第22話 “自由都市”堺の動静(1)
永禄11年の9月7日に岐阜を発った信長が、六角氏を打ち破って近江(滋賀県)を平らげ、山城(京都府南部)から三好氏を駆逐し、その月の28日(26日との説もある)には京に入っていたということはすでに述べた。
信長はその勢いのままに攝津(大阪府北部)に兵を進めると、三好氏の勢力を瞬く間に四国へと追い払い、大和(奈良県)の松永 弾正 久秀を含む敵対勢力の降伏を受け入れ、五畿内の平定にも成功した、ということもすでに触れた。
信長が再び京に入り、清水寺に腰を落ち着けたのが10月14日。晩秋の嵐山の紅葉が、そろそろ見ごろを終えようとしていた頃である。
『信長公記』を見ると、信長が義昭に暇乞いをし、帰国のために京を発ったのが10月24日とあるから、実際に彼が京に居たのは、わずか10日あまりだったことが解る。
当然と言えば当然だが、この10日間の信長は、多忙を極めた。
この間、信長が行ったとされることを箇条書きに挙げてゆくと、
・洛中洛外の警護の強化し、市中の治安維持と人心の安定をはかる。
・朝廷に対して献金をし、内裏やその周辺の警護をする。
・近畿一帯の寺社仏閣、小豪族らに対して領地の安堵状や兵の狼藉を禁じる禁制を発給する。
・新たに制圧した地域に有力武将を分封し、それぞれの地域の旗頭を定める。
・近畿一帯の有力寺社や都市に対して矢銭(軍用金)の供出を命じる。
・将軍候補である義昭の御座所を定め、京への帰還と戦勝を祝賀する宴を開く。
・御所に参内し、義昭の将軍就任式に列席する。
・義昭が主催した観能の宴席に主賓として招かれる。
・関所の税を停止し、通行料を取ることを禁じるよう五畿内と領国のすべてに通達する。
ざっと見ただけでも、これだけのことをしている。
新たに味方に参じた近畿地方の小豪族だけを考えても気が遠くなるほどの数があり、その関係者の挨拶を受けてやるだけで大変な作業であったろうし、たとえば御所に参内するとなればそれなりの衣装や調度を整えねばならず、公卿や天皇の周辺の女官などにはあらかじめ付け届けなどをして機嫌を取り、根回しや下交渉なども重ねなければならなかったはずである。新将軍に就任した義昭を主賓に宴席を開くとなれば恥ずかしからざるだけの用意をせねばならなかったであろうし、無一文の義昭から「観能の宴を開きたい」と言われれば結局は織田家の方で首尾万端整えてやらねばならなかったに違いなく、それらの手回しや舞台設営は吏僚らに任せるとしても、やはり裁可はすべて信長自身がしたであろうことを考えると、ほとんど寝る間もないような状態であったと思われる。
そんな多忙な信長の元へは、連日、このたびの戦勝を寿ぐために陸続と人が集まってきており、宿所である清水寺の門前は文字通り市をなすほどの賑わいぶりであった。
たとえばこのとき、著名な連歌師であった里村紹巴が、戦勝祝賀のために信長に謁するということがあった。
紹巴が扇子2本を信長に献上し、
二本(日本)手に入る 今日のよろこび――
と詠むと、信長は機嫌良く、
舞い遊ぶ 千代万代の扇にて――
と、すぐさま句を返した。
このやりとりを伝え聞いた京の人々は、この田舎の野蛮人たちの親玉が意外な教養と機知とを持っているということを知り、舌を巻いたという。
この紹巴のエピソードは、小瀬甫庵の『信長記』にある。娯楽小説的な臭いが濃い同書であるだけに――信長に和歌や連歌の素養があったかどうかも含めて――そのまま史実として信じていいのかは判断の難しいところだが、いずれにせよ信長が、京の人心の慰撫に心を砕き、人々に受け入れられやすいよう、温厚に振舞っていたということは認めて良いように思う。
京におわす正親町天皇は、今回の信長の上洛には深い関心を抱いていらしたようで、信長上洛に先立ち、織田軍が洛中で乱暴狼藉や略奪を働かないようあらかじめ綸旨を出して注意をうながしたりしている。
それを受ける形で信長は、京に入るやいちはやく幕臣の細川藤孝らを派遣して内裏の警護をさせ、また先述した通り自軍の軍紀を引き締め、京の治安の維持に努めたから、武権の交代劇とは思えぬほどに洛中はまったく平静を保っていた。市街の戦火を予想して戦々恐々としていた都人たちは拍子抜けするような気分を味わうことになったわけだが、このことによって、京に住む人々は上下を問わず、信長に非常な親しみと好意を抱いくようになった、というのも先述した通りである。
信長は、将軍を飛び越えて直接に朝廷とつながりを持つことを、早い段階から意識していたように思える。今回の上洛における細心な気配りにしてもそうだし、この後、ほとんど上洛するたびに朝廷に献金をし、その歓心を買うよう努めている。また、この翌年には銭一万貫を投じて御所の修理をしてやったり、誠仁親王の元服にあわせて銭を贈ったりもしている。
これらの信長の行動を見て、「信長は天皇や朝廷を尊崇していたのだ」と考える研究者もあるようだが、筆者はそのような考え方は採らない。
信長はどこまでも唯我独尊の男であり、自らの上に人を戴いて納得しているような性格ではなかった、というのが筆者の解釈であり、今回の近畿制覇に将軍の権威を利用したように、天下制覇のために天皇の権威をカードとして利用しようと考えていただけではないかと思うのである。
上洛戦直後のこの時点で、信長が朝廷との結びつきを強めようと考えていたということは、彼が足利将軍 義昭の下風にいつまでもいるつもりがなかったということの証拠であると言っていいように思う。義昭が、信長の傀儡であることに満足し、信長の天下統一事業に嘴を入れてこないならばそのまま将軍をかつぐつもりであったろうが、もし義昭が自分の邪魔になれば、これを放り出して直接に天皇をかつぎ出し、天皇の権威において自らの「天下布武」を正当化するつもりだったのだろう。権威というものにいささかも囚われない信長だからこその発想であろうし、まだまだ人々が古い慣習や因習を濃厚に引きずっている時代背景を考え合わせれば、筆者はこの部分にこそ信長という男の恐るべき政略能力と先見の明を垣間見るような気がする。
さて――
話が多少前後するが、京都滞在中に信長が行った行動でとりわけ小一郎を驚かせたのは、堺という一都市に対して、「二万貫」という途方もない額の矢銭(軍用金)を供出するよう命じたことであった。
堺は確かに日本でもっとも富裕な都市であったろうが、
(それにしても、二万貫とは・・・)
と、その額の凄まじさに度肝を抜かれたのである。岐阜の物価なら諸式の相場はもちろん大工の日当から遊女屋の女郎の値段まで知っている小一郎ではあったが、万貫などという単位の銭は、正直言って想像したことさえなかった。
しかし、実際に堺の豪商である千宗易や山上宗二と接し、その話を聞くことができたことで、それまで抱いていた印象にずいぶん変化が起こっていた。
(あれほどの大商人がゴロゴロおる町のことじゃ。二万貫でもたいしたことはないのかも知れん)
と思うようになったわけである。
実際、千金の茶道具をいくつも持つような豪商富商がたむろする堺という町にとってみれば、二万貫の矢銭というのは――大金には違いないが――たいした問題ではなかったろう。
堺の町衆にとっての問題はむしろ、その矜持と面子だったのである。
堺という町は、応仁以来、世の武権からまったくの武装中立を堅持してきたという歴史がある。
近年でいえば、大内氏、細川氏、三好氏と近畿の権力者は様々に変わってきたが、堺という町は権力に服従することはなく、常に独立と自治を守ってきた。堺に対する不可侵を保障してもらう代わりに、それらの権力者に兵糧や軍需物資を調達してやり、共存共栄――ギブアンドテイク――の同盟関係を維持してきたわけである。
この当時の堺の様子を客観的に眺める資料として、訪日した外国人が残した書簡がある。
たとえば、イエズス会の宣教師のガスパル・ヴィレラ司教が本国ポルトガルに送った書簡によると、
「日本全国でこの堺より安全な町はないし、他の諸国に動乱があってもこの町が巻き込まれることはなく、負けたものも勝ったものもこの町へ来れば皆平和に暮らし、諸人が相和して他人に危害を加えるものはいない。町の中で争いが起こることはなく、敵味方の区別なくみな大きな礼儀と愛情をもって交際している。町にはあらゆる方角に門があって番人がおり、争いがあればすぐ門を閉じてしまうのもその一つの理由だろう。争いが起きた時にはその犯人や関係者をすべて捕らえて処罰する。町は極めて防備が固く、西側は海だし他の側は深い濠を廻らしてあって常に満々たる水をたたえている」(『耶蘇会日本通信』)
近畿地方の一都市でありながら、他の地域からまったく隔離された世情であったことが見てとれる。
そこに争いはなく、日本中に吹き荒れていた戦国乱世の風に対しても、堺だけは超然と独立独歩の姿勢を貫いていたのである。堺という町の経済力、生産力、貿易などを含めた物資・文物の流通能力、そして豊富な財力にものを言わせた自衛力というのはそれだけ強大なものであり、逆に言えば時の権力者たちも、堺といざこざを起こすよりもむしろそれと折り合いをつけ、うまく利用することを常に選択してきたのだ。
しかし、信長だけは、初手からこの堺を屈服させようとした。
織田家に従わぬようなら町ごと焼き払うぞ、と、いわば「降伏勧告」を行ったのである。
この信長の圧力によって、堺の町衆は信長に対してかえって嫌悪感を持つようになり、むしろ「信長なにするものぞ」という方向で世論形成がなされていったらしい。
ちなみに小一郎が半兵衛と共に米問屋 摂津屋をたずね、千宗易の手前で茶を喫したのは、信長が堺の返答を待たずに京を去り、岐阜に帰ってしまってから数日後のことであって、まだ堺が信長の要求に対して具体的な行動を起こす前のことであった。
「こういう話は、お聞き及びですか?」
摂津屋での茶会から半月ほどたったある夜、宿舎にあてられている禅寺の本堂で、半兵衛が言った。
「なにやら堺がキナ臭いことになっておるようです」
座にいるのは、藤吉朗と小一郎、蜂須賀小六、前野将右衛門らの木下勢の物頭と、生駒正親、御子田正治といった信長から預けられた寄騎(与力)の面々である。木下勢では毎夜のように、藤吉朗が宿舎に帰ってきたときに、こうして手の空いている者が顔を突き合わせ、その日にあった出来事や洛中の警護の様子、耳に入れた風聞などを報告しあうような習慣になっている。
「キナ臭いっちゅうのは?」
そう大きくもない阿弥陀如来の本尊を背に、行儀悪く座っていた藤吉朗が興味津々といった面持ちで身を乗り出した。灯明の灯火が、皺深い猿顔の陰影を揺らす。
「畿内のあぶれ者、浪人者などを数千もかき集め、弓・鉄砲をそろえ、櫓を建て、堀を深くし、鹿砦(バリケード)を植え、北の町口には桶まで埋め、忙しく戦支度を始めておるのだそうです」
半兵衛は、幕府や朝廷や織田家の上司の間を走り回っている藤吉朗や雑事に常に追われている小一郎に比べれば日常の時間にわりあい余裕があり、ヒマを見つけては京の高名な寺社や旧跡を歩き、あるいは気安げに商家の軒先を覗いて回るなどして知己を増やしているし、京で僧をしている同郷の幼友達もいるそうで、田舎武士の集団である木下勢の中では例外的に京での顔が広く、耳も早かった。市中の噂話はもちろん、大和や摂津などの様子もよく耳に入れてくる。
「ようするに、堺が、織田家に対して反抗の構えを見せておるちゅうことですかいな?」
小六が、さすがに驚いたという面持ちで尋ねた。
「昨日まで堺におったという僧から聞いた話です。まぁ、話半分と考えるにしても――」
「・・・堺衆が、織田家と戦うっちゅうんですか?」
「どうも、そのつもりのようですねぇ・・・」
「それは――」
無益だ、と小一郎は思った。
堺がどれほど堅固な町でも、一都市の防戦能力で強大な織田家の力を防げるはずもない。信長がその気になれば、半月ともたずに堺は灰燼に帰すだろう。
「やはり、信長さまが吹っかけた二万貫っちゅう矢銭が無茶やったんでしょうか・・・。それにしたところで、信長さまに楯突いたらタダでは済まんっちゅうことくらい、解らん連中でもないでしょうに・・・」
「岐阜さまは、やると言ったらやるお方ですからねぇ・・・」
半兵衛も、憂鬱そうに眉根を寄せた。
「堺衆め、どうするつもりじゃ・・・」
苦々しげに藤吉朗がつぶやいた。織田家の軍兵に蹂躙され、炎の中で逃げ惑う堺の町衆の姿が脳裏に浮かんだのかもしれない。藤吉朗は戦そのものを必ずしも嫌ってはいないが、戦に武士以外の人間を巻き込むことを好まないし、何より人を殺すことが生来好きではなかった。
「侍が“一所懸命の地”を守るために、破れかぶれでかなわぬ戦をするのとはわけが違います。堺衆とはようするに商人ですから、それなりの勝算があると踏んでおるのでしょう」
「勝算などというても、わしなどには何ひとつ思い浮かびませんが・・・」
小一郎が当惑気に言うと、
「三好三人衆と手を組んだということですよ」
半兵衛はさらりと言ってのけた。
一瞬、本堂の空気が凍りついたようになった。
「もともと三好家と堺とはつながりが深い。兵糧、武器、矢弾など、これまで三好家が畿内の戦に使っておったものは、みな堺で用立てたものであったはずです。堺の商人たちにとっては三好家は親しみも深く、織田家は共通の敵ということにもなる」
「それは・・・・面倒なことになってきましたな・・・」
堺が三好三人衆の軍勢を引き入れて共闘するというのなら、状況はかなり違ったものになる。三好家が動員できる兵数は軽く1万を越し、対する織田家は主力が岐阜に帰ってしまっており、畿内の味方はあるにせよ、京に残っている軍勢は木下勢3千を含めても4、5千ほどに過ぎないのである。
少なくとも、簡単に手出しはできなくなったと言わねばならないであろう。
「宗易殿や宗二殿は――」
と、連想して、小一郎は思い出していた。
堺は、会合衆と納屋衆と呼ばれる代表者たちの合議で町が運営されていたはずである。ならば、あの痩せた茶人に話を聞くことができれば、このあたりの事情はかなり詳細に解るのではないか。
「そうなのです。あのお二人のどちらかにでもつなぎが取れれば、ずいぶんと話が見えてくるとは思います。しかし――」
半兵衛はそこで言葉を切り、
「堺が戦騒ぎを起こす以上、会合衆、納屋衆らが合議の上のことであるというのは明白。彼らは一味同心と見ねばならぬでしょう。大名家に見立てるなら会合衆の面々などはさしずめ一手の大将に当たるわけですから、もはや行き来も容易ではありますまい」
と、あきらめ顔で言った。
「いずれにせよ、堺の動向は注視すべきです。できれば堺に間者を放ち、堺の町衆と三好家の動きを掴んでおいた方がよろしいでしょう」
半兵衛が目配せすると、藤吉朗は細い腕を組んだまま重々しくうなずいた。
「それと、これはもっと早くに申し上げるべきでしたが、京と岐阜の間にいくつか伝馬の駅と狼煙台を設け、万一のとき、いち早く岐阜に急を知らせられるよう手配りしておくべきと思います。これは、近江の諸豪にも話を通さねばなりませんから木下殿一人のお力では難しいかもしれませんが、岐阜さまに言上すれば、必ず取り上げていただけると思います」
岐阜と京の距離に頭を痛めているのは、信長自身であるはずだから――という意味のことを半兵衛は付け加えた。
「三好三人衆がこの京に攻め寄せて参るようなことになれば、これは一大事ですな」
小六が言うと、半兵衛はうなずいた。
「京は攻め口が多く、守るに難く、攻めるに易い――しかし、寡勢の我らにも強みはある。数日持ちこたえることさえできれば、岐阜から必ず援軍が駆けつけるということです。ですから、京と岐阜、さらに味方に参じた畿内の者どもとの連絡を蜜にし、いざというときに備えておくが肝要と思います」
「畿内で頼りになるとすれば、幕臣では細川藤孝殿、和田惟政殿、細川藤賢殿あたりか。あとは摂津の池田党、荒木党、河内の三好左京太夫(義継)、大和の松永弾正っちゅうところじゃが・・・。まぁ、松永弾正は反覆常ない男じゃから、あてにせぬほうが無難かのぉ・・・」
「そりゃ冗談にならんぞ、兄者・・・」
小一郎は苦笑した。
松永久秀がまた寝返り、再び三好三人衆と手を結んで京に攻め寄せて来るようなことになれば、近畿の勢力地図と戦力バランスは、今とまったく変わったものになってしまう。
「弾正殿は、三人衆とは仇敵のような間柄になっておると聞きます。岐阜さまに寝返った弾正殿を、三人衆は許しますまい。確かにかの人は悪い噂の尽きぬ人物ですが、それだけに時勢に目の利く男でもある。岐阜さまの武威が衰えるか、岐阜さまを上回る覇者が畿内を脅かすというようなことがない限りは、織田家の敵に回ることはないと思います」
「まぁ、さしあたっては・・・」
話を引き取るように藤吉朗が言った。
「堺の情勢を知ること、じゃな。これは小六殿に骨折りを願おう」
小六の配下の野武士で心利いた者を、浪人集めをしている堺に送り込み、潜伏させるということだろう。それと察した小六は力強くうなずいた。
「京の近郊というのは、連年この辺りで戦を続けておった三好三人衆にとっては庭のようなもの。地の利は向こうにあると言わねばなりません。いざという時に備えるためにも、私は、これからしばらく京の南郊を歩き、地勢をつぶさに見て回りたいと思うのですが、よろしいですか?」
半兵衛の提案に、藤吉朗は賛成した。
「もっともですな。わしらは京の戦を知らん。本来ならわしも同道したいところじゃが、そちらは半兵衛殿にお任せするとしましょう。絵図を描ける者を何名か、連れていってくだされ。・・・京と岐阜の連絡の件は、わしから信長さまにお願いするとして――」
宙を睨むようにしていた藤吉朗は、ここで小一郎に首を向けた。
「小一郎、お前は戦の支度と、畿内の有力豪族にいつでも早馬が飛ばせるよう、手配りしておいてくれい」
「わかった」
答えながら、
(なにやら、また忙しくなってきそうじゃな・・・)
と、小一郎は思った。