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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第16話 信長上洛(1)

 美濃国――現在の岐阜県から北部の飛騨地方を除いた地域――というのは、南方こそ伊勢湾に向かって広大な平野が広がっているが、東西北は山によってぐるりと囲い込まれたような地形をなしている。

 美濃の西側は、養老山地と伊吹山地の山々が連なってちょうどお盆の縁のように美濃国の国境を形作っているのだが、この養老山地と伊吹山地の狭間にあるのが不破郡 関ヶ原という土地で、美濃と近江を繋ぐ回廊のような役目を果たしている。

 この関ヶ原のすぐ北東にある菩提山という山に半兵衛が城主として住んでいた城――菩提山城(別名 岩手城)があり、この付近一帯6千石ほどが竹中氏の領地であった。


 ちなみに「日本書紀」によると、上古の時代――戦国時代からさらに千年も遡った「壬申の乱」の折り――天武天皇がこの地に近畿と美濃とを遮断するための関所を設けた。そのとき、決して破られることのないようにと「不破の関」と名づけたことから、この地域は不破郡と呼ばれるようになったのだという。関ヶ原という地名も、「関があった地」という意味からきているのであろう。


 小一郎は、半兵衛の故郷であるこの不破郡 関ヶ原の回廊を抜けて西へと向かい――驚くべきことだが――永禄11年(1568)の秋にはすでに京にいた。むろん物見遊山で遊びに来たわけではない。織田家の軍兵の1人として、信長率いる5万余の大軍勢と共に、南近江の六角氏、京を押さえていた三好氏らを蹴散らして、入京したのである。


 話の展開が唐突すぎて、読者は驚かれるかもしれない。

 が、一番驚いていたのは、ほとんど一瞬で蹴散らされた六角家の諸士であり、織田という出自も定かでないような出来星大名の軍勢を突然迎え入れなければならなかった京の人々であり、信長の勢いの凄まじさを目の当たりにした畿内の小豪族たちであり、何より、京まで実にあっけなく辿り着いてしまった当の織田家の軍兵たちであったろう。


 信長が岐阜を出陣し、上洛の途に着いたのが、永禄11年(1568)の9月7日だった。

 尾張、美濃、伊勢の織田勢に加え、同盟軍である徳川勢6千、浅井勢8千、さらに南近江で信長に降伏した小名たちをも含め、信長に従った軍勢は実に5万余。信長はこの空前の大軍勢をもって六角氏の本拠である観音寺城(滋賀県蒲生郡安土町)を9月11日に囲み、同時に丹羽長秀、佐久間信盛、藤吉朗、西美濃三人衆らからなる別働隊をもって箕作山城(蒲生郡五個荘町)を攻撃させている。


 観音寺城というのは峻険な安土山に築かれた六角家の本城で、かのルイス・フロイスが「人間の力で陥落させることができようとは到底思われない」と評した難攻不落の堅城である。しかし、織田勢の火の出るような猛攻によって目と鼻の先の箕作山城が1日で陥落してしまい、その勢いの凄まじさをまざまざと見せ付けられた六角義賢は篭城わずか二日で城を捨て、何処かへと逃散した。

 織田勢は、9月13日に観音寺城を無血占拠。主君が逃げてしまったことを受けて六角家の豪族たちは次々と信長に降伏し、南近江の平定は瞬く間に終了してしまった。


 信長は休むことなくすぐさま山城国(京都府中南部)に入り、軍を南下させて三好三人衆の1人 岩成友道が篭る勝龍寺城(京都府長岡京市勝龍寺町)を包囲。これを城に封じ込めて身動きできなくし、京の安全を確保すると、9月28日――岐阜を出てから1月にも満たぬうちに――意気揚々と上洛を果たしたのである。


(信長さまには、本当に神仏でも憑いておるのとちゃうか・・・)


 木下組の武士たちと足並みを揃えて京の大路を闊歩する小一郎は、半ば本気でそう思った。この事態の急転というのは、そうとでも考えるしか理解のしようがなかった。


 しかし、信長の快進撃はまだ止まらない。勝龍寺城への攻撃を継続して岩成友道を降伏させると、そのまま京を素通りして摂津国(大阪府北部)へと軍を進めた。

 摂津は京と堺を繋ぐ重要な地域で、京を押さえていた三好氏にとっては本州における本拠とでも言うべき国なのだが、信長は、芥川城、越水城、滝山城、池田城をわずか10日ばかりのうちに次々と陥落させ、瞬く間に三好氏の勢力を四国へと追い払った。織田勢の破竹のような勢いを知った大和(奈良県)の松永 弾正 久秀は、抗戦を諦め、信長に恭順する。


 こうして信長は、いともあっさりと畿内平定をも済ませてしまった。


 織田家の将士のほとんどは、あいた口が塞がらないような気分だったろう。

 実際、この一ヶ月間の信長の働きぶりは、もはや人間業とも思えない。


 小一郎などは、藤吉朗に従ってひたすら走り回っていただけで、自分が何処にいて誰の城を攻めているのかさえも解らなくなるほどの目まぐるしさだった。藤吉朗を含めた織田家の武将たちにしても、信長の命令に盲従するのが精一杯で、物を考えるような暇もなかったに違いない。信長の動きはそれほどに性急であり、その勢いの凄まじさというのはまさに津波のようであり、それに巻き込まれている人間たちにすれば、その流れに身を任せ、そこから零れ落ちないよう必死になって走る以外にどうしようもなかったのである。



 織田家の成長速度の異常さを実感してもらうために、少しばかり時間を遡ることをお許し願いたい。


 小一郎が生まれた尾張国(愛知県西部)というのは室町幕府創設のころから斯波氏が守護として統治していたのだが、いま小一郎が属している「信長の織田家」は、尾張の南半国を守護代として治めていた斯波氏の家老のそのまた家来という低い家柄からスタートした。織田氏はそもそも越前(福井県)の神主であったといい、近江(滋賀県)の土豪であったともいうが、尾張に根を張る以前まで遡る必要はないであろう。いずれにせよ織田家は、小一郎が生まれる遥か前――信長の祖父 信定のときに大いに力を蓄え、“尾張の虎”と怖れられた父である信秀が、諸国に充満する下克上の気運に乗って守護の支配を脱し、尾張南半国を完全に掌握して戦国大名の仲間入りを果たした。


 天文20年(1550)に信秀が死んだ後、父の跡目を継ぐ形で尾張南半国を継承したのが、信長である。

 信長は、驚くべき勤勉さと執拗さで合戦を繰り返した。織田家を割った内部抗争を勝ち抜き、東から来る今川家の圧力とも戦いながら8年掛かりでなんとか尾張統一を成し遂げる。ときに永禄元年(1558)のことであり、このとき信長は24歳だった。

 信長が美濃攻めに本腰を入れ始めたのが、尾張統一から2年後の永禄3年(1560)。今川義元を「桶狭間」で討ち取り、三河の徳川家康と同盟して東方の安全を確保したときからである。斉藤竜興を追放し、稲葉山城を陥落させたのが永禄10年(1567)だから、つまり信長は、美濃盗りには7年を要している。

 こうして順を追って見てくると、信長が尾張半国の主から尾張・美濃 二ヶ国の太守になるまでというのは、実に17年もの歳月が必要だったということが、読者にもお解りいただけるであろう。


 ところが、この同じ信長が、永禄10年(1567)の夏に岐阜城に本拠を据えるやわずか半年で伊勢の北中部地方を征服し、さらにその半年後には京を軍事占領し、五畿内一帯(山城、大和、摂津、和泉、河内)を瞬く間に押さえてしまったのである。


 この永禄11年冬の織田家の勢力範囲を現在の県名で見てみると――同盟相手の徳川氏、浅井氏の領地を含めて――愛知県、岐阜県、三重県の北中部、静岡県の西部、滋賀県、京都府の中南部、奈良県から大阪府にまでまたがるという広大さで、これは言い換えれば、日本の中央部の勢力地図を、わずか1年半で織田一色に塗り替えてしまったということなのだ。

 小一郎を含めた多くの織田家の武士たちは、理詰めで物事を理解する以前に信長という大将が持って生まれた星の巨大さに圧倒され、運命とか天の意志とかいった「人の力を超越したもの」を目の当たりにするような気分だったに違いない。



「こうも容易く上洛が果たせようとは、誰も思うておらなんだでしょうなぁ・・・」


 ため息をつくような気分で、小一郎は半兵衛に語りかけた。


「ええ、そうですね」


 半兵衛は、常と変らぬ微笑をした。

 場所は、京――堀川通り六条の本國寺にほど近い小さな禅寺の一室――である。


 京に凱旋を果たした信長は、清水寺に本陣を置き、戦勝を祝うために方々から群がるように集まってくる人々の対応と今後の政治日程の打ち合わせなどで忙殺されていた。織田勢は、それぞれ大寺院などに分宿して休息が与えられており、木下組は他の部隊と共に、この寺を接収して宿舎にしていた。

 ちなみに藤吉朗は、いっぱしの武将面をして信長の近辺に詰めているから夜中以外はここには帰ってこず、木下組の世話は相変わらず小一郎と蜂須賀小六に任せきりである。


「兄者はこの上洛戦、1年や2年は掛かるじゃろうなどと申しておったのです。わしはそれでも早すぎると思うたのですが、それを、わずか1月やそこらで・・・。なんと言うか・・・今でも狐につままれたような心地がします」


 実のところ小一郎は、信長が奇術か魔術でも使ったのではないかとさえ思う。

 しかし半兵衛は、意見が違うらしい。


「岐阜さまは、これ以上ない大義を持っておいででしたからね。将軍候補たる義昭公を奉じ、足利将軍家の正統を回復するための義戦の旗を挙げられたとなれば、畿内でこれに歯向かう者は、三好、松永の徒以外にはおりません。五畿内の大名小名たち、また比叡山の僧兵や摂津石山の本願寺勢などがことごとく不戦の態度を取ったからこそ、我らは枯れ草でも薙ぐような勢いで勝ち進むことができたのです。もしそれらの勢力が岐阜さまに敵対しておれば、とてもこのようにはいかなかったでしょう」


 信長の快進撃を奇術に喩えるなら、その種は――半兵衛の指摘の通り――室町将軍 足利義輝の弟 義昭を旗頭として奉戴したことであったろう。


 少しばかり込み入った話だが、ここは詳しく解説しておかねばならない。



 足利将軍家というのは、初代 尊氏が征夷大将軍となり、京都に幕府を開いた歴応元年(1338)から始まる。将軍家の勢威は3代 義満の時代にピークを迎えるが、その後は徐々に衰え続け、応仁の乱(1467)以降はまったく失墜し、戦国のこの時代には「権威だけをもつお飾り」的な存在にまで成り下がってしまっている。現に前将軍の13代 義輝などは、京を押さえていた三好氏、松永久秀らと対立し、攻め殺されてさえいるのである。

 「将軍弑逆」というのはさすがに諸国に衝撃を与え、下克上もここに極まったという感さえあったが、事を起こした三好氏ら自身も「武門の棟梁」たる将軍の尊貴さと室町幕府の正統性までは否定しきることができず、幕府を滅亡させて新しい秩序を構築するほどの器量もビジョンもなく、結局は自分たちの傀儡となる足利将軍を即位させることで旧秩序を壊すことなく人心の安定に努めようとした。

 これに反発し、我こそが正統なる将軍であると諸国に呼びかけたのが、義輝の実弟 足利義昭であった。


 足利義昭――もともと覚慶かくけいと名乗る僧であり、奈良の一乗院門跡の門主であったこの男は、兄の義輝が殺されると寺を脱出し、還俗して髪をたくわえ、わずかな幕臣たちに守られながら諸国を放浪した。義昭の願いというのは、諸国の有力大名に取り入ってその庇護と援助を受け、それらの大名の軍勢をもって京の三好氏らを蹴散らし、京に凱旋し、三好氏らが擁立した将軍を否定して自ら正統なる将軍として即位することであった。

 一片の土地も一兵の軍勢も持たず、ただ将軍継承権だけを持っている流浪の義昭にすれば、「武門の棟梁」たる将軍の神聖さと尊貴さを誇示し、それによって大名たちから力を借りる以外に世に立つ方法がなかったのである。


 義昭は最初、室町幕府の評定衆にも名を連ねた南近江の名門 六角氏を頼り、次いで若狭の武田氏、越前の朝倉氏などを頼って回ったが、どの大名も義昭を丁重に遇してはくれるものの京に攻め入って三好氏らを蹴散らすほどの実力も覇気もなく、いたずらに時間ばかりを浪費させられるハメになった。

 諸国を見渡せば、名族で、かつ強勢な大名家というのは確かにある。甲斐の武田氏、越後の上杉氏、関東の北条氏、安芸の毛利氏、豊後の大友氏などがそれだが、それらの大名たちはいずれも京から地理的に遠すぎ、すぐさま京へ軍勢を派遣できるような政治状態にもない。


 窮した義昭は、やがて尾張の信長に目を付けた。


 織田家というのはそもそも室町体制の正規の大名ではなく、下克上で成り上がったような出自も定かでない新興勢力である。その意味で、義昭から見れば信長などは庶民となんら変らぬ下賎の者であり、その出自の卑しさを考えれば足利将軍家を後見する大名としてはいかにも相応しくない。

 しかし、信長の非常な働きぶりというのはそろそろ世間でも評判になり始めていて、尾張を統一し、今川義元を打ち破り、美濃にさかんに兵を出してこれを切り取る勢いを見せるなど、新興勢力らしい溌剌さと勢いがあることだけは認めざるを得ない。安穏に慣れ、自国の領土を守ることに汲々とし、錆びついたように腰が重い保守的な名門大名たちよりも、ある意味では遥かに頼り甲斐があるかもしれない。


 義昭は、とにかく感触を確かめ、できれば援助を取り付けるために、信長に使者を遣わした。これが永禄8年(1565)のことであり、信長が小牧山から美濃をうかがっていた頃のことである。この最初の使者に正規の幕臣でなく浪人者の明智光秀を使ったのは、光秀という男の人物・器量を高く買っていたということもあるにせよ、信長をはるかに格下と見る義昭のせめてもの面子だったのであろう。

 信長は、自分が将軍から頼られたことについては非常に喜び、時期尚早として従軍要請には応じなかったものの、義昭に対しては多額の援助をし、「事あらばいつでも自分を頼って来い」という意味のことを慇懃に言い送った。


 周知のように、後に信長はこの足利義昭を天下制覇のための道具として使うようになるのだが、その覇道の方法論を明確に意識するようになったのは、この永禄8年からであったに違いない。


 その後、美濃を手にした信長の元に、再び義昭からの使者が来るようになった。最初は明智光秀が多かったが、やがて幕臣の細川藤孝、和田惟政なども岐阜に顔を見せるようになった。手詰まりになっていた義昭が、信長の武略と織田家の勢いをいよいよ本物であると悟り、これを口説くことに本腰を入れ始めたからであろう。


 信長は何度も越前の義昭との間で使者を往来させ、快く義昭を受け入れ、義昭を新将軍とするために京に攻め入り、これに手向かう者たちと戦うことを確約した。そして、永禄11年(1568)の7月――第二次伊勢征伐が終わって2月ほどした頃――義昭はついに越前の朝倉家に見切りをつけ、織田家を頼って岐阜に来た。


 天下布武のため、まずは京を押さえたい信長にとってみれば、これ以上ない大義名分が、むこうからやって来てくれたわけである。



「つまり岐阜さまは、京に攻め入るに非の打ち所のない大義と名分を持っておったということなのですよ。足利義昭公の要請に従って兵を挙げたとなれば、これは岐阜さまの私戦にあらず、幕府の正統を回復するための義戦ということになる。将軍家のための義戦であればこそ、たとえば越前の朝倉家、甲斐の武田家、越後の上杉家なども岐阜さまの背後を脅かすようなことができず、近畿の諸勢力もこれに歯向かうことができぬのです」


 前将軍の弟である義昭の要請を受け、将軍家を援けるために兵を挙げた信長の邪魔をすれば、それは「足利将軍への大逆」ということになり、「室町幕府の敵」というレッテルが貼られることになる。将軍には何の実力もないが、伝統的な神聖権と「武門の棟梁」として法的に正統な軍事指揮権がある以上、諸大名としても頭からこれを無視するわけにはいかないのである。

 2月ほど前のあの夕立の日、半兵衛が「ぎょくを手にした」と言ったのは、まさに信長が義昭を手に入れたことを指していたのだと、小一郎は今さらながらに気がついた。


「ですから、畿内を制したことについては、それほど驚くにあたりません。南近江の六角家があれほど脆かったというのは、少しばかり意外ではありましたがね」


 それより、私が驚いているのは――と、半兵衛は続けた。


「義昭公が織田家に参られたのが、岐阜さまが伊勢を制し終えた直後だったというこの点です。岐阜さまにとっては、まさに絶妙の時期でありましたな」


 いま振り返って思えば、この義昭の動きは、いよいよ上洛に向けて準備を整え終えた信長にとってこれ以上ないタイミングであったと言うほかない。

 これまで考えてみたことさえなかった点を半兵衛に指摘され、小一郎はなんだか薄ら寒い気分になった。信長というのは、いったいどこまで先を見通しているのか――それとも、これもすべて天運の巡り合わせだとでも言うのか――


「これが、すべて岐阜さまの描いた絵であるとすれば・・・・」


「・・・・あるとすれば?」


 小一郎は、思わず生唾を飲み下した。

 半兵衛はしばらく黙考していたが、やがてあの柔和な微笑を浮かべ、


「我らは、まったく良きお家に仕えておる、ということになりますね」


 と言った。


「しかし、大変なのは、おそらくこれからです・・・・」


「・・・・と言いますと?」


 織田家は――信長は――今がまさに勢いの絶頂期であろう。どこまでも加速するこの勢いのままに天下を統べてしまうのではないかとさえ思われるのに、何が大変なのかが小一郎には解らない。


「岐阜さまが目指されておるのは天下であって、たとえば足利幕府の執権になることではない、ということですよ」


 「執権」というのは鎌倉幕府以来の職制で、将軍を補佐し、政務を統括する最高職のことである。室町幕府ではこれを「管領」と呼び、正確にはそう言うべきであったろうが、意味は変らない。ようするに半兵衛は、「信長が、足利義昭の下風に立っている以上、そこで満足はしないだろう」と言っているのである。

 確かに言われてみれば、藤吉朗などから伝え聞く信長の性格というのは唯我独尊を地でゆくものであり、小一郎のイメージの中の信長も、将軍の前で蜘蛛のように這い蹲って平伏しているような行儀の良い男では断じてない。


 倣岸にして不遜――常に頂点にあるべき天性の独裁者。

 不撓にして不屈――立ち塞がる壁を次々と突き崩してゆく苛烈な絶対君主。

 古き伝統の破壊者にして新しい秩序の創造主。


 それが、あの新しい岐阜の町に君臨する信長という男ではなかったか――


「・・・しかし・・・では、信長さまはこれからどうなされると・・・?」


 小一郎は軽く混乱した。


「・・・冷えてきましたな。白湯でも用意させましょう」


 その問いには答えず、半兵衛は声を上げて小姓を呼んだ。


「ここから先のことは、軽々と口にせぬ方がよろしいでしょう。話が少しばかり、剣呑に過ぎるようです」


 そう言って、静かに火鉢に炭をくべ始める。

 身体が冷え切っていることに、小一郎はようやく気付いた。旧暦の10月の半ばといえば太陽暦では11月の初旬であり、夜ともなれば盆地の京は底冷えしてことに気温が下がる。


(なにやら、立っておる大地がゆらゆらと揺れておるような気分じゃ・・・)


 先の見えぬ不安感が胃のあたりで急に燻り始めた気がして、小一郎は我知らず下腹を撫でていた。


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