第15話 ある夏の日の夕立
第二次伊勢征伐が終わった永禄11年(1568)の夏――
信長は、この1年の論功行賞をすると同時に大規模な家臣団の再編成と武将の配置転換を行った。新参の美濃衆、伊勢衆などを正式に織田軍団に組み込むために、地域ごとの旗頭を決めて寄親-寄子(上司-部下)の上下関係を明確にしておかねばならなかったし、無用になった砦や城を破却したり軍勢の駐屯基地を変更したりしなければならなかったからである。
この再編成によってもっとも出世したのは、滝川一益だった。
一益は、それまで織田家の中でも中堅クラスの武将だったのだが、今回の論功行賞で北伊勢の旗頭に指名され、桑名城を預けられると共に北勢地方の小豪族たちを配下にするよう信長に命じられた。このことによって一益の武将としての地位は軍団長と呼べるほどにまで高まり、織田の譜代家老――林秀貞、柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛――に次ぐ重臣という序列が確固たるものになったのである。
一益の躍進に比べると、藤吉朗は多少哀れであった。というのも、伊勢の中部地方までが完全に織田家の勢力圏に入ったことで墨俣砦の戦略的価値がまったく失われてしまい、これを破却することが信長によって決定されたのである。藤吉朗は他の諸将と共に一応の加増は受け、三千石の身上になりはしたものの、墨俣加番(守将)の任を解かれ、役職も仕事も失ってしまった。必然的に木下組の人々はすべて岐阜に戻ることになり、久方ぶりの休息が与えられた。
(城を失うた兄者は不平面しとったが、わしにすりゃぁ実にありがたいご沙汰じゃったわ)
信長は、小一郎がこれまで墨俣砦に蓄えた兵糧のうち半分を織田家に返却するよう命じたが、残る半分は褒美として藤吉朗に下賜してくれたのである。東美濃の城代になってからこの3年、毎年何度も戦に駆り出されていたし、岐阜移転に伴う新居の建築などもあったために木下家の経済状態はかなり逼迫していたのだが、信長のこの措置のお陰で借財もすべて返済でき、どうにか人心地つくことができたのだった。
(収穫まではあと2月ほど・・・今年は気候も良かったし、ご加増もあったで、実りの秋が楽しみじゃ)
そんなことを考えながら、小一郎は昼下がりの岐阜の町の大路をゆったりと歩いていた。
(それにしても、しばらく留守にしておるうちに、また人出が増えたな・・・)
両側に商家が建ち並ぶ広い大路は、うんざりするほどの人で溢れている。武士の数ももちろん多いのだが、それより商人の行き来が圧倒的に激しいというのが、信長が作る町の特徴と言えるかもしれない。
城下町に家臣を集めて住まわせる信長の軍政と、領国内の関所を撤廃することによる関税の免除、商人と職人に対する積極的な誘致、さらには誰でも自由に商売ができる「楽市楽座」の経済政策のお陰で、岐阜の町はわずか1年で殷賑の大都会といった趣きを備えるまでに成長していた。この町の繁栄振りというのは実際大変なもので、その人口はすでに8万とも10万とも言われている。当時は「民」に含まれなかった下人、下女といった奴婢階級や、遊行民、河原者などの賤民階級を含めれば、その人数はさらに増えたであろう。
米や麦、塩や味噌、野菜や魚といった食料品、炭や薪、油のような消耗品、木材や反物、陶器や漆器、畳表や蚊帳といった生活物資、煙草や酒、茶葉や茶器、墨や硯といった嗜好品、その他ありとあらゆる物が馬に積まれ、車で曳かれ、あるいは天秤棒を担いだ行商人たちの足によって岐阜の町には集められる。また鍛治町、職人町などでは、様々な手工業品が生産される。取引や用務のために岐阜に集まってくる人間たちの往来もおびただしく、それらの人間をあて込んだ旅籠や酒屋、遊女屋なども建ち並び、この岐阜の町の陽気な騒がしさと活気の凄まじさは、京より東ではまず第一と言うべきであろう。この翌年、信長に逢うために岐阜を訪れたポルトガルの宣教師 ルイス・フロイスは、町の大路を往く人々の活気に溢れた様子を「バビロンの雑踏を思わせる」と驚きをもって讃え、
「物売りや客引きの声、雑踏などのために、家の中では誰も自分の声が聞こえぬほどであった」
と、その騒がしさについて本国に報告したりしている。
岐阜は――というより信長の領国は――これだけ急激な繁栄を見せているにも関わらず治安がひどく良い。これは太守である信長の厳罰主義が徹底しているからで、たとえば盗みを働いた者は捕まれば即首を刎ねられるから、人々は夜の戸締りをしなくても安んじて眠ることができ、盗賊が出たとか強盗が出たとかいった話もこの数年ほとんど聞いたことがない。織田領では在地豪族がことごとく織田家に籍を置く正規の武士に組み込まれているから、野盗や山賊といった物騒な連中もよほど人里離れた山奥にでも行かない限り出没するようなことはなく、まして尾張と美濃ではほとんどの関所が取り払われていて通行料を取られることもないから、商人にとってこれほど商売のしやすい国はなく、領民にとってもこれほど暮らしやすい国はない。
(信長さまは、まったく偉いもんじゃ・・・)
生まれ変わった岐阜で豊かに暮らす人々を見るたびに、小一郎はしみじみと思う。
振り返ると、圧倒的な存在感で稲葉山がそびえ立っている。山頂にある岐阜城の改修工事はすでに内装を残すのみ、というところまで進み、斉藤道三の時代とは比べ物にならないほどの壮麗で華麗な白壁の城が真夏の陽を受けて輝いている。信長は普段はその城には住まず、山麓に広壮な屋敷を建ててそこで暮らしているのだが、その屋敷でも気に食わないらしく、4階建ての豪華な御殿の造営を新たに丹羽長秀らに命じたのだという。
(・・・天下・・か・・・)
あの天にもっとも近い稲葉山の山頂に居を定めて以来、信長は「天下」という言葉を好み、しきりとそれを使うようになったらしい。「天下布武」の印章にしてもそうだし、たとえば職人や芸人、武芸者などに「天下一」を勝手に名乗ることを禁じ、これを信長の許可制にした、というようなことも聞いている。
(信長さまは、本当に天下をお取りなさるかもしれんのぉ・・・)
今の織田家の勢いというのは、小一郎でさえはっきりとそれが解るほどに凄まじい。難攻不落のあの岐阜城の威容と、発展著しいこの岐阜の町を眺めていると、そんなことも本気で思えてくる。
「天」という言葉で、肌に粘りつくような重い空気にふと気がついた。
左右に視線を転じると、路地の日陰で横になっている野良猫が、しきりと前足で顔の毛づくろいをしている。
(猫も顔を洗うておるか・・・こりゃぁ、夕方から一雨きそうじゃな・・・)
小一郎は、これから藤吉朗の使いとして半兵衛の屋敷を訪ねることになっている。手土産に茶菓でも買おうと町までふらりと出てきたのだが、少しばかり急いだ方が良さそうである。
手ぬぐいで額の汗をふきながら、小一郎は足を早めた。
「十兵衛殿のことをおっしゃっておいでなら、確かに存じておりますよ」
涼しげな小袖姿の半兵衛は、ゆったりと扇子を使いながら答えた。
「もっとも、存知よるといっても顔を見知っておるというだけのことで、親しく話をしたことはありませんが・・・」
新築がなったばかりの半兵衛の屋敷である。風通しの良い書院に通された小一郎は、半兵衛と向かい合って端座していた。二人の傍らにはうこぎで淹れた茶と、小一郎が持参した葛饅頭が置かれている。
「・・・名乗りは十兵衛殿と申されるのですか。兄者は明智光秀殿としか言うてくれなんだので、わしは知らぬのですが・・・。その明智殿がどういうご仁であるか、半兵衛殿が知っておる限りのことを教えていただきたいと、兄者は申しておりました」
明智光秀という男が、最近、信長に急速に近付いてきているのだと、藤吉朗は言った。越前 朝倉家の客分という触れ込みだが、元は美濃の名族の出身であるといい、信長の正室――あの斉藤道三の娘である――帰蝶の従兄妹だとも自称する得体の知れない四十男である。どういう繋がりがあるの解らないが、光秀はたかが浪人者にすぎぬ分際で室町将軍家の昵懇を得ており、その使いという名目で信長の元にたびたび面談に訪れているのだという。
「これまでの織田家にはおらなんだ型の男でな。挙措動作は礼に適っていかにも床しく、天下国家を語るその弁舌を聞くに並々の識者ではない。一介の浪人でありながら、信長さまを前にして堂々と物を言う胆力は、いかに将軍家のご威光を背負っておるとはいえ、只者とも思えぬ」
と、藤吉朗はその男を評した。
「どうも信長さまは、この光秀ちゅう男を大層お気に召されたご様子でのぉ・・・」
信長に取り入り、気に入られ、その引き立てによって浮浪人から武将にまで上り詰めた藤吉朗にすれば、「信長の一番のお気に入り」という地位を脅かすかもしれぬ存在というのは、気になって仕方がないのであろう。何はともあれまずは情報収集と、明智光秀という男について調べてみようと思い立ったらしい。美濃の出であると言うからには、半兵衛に聞けば何か解るに違いない、ということで、こうして小一郎が遣わされたわけである。
「美濃の東――可児郷というところに明智庄という土地がありましてな・・・」
小一郎の説明で事情を諒解した半兵衛は、そう話を切り出した。
「明智氏は代々その地に根を張る小名(小領主)で、その血筋は土岐のお屋形の――あぁ・・・土岐氏のことはご存知でしたか?」
「斉藤道三殿が美濃を取る前の、美濃のご守護さまですね」
「その通りです。そもそも土岐とは、大江山の酒呑童子という鬼を討ったことで有名な源頼光を先祖に持つ清和源氏の名流。土岐光信 以来600年、美濃の守護として我ら美濃侍の旗頭であったお家柄です。明智氏とはもともと、その土岐の連枝。土岐 民部大輔 頼清が二男、明智 下野守 頼兼から発すると言われております。土岐の庶流としては随一の名族ですね。十兵衛殿は、その明智の嫡流。明智城に居を構える小名でありました。しかし、美濃を二つに割ったあの『道三崩れ』のときに、明智氏は道三殿に最後までお味方し、斉藤義龍殿に一族ことごとく攻め滅ぼされたと聞いておりました。そうですか・・・十兵衛殿は生きておられたか・・・」
「道三崩れ」というのは、斉藤道三が子の義龍と戦い、敗死した弘治2年(1556)の事件のことを指している。これはこの物語とは直接に関係がないので多くを触れるつもりもないのだが、ごく単純に説明すると、美濃を乗っ取った斉藤道三が、その晩年に我が子が起こした反乱によって国を奪い取られ、攻め滅ぼされた、ということである。信長は道三の娘を嫁にもらっており、その婚姻を契機にして二人は非常に友好な同盟関係を築いていたのだが、自分に好意を持ってくれ、無償の援助をし続けてくれた舅 道三を殺されたことによって信長は斉藤義龍を大いに憎み、道三の弔い合戦を決意し、そのことが信長を美濃攻めに駆り立てた、というのは一面で事実だった。
「あれは、確か十何年か前でしたな。信長さまが道三殿の加勢に美濃まで出向かれ、尾張でも大騒ぎになっておりました。もっとも、わしはその頃、まだ野良で働く百姓でありましたが・・・」
小一郎が笑うと、
「12年前の話です。私などは、その頃まだ12、3の子供で、元服前でしたので出仕もしておりませんでしたよ」
半兵衛も往時を思い出すように遠い目をして笑った。
「私が十兵衛殿をお見かけしたのは、いつでしたか――元旦の総登城のときに、父に連れられて稲葉山に登った折りでした・・・」
その頃の十兵衛 光秀はすでに20代後半の青年で、斉藤家でも将来を嘱望される武将だった。若い頃は道三の小姓として常に傍近くに仕え、その人物を見込んだ道三から直々に軍略や学問、武芸から遊芸まで諸芸百般を仕込まれたのだという。ことに学問の分野においてその才は卓越していて、故実・典礼(礼儀、作法などの古いしきたりや決まり)に精通し、和歌、連歌、茶の湯とその教養は実に豊かであったらしい。
「私の父は、道三殿を百世に1人の英雄であると申しておりました。幼い頃に何度か頭を撫でてもらった覚えはありますが、残念なことに私は、直々に道三殿の教えを請う機会には恵まれませんでしたがね。まぁ、いずれにせよ、その道三殿が惚れ込んだほどの才智溢れる若者というのが・・・」
「・・・明智光秀殿、ということですか・・・・」
「その通りです」
開け放たれた障子の向こうで、にわかに陽が翳った。と、その直後、遠雷が地響きのように空気を振るわせた。
どうやら、夕立が間近に迫っているようである。
「・・・・私などにはさっぱり解らぬのですが、一介の浪人であった光秀殿が、京の将軍さまと繋がりをもつことなどできるものなのでしょうか?」
小一郎は、当然の疑問を口にした。
「それは解りません。よほどの伝手と、運がなければ為し得ないとは思います。しかし、将軍家は――征夷大将軍というのは、突き詰めれば「源氏の長者」であるに過ぎません。先ほどお話しました通り、明智氏は土岐氏の庶流――つまり清和源氏のまぎれもない名流ですし、まして昨今の将軍家の零落は著しいと聞きますから、あるいは浪々の十兵衛殿にも取り入る機会があったのやもしれませぬ」
「光秀殿が、お濃の方さま(帰蝶)の縁者であるというのは、本当なのですか?」
「岐阜さまの元に訪れたというその男が、まことの十兵衛殿であられるなら、その通りです。十兵衛殿の叔母君が、道三殿の正妻に迎えられた小見の方さまですから、お二人のお子である濃姫さまは十兵衛殿とは従兄妹、ということになります」
さすがの小一郎も、明智光秀が並々ならぬ男である、ということが、なんとなく解ってきた。
「それにしても・・・・・」
半兵衛は腕を組み、逆に考え込んでいる。
「十兵衛殿が、岐阜さまの元に初めて現れたのは、いつ頃のことかご存知ですか?」
「兄者は確か・・・信長さまが小牧山におった頃にも一度来たことがある、と言うておったように思います」
「すると・・・2、3年も前から、岐阜さまは将軍家のご使者を迎えていたということか・・・」
パチリ、と、半兵衛が扇子を閉じた。
すると、それを合図にしたように、開け放たれた障子の向こうでは大粒の雨が堰を切ったように落ち始めた。屋根や蔀戸に当たる雨粒が派手な音をたて、なぜだか小一郎はほんの少しだけ狼狽した。
「私は、岐阜さまが上洛を果たすには、どんなに急いでも半年や1年は掛かるものと見ておりました・・・」
雨音で、半兵衛の声がよく聞こえない。
「岐阜さまが、すでに玉を手にされておるとは・・・いや・・・これもすべて、岐阜さまの描かれた絵のうちか・・・・?」
ほとんど独り言のようなその声は、小一郎の耳に届く前に雨音が掻き消してしまった。