第11話 新府「岐阜」と“天下布武”
文字通り電撃的だった伊勢への侵攻が終わり、小牧へ帰った信長が最初に行ったことは、小牧山に建設中の新首都と新城を捨て、稲葉山城に本拠を移したことであった。
信長は、美濃を手に入れた以上、尾張に織田軍の主力を置いておくつもりはなかった。というのも、織田家は隣国 三河の徳川家とすでに同盟していたし、甲斐と信濃を押さえる東の強豪 武田家とも良好な関係を保っていたから、地理的に見て隣接する敵が少ない尾張は安全であり、巨大な軍事力を留めておいてもあまり意味がなかったのである。それに比べると美濃は、伊勢街道、北国街道(北陸道)、東山道が集まる日本の中心であり、伊勢に行くにも北陸に行くにも利便な上、京からも近い。西に向かって勢力を伸張してゆきたい信長にしてみれば、美濃に策源地を移すのは当然の着想と言うべきであった。信長は若い頃から明確に天下制覇を意識していた男であり、京に織田家の旗を立てることに異常なまでの情熱を燃やしていたから、京に近付くこの本拠の移転には躊躇さえなかった。
あの斉藤道三が縄張りし、天下の堅城とまで謳われた稲葉山城は、信長の居城に相応しい雄大さと防御力と景観とを備えている。先日の戦のために外郭こそ焼けたり破損したりしているが、本丸部分はほとんど無傷であり、今すぐにでも引き移って使用することができた。
信長は、稲葉山城の改修工事を丹羽長秀らの重臣に指示し、焼き払った井ノ口の里を縄張りし直すと、小牧に住む家臣には住居の移築を、新たに織田家に加わった美濃侍たちには屋敷を構えるようそれぞれ命じ、同時にこの織田家の新首都に新しい名を与えることを思いついた。
このとき信長は、先代 信秀の代から織田家に縁が深かった禅僧 沢彦宗恩に地名の選定を頼んだ。信長の求めに応じた宗恩は、織田家の新首府としてふさわしかるべき3つの候補案を提示し、その中から信長によって選び出されたのが、美濃の現在の県名にさえなっている「岐阜」という名称であった。
「岐阜じゃ、岐阜!」
小牧の評定から戻った藤吉朗は、墨俣砦の諸将を前に誇らしげに言った。
「なんとも素晴らしい響きであろうが。これが、織田家の新府の名じゃ。稲葉山城のことも、これからは岐阜城と呼び慣わすようにせにゃならんぞ」
美濃が完全に平定されたこともあり、美濃攻めの最前線基地であった墨俣砦はすでにその役割を終えている。しかし信長は、あえて墨俣に木下組の軍勢をそのままで留めておくよう藤吉朗に命じていた。墨俣は岐阜の南西にあり、西へ向かうにも伊勢へ向かうにも便利な土地であったから、ここに軍勢を配置することによって西美濃を安定させると同時に、伊勢攻略を続けている滝川一益をいつでもサポートできるように配慮したのであろう。
「信長さまは、焼いた井ノ口を町割りし直して、清洲や小牧に劣らぬ殷賑の城下町を作られるおつもりじゃ」
信長は岐阜の城下町に有名な「楽市楽座」を敷き、中世以来の「座」の特権を廃止して誰でも自由に物品を売買する権利を認めた。このため城下は風を慕うように集まった全国の商人たちで溢れ返り、新都建設の好景気とも相まって岐阜の経済は空前の活況を呈することになる。
「この場におる者はみな武家町に屋敷地を賜ることになるで、できるだけ早う小牧の住居を移築するよう手配りせいよ」
信長という大将は自分の命令が迅速に遂行されないことを極度に嫌うから、いやらしいほど物事に気の付く藤吉朗がこの手の気配りを怠ることはない。
「いつものことじゃが、また唐突な話じゃのぉ」
小一郎が苦笑して言った。
「唐突ついでにな、小一郎、木下組の足軽長屋の差配は任せたぞ。銭は惜しまんと、他の組に遅れぬよう急いで頼む。それと、わしらの屋敷じゃが、寧々一人では心もとないで、そっちの面倒も万事見たってくれ」
「・・・わかった。雑用はわしに任しといてもらおう」
毎度のことである。今さら非難する気にもなれない小一郎であった。
「ところで兄者よ、『ギフ』っちゅうのは響きがいかにも聞き慣れんのぉ。漢語やっちゅうのは解るが、どういう意味なんじゃ?」
「よう聞いてくれた」
満座を見回して、藤吉朗は得意満面で答えた。
「唐土の古い話じゃが、唐土を統一して『周』っちゅう国を興した文王ちゅう覇者がおってな。そいつが挙兵をしたのが、なんでも『岐山』っちゅうとこやったらしいわ。『岐阜』の『阜』の字は『山』っちゅう意味でな。信長さまはこの故事をお聴きなさり、天下を統べる吉名じゃと言うてこの名をお決めになったちゅう話じゃ」
無学な藤吉朗が字義などに明るいはずはないから、おおかた信長の近くに仕える茶坊主たちから聞き込んできたのだろう。
「なんにせよ『岐阜』は、織田家が天下を取るっちゅう信長さまの決意のほどを表す名じゃっちゅうことよ。天下じゃぞ天下!」
鼻息も荒く藤吉朗が叫ぶように言った。その興奮は、小一郎を含めその場にいるすべての者たちに自然と伝播した。
「信長さまが天下をお取りになり、日の本六十余州がことごとく織田家のものになりゃぁ、わしらにしてもどれほど出世できるか知れんぞ。今は足軽に過ぎん者でもやがては馬に乗れる身分になり、大身の侍ならば城がもてるようになり、重臣ほどの者はみな国持ち大名になれるっちゅうこっちゃ!」
織田家がやがて天下を取る――
信長は、どうやら意識的にこのような思想を家中に浸透させようとしていたらしい。その証拠に、岐阜改名と時期を同じくして織田家の公文書に「天下布武」の印を用い始めている。
天下ニ武ヲ布ク――
つまり、織田家が武力で天下を統一するという意味である。天下取りは戦国の群雄諸侯があまねく欲する究極の夢であったろうが、それを世間に向かって高らかに宣言したのは、信長をして嚆矢としなければならない。
この目も眩むばかりに輝かしい未来は、上下貴賎の別なく織田家に属する者たちをこれ以上なく興奮させ、それがそのまま信長への強烈な求心力となって作用した。
(やがて信長さまが天下を取れば、自分もどれほどの大身になれるか・・・!)
現在がどれほど薄給であろうと、どれほど過酷な労働を強いられようと、未来に希望さえあれば人間は耐えて待つことができる。織田家の多くの武将たちが苛烈過ぎる信長に犬のように忠実に従ったのは――織田家の将兵がどれほど戦が続いても忍従を続けることができたのは――猛烈な上昇気流に乗って急成長を続ける織田家の濁流のような勢いに呑み込まれるようにして流されていたからであり、信長が植えつけたこの「希望」が彼らの心に深く根付いていたからであったろう。
「織田家で励めば、励んだだけ夢がいくらでも膨れてゆくっちゅうこっちゃ!」
だから、皆もますます忠勤に励んでどんどん手柄を樹てろ、と藤吉朗は話を括った。
木下組の諸将は一様に目を輝かせ、興奮で頬を紅潮させていたが、ただ一人、藤吉朗の隣に座る半兵衛だけが水のような平静を保っていたのを小一郎は見逃さなかった。
評定が跳ねるや、小一郎は半兵衛の部屋を訪ねた。
半兵衛は、墨俣砦の本丸館でもっとも大きな住居スペースを与えられている。半兵衛が墨俣に入ってくれたとき、藤吉朗が本丸館に半兵衛が寝起きするための家屋をわざわざ増築させたからである。藤吉朗にすれば半兵衛に対する好意を示すためにやらせたことであったろうが、半兵衛の方はというと、むしろ迷惑そうに苦笑していたことを小一郎は知っている。あの痩せた軍略家は、目立つことや大仰なことが本来嫌いな性質であるらしい。
「・・・あぁ、小一郎殿」
取次ぎの小姓に続いて小一郎が部屋に案内されたとき、半兵衛は明り取りの窓に向かって書見をしているところであった。振り返って小一郎に微笑を向けると、テキパキと書見台を片付け、威儀を正して端座した。
「何か御用ですか?」
「先ほど兄者が言うておった話ですが、半兵衛殿も、当然岐阜の城下に屋敷を構えねばなりませぬでしょう?」
「そうですねぇ・・・形の上で私は上総介(信長)さまの直臣ということになっていますから、構えぬわけにはいかないでしょうね」
「わしでお役に立てることがありましたら、何なりと言うてくだされ」
と、小一郎がわざわざ気を回したのには理由がある。
半兵衛は、確かに信長と対面を済ませ、その意味では形式的には織田家の臣ということになっているのだが、まだ織田家からは一寸の土地も受け取っていない上、竹中家の家督を弟に譲って浪人という境涯になってしまっているため、現在のところ経済的な基盤がまったくないのである。
これは無論、信長との対面の直後に稲葉山城攻めがあり、それが終わるとそのまま伊勢侵攻へと雪崩れ込んでしまったからこそ起こった現象で、致し方ない面もあるのだが、織田家の行政官たちとしても新たに版図に加わった美濃や伊勢を隅々まで検地して回らねばならず、本領を安堵された者たちの領地を調べて取れ高を算定し直したり隠し田を探したりせねばならず、美濃攻めや伊勢攻めの行賞を加味した領地の再配分をせねばならずで文字通りの手一杯であり、とても半兵衛のことにまで時間を費やしていられなかったのだろう。結果として、半兵衛の身分というのは、肩書きこそ「木下組の軍監」ということになっているのだが、実質的には浪人当時とまったく変わっていなかったのである。小一郎が半兵衛の身のまわりを気遣うのも、好意と親切心はもちろん持ち合わせているのだが、半ばは仕事ということになる。
「お心遣い、かたじけない。私には銭も領地もありませんし、もちろん家来もおりませんから、ここにご厄介になっておれば十分で、わざわざ屋敷などを構える必要があるとも思えぬのですが、些細なことにも気が回る上総介さまのご気性を考えると、そう勝手を言うておっては木下殿のご迷惑にならぬとも限りませぬし、実は困っておったのですよ・・・」
「事情は聞いておりますで、銭のご心配には及びませぬ。万事わしの方でやらせてもらいますで・・・」
事務処理者としての小一郎から言わせてもらえば、どの程度の分限の屋敷を建てれば良いのかということの確認さえ取れれば――つまり半兵衛に約束されている禄高さえ教えてもらえれば――十分に動くことができる。
ところが、
「私は、当分は禄は受けぬつもりでおるのですよ。そうなると家来も持てませぬから、広壮な屋敷などは本当に不要なのです。妻と子と、老僕の1人も暮らせれば、それで十分ですので・・・」
と半兵衛が言ったから、小一郎は耳を疑った。
「・・・・は? しかし、半兵衛殿は、信長さまから千石を越える禄をもって迎えられたと・・・」
「お話は確かにありましたが、それを断り続けておったのは、小一郎殿もお聞き及びでしょう。私は、『木下殿の家来にならなっても良い』という条件で、この墨俣に参ったのですよ」
半兵衛は悪戯っぽく笑った。
「もっとも、この条件は木下殿も大層お困りの様子でありましたな」
こんな話は初耳であったから、小一郎は慌てた。昔から比べれば多少増えたとはいえ、わずか400貫(約2000石)に過ぎない藤吉朗の今の分限では、半兵衛ほどの大物を家来にするような封土がない。
「私はもともと上総介さまに仕える気はありませんでしたから、それで話が壊れても良い、という気持ちもあって、まぁ、言ってみた、というわけだったのですけれど・・・」
「・・・・その言葉を兄者が本気にしたと・・・」
信長が家来に欲しがっていた半兵衛を口説きに行って、信長から横取りしてしまったようなものである。信長の許可さえ取らずに独断でこんなことを決めてしまうなどは小一郎には信じられないような話であった。
しかし、藤吉朗の立場で考えてみれば、それがいかに半兵衛の希望であるとはいえ、
「半兵衛殿は信長さまに仕える気はないようですが、わしの家来にならなっても良いと言うてくれておりまする」
などと信長に正直に言うわけにもいかなかったであろう。そんなことをすれば信長が半兵衛に対して恨みを含むかもしれず、藤吉朗に対しては持っていた好意と信頼を捨ててしまうかもしれず、いずれにしても烈火のごとく激怒するであろうことは想像に難くない。
(だからこそ兄者は、信長さまに対してあのような小細工を弄したのか・・・)
藤吉朗が西美濃衆の調略を手土産に半兵衛をくれと信長に直訴したという話は、すでに織田家中では知れわたっている。小一郎はようやく合点したが、それにしてもなんと危うい話であろう。いかにお調子者の藤吉朗でも、薄氷を踏む思いであったに違いない。
「木下殿は、上総介さまのお怒りを買うと覚悟の上で、私を迎えようとしてくだされたのですよ」
半兵衛は静かに言った。
「非才にして若輩のこの私を、そこまで望んでいただけるというのであれば、腰を上げぬわけにはいきません。これで私も、武士の端くれですからね」
おそらくこれが、半兵衛が墨俣に来た本当の理由なのだ。
「すると・・・しかし・・・」
小一郎は狼狽した。
半兵衛は織田家の臣になるのではなく、木下家の臣になろうと言うのか――
「兄者には、とても半兵衛殿ほどの方を扶持できるような領地がありゃせんですよ・・・」
「ですから、当分は領地を持つ気はないと、こう申し上げているのです」
半兵衛は微笑した。
「上総介さまには、すでに弟の仕官をお許しいただき、竹中家の本領を安堵していただいておりますので、それで十分と申し上げるつもりです。それ以上のことを望む気は、私にはありません」
小一郎は、ほとんど呆然としていた。無欲な男と知ってはいたが、ここまでとは思ってもみなかったのである。
「・・・しかし、無禄というわけにもいきませぬよ」
竹中半兵衛ほどの人物を禄も与えずに飼い殺すというのはいくらなんでも常識から外れすぎているし、好意に甘えすぎているであろう。まして、それと知った家中の者たちからどんな非難と羨望と嫉みの声が上がるか知れたものではない。
「本当のことを言いますとね・・・・」
小一郎の困惑顔を眺めていた半兵衛は、開け放たれた障子の外に視線を泳がせた。
「少しばかり・・・煩わしいのですよ。領地を持てば家来を抱えねばなりませぬし、家来を抱えればそれを食わせてゆかねばなりません。私は武士の家に生まれましたからそれを当たり前と思うて生きてきましたが、一度禄を離れて気楽な境涯を知ってしまうと、そういうことが少々億劫になる・・・」
しがらみ、というものであろう。侍として「家」を持てば、それに伴って重い鎖が何重にも絡みついてくるし、禄が増えれば増えるほど――家を大きくすればするほど――そこに運命を預ける人間の数が数十から数百――あえるいは数千と雪だるま式に増えてゆくことにもなる。そういう人間たちの命を預かり、無為に殺すことなく、日々飢えさせることなく、子々孫々にわたって栄えさせてゆく責任を持つのが武士という家業であり、竹中家という美濃の名門村落貴族の子として生まれ、竹中一族の棟梁として育てられた半兵衛にとっては、それは当たり前のことであったに違いない。その「当たり前」の義務から解放されたとき、武家社会とはまったく違った世界があったのだということを半兵衛は知ったであろうし、それまで味わったことのない自由人のような開放感を感じてしまったのであろう。
もともと百姓であった小一郎には、半兵衛の気持ちがなんとなく理解できた。百姓であった頃ならばせいぜい父母の心配だけをしておれば良かったのに、木下家の家宰を預かる身となった今では、木下家に仕える者とその家族を食わせていかなければならないという責任が、小一郎の肩にずっしりとのしかかっているからである。
しかし――
「しかし、家来を持たねば、戦で働くことができなくなります」
戦場で働くことが本分であるからこそ、武家は家来を養わねばならないのである。
個人の武勇がいかにすぐれていたところで、1人では10人の足軽の相手をすることさえ難しい。功名とは人が樹てるものであり、隊の武功はその隊を率いる武将の武功となる以上、武将が戦場で良い働きをするには優秀な家来を一人でも多く抱えることが不可欠なのである。そういうことが解っているからこそ藤吉朗は、目の色を変えるようにして人材を捜し求めていて、たとえば戦で多少の活躍をした者がいると聞けば下士だろうと足軽だろうと手当たり次第に声を掛け、加増などをエサに織田家から木下家へ移ってくれるように口説いて回ったりしている。
つまり、領地を持たない――家来がいない――のでは、戦場で活躍することなどできようはずがないのである。まして半兵衛の妙味というのは戦の駆け引きの巧みさにあるわけで、指揮する手勢がいないのではどうにもならないではないか――
「ええ・・・おっしゃる通りですね」
言うまでもなく、そんなことは半兵衛も解っているであろう。
「小一郎殿は、『軍師』というものをご存知ですか?」
不意に、話が飛んだ。
「ぐんし・・・ですか?」
小一郎にはあまり馴染みのない単語であった。が、聞いたことがないわけではない。陣中にあって、易を立てたり方位を占ったり縁起をかついだりすることで合戦をサポートする人間のことで、坊主や神主、修験者などがする仕事であると小一郎は理解していた。もっとも、織田家の軍制において「軍師」などという正式な役職はないし、何より大将である信長自身がその手の霊だの縁起だのといった胡散臭いものを毛嫌いしているから、まったく陽の当たらない職種という印象しかない。
小一郎がそう言うと、
「そうですね。『軍師』という言葉は日の本ではそのような者に対して使われています。けれど、これはもともと唐土の言葉で、意味が違うのですよ」
と、半兵衛は返した。
「『軍師』とは本来、常に大将の傍らにあって百里の謀事を巡らせ、平時においては政事を補翼し、戦時においては武将たちを追い使って百万の軍勢を自在に進退させ、戦の勝敗を決する者のことを言います。たとえば戦場では、策を練り、陣を決め、敵の動きに応じて軍兵をどう働かせるかを考え、それを大将に献策することが軍師の役目、ということになりますか」
「ほぉ・・・・」
「唐土の軍師は、武将とは違って己一人の武勇を誇ることなどはなく、手勢でもって戦をするということもあまりありません。軍師の手勢とはその大将の持つすべての軍勢のことであり、軍師の力量とはその智謀の深さでのみ決するからです」
「それでは半兵衛殿は、我らの、その『軍師』になってくださると?」
「あぁ・・・いえいえ。そう大仰に考えてもらっては困ります」
半兵衛は笑った。
「手勢のない私はこの頭を使う以外に働きようがないものですから、『軍師』などと言えば多少は聞こえが良くなるかと思うただけなのですよ。当分は、ただの居候であることに違いはありません」
話の流れで出た「居候」という言葉が、我ながらに気に入ったらしい。半兵衛は少しばかり悦に入って、屋敷のことはすべて小一郎に一任するという意味のことを言った。小一郎は多少判断に困ったが、細々としたことは藤吉朗にでも相談することにし、了解の意を伝えて半兵衛の部屋を後にした。
その夜、小一郎がこの話を藤吉朗に伝えると、
「それじゃ!」
藤吉朗は激しく膝を打った。
「小一郎、その話、皆に命じて家中に言いふらせ。木下組の采配は、藤吉朗ではのうて竹中半兵衛が振っておると。木下組には、竹中半兵衛ちゅう比類ない『軍師』がおると。その話を聞きゃぁ、わしの采配に疑問を持っとる連中も木下組を侮れんようになり、正面切っては馬鹿にできんようになる。『軍師』なんちゅう言葉を知っておる者はほとんどおらんじゃろうから、こりゃえらい評判になるぞ」
美濃攻めで多少の活躍をしたとはいえ、藤吉朗の戦術能力や指揮能力に対する家中の評価はまだまだ辛かった。
「信長さまの草履を取っておったあの猿ごときの采配に従って戦ができるか」
などと露骨に言う下士もあるくらいで、それが藤吉朗が良い家来を抱えられぬネックの1つにさえなっていたのである。
しかし、半兵衛の武略と知略に関する評判というのは織田家でも美濃でも非常なものだったから、その半兵衛が木下組の采配を任されているという噂は、おおむね好評をもって迎えられた。
そしてこの噂は、小一郎が思いもかけぬような波及効果を生んだ。新参者の半兵衛が軍事の指揮権を握るほどに厚遇される木下組であれば、武勇の者なら必ず重く用いてもらえるに違いない、というような印象まで人々に与えたらしく、この頃から藤吉朗の寄騎(与力)に志願する者や家来になりたいと言ってくる者が徐々に増え始め、人材が少しずつ集まるようになっていったのである。
(半兵衛殿も兄者も、こうなることまで見通しておったのであろうか・・・)
と、後に小一郎は考えたりしたのだが、結論はいつも出ずじまいであった。
>野井宮さま
丁寧な感想と最高の評価点をいただきまして、非常に喜んでおります。
ありがとうございました。
応援の声に応えられるよう、努力と精進を続けて参ります。
これからもよろしくお願いします。