第13話 ある夜の酒宴――近江の情勢
「いやぁ〜、それにしても今年は、めでたいこと続きでしたなぁ」
盃に満たされた乳白色の液体を一息に飲み干し、小一郎は陽気に言った。
永禄10年(1567)も師走の暮れというある日、墨俣砦では主立つ者が広間に集められ、車座になってささやかな酒宴がひらかれていた。大将である藤吉朗が、今年1年の皆の働きをねぎらおうと企画したものである。
「いや、まったくじゃ。美濃、北伊勢と手に入れて、織田家のご領地は倍以上に膨れたのぉ」
藤吉朗が、顔を真っ赤にして応えた。この兄は酒に弱く、わずかに飲んだだけで顔が猿よりも赤くなる。
「なんとも目まぐるしい月日じゃったな。我らがこの墨俣砦を築いてから、もう1年と3月も経ったかよ」
そう言った蜂須賀小六は、ため息をつくような面持ちであった。
確かにこの1年は、多くのことがあり過ぎ、飛ぶように過ぎ去った印象がある。ことに独立土豪から織田家の臣となり、境遇が一変してしまった小六などには、その実感が強かったであろう。
「木曽川の無頼(ならず者)に過ぎなかった我らが、織田の禄取りになり、あの藤吉を“御大将”と戴いておる。可笑しなもんじゃな、蜂小」
前野将右衛門が、臼のような顎で干魚をバリバリと咀嚼しながら豪快に盃をあおった。
将右衛門は「川並衆」をまとめる小六の副将格で、藤吉朗と知り合ったのはその流浪時代――「蜂須賀屋敷」で居候をしていた頃――であったらしい。喧嘩の呼吸を心得た男で、勇気と胆略と男気があって下士からの人望も厚く、木下組の実戦部隊長として申し分ない人物であった。39歳という年齢の割りに引き締まった肉体と苦味走った渋い相貌を持っており、無頼を気取っているくせに和歌や漢詩を趣味にするような教養と風流心をも持ち合わせている。“蜂小”というのは蜂須賀小六を縮めたもので、そういう呼び方をするのは小六と義兄弟の契りを結んでいる将右衛門以外にない。
「あぁ・・・じゃが、お前は無頼同士の細い喧嘩より、数千、数万というでかい戦の方が血が騒ぐじゃろ。そう思えば、宮仕えもそう悪いものではあるまい」
小六が笑うと、
「違いねぇ」
将右衛門はまた盃を干した。
小一郎が見るところ、藤吉朗はこの小六と将右衛門の二人をよほど信頼しているようで、常に相応の敬意を払い、おろそかにするということがない。内輪の話――たとえば寄騎衆をはぶいた幕僚会議といったような場にも、小一郎と半兵衛、一門衆らと共に、この二人は必ず顔を揃えている。
「おめでたいと言えば――」
二人のやりとりを微笑をもって眺めていた半兵衛が口を開いた。
「先日またご婚儀がありましたな。湖北の浅井長政殿の元に、岐阜さま(信長)の妹御がお嫁ぎになられた由、祝着でございました」
「おぉ、その通りじゃ。小一郎、嫁がれたお市さまを見たことがあるか? ないじゃろ?」
藤吉朗はなぜか自慢げに言った。
「わしは信長さまの草履を取っておったころ、廊下をお渡りになる市姫さまを何度か垣間見たことがあるが、あのお方のお美しさというのは、もう天女か神女かというほどのもので、この世のものとも思えんほどじゃったわ」
袖をまくって細い腕を突き出し、
「見よ、見よ、あのお姿を思い出しただけで鳥肌が立っとる」
などと言って皆を笑わせた。
信長の血筋というのは美人の家系だったようで、信長自身の美丈夫ぶりも若い頃から評判であったのだが、たとえば信長の弟 喜六郎 秀孝などは、絶世の美男子と隣国までその名が知られていた。『信長公記』の記述を借りると、
「肌は白粉を振ったように白く透り、唇は朱を塗ったよう赤く、その姿、立ち居振る舞いは優しく典雅で、顔かたちの麗しいことは衆に優れ、美しいともなんとも喩えようのないほど」
であったという。この喜六郎は15歳のときに事故で命を落としたのだが、そのときの織田家の女官たちの悲嘆は大変なものだった。
男でさえそれほどに美しいのだから、妹のお市の美貌というのは、もう想像を絶している。「傾国の美女」とか、「容色、並ぶ者なし」とかいった表現は、彼女のためにある言葉であろう。
信長は、つい先日、琵琶湖北東の実力者 浅井長政にこのお市を嫁がせ、義理の弟とすることでこれを味方に引き込むことに成功していた。半兵衛が言ったのは、そのことである。
信長がこの長政に目を付けたのは、まだ美濃に侵入を繰り返していた頃だったというから、時期としては永禄4年(1561)ごろのことであったと思われる。美濃攻めをする信長とすれば、美濃の西隣の浅井家と婚姻関係を結び、同盟することで南と西から美濃を圧迫したかったのであろう。しかしながら、この時は織田家の力がまだまだ過小に評価されていたから、長政自身の意向がどうであったかは解らないが、浅井家の家臣団から反対の声が高く、婚姻は実現しなかった。
それから6年が過ぎ、信長は今や旭日の勢いを示している。
稲葉山城を陥落させ、美濃を平定した直後、信長は、再び浅井家に同盟を打診した。
浅井氏は、南近江の六角氏と仲が悪く、これと連年にわたって戦い続けている。この状況で東隣の美濃から攻め込まれてはたまらないから、信長が美濃を手に入れた以上、同盟に反対する者は誰もいなかった。婚儀の話は異例の速さで進み、永禄10年(1567)の冬――正親町天皇から綸旨を受け取ったのと同時期であったと筆者は考えている――には盛大な祝言が行われた。
「去年から今年にかけて、婚礼だけでも三河の徳川家、甲斐の武田家、それに此度の浅井家ですか。まったく岐阜さまという方は、やるとなると徹底しておりますな」
目元を少しばかり酔いに染めた半兵衛は、皮肉というよりも心から賞賛している口ぶりであった。
信長は今回の浅井家との婚姻の前に、三河の徳川家には長男 松平信康の妻として娘の五徳姫を、甲斐と信濃を押さえる東の強豪 武田家には武田勝頼の側室として養女をそれぞれ縁付け、同盟の絆を深くしている。大名同士の婚姻などは一朝一夕で成立するものではないから、これらの信長の政略は、美濃攻略戦の最中から着々と進めてられていたものだということは言うまでもない。
ようするに信長は、一方で美濃侵攻を続けながら、一方ではなりふり構わず四方の情勢を整えていたわけである。
もしその理由を尋ねることができたとすれば、あの癇の強い男は「そんなことも解らんのか!」と1発怒鳴っておいてから、即答したであろう。
「京に旗を立てるために決まっておろうが!」と。
信長は、明確に「上洛」という目的を持った上ですべての行動を計画し、それを1つ1つ着実に実行に移していた。多方面作戦をせず、織田家の兵力を常に一点に集中できるように、伊勢以外の近接勢力をみな味方にしてしまっているのである。伊勢を平定し終えたなら、同盟した浅井氏と共に南近江に蟠踞する六角氏を攻め滅ぼし、一気に京まで歩を進めるつもりなのだろう。
しかし、信長は自分の胸中を他人に語ることが極端に少ない男であったから、その意図を正確に見抜けるほどに近隣の情勢に精通した者というのは、数えるほどしかいないというのが現実だった。
織田家の他の多くの人間たちと同じように、たとえば小一郎は、「武田の騎馬軍団というのは鬼のように強いらしい」と聞いたことがあっても甲斐という国がどこにあるかは知らなかったし、北近江の浅井氏がどれほどの存在で、誰と敵対し、なぜ織田家と同盟したかということなども、考えてみたことさえなかった。蜂須賀小六などは、木曽川筋の地侍として信濃のことについては多少聞き知ってはいたが、美濃より西の諸国の事情となるとほとんど知識を持ってはいなかった。
この程度の世界知識しか持たないことがごく一般的であったというあたりが、江戸期以降の社会と中世的な戦国社会との大きすぎる違いと言うべきであろう。
一般的に言って、織田家に仕える者たちというのは、あの「桶狭間」で奇跡のような戦勝を挙げて以来、信長の天才性の信者のようになっており、織田家がどんどんと大きくなり、いずれは天下を取るのだということを、何の根拠もないままに赤子のようなあどけなさで信じていた。無論、これは信長自身がそのように仕向けていったということが大きいのだが、彼らは信長に従っておりさえすれば間違いがないはずだと実に無邪気に思い込んでいて、能力主義で抜擢されたはずの織田家の重臣たちでさえ、たとえば戦闘指揮官として、あるいは事務官僚としては確かに優秀な者が多かったものの、織田家の進むべき道といったことに関しては、実際的にも精神的にも大将である信長に頼りきっていたのである。
少しばかり余談をすると・・・。
信長の天才を信じて疑わないということは、中央集権――絶対王政の臭いが強い織田家の士風を語る上で重要な要素になっている。しかし、皮肉なことに、このことが織田家の武将たちの政略的な思考能力の成長を阻害しているという側面も否めなかった。彼らは信長の意思に忠実であらんとするあまり、自らが置かれた位置を俯瞰するようにして思考するという経験を持たないか、持っても極めてそれが少なかった。織田家の譜代家臣というのは「一族の生き残り」というものを中心に据えてものを考える地方の豪族たちのような思考を持たず、運命を織田家に委ねきって生きていたのである。だからこそ、彼らにとっての絶対君主である信長が本能寺において突然に横死したとき、信長の息子らを含めた織田家の武将たちはどうして良いのかまったく解らないという思考停止のような状態になり、その狼狽ぶりは醜態以外の何物でもなかった。
これはまだまだ先の話だが、彼らに思考を上位の者に依存してしまうというその体質があったからこそ、羽柴秀吉となった藤吉朗が織田家を横さらいにさらい取って天下を取ることができたのだ、とも言えるかもしれない。
こういった織田家の武将たちに比べ、藤吉朗と半兵衛という2人は、鮮やかなまでにその思考のレベルと世界観が違っている。
藤吉朗は、織田家に仕える以前、諸国を放浪していた時期があるというのはこれまでも何度か触れてきた。藤吉朗は尾張、美濃、三河、遠江、駿河などの国々を自らの足で歩き回った経験を持っており、そのとき、駿河(静岡県東部)の今川家の武将の下に小者として仕え、そこで数年を過ごしてさえいる。今川家の家風や内情、当時はまだその属国であった三河の国振りや徳川家の事情には当然通じているし、駿河から眺める富士の裏側に甲斐という国があることも、奥三河から東美濃にかけて国境を接する信濃(長野県)というのがいかに広大な国であるかということも実感を持って知っていたのである。加えるなら、藤吉朗は自らの出世のために誰よりも熱心に諸国の情報を集めていたから、武田信玄という男と最強と呼ばれる武田の騎馬軍団がどれほど恐るべき存在であるかということも解っていたし、その信玄の泣き所が越後に蟠踞する関東管領 上杉輝虎であるという知識も持っていた。また、京までの道のりに浅井、六角、三好などという大名どもが行く手を遮っており、しかもそれらはお互いに仲が悪いということまでちゃんと耳に入っている。
一方、半兵衛はと言えば、古今の軍記物語に精通することで九州や四国の南部、東北や蝦夷地をのぞいた日本のおおまかな地図を頭の中で描けるほどに思考の訓練ができており、各国の守護や有力な地頭などはみな諳んじるほどに伝統的な武家に対する知識が豊富な男であった。また、半兵衛が住み暮らした西美濃というのは近江と隣接する地域であり、同じ国内の東美濃と比べても他国の近江の方が距離的にははるかに近く、そこで行われた戦乱の歴史や浅井氏や六角氏のお家事情についても詳しかった。浪人していた2年ほどは近江で住み暮らしてさえおり、その間、浅井家から仕官の誘いも頻繁にあり、懇意にしている浅井家の武将の元には何度も足を運んでいる。さらに加えるなら、北陸街道を往来する行商人などから北陸の覇王 朝倉氏のことなども多くを聞き知っていた。
繰り返すようだが、この時代というのは、まだ日本地図などというものはなく、日本六十余州はそこに住む在地勢力によって分割支配され、街道は数里も歩けば関所にぶち当たって銭を搾り取られるから通行もままならず、山々には野武士や野盗が砦を構えて待ち伏せている、というような状況であった。そこで暮らす武士や農民たちは他国まで出向くというようなことがまったく稀であり、わずかに行商人や遊行民たちが移動をすることをのぞけば、人の移動というのは極端に少なく、情報の伝播も同様に少なかったのである。全国的な規模で情報網を持っていたのは、大名たちよりもむしろ独自の組織力を持った本願寺などの宗教勢力くらいであったろう。
その意味でも、信長という稀有の天才をのぞけば、藤吉朗と半兵衛の政略的な思考能力とそれを支える世界知識というのは、この時期の織田家の武将たちの中では明らかに図抜けていた。わずかにこれに伍する者を挙げるとすれば、もともと甲賀郷士から浪人し、信長に拾われて織田家に仕えたという藤吉朗に似た履歴をもつ滝川一益くらいしか筆者には思い当たらない。
いずれにせよ、この時期の小一郎の政略的な思考力は、他の多くの者たちと同様に、まだまだ幼児のようだったということである。今の小一郎は、兄にとって少しでも優秀な手足となり、その出世を援けるということだけを目標とする忠実な事務処理者であり、頭を使うという部分は藤吉朗に任せきっていたのである。
もっとも、藤吉朗自身は小一郎に政略的な思考能力などは要求しておらず、その実務能力と人間関係の調整能力を誰よりも評価していたから、自分の仕事を補佐するという点において、今のところその働きには十分満足していた。しかし、小一郎の教育を任されている半兵衛などは、思考を藤吉朗に任せきっていることを多少歯がゆくも思っていたらしい。だからこそ小一郎や藤吉朗の腹心たちにもっと広い視野を持たせようと努力しており、折りに触れてそれとなく情報を与え、思考の訓練をさせようとする。
「私は一時近江で住み暮らしておりましてな。浅井家の士とも、そのとき何人か面晤(逢って話をすること)したのですが・・・」
などと言い始めたのも、その一環だったろう。
近江国(滋賀県)について、半兵衛が小一郎らに語った程度のことを、読者にも知っておいてもらいたい。
近江国の北半分はもともと京極氏の領地であったのだが、現在これを支配している浅井氏というのは、元をただせばこの京極氏の被官(家来)に過ぎなかった。
応仁の御世にこの国で起こった未曾有の大乱から100年――諸国の人心は乱れきり、世間は下克上の気運で満ちている。近江国もご多分に漏れず、京極家が2つに割れて内紛を起こしたのだが、浅井亮政という男がその内乱のどさくさに乗じて台頭した。北近江の小領主たちを掌握し、京極氏から実質的な支配権を奪い取って独立したのである。この物語における現代――永禄10年(1567)から数えて40年ほどの昔の話であり、そのときから大名としての浅井氏の歴史が始まっている。
尾張守護であった斯波氏の家老の家来という低い地位から、実力を培って大名になった信長の父 信秀にも似た典型的な戦国大名と言っていい。
ところで、近江の南半国は、六角氏という守護大名が治めている。
六角氏というのは本姓を佐々木氏と言い、宇多天皇から流れを発する宇多源氏の嫡流という名誉の家柄で、源平の合戦では流浪の源頼朝に最初から協力し、平氏討伐に大いなる貢献をし、鎌倉幕府から莫大な領地を賜り、一時は日本有数の大勢力を誇った。その後、次第に衰微はしたものの、室町期を通じて近江の支配権を維持し続けてこの戦乱の時代に至っている。そもそも近江一国は佐々木氏に与えられた領地であり、近江北半国を治めた京極氏というのも六角氏の分家なのである。
京極氏は六角氏の分かれであり、同族――つまり身内であるから、その京極家を守護の座から蹴落として自ら独立を果たした浅井亮政という男は、六角氏にとっては憎んでも憎みきれない仇ということになる。まして六角氏のように古くから続く権威によって領国を支配することの正当性としている大名にとっては、下克上で成り上がった新興大名などは存在そのものが「悪」であり、その「悪」の親玉である亮政を野放しにしておけば自国の支配体制にまで悪影響が出かねない。六角氏は浅井氏を滅ぼすためにたびたび北近江に兵を出し、合戦では亮政を何度も破った。
しかし、この浅井亮政というのがカリスマ性を備えたなかなかの策士だったようで、湖北の国人たちをよく手なずけ、北陸の大勢力 朝倉氏と友誼を結んでその庇護を受け、また本願寺勢力や比叡山の僧兵などを利用しながら六角氏と対抗し、浅井氏の勢力を維持し続けた。
浅井長政というのは、この亮政の孫にあたる人物である。
その勇気と武略は、祖父の亮政に優ると言われている。父 久政の代で六角氏の武威に圧倒され、ほとんど属国のようになってしまった浅井家を強力なリーダーシップで建て直し、永禄3年(1560)――信長が桶狭間で今川義元を破った年である――には野良田(滋賀県蒲生郡)で1万2千の兵力でもって六角義賢(承禎)率いる2万5千の軍勢を破り、「湖北に浅井長政あり」と近隣に名を轟かせるほどになった。
長政は今年22歳になる若者で、勇気と覇気と共に節度と信義をも持った好青年であったらしい。家臣からの信望と人気は絶大で、父であった久政などは長政を押す家臣たちによって無理やり隠居させられ、浅井家当主から引きずりおろされたほどなのである。
1万2千もの家臣団が溌剌とした長政の下に強固な団結を見せ、背後に北陸の大国 朝倉氏を味方として背負う浅井氏が蟠踞する北近江というのは、暗愚で惰弱な男が国主であった美濃や、弱小勢力が独立割拠している伊勢などとはまったく政情が違うということが、そろそろ読者にもお解りになっていただけるであろう。
信長が浅井長政と敵対しようとしなかった理由は、つまり、敵に回せば厄介だと判断した、ということに尽きる。浅井家には三河の徳川家のような有力で優良な同盟国になってもらい、織田家の覇業の尖兵とすることこそが、形としてはもっとも望ましかったのである。だからこそ、信長は自分の実の妹を長政に嫁がせ、自分の義弟という破格の待遇を与えることまでしてこれを味方に引き込んだ。
「岐阜さまのお心づもりというのは、このことでも明白です」
と、半兵衛は断定した。
「来年早々には、大規模な伊勢討ち入りが行われるでしょう。伊勢を押さえれば、鈴鹿峠を越えての京への往還路が確保できる。それができれば、岐阜さまはいよいよ京を目指されることになると思います」
「鈴鹿峠・・・ですか?」
鈴鹿峠というのは、近江の南端から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける獣道のように細い古街道である。そんなものと上洛との間にどんな関係があるのか解らないから、小一郎は思わず首を捻った。
「もし、織田勢が大挙上洛したとして、兵を京に置いた状態で浅井家が同盟を破棄し、敵に回るようなことがあれば、近江路をふさがれた我らは糧道(補給線)を断たれた上に岐阜に帰ることもできず、京で立ち往生をするハメになります。古来、京を守って戦って戦に勝ったという例はありませんから、それだけは何としても避けねばなりません。あらかじめ伊勢を押さえ、鈴鹿峠からの往還を確保してさえおけば、最悪の事態に立ち至ることだけは防げる、ということです」
「浅井は我らを裏切る、と・・・半兵衛殿はお考えか?」
小六が怪訝そうに訊いた。
「いえいえ、そうは思ってはおりませぬ。が、何が起こっても困らぬよう、あらゆることを考えて手を打っておくのが武略というものです。岐阜さまは殊のほか慎重なお方ですから、そういうことを怠るとは思えません」
もともと半兵衛は物静かな男で、必要がなければ半日でも口をきかないようなところがあるのだが、ひとたび口を開けばその弁舌は立て板の上をすべり落ちる水のようによどみがなく、その言辞は極めて流麗かつ論理的であった。どちらかと言えば感覚的な直感で物事を理解する藤吉朗などは、弁舌では半兵衛にはもとても及ばない。
「徳川家、武田家との誼を深くしたのも、これから西へと兵を向ける際の後顧の憂いをなくすためです。浅井家と手を握ったは、近江路を使うためと、なにより南近江の六角家と戦うため。ここまで来れば、岐阜さまのお心が那辺にあるか、皆さまにもすでにお解りでしょう」
そこで我らがせねばならぬことは――と、半兵衛は続けた。
「まず、伊勢討ち入りに万端の準備を整える。これはもちろんですが、今のうちに南近江に人を入れ、道や川、地理地勢、砦や城の位置などを調べ、国人(小領主)たちがどれほど六角家に従順であるか、当主の六角義賢殿との仲はどうなのか、またそれぞれの国人たちの兵力がいかほどで、六角勢がどれほどの兵を集めることができ、野戦ならばどこで決戦となるか、篭城ならば難攻不落と名高い観音寺城に篭るでしょうから、観音寺城を攻める攻め口や、敵が伏兵を埋めることができるような場所をあらかじめ調べておかれるべきでありましょう。また、六角氏に援軍しようとする勢力があるのかないのか、これも京や大和(奈良県)、摂津や河内(共に大阪府)などに人をやって、三好三人衆や松永弾正らの動きを見極めておかねばなりますまい」
藤吉朗はもっともらしく腕を組みながら、小一郎や蜂須賀小六、前野将右衛門らはほとんど呆然としながら、半兵衛の巧みすぎる弁舌を聞いていた。半兵衛が紡ぎだした言葉によって、これから織田家が進んでゆくであろう道筋と、自分たちが果たさねばならない役割がありありと浮き彫りにされ、小一郎などはそれだけで視界を覆っていた霧が晴れたような心地良さと爽快さを感じてしまっている。
「私の聞いたところでは、六角家では先年、義賢殿の嫡子である義治殿が、重臣 後藤賢豊殿を謀殺するという事件があったそうで、それ以来、家中の人心は離れ、とても往年の六角家の武威は見られぬという話です。それと、南近江の有力国人といえば、日野の蒲生定秀殿、犬上の山崎片家殿、甲賀の三雲成持殿、和田惟政殿などの名が高いでしょうか。無論、このあたりのことはもっと調べてみねばなりませんが・・・」
「さすがは半兵衛殿じゃな。もうわしが言わねばならんことは残っておらんわ」
藤吉朗は膝を叩いて笑った。
「小六殿、また人を貸していただきますぞ。川並衆の心利いた者を行商人などに扮させ、さっそく南近江へ潜り込ませましょう。小一郎、われは明日から伊勢攻めの支度じゃ。兵糧と矢弾を山と買い揃え、足軽どもの調練も抜かりのう頼むぞ」
いや、今宵は良い話を聞いた、さすが半兵衛殿じゃ、我らが軍師は頼りになるわ、と、藤吉朗ははしゃぐように言いながら皆にさらに酒を振舞った。
半兵衛の声を聞きながら盃を重ねていた一座は、すでに快く酔い始めている。
小一郎は、自分が酒に酔っているのか半兵衛の弁舌に酔っているのか、それすらよく解らなくなっていた。
半兵衛の信長の動きに対する予見というのは驚くほどの正確さをもって1つ1つ実現されてゆき、この夜の示唆がいかに適切なものであったかがこれから実証されてゆくことになる。驚愕と戦慄をもってそれらを目の当たりにする小一郎や木下組の人々が、この稀代の軍略家が吐く言葉に絶大な信頼を寄せるようになるのは、むしろ当然であったろう。