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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第14話 信長の政略――第二次伊勢征伐

 年が明けた永禄11年(1568)の2月――

 半兵衛の予見の通り、信長は大規模な伊勢征伐を起こした。


 『勢州軍記』という江戸初期に書かれた伊勢地方の軍記物語を見ると、織田勢はこのとき総数4万と呼号したらしい。が、これは敵を脅すために誇張して言いふらした数字であろう。実数は、その半分ほどであったはずである。

 滝川一益を先鋒に2万を越す大軍勢を動員した信長は、今回は自ら全軍を率い、辺りの小豪族たちを靡かせるように従えながら南へ南へと軍を進めていった。

 言うまでもないが、藤吉朗率いる木下組も、織田勢の主力としてこの遠征に参加している。1万2千余の尾張勢に8千余の美濃勢を加えた長蛇の列に、木下組の人々に混じって黒糸縅の地味な鎧兜に身を包んだ小一郎の姿があった。


(何度やっても、戦というのはどうにも好きになれん・・・)


 小雪がちらつく鈍色の空を仰ぎ、馬をゆったりとうたせながら、小一郎は思った。

 何がイヤといって、戦場の殺伐とした雰囲気ほど小一郎にとってイヤなものはない。轟雷のように鳴りわたる銃声を間近で聞くといまだに首が縮み、動悸が激しくなるし、戦場を駆け抜ける雄々しい陣太鼓の轟きや鼓膜を打つ法螺貝の響きなども、どうしても慣れることができない。まして、男たちがあげる野獣のような雄叫びや断末魔の叫びなどはもう論外で、人目がなければ耳をふさぎたくなるほどなのである。

 小一郎は、元来がおっとりとした温厚な性格で、臆病ではないにせよ他人と争うようなことがそもそも好きでなく、なかでも戦場の功名争いというのが格別に苦手であった。それほど場数を踏んでないからかもしれないが、たとえば敵と槍を合わせるときなど、敵味方のどの顔を見ても狂気が憑いているとしか思えず、彼らが発する猛気を前にするとまったく圧倒されてしまい、気組みが萎え、足がすくみ、骨が鳴るほどに槍を持つ手が震え出してしまう。


(怖い)


 と、素直にそう思う。

 根が、百姓なのだ。


 これが、生まれついての武士であるならば、幼いころから戦場という特殊な環境に慣らされて育てられたであろうし、怖いと思うその自分の感情を恥じ、それを殺し、闘志や怒りといった別の感情に変えるよう心胆を訓練できたであろう。あるいは槍をしごき、弓を引き、小具足(格闘術)の修練を積んで日々武勇を磨き、それをもって自分を支える自信にするようなこともできたかもしれない。

 しかし、小一郎が百姓から足軽に転身したのは20歳を越えてからであり、馬に跨るようになったのもほんの一昨年のことなのである。戦場で将校として働くための技能や心得などはひととおり半兵衛から教えてもらいはしたが、実のところ馬を乗りこなすことさえまだ満足にできていない。


(因果なことじゃ・・・・)


 戦場に引きずり出されるたびに、小一郎は思う。

 小一郎は、そもそも武士になりたいなどと考えたことさえなかった男であり、自分の出世欲や功名心から戦場で能動的に働いたという経験も一度もない。槍で人を突き殺すなどということが自分にできようとはまったく思えないし、その遺体から首を切り落として持ち帰るなどは考えただけでおぞましい。そういう殺伐とした世界に住んでいるのも今こうして馬に乗っていることも、すべては兄の出世に引きずられたからこそ起こったことであり、そこには小一郎自身の意思や希望はいっさい関与していないのである。

 しかし、武士になって兄を援けると決めたからには、戦場を避けて通るわけにもいかない。

 いま馬上を往く小一郎を支えているのは、


(わしが戦場で見苦しい振舞いをすれば、やはりアレらは百姓よと人からあなどられ、兄者までが恥をかくことになる)


 という藤吉朗への配慮であり、「他人から笑われたくない」というこの時代の人間が多分に持っている強烈な自尊心であり、「乗りかかった舟から途中で降りることはできん」という諦念と義務感、そして責任感であった。


 そういう、いわば後ろ向きの気持ちで戦場に臨んでいる以上、小一郎に大きな希望や颯爽とした目標などはあろうはずもない。


(ともかくも、大過なく岐阜へ帰れりゃぁええんじゃが・・・)


 というあたりがその精一杯であり、この小一郎の戦争に対する消極的な性向というのは終生ほとんど変ることはなかった。

 が、小一郎のそんな想いは、敵にとってみれば知ったことではないし、これから起こってゆく現実ともまったく関係がない。実際に戦場に出ている以上、自分はもちろん、兄や木下組の人々の身にだって何が起こってもおかしくはないし、運が悪ければ死ぬことさえあるであろう。


「武運――」


 それを、信じる以外にない。


 小一郎のつぶやきが聞こえたのか、馬の口を取っていた牛蔵という老僕が小一郎を振り仰いだ。


「・・・いや、なんでもない。独り言や」


 小一郎が苦笑すると、老人は黙ったまま眠そうな目を再び前に向けた。


 小一郎はこの牛蔵に加え、槍持ちと荷担ぎの小者、さらに2騎の武者と8人の徒歩かち(馬に乗れない低い身分の侍、歩卒)を家来として従えている。小一郎自身が藤吉朗から200石を給される木下家の将校だから、石高に応じた人数を扶養し、戦場ではそれを率いねばならないのである。こういう制度を当時の言葉で「賦役ふえき」と言い、現代語なら「軍役」と呼ぶのだが、ようするに武士というのは俸禄によって主君に飼われているわけで、戦場ではそれぞれの禄高に応じた働きを主君に対して還元する義務を負っている、と言えば解りやすいかもしれない。

 ちなみに、身分と職制が固定された江戸期とは違い、この当時は、自分の食を切り詰めてでもより多くの家来を抱え、戦場で少しでも良い働きができるよう心がけるのが武士の嗜みであるとされていた。もちろん、家来の人数をより少なくすればそれだけ経済的余裕が生まれるわけだが、そうやって個人の財産を蓄えるのは「禄を盗む」という恥ずべき行為だと考えられていて、軍規によって定められている最低限の人数さえ率いていない場合は、給料泥棒という意味で重い罪になった。


 小一郎は、木下家の下級武士や足軽から、戦場で役に立たなさそうな者――槍働きが苦手な者や臆病な者、高齢の者など――をリストアップし、その中から温厚で勤勉な者、誠実で計数に明るい者などを選んで藤吉朗からもらい受け、自分の家来にしていた。

 これは、小一郎が戦で活躍するためにはまったく不利なことなのだが、


(戦場では、兄者が目立ってくれりゃぁええ)


 というのが小一郎の考えであり、木下組の裏方に自分の働く場所を定めていたから、兵糧荷駄の管理や雑務に向いた者を集めたわけである。


 このことを知ったとき、半兵衛などは手放しで小一郎を褒めてくれた。


「爾来、武家というものは、次男以下は長兄を立て、その影のようになっておるのが良いのです。一族一門の者が功を競い合えば家来に必ず派閥ができ、派閥ができればいずれ仲たがいを起こし、家を危うくすると相場が決まっておりますからね」


 応仁から続く戦乱――諸国の武家の盛衰は、必ず内部抗争がその火種なり引き金なりになっている、というようなことを半兵衛は言った。

 が、当の小一郎にすれば、裏方の方が性に合っている、というだけのことで、藤吉朗や木下組の諸将と功を競うような気持ちは最初から微塵も持ち合わせていないのだった。



 小一郎にとっては幸いだったことに、この永禄11年に行われた伊勢征伐でも、木下組には華々しい活躍の場――すなわち修羅場である――は巡ってこなかった。


 伊勢の北部地方というのは、四十八家とも言われる小豪族たちがぞれぞれの村落に砦を構えて蟠踞し、離合集散を繰り返しながら互いに争い合っていた、というのは先にも触れた。これらの豪族たち個々の動員力というのはせいぜい2、3百に過ぎず、2万という途方もない軍勢を引き連れてきた信長にはもともと歯が立たない。

 去年の電撃的な伊勢侵攻によって、信長はすでに北部地方の過半を支配している。滝川一益があらかじめ調略をほどこしていたこともあり、残る豪族たちは織田勢にまったく抵抗しようとはせず、次々に降伏して伊勢討ち入りの道案内となった。織田勢は無人の野を往くごとくに進軍し、鈴鹿川まで瞬く間に歩を進めた。


 しかし、同じ伊勢でも、そこから先はすこしばかり事情が違ってくる。


 伊勢の中部地方は、関氏、神戸氏、工藤氏という有力豪族3氏が牛耳っており、南部地方から志摩半島にかけては北畠氏という守護大名が治めている。これらはいずれも源平の時代から連綿とこの地に根を張る由緒正しい武家の名門で、お互いに仲が悪いものの、新興勢力である信長を快く思っていないことでは一致していた。


 まず信長は、鈴鹿に根を張る神戸氏を降そうとし、神戸城(鈴鹿市神戸本多町)の前線基地にあたる高岡城を攻めた。


 高岡城というのは鈴鹿川北岸の丘陵地帯の東端に築かれた山城で、南と東は鈴鹿川がめぐり、北は深い谷をなすという天然の要害である。唯一の攻め口になる城の西側は空堀と土塁と柵で守られ、小城ではあるが非常に攻めにくい。ここに、神戸氏の家老である山路弾正という硬骨の勇将が千人ほどの兵を率いて篭っていた。

 信長は去年の第一次伊勢征伐でもこの城を攻めているのだが、山路弾正の奮戦によって味方の被害が続出し、結局この攻略の失敗をもって伊勢征伐を一旦打ち切ったという苦い経験を持っていた。


 前回に倍する兵力をもって高岡城を完全に包囲した信長は、これを昼夜分かたず攻めに攻めた。が、山路弾正 以下 城兵たちの抵抗は凄まじく、今回もどうしても落とすことができない。5日経ち、10日経ちするうちに、信長はこの攻めにくい小城に煩わされているのが馬鹿らしくなってきた。


 信長は後年、自らに楯突く勢力をことごとく殺し尽くし、「魔王」とまで呼ばれることになる男なのだが、美濃の豪族たちの降伏を許してことごとくそれを吸収したことでも解る通り、この頃はその戦略に殲滅主義をとっていたわけではない。第一、抵抗する者を根こそぎ殺してゆくというのでは、織田家の勢力拡大に時間が掛かりすぎてしまうであろう。


 信長は戦略を転換し、神戸氏を調略で降してしまおうとし、和睦の使者を送り、平和裏に織田家に属するよう勧めることにした。

 このとき信長が持ち出した和睦の条件が、信長の三男 三七丸(後の信孝。当時11歳)を神戸氏の養子にする、ということであった。

 神戸氏の当主 神戸友盛には、たまたま男子の子がなかった。信長はこのことを利用したわけだが、ようするに神戸家に息子を送り込み、これを乗っ取ってしまおうというのである。


 神戸友盛は、苦渋の決断を迫られた。信長の魂胆が神戸家の乗っ取りにあることは明白なのだが、抗戦してかなうはずもない上、援軍のあてもないとなれば、どうしようもない。もしこの要求を突っぱねれば、桓武天皇から連綿と続く平氏の名門 神戸家の家名が絶えてしまうであろう。武士らしく戦って潔く散るというのも一案ではあるが、大いなるものには従うというのが武家という渡世の宿命であるし、由緒ある武門の当主にとって、家名と血を後世に存続させてゆくことこそが先祖から委託された最大の責務であることを考えれば、自分の代で家名を絶やすことだけはしたくない、という想いも強い。

 結局、友盛は信長の要求を呑み、山路弾正の奮戦もむなしく、神戸氏は信長に降った。


 さて、神戸氏は現在の地名で言う三重県鈴鹿市の中央部から海側一帯を押さえていたのだが、鈴鹿市の西側から亀山市にかけての山間部を押さえていたのが、関氏である。

 そもそも関氏は神戸氏とは同族で、その本家筋にあたる家柄なのだが、関氏に属していた豪族の多くが、神戸氏が信長に降ったのを見て行く末を諦め、織田家に随身を申し出てきた。信長はこれも許し、結局ほとんど無傷で鈴鹿市、亀山市の一帯を手に入れた。


(この手か・・・!)


 神戸氏の誘降の成功で、信長は味を占めた。

 典型的な新興大名である信長にはその気持ちが解らなかったのだが、名家意識の強い貴族たちというのは、武士としての意地や体面よりも、「家名を守り、それを存続してゆく」という部分に重きを置くものであるらしい。だとすれば、名族が多いこの伊勢を征服してゆくのに、これを利用しない手はないであろう。


 信長は、安濃津(津市)の工藤氏にもこの手を用い、安濃津城を包囲し、これを攻め、軍事的圧力を掛けつつ一方で和睦の交渉をし、弟の織田信包を養子として工藤家に送り込もうとした。

 工藤家ではこれによって家中が賛成派と反対派に分裂し、お家騒動にまで発展することになったが、工藤氏の当主であった工藤具藤は賛成派の家臣たちの陰謀によって家を追い出され、結局は信長の描いた絵の通りに事態は落着した。

 工藤家に迎えられた信包は工藤信包と名を変え、先に降した神戸友盛の妹を娶って両家の絆を深くし、信長の三男 神戸信孝と共に、伊勢の中部で強力な織田家の地盤を作ってゆくことになる。


 神戸氏、工藤氏が完全に織田家に組み込まれたことを受け、最後まで信長に降らなかった関氏の当主 関盛信もついに事態を諦め、信長に降伏して織田家に降った。


 信長はこうして、わずか3ヶ月ほどで伊勢の中部地方までもを完全に手中に収めることに成功したのである。

 鈴鹿山脈を越えての近江への往還路を確保した信長は、そのことでひとまず満足し、それ以上南進することなく、戦後の処置を済ませて兵を引いた。伊勢の南部は北畠氏というなかなかあなどれない守護大名が蟠踞する地域であり、下手に手を出して戦を長引かせてもつまらない。

 信長の目下の命題は、あくまでも「上洛」なのである。



 この第二次伊勢征伐における信長というのは、巨大な軍勢を示威に使い、殲滅主義を取らずに政略で事をし遂げるというあたり、戦略家・政略家として急激に成長している様がうかがえて、なかなかに面白い。





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