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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第23話 “自由都市”堺の動静(2)

 千宗易――後の千利休という男について、ここで少し触れておきたい。


 言わずもがなのことだが、利休はいわゆる「侘び茶」の大成者として知られ、今日の茶道においてもっとも高名な流派である三千家――表千家、裏千家、武者小路むしゃのこうじ千家――の始祖であり、「茶聖」とまで崇められる人物である。本邦の茶人を挙げて、村田珠光を知らず、武野紹鴎じょうおうを知らず、古田織部おりべを知らず、小堀遠州えんしゅうを知らぬ者でも、千利休の名を知らぬ者はいないのではないかとさえ思える。

 しかし、知れ渡ったその「名」ほどには、実像は知られていない。


 表千家に、利休の肖像画とされるものが遺っている。

 利休の死後――文禄四年(1595)に、生前の利休が贔屓にし、庇護した長谷川等伯という画匠によって描かれたもので、おそらくはその晩年――六十代の利休の姿を描いたものであろう。墨染めの十徳を纏い、同色の頭巾をかぶり、右手に扇子を一本持って、わずかに背を丸めて座っている像である。その頭髪と髭は綺麗に剃り上げられ、頬はこけ、こけ落ちた皮が顎のあたりでたるんでいる。眉がうすく、目蓋が厚く、その下で柳葉のように薄く開かれた目がどこか眠そうに見える。顔の中心に小鼻がよく発達した大きな鼻かあり、その下にこれも大きな口があり、唇が厚い。

 一見した印象は、寂びた初老の茶人というに尽きる。どこか哀しげであり、恨めしげでさえあると見えるのは、その絵を仕上げた長谷川等伯の、利休の賜死に対する感情が筆に出てしまったものかとも思える。

 利休は、武士でないにも関わらず七十歳のときに秀吉によって切腹を命じられ、腹を切って死ぬのである。


 利休に関するごく基礎的な知識になるが、そのもっとも馴染み深い呼び名である「利休」というのはいわゆる「居士号」であり、彼自身がその人生でもっとも長く使っていた「宗易」の名は入道(仏門に帰依)したときに得た「法号」であり、これらはいずれも本名ではない。

 利休は本姓を田中、通称を与四郎と言い、田中与四郎、あるいは千与四郎というのがその本名になる。

 利休が「利休」という居士号を得るのは秀吉が天下をにぎってからのことで、この物語のこの時期から数えて二十年以上も先のことであるから、この点については今は触れない。

 与四郎が「宗易」となり、小一郎らと出会うまでの部分に話を絞りたい。


 堺に、南宗寺なんそうじという臨済宗大徳寺派の寺がある。

 三好長慶がその晩年に亡父を弔うために建立したという比較的新しい禅寺で、京 大徳寺の第九十世 大林宗套だいりんそうとうという高僧が堺に下ってその開祖になっていた。大徳寺というのはかの一休和尚をはじめとする名僧を数多く輩出し、一時は「五山の上」という我が国の寺院で最高の寺格を与えられたこともあるという由緒ある寺で、その住職を勤めた大林宗套は正親町天皇から国師号を授けられたほどの人物でもあったから、その声望と徳望は上方では非常のもので、当然ながら堺の人々からも深い尊崇を受けていた。


 この時代、仏教寺院というのは一面で文化人たちのサロンのような役割も果たしている。堺の文化人たちはきそってこの南宗寺の門を叩き、大林宗套に弟子入りしてその感化を受けるのだが、ことに茶人たちにその傾斜が強く、南宗寺はあたかも堺の茶の湯の総本山のような景観を呈すようになった。たとえば剣客が“剣禅一如”の境地を目指したが如くに、茶人たちは南宗寺の禅堂で“茶禅一味”の世界を探求し始めたのである。


 早くから茶の道を志していた与四郎少年も、周囲の影響もあって当然のようにこの南宗寺の門を叩き、当時においていわば最新の思想的流行であった禅の世界に深く傾倒し、これに帰依した。修行と思惟を重ね、やがて大林宗套に参禅し、「宗易」の法号を与えられるまでになったのである。

 剃髪したとき、利休は二十三歳であったらしい。十九歳のときに父を亡くし、正確には解らないものの子の年齢から逆算する限りでは二十歳前後で妻をめとったらしく思えるから、利休はすでに千家の立派な当主になっていたことになる。


 ちなみに、利休の師である武野たけの紹鴎じょうおう、その茶友である津田宗及そうぎゅう、今井宗久、その弟子である山上宗二などといった後世に高名な堺の茶人はみな大林宗套について禅を修めており、それぞれに与えられた法号を名乗っている。堺の茶人で「宗」の字を名に持つ者がやたらに多いのは、南宗寺の禅の影響下にある者がそれだけ多い、ということに他ならない。

 ことに戦国の三大茶人と目される利休、津田宗及、今井宗久の3人は比較的年齢が近く、新興商家の跡取りであるという点で境遇も近かったから、あるいはその多感な青年期に南宗寺の講堂で共に座禅をし、茶風と禅風を磨きあうような仲であったかも知れない。この3人が、これから共に信長の茶頭になり、さらに堺の町衆の利益代表のようになって歩調をあわせて乱世を泳いでゆくことを考えると、こういう想像もあながち的外れではないかとも思える。


 利休の活躍が記録の上であらわれてくるのは、彼が三十代に入ってからである。

 津田宗達(宗及の父)や今井宗久の茶会記にその名が散見されるようになり、奈良や京の茶人とも交流を深めるようになり、当時京畿を制していた三好家の武将とも度々茶会を共にするようになる。それから十年ほど、利休は真摯に茶の道に没頭し、信長が上洛を果たす頃には、津田宗及、今井宗久らと共に上方きっての「名人」と呼ばれるまでになっていた。


 ことのついでに、会合衆としての利休の姿を追ってみると――


 『千利休由緒書』というものがある。

 これは、江戸時代の初期、利休の曾孫である千宗左(茶道 表千家流の始祖)が千家の家系について語ったのを第三者が聞き書きしたもので、千家の歴史を知る上での根本資料と考えられている。

 この『由緒書』によると、利休の祖父は、足利将軍家の同朋衆で、唐物奉行であった田中千阿弥という人物であったらしい。この千阿弥が堺に移り住んで千という苗字を名乗るようになり、それが千家の始まりであるという。もちろん、これは徳川幕府のいわゆる系図編纂事業に合わせて作り上げられた架空の家系であるかもしれず、たとえば村井康彦氏の好著『千利休』などを読むと千阿弥を宗易の祖父とすることに疑義がないでもないのだが、ここで煩瑣な議論をする気もないので多くは触れない。

 ともあれ読者には、千家が利休の祖父の代あたりにはすでに堺に根付いており、商人になっていたらしい、ということを知っておいてもらえれば良い。


 千家の魚屋ととやというのは結局のところ利休の父 与兵衛よへえが大きくした新興の一商家であったに過ぎないのだが、その与兵衛も利休がわずか十九歳のときに死んでいる。商人としての利休は無能ではないにせよ商売に対して茶ほどに熱心であった様子はないから、利休の代になって魚屋が急成長するというようなこともなかったであろう。千家の名は――おそらくは父の努力の結果として――すでに会合衆の中に入ってはいたが、利休がそのメンバーの中で主導的な地位に立つようなことはなかった。

 ちなみに信長が上洛を果たしたこの時期、会合衆は三十六人居たと記録に残っている。その中では能登のと屋、べに屋といったあたりが古くからの顔役として権勢があり、新興商人としては津田宗及の天王寺屋などが大きな経済力と発言力をもっていたようだが、利休の魚屋はそれらよりはるかに小粒であり、ようするに利休は、茶人としての名は高かったものの、商人としてはそれほどの存在でもなかったようである。


 利休の魚屋が商売を手広く広げ、堺衆の代表のようになって巨大な力を握るのはもっぱら信長の茶頭になってからのことで、なかでも秀吉と強く結びついて豊臣時代には並ぶ者のないほどの権勢を誇ることになるわけだが、だからこそ利休には、孤高で清廉な茶人という顔の他に「政商」という脂っこい横顔が常に見え隠れする。もっとも、時の権力者に結びつくのはこの時代の商人にとっては当然の処世術であったわけで、後世の我々がその部分に異臭を嗅ぐような気持ちを持つのは筋違いであるかもしれない。


 ともあれ、少なくともこの時期の利休――宗易には、堺の指導者たちの中でイニシアティブを握り、信長の「降伏勧告」に対して町ぐるみ反抗させるような政治力と指導力は、まだなかったと考えていい。


 なぜここで宗易について詳しく語ったのかと言えば、藤吉朗が京奉行になったこの頃から、藤吉朗・小一郎の兄弟とこの宗易とが、非常に濃厚な関わりを持ち始めるからである。



 永禄十一年も師走に入り、木下勢の人々も京の暮らしにそろそろ慣れ始めてきた頃。

 小雪を含んだ比叡おろしが冬枯れ樹の枝を折るほどに吹きすさんだ極寒のある日、小一郎らが宿舎にしている寺に、宗易がひょっこりと現れるということがあった。


 取次ぎから話を聞き、小一郎はよほど驚いた。宗易は堺の会合衆の一員であったはずで、半兵衛も指摘していた通り堺が織田家に反抗の兆しを見せているこの時期に京をうろついているとは思いもしなかったのである。


(あるいは・・・何かを探りに来たか・・・?)


 とも思わぬでもなかったが、捨て置くわけにもいかない。

 慌てて門まで出迎えた。

 そろそろ火灯し頃、という刻限で、あたりはすでにほの暗い。禍々しいほどの夕焼けを背に、黒衣の宗易は墨で染め抜かれたようであった。


「先触れもなく突然に訪れましたる段、ご容赦くだされませ」


 辞儀をした宗易の背後に、下男二人と馬に曳かせた荷車がある。


「鰹節二百本と、アジの干物を千枚。うちのたなで扱うておるものでございますが、まぁ、なんと申しますか・・・寒中見舞いいうことにでもさせてもらいましょか。どうかお納めになってくだはりませ」


「これはまた格別のお心遣い、痛み入ります」


 小一郎は恐縮して深く頭を下げ、


「ここでは話もままなりませぬから、まずは奥へ。先日のお礼もせねばならず、また我が兄にもお引き合わせ致そうほどに、ささ、どうぞ奥へお入りくだされませ」


 とるものもとりあえず、小一郎は宗易を書院へと招じ入れた。


「竹中さまは、お元気になさっておいでですか?」


 落ち着いた宗易が、小一郎に訊ねた。


「はい。今日はあいにく所用で出ておりますが、もうおっつけ帰って参る頃と思います。戻られ次第、こちらに顔を出してもらえるよう、下の者に言いつけておりますので――」


 この日、たまたま藤吉朗の方は寺に居た。

 待つほどもなく、ドタドタと廊下を踏み鳴らす足音が聞こえて来、やがてカラリと障子が開いた。


「いやいやいや、よくこそお越しくだされた」


 藤吉朗は無邪気な笑顔のまま無造作にどかりと上座に腰を下ろすと、


「藤吉朗でござる」


 実に慇懃に頭を下げた。

 先日の摂津屋での茶の一件はあらかじめ耳に入れてあるから、藤吉朗は宗易について一応の知識はすでに持っている。


「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります。魚屋(ととや)の宗易と申す堺の商人あきんどでございます」


 こちらも這い蹲るように辞儀をした。

 宗易は先日と同じ墨染めの十徳に同色の頭巾という姿である。


「宗易殿をお見かけするのは、これで二度目でござりますな」


 と、藤吉朗はまず意外なことを言った。


「はて・・・どこぞでお逢いしたことがございましたでしょうか」


「いやさ、我が主 織田尾張守さまがまだ京におわしました時分、宗易殿は此度の上洛を寿ぐために清水寺まで参られたことがござったはず。藤吉朗はその折、居並ぶご家来衆の中におりましてな。そのお顔は、よう見覚えておりまするよ」


「これはこれは・・・」


 何百人という訪客の中で自分を覚えていたということに宗易は目だけで驚き、


「左様でございましたか。少しも気づきませんで、いや、お恥ずかしいことでございます」


 わずかに笑った。

 藤吉朗が本当に宗易の顔まで覚えていたかどうかは小一郎には解らないが、とりあえず初対面の“つかみ”は上手くいったようである。


「先日はこの小一郎と半兵衛殿が大層なるお振る舞いをいただき、また此度は、何やら音物まで頂戴しましたようで・・・」


 藤吉朗は丁寧にそれらの礼を言い、


「名人の手になる茶っちゅうのはどのようなモンか、今度は是非一度、この藤吉朗にも味わわせてやってくだされ」


 などと愛想良く話をつなぎつつ、


「して、此度のご上洛は、どのような?」


 さりげなく来意を聞いた。


「京でいくつか所用がありましたもんですから、ついでに木下さまに一度ご挨拶をさせていただきたいと、まぁ、こうして参りましたる次第で――」


 宗易は、喜怒哀楽が表に出にくい体質なのか――あるいは意識してそうしているのか――表情がほとんど動かない。


 四半刻(三十分)もあたり障りのない話題をさも可笑しそうに話していた藤吉朗が、


「近頃の堺の様子は、いかがですかな?」


 四方山話のついでといった風情でごく無造作にそのことを切り出した。目の前の宗易が堺の舵取りを司る会合衆の一員であること――さらには堺が織田家に反抗しようとしていることを、知っていて発言していることは言うまでもない。


「騒がしゅうございますなぁ。浪人者を集め、三好家の方々を内々で引き入れ、それはもう、明日にも戦が始まろうかという気負いこみで――」


 宗易も、ごく無造作に返した。

 口にした内容が内容であるだけに、小一郎は背中に嫌な汗をかくような想いであった。


「商人は商売だけをしておれば良かりそうなモンでございますが、そうもイカンのでしょうかなぁ」


 それにしても宗易は、ほとんど人事のような口ぶりである。

 そんな宗易の様子をじっと眺めていた藤吉朗は、


「あっはははは」


 突然、途方もない大声で笑い出した。


「いやいや、恐れ入る。堺の商人と申しますのは、実に見事に肝が据わっとるもんでござりますなぁ。それだけの大事を、まるで他人事のようにやすやすとお話しになるとは、こりゃ感服つかまつった」


 何がそんなに可笑しいのか、膝を叩きながらげたげた笑っている。

 小一郎が面食らったくらいだから、宗易などはよほど驚いたはずだが、この男はそういうことを顔に出さない性質であるらしい。


「あぁ・・・そりゃ誤解でございますわ。いまの堺の騒ぎは、わてにとってはまさに他人事のようなモンでございましてなぁ」


 わずかに苦笑し、


「お恥ずかしい話ですが・・・去年でしたか――商いの方でちと下手へたを打ってしまいまして、私はこれでも今、身を慎み、逼塞しておるところなんでございます。堺の仕置きの会合なぞにもとんと出ておりませんでして、会合衆に名こそ入っておりますが、これは本当に名だけ――」


 身の恥を淡々と口にした。


 宗易の逼塞については、『天王寺屋会記』などに出ているから事実であったらしいのだが、実はよく解らない。

 私的な茶会などには普通に出ていたくらいだから逼塞といっても門に竹を結って家に閉じこもるというような深刻なものではなく、商業活動の方には何の支障もなかったと思われる。しかし、親友ともいうべき津田宗及から茶会の招きを受けても朝会を遠慮したりしているところを見るとそれなりに気は使っていたようで、ともかくも派手に表舞台に出ることは遠慮をしていたような匂いがある。


 この逼塞は、どうやら宗易が松江隆仙りゅうせんという人物の不興を買ってしまったことが原因であったらしい。

 松江隆仙は堺の豪商で、たとえばこの5年後――天正元年(1573)に信長が京の妙覚寺で堺の有力者のために茶会を開いたとき、塩屋宗悦えんや そうえつ、津田宗及と共にただ3人だけ招かれ、信長から贅を尽くした歓待を受けているほどだから、会合衆の中でもトップクラスの実力者だったと考えていい。

 こと茶の道においては、宗易は、隆仙の師かあるいは兄弟子といった関係であったようなのだが、一説によると、宗易があるとき茶道具の目利きに失敗し、隆仙に大損をさせてしまうというようなことがあり、それで面目を失ってしまったのだと言う。

 このあたりの真相は、まだ研究者の間でも定説がないような状態で、はっきり解らないとしか言いようがないのだが、いずれにしても宗易の方に隆仙と顔を合わせづらい事情があったことはほぼ間違いがなく、会合衆の会合などがあったとしても、とてもそこに出てゆく気にはなれなかったということであったらしい。


 無論、そういう細かい事情は宗易は語らなかったし、藤吉朗にとっても関係がない。


「いやさ、どういう事情があったにせよ、実際に戦騒ぎになり、堺が焼け野原になるようなことになれば、堺に暮らす宗易殿とすれば他人事とは申しておられますまい」


 藤吉朗が言いたいのは、ようするにその部分なのである。


「あぁ、そらそうや・・・我ながら、これは迂闊でしたなぁ」


 宗易は、初めて腹を割ったような笑顔を見せた。

 藤吉朗という人間の呼吸を、掴み始めたのかもしれない。


「織田さまは、果たして堺を焼きますやろか?」


 藤吉朗は腕を組み、一転して難しい表情を作った。


「信長さまは、一旦やると口にされたことは必ず成し遂げられるお人であられまするが・・・・しかし、まだ、堺を焼くとは明言されてはおられませぬな。・・・それ以上のことは、この藤吉朗の口からは申せませぬが・・・」


 宗易が藤吉朗を見つめて黙り込み、一瞬、座に静寂が訪れた。

 と、そのとき小一郎の背後の襖が薄く開き、


「ただいま戻りました。・・・お話に加えていただいてよろしいですか?」


 次室から半兵衛が顔をのぞかせた。



 半兵衛が小一郎の隣の座につくと、それを合図にしたように次室から膳をささげ持った小姓が現れ、藤吉朗と宗易、小一郎と半兵衛のそれぞれの前にそれを据えて去った。

 膳の上には酒と、宗易が持参した干物を炙ったものと漬物のキュウリ、それに味噌と塩とが載っている。


 座に間が空いたことで、宗易は話題を変える気になったらしい。

 藤吉朗が自ら注いだ酒を恐縮のていで盃に受け、なみなみと満ちたそれを喉に流し込んでから、


「こう思いまするに・・・織田さまという方は、実に新しいお人でございますなぁ」


 詠嘆するように言った。


「織田家では戦するのはこれ皆お武家さまのみで、尾張や岐阜のあたりでは陣触れがあっても百姓が槍を持つということはなく、安んじて百姓仕事に精が出せるとか・・・。また、たとえば職人がこしらえた物も百姓が編んだ薦や草鞋などもそのまま作り売りが許され、それがために『座』に泣かされる者もなく、人々は日々の中で多少の銭金を蓄えられるほどに暮らしぶりが楽やと伝え聞いております。・・・それに比べてこの都周りに住む者たちなぞは、その日食う糧にさえ困る者が多く、誰も彼もが借財を抱え、食い詰めた百姓なぞは足軽になるか盗賊になるか、はたまた飢えて死ぬかしかなく、物成りが悪い年には痩せ衰えた死体が鴨川の川原にあふれるというほどに民が貧しい・・・」


 民を富ませることができる信長の政治の特異さは、農政だけでなくその経済政策にも如実に現れている。関所をなくすことで流通を活性化させ、それによって物の値段を下げ、経済活動を活発にさせようなどという発想は、これまでのいかなる世の為政者もこれを考えつくところではなかった、という意味のことを宗易は整然と言った。


「私のような商人の目から見ておりますと、かの織田さまというお方は、これまでの方々とは何やら根元からして違うように思われて仕方がないのでございます。ご家中におる皆さま方は、そこら辺りはどのように感じておられますんでしょうか?」


「確かに岐阜さまの目の付け所というのは、余人とは違うように思います」


 半兵衛が静かに言った。


「たとえば此度の上洛の褒美につき、公方さまからご下問があったとき、岐阜さまは領地を望まず、爵位を望まず、ただ大津、草津、堺の町に代官を置けるよう計らってもらったと聞きます。諸国の物の流れと、町から取り立てる運上(税金)に重きを置くあたり、米を基準にものを考えるこれまでの大名小名とはえらく違っておりますね」


「信長さまは、天下を取りますぞ!」


 ほとんど間髪を入れず、藤吉朗が陽気に断言した。


「藤吉朗はそのこと、一点の疑いもなく信じてござる。考えてもみなされよ――」


 信長ほど成し難いことを成してきた男はいない、と藤吉朗は大声でまくし立てた。


「尾張半国の主であった昔、駿河の今川義元公が上洛の軍を発しました折、誰もが今川の圧勝を信じ、織田家の滅亡を疑いませなんだが、信長さまはわずかな勢にて今川勢に突きかかられ、桶狭間にて一息に義元公の首を刎ねてしまわれた。あれこそが――」


 天の配剤である。神仏のお導きがなくば、とても人の成せるわざではない、と言う。

 こういうことを話すときの藤吉朗は、信長教の熱心な布教者といった顔になる。


「その後、難攻不落と謳われた天下の稲葉山城を陥とし、北伊勢を飲み込み、南近江を押し通ってこの京に旗を立て、近畿を平らげるまでわずかに2年でござる。まさに、天馬に跨ったるが如き早業。とても余人の及ぶところではござらぬ。こう広う見渡せば、たとえば甲斐に武田信玄あり、また越後に上杉輝虎あり、遠く関東に北条氏康あり、中国に毛利元就あり、また天下に英雄豪傑、名将知将あまたおるといえど、とても信長さまに肩を並べうる器量の者はこれなく、畢竟、信長さまが天下を取るは、世の勢いというものでござろうわい」


 そういう語彙を藤吉朗が持っておれば、さしずめ「歴史の必然である」とでも言ったであろう。


「・・・なるほど、さすれば・・・・」


 藤吉朗の演説に黙って聞き入っていた宗易は、


「武家の棟梁たる公方さまは・・・さらにこの京におわします天子さまは・・・どのようにあいなるわけでございますんでしょうか?」


 薄く笑って意地悪な質問をした。


「世の勢いでござるよ。勢いのままに流れ流されて――やがては落ちつくべき処に落ちつかれましょう」


 喩え話であるにせよ、容易ならざることを陽気に口にする。


「ところが、この『世の勢い』に、堺が逆らおうとしとるという・・・・これは、如何なものでござろうなぁ」


 小首をかしげ、藤吉朗は宗易を見据えた。


「物事が急に大きゅう変わろうとするとき、どういうわけか知らず思わず、これに反発して元に戻しとうなるというのが、人というもののさがのようでございますなぁ。堺の者どもは、織田さまがいかなるお方かを見ることなく、ただ感情のみでこれに歯向かおうとしておるように、私などには見えてしまいます。会合衆や納屋衆などというモンは、世の趨勢を遠く見通して物事を決めていかなならんもんでございますが、どうも(つむり)が古い人というんはどこにでもおるもんでして、目が曇っておりますんですなぁ」


 藤吉朗の視線を首筋に受け、干魚を箸でなぶりつつ宗易は続けた。


「ただ、商人というもんは、銭のやり取りは得手でございますが、命のやり取りは不得手でございまして、もう、腰の弱いもんでございますわ。三好さまには三十年からの友誼があり、それで今は引きずられておるようですが、なに、織田さまに横っ面でも一発張られれば、寝ておる方々もすぐに目を覚ましはると思います」


「ほうほう」


「会合衆の中にも、頭の新しい者が何人かは、確かにおりますよってになぁ」


「なるほどなるほど。確かに目を覚ましますか」


 嬉しそうに藤吉朗は言った。


「そのことは、必ず信長さまのお耳に入れておきましょうほどに」


 宗易はそれに目礼で応え、


「それよりも、ちと小耳に挟んだことがございまして・・・・」


 声を落とし、重大な発言をした。


「年が明けた早々、何やら京が騒がしゅうなるようなことを聞いております。くれぐれも、ご用心くだされたく・・・」


「ほう、騒がしゅうなると・・・これは容易ならぬことじゃ・・・」


 藤吉朗の声音にも、さすがに陽気さが消えている。

 その真意を、とっさに小一郎も悟っていた。

 三好三人衆が、京に攻め寄せてくるというのである。


「それともうひとつ・・・」


 宗易はここで半兵衛の方に向き直った。


「竹中さまは、その昔、美濃 斉藤家のご家来衆でございましたなぁ?」


「はい。その通りですが・・・?」


「斉藤龍興たつおきさまを、堺でお見かけしたという者がおります。いや、関わりがあるとかないとかは存じませんが、一応、お耳に入れておこかと思いましてなぁ」


 このとき、半兵衛が絶句する姿を、小一郎は初めて見た。


「・・・・・・お心遣い、痛み入ります」


 長い沈黙の後、軽く頭を下げた半兵衛の横顔は、いつにも増して蒼白であるように、小一郎には見えた。





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