるわきゃぁないわい」
小一郎に向かって毒づいた。
結局、藤吉朗は予定を一日だけ繰り上げ、暮れも押し迫った師走の二十九日に京を発った。連れたのはわずかな供回りだけで、公方さまこと足利義昭が京に居残ったのは言うまでもない。
結果論だが、このときの藤吉朗は、三好三人衆の戦意と情報収集能力を甘く見すぎていたと言わねばならないだろう。
三好三人衆は、松永久秀をはじめとする畿内の武将の多くが畿内を留守にするという情報をすでに掴んでいた。この機に狙いを定め、正月二日には四国から渡海して堺へ入り、そのまま軍を北上させ、四日の夜明けと共に京を急襲しようとしたのである。
この情報は、3日の夕刻には小一郎の元へと届けられた。
敵の数までははっきりしないが、総勢1万とも1万5千とも言い、2手に別れてひたひたと京へ迫っているらしい。
小一郎は蒼白になった。
小一郎はすぐさま本堂に諸将を集め、このことを告げた。
「お味方に知らせねば!」
「ただちに岐阜に早馬じゃ!」
「そんなことよりすぐさま戦支度を!」
本堂は騒然となり、男たちは口々に言い騒いだ。
と、その時、半兵衛の右手がひらめき、扇子で床を打った。
パシン!
乾いた音が響き渡り、一瞬、本堂が水を打ったように静まり返った。
「ご一同、お騒ぎあるな」
半兵衛はひどく落ち着いた声音で言った。
「このような時のために、木下殿からあらかじめすべての下知(命令)を受けてござる。方々はまず具足を付け、戦支度をし、手勢を引き連れてそれぞれに本國寺まで駆け集まるべし。私語を禁じ、軍令にすみやかに従うよう手の者にお命じくだされ。ことに、戦時において敵味方の強弱を語る者は、すなわち死罪。間者として首刎ねると、固く念押しすることをお忘れなきよう」
半兵衛はそこで瞑目した。
あたりは張り詰めたような静寂である。誰もが半兵衛の口元を注視し、しわぶきひとつする者はない。
やがて半兵衛は目を見開き、それまで聞いたこともないような大声を発した。
「出陣!」
反射的に、地鳴りのような大声が沸きあがった。
「おおぉ!」
その場に居たすべての者が半兵衛の一喝に応え、風のように本堂から駆け去った。
残ったのは上座の半兵衛と、藤吉朗の代理としてその隣に座していた小一郎のみである。
「やはり木下殿は不在ということになりましたか。武名を上げる良い機会だったのですが、こればかりは致し方ないですね」
先ほどの一喝などなかったように、半兵衛は静かに言った。
「洛中に配ってある木下勢と、京に残っておるすべての織田家の将兵に通牒し、本國寺に兵を集めるよう手配り願えますか?」
「承知しました! 畿内の諸豪にも、すぐさま早馬を走らせまする!」
「あぁ、それは少し待ってください」
半兵衛がのっそりと立ち上がったから、小一郎も思わずそれに習った。
「私もとりあえず、具足を付けることにしましょうか。小一郎殿も、まずはお支度を――」
「なにを悠長な・・・一刻も早く味方にこの事態を知らせ、一兵でも多く京に軍勢を集めねば・・・・!」
無意識に、小刻みに足を踏み鳴らしている。小一郎はもう、気が気でない。
「まずまず、そう慌ててくだされますな」
少し考えるようにして宙を睨んでいた半兵衛は、
「そうですね・・・奈良へは、いますぐ早馬を。松永弾正殿はご不在ですが、甚介 長頼殿と申すご舎弟が城を守っておるはずです。かの者を旗頭にし、奈良の諸豪を集めて使いましょう。奈良街道は取らず、生駒山の脇を抜けてまず摂津に出、淀川に沿って京を目指すよう申し付けてください」
と言った。
半兵衛は、後に「左右に電雷が落ちるとも動ぜず」と評されたほどの男で、何が起きても少しも慌てない。焦りまくっている小一郎から見れば、もう小面憎いほどである。
「この雪では狼煙が利かぬでしょうから、岐阜へも早馬を飛ばさねばなりませんね。それと・・・摂津と山城――京周辺の諸豪へは、もうしばらく通牒を待っていただきます」
「!? ・・・な、なぜです?」
「ただ敵を数日防ぎ止める、というだけでは芸がないですし、戦が長引けば洛南の町を焼くことになってしまいますからね。どうせやるなら、一戦して敵を堺まで追い返してしまいましょう」
半兵衛は悪戯っぽく笑った。
「そ、そんなことができるのですか!?」
「できる、と申しますか・・・・恐らくそうなる、ということです」
そう言われても、小一郎には少しも理解できない。
「敵が、軍勢を分けて東西南の三方から京に寄せて来るようであれば、これを防ぐのはよほど難しかったのですが――三好三人衆にすれば、公方さまの居る本國寺のみが目当てだったのか――幸いにして南の一方からしか攻めて来ていないようですからね。三好三人衆の中に、それなりに戦に目の利く者があれば、明日の夕刻を待たずに兵を引くと思いますよ。もし敵が堺へ逃げ帰らず、京の南郊に腰を据えて見せるようなら――」
半兵衛はそこで言葉を切り、
「下手をすると三好家は、そのまま滅びることになるかもしれませんからね」
と言った。
この軍略家の言うことが、小一郎にはまるで解らない。