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王佐の才  作者: 堀井俊貴
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第103話 老桜閑話

 藤吉朗の京屋敷は、御所の南西――近衛大路このえおおじ西洞院大路にしのとういんおおじが交わるあたりにある。

 昨年の早春、信長が上京の二条に新邸を造ったことを受け、藤吉朗が新たに持つことにした装束屋敷である。元亀四年(天正元年)に信長が行った「上京焼き討ち」で半焼し、以来打ち捨てられていた公家邸を買い取り、簡単な改修と増築を施して住めるようにした。


 板壁で仕切られた敷地は広く、造りは簡素だが広壮な母屋と、渡り廊下で繋がった離れ、別棟の長屋、納屋、うまや、土蔵などが甍を並べている。母屋と長屋だけで二、三百人は寝泊りできるだろう。

 半兵衛がその病間に使用している離れは――藤吉朗は茶室のつもりで造ったらしい――書院作りの六畳間で、部屋の西側には床の間があり、部屋の中心の畳をあげればそこには囲炉裏も切られている。にじり口はなく、南側の障子の外は濡れえんになっている。

 この屋敷の際立った特徴になっているのが、離れがある敷地南東の隅にそびえる立派な桜だろう。樹齢は二百年を越えると噂される彼岸桜の老樹で、高さは十五メートルに近く、苔の積もった幹の周囲は三メートルを越え、その太い枝は隣家まで伸びている。この屋敷のあるじは何度も変わったであろうが、その老樹だけはそこで変わらず――応仁以来の戦火さえ奇跡のように潜り抜けて――人の世の浮沈を眺め続けて来たものらしい。


 天正七年(1579)二月下旬のある日――


 半兵衛は離れの濡れ縁に独り座し、春のやわらかな陽を浴びながら、その老樹を眺めていた。

 老いた桜は今年もその枝々に瑞々しい花をたくさんつけてくれている。はらはらと零れる薄紅の花びらが、風に乗って半兵衛の肩や膝の上にまで落ちかかっていた。

 日は中天をいくらか過ぎたあたり。数日ぶりの好天に、近所の子供らが喜んで遊んでいるのだろう、舌足らずな喚き声やけたたましい笑い声が、風が枝を揺らす音にまじって遠く聞こえて来る。


「願わくは 花の下にて 春死なん――」


 西行法師の有名な歌がつい口をついた。


「そのきさらぎの 望月もちづきのころ・・・・」


 如月きさらぎは二月である。


(望月はすでに過ぎたか・・・・)


 望月とは満月のことで、陰暦ではちょうど十五日にその月がのぼる。今夜の月は、もうすっかり欠けてしまっているはずだ。

 コンコンと乾いた咳をしながら、半兵衛は思わず苦笑した。

 弥生(三月)の望月では字足らずで語呂が悪いし、桜がすでに散ってしまってどうにもなるまい。けれど、来年の如月きさらぎの望月までは、自分はとても生きていられないだろう。二月十五日は釈迦が入滅した日とされ、西行に限らず仏教を齧った者ならその日に彼岸に旅立つことを理想とするものだが、そのこともうっかり忘れてやり過ごしてしまった。


(これは困った・・・・)


 自嘲せざるを得ない。


 京で療養生活を始めて以来、半兵衛は、生きることに対して張りを失っている自分に気付いていた。人の生が何かを成し遂げるためにあるのだとすれば、この京での日々は、「生きるために生きている」ようなもので、一日でも長く生きるというそのこと自体が目的になってしまっている気がするのである。

 死ぬべきその日まで、このままゆるゆると単調な日々が繰り返されるかと思うと、正直、居たたまれない気分になる。別に急いで死にたいとも思わないが、自分の人生がこうしてただ漫然と終わってしまうことには一抹の寂しさを覚える。


(播磨の桜は、すでに散ったであろうか・・・・)


 呆然と桜を眺める半兵衛を現実に引き戻したのは、よく聞き慣れた声であった。


「殿――」


 振り向くと、病間の入り口に近侍の伊藤半次郎という少年が控えている。


曲直瀬まなせ道三さまがお見えにございます」


「あぁ――」


 半兵衛は投げ出していた足をあぐらに組み、わずかに姿勢を正した。


「お通し致せ」


 近侍が消えると、しばらくして廊下を渡ってくる足音と共に痩身そうしん禿頭とくとうの老人が飄々と離れに入って来た。


「あぁ、半兵衛さん、起きていてよろしいのかな」


「今日は暖かいので――」


 半兵衛は微笑と共に目礼した。


 道三はお付きの弟子に履物を持って来るよう言いつけ、自身はそのまま病間を通り抜けて鴨居をくぐり、庭に降りて縁に腰掛けた。この老人はこのとき七十二だが、足腰などはしっかりしたもので、肌艶も良く、見ようによっては半兵衛などよりよほど元気そうである。


「確かに今日はええ陽気になりましたなぁ。あぁ、こう拝見すると、この前お会いした時よりお顔の色もずいぶんと良うならはったようや・・・・」


 柔和な笑顔を浮かべた老人は、「ちと失礼しますぞ」なぞと言いながら半兵衛の手首を取って脈を診、額に手をやって熱を診た。


「少し熱があるようですな。どこぞ痛いとことか具合の悪いとことかはございませんか?」


「いえ、これといって・・・・」


「喉や肺腑むねも?」


「はい」


「先ほど台所の者に聞いたんですが、あまりお食べになっておられんようですなぁ」


「食欲があまり湧かぬもので・・・・」


「それはいけません。医食同源と申しまして、食べることはすべての大本。健康な者でも食べんと死ぬんです。病身の者が食べんでどうします?」


「はぁ・・・・」


薬湯やくとうはちゃんと飲んでくださっておりますか」


「なるべく飲むようにはしておりますが――」


「なるべくでは困ります。きちんきちんと飲んで頂かねば」


「できるだけそのようにします・・・・」


 半兵衛ほどの男を、まるで子供扱いである。


 当代の名医として名高いこの老人は、正親町おおぎまち天皇や信長をはじめ高貴な方々の脈を診たということで戦国史上に有名だが、身分の上下にこだわることなく病苦に困っている人であれば庶民でもその診療に応じるというごく気さくな人物であったらしい。上京の相国寺の近くで「啓迪院けいてきいん」という診療所を開いていて、これは我が国最初の医学校としても知られている。その門前は常に病人で溢れ、道三の医療技術と人柄を慕う何十人もの弟子がその仕事を手伝いながら医学を学んでいた。道三に師事した医徒は、実に八百人を越えるとさえ言われている。

 ついでながら息子の玄朔げんさくは道三とは血縁がない。実子をすでに亡くしていた道三は、弟子の中でもっとも信頼できる腕の玄朔を養子に迎えたのである。玄朔はこの五年後に曲直瀬家の家督と「道三」の名を継ぐことになる。


 道三は信長に随身して摂津に出向いていたのだが、昨年末に信長が安土へ帰ったのを期に京に戻って来た。以来、啓迪院けいてきいんで病人の治療や後進の指導など多忙に過ごしつつ、その合間を縫うようにして十日に一度は半兵衛の様子を見に来てくれている。


「まぁ、何にしてもお元気そうでよかった。やはりこれまでは戦陣の激務で、知らず知らずお身体に疲れが溜まっていなさったんでしょう。ここでこうしてお静かにお暮らしあれば、病も徐々に快方に向かうと思います」


 そう道三は言ってくれたが、それが死病につかれた人間に対する医者の「優しさ」であることを知っている半兵衛は、ただ曖昧に微笑を返した。


「あぁ、この桜、今年も見事に花をつけましたなぁ。いやいや、なかなか枝ぶりなぞもええ按配で・・・・」


 いま気付いたという風に老樹を見上げ、道三が目を細めた。


「私のような年齢としになりますと、来年の桜は見れんのとちゃうかと、毎年毎年ちょっとした覚悟をするもんでしてなぁ。・・・・願わくは 花の下にて 春死なん――」


 その符合が半兵衛には可笑しかった。『万葉集』の昔から桜を詠んだ歌はそれこそ無数にあるだろうが、桜を見れば西行を思い出すという人間は、この京には意外に多いのかもしれない。だとすれば、日本人の心象風景にこれほど根強い印象を焼き付けた西行の言葉というのは、よほど偉大だと思ったりした。


「西行がお好きですか?」


 何気なく尋ねると、


「西行さんの歌にはええなぁと思うものが多いですなぁ。ただ、西行さんという方はどうも好きません」


 老人からは意外な答えが返ってきた。

 道三はこの時代における超一流の知識人である。変化の少ない日々を過ごす半兵衛は、診察より老人と交わす会話を楽しみにしているようなところがある。


「それはどうした理由わけで?」


貴方あんさんは――どうやって西行さんをお知りになりましたかな。やはり『新古今和歌集』で? それとも能の『西行桜』ですかな?」


「歌にせよ能にせよ、私は門外漢です。よく憶えているのは『源平盛衰記』や『吾妻鑑あづまかがみ』に出てくる西行ですね」


「あぁ、そりゃ話が早い」


 老人は肉厚い笑みを見せた。


「私はね、『吾妻鑑』の西行さんがどうも戴けない。歌はなんとでも詠えますし、能の筋は世阿弥さんの作り話ですわな。ところが『吾妻鑑』の西行さんは、実際に西行さんがなさったこと、言わはったことが書いてあるわけですやろ?」


「そうでしょうね。『吾妻鑑』は鎌倉幕府が編纂した歴史書です。誤記はあるでしょうし、意図的な嘘がないとも言い切れませんが、西行のくだりにわざわざ嘘を書く必要があったとも思えません」


「西行さんは若くして厭世出家し、その後は現世の名利を一切求めず、その生涯の大半を遊行ゆぎょうに費やしたもんやと、私なんかは素朴にそう思うておったんですが――『吾妻鑑』に出てくる西行さんを読んだら、なにやら生臭い感じが致しましてなぁ」


 老人が指摘した件とは、西行が源頼朝に謁見した場面である。

 文治二年(1186)八月十五日、頼朝が鶴岡八幡宮に参詣すると、一人の老僧が鳥居のあたりを徘徊していた。頼朝は不審に思い、人をやって名を問わせると、「佐藤 兵衛尉ひょうえのじょう 憲清(義清)法師なり。今西行と号す」と答えた、とある。

 仏弟子である西行が、わざわざ神域である鶴岡八幡宮の「鳥居のあたりを徘徊して」いたのである。こんな偶然があるはずがなく、西行はその日に頼朝がそこに現れることをあらかじめ知っていたのであろう。

 その頃の頼朝は、すでに日本で最大の権力者であった。宿敵であった平家を壇ノ浦に滅ぼし、弟・義経を追放し、藤原氏が盤踞する奥州をのぞいて日本のほとんどの武家を傘下に収めている。この三年後には征夷大将軍となって幕府を開くわけで、その権勢はまさに天下人と言っていい。

 当時すでに歌人としての名声を不動のものにしていた西行がそこにいると知れば、頼朝としても当然興味を持つ。頼朝は西行を鎌倉の居館に招き、親しく話をした。「歌道並びに弓馬の事に就いて、條々尋ね仰せらるる事有り」とあるから、和歌の道のみならず、武道についても年長者の西行に色々と質問をしたらしい。西行は出家以前は京の御所を守る「北面の武士」であり、大ムカデ退治の伝説で名高い藤原秀郷ひでさと田原藤太たわらのとうた)の末孫という家系で、西行本人の弁によれば嫡流のみが相伝する「秀郷流兵法」を極めたということになっている。事実、このとき西行は朝廷で行われていた流鏑馬やぶさめの流儀や作法、その奥義について頼朝に一晩かけて伝授し、この時から神事としての流鏑馬が行われるようになったとされている。


「私の知り合いに佐藤の姓の方がおりまして――ホンマかどうかは知りませんが、西行さんとは遠い遠い縁戚に当たるんやとか――その方が、お酒を飲まはるたんびに憤慨しておりますんですわ。西行さんが佐藤の嫡流ちゃくりゅうを名乗るとは何事か、言うて・・・・」


「あぁ――『秀郷朝臣あそん以来九代の嫡家相承の兵法を焼失す』ですか・・・・」


 言われて半兵衛はすぐに察した。


 西行は、頼朝に向かって「自分は藤原秀郷から九代の嫡家ちゃくけの生まれで、その証拠に家伝の兵法書を受け継いでいたが、出家するときに焼き捨ててしまった」と述べているのである。「自分の家系こそが秀郷以来の佐藤氏の嫡流である」ということを、さりげなくアピールしたと言っていい。

 「佐藤」という姓は藤原秀郷から四代目の子孫である佐藤公光をその祖とする。日本人にもっとも多い苗字とされるほどで、全国にその子孫は広く多く分布しているのだが、男系の長子相続を基本に嫡流を考えた場合、西行の佐藤家はまったくの傍流と言わざるを得ない。

 実際、佐藤氏の嫡流は奥州にあり、源義経に従って平氏討伐に奔走した佐藤継信つぐのぶ忠信ただのぶ兄弟の家がその正当な嫡家であったらしい。佐藤兄弟は義経にその命を捧げて戦死したが、奥州には佐藤兄弟の父も兄もちゃんと生きており、佐藤氏の嫡家は絶えていない。その時点で西行が嫡流を名乗る資格はないのだが、時の最高権力者であり武家の棟梁であった頼朝に「自分の家系が嫡流である」と言い、頼朝がそれを否定しなかったために、頼朝の権威によってその瞬間から西行の家系が佐藤氏の嫡流になってしまった。事実、室町時代初期に完成した『尊卑分脈せんぴぶんみゃく』という系図集では、藤原秀郷流の佐藤氏の部から佐藤兄弟の家系は消え、西行(佐藤義清)の家系が直系・嫡流とされている。


「その頃の頼朝さんといえば、今で言うところの右府うふさま(信長)のような天下人でございましょう? 西行さんは、頼朝さんに取り入って佐藤の嫡流を奪い取ったんやと、その方は言わはるんですな。義経さんのために死んだ佐藤兄弟があんまり哀れやと――」


「その方は佐藤兄弟の血統に連なる方というわけですか・・・・」


 半兵衛が言うと、老人は大きく二回頷いた。


「奥州の佐藤氏は南北朝の頃に伊勢に移ったとかで――その方もお生まれは伊勢と言うとりましたが、まぁ、そのあたりは私にはどうでもええんですわ。佐藤氏の嫡流がどうなっとるのかもよう解りませんし、西行さんは『京に残った自分の家系こそが嫡流や』と信じておったのかもしれませんしな。ただ、そもそも西行さんは俗界と切れた出家の身でございましょう? 武士の身分も佐藤の姓も、何十年も前に捨てなさったはずですわな。その西行さんがわざわざ頼朝さんに会いに行って、歌道のことはそっちのけで武道の話ばっかり一晩中しておったわけでしょう。なんやこのあたりが、私には気持ち悪いんですわ」


「なるほど・・・・」


 西行が真に孤高の歌人で世俗の名利に興味がなかったなら、時の権力者にわざわざ擦り寄る必要はなく、自らの家系を粉飾する必要もなく、政治工作まがいの虚偽申告をする必要もあるまい。まして、武家の棟梁たる頼朝を相手に、僧である西行が武道の話を一晩中したというのは、言われてみれば確かに違和感がある。


「西行さんは、歴代の天皇さんにたいそう愛されておったお人ですわな。後鳥羽さんの時に編まれた『新古今和歌集』には百首近くも歌が選ばれて、西行さんの歌がもっとも多い。平氏に担がれた高倉さんは措くとしても、その前の後白河さんいうのは今様とか和歌とかいった芸能をたいそう偏愛したいうお人ですから、当然西行さんは目を掛けてもらったでしょう。この後白河さんは、義経さんを取り込んで頼朝さんと喧嘩させて、共倒れを狙っておったというお人ですな。武家の世を創ろうという頼朝さんにとれば敵も敵――頼朝さんは後白河さんを『日本国第一の大天狗』なぞと揶揄やゆしたくらいです。後白河さんにとっても頼朝さんは不倶戴天の敵や。その頼朝さんのとこで、後白河さんの息の掛かった西行さんが一晩も歓談しておったというだけで、なにやら想像を掻き立てられませんか?」


「確かに、疑えばいくらでも疑えますねぇ・・・・」


 西行は、その僧の身分と歌人としての名声を利用して、後白河院の間諜を務めていたのではないか――と、老人は見ているらしい。


「私はね、『二足の草鞋わらじ』いうんが嫌いなんですわ。歌人は歌を詠んでおればええ、医者は病人をとればええ、という気質です。生まれは武家ですが、根っ子はたぶん職人ですな。西行さんがホンマに孤高の歌人ならそりゃぁ偉いと思いますけど、西行さんて方は、もっとずっと俗物やったんとちゃいますかなぁ。もちろん、歌は歌で別ですから、西行さんがどんな方であっても、ええ歌はええもんやと思いますけど・・・・」


「歌を詠んでこその歌人、病人を診てこその医者――ですか・・・・」


 半兵衛は呆然と呟いた。

 老人の言葉は、予期せぬところで半兵衛の琴線きんせんに触れた。


(歌人は歌を詠み、医者は病人を診る――)


 ならば武士は――


戦場いくさばにあってこその武士――か・・・・)


 半兵衛の心中で、それまで形を得ずにわだかまっていた様々な想念が湧いた。


 このまま京でただ死を待っていることに、どんな意味があるというのか。それで少しばかり寿命が延びたとして、それが何だというのだろう。この人生の晩節、現世うつしよに未練を残すことなく、武士として生き切って死ぬには、自分は何をすべきなのか・・・・。

 その答えは、おそらくこの京にはない。

 自分に残された時間はそう多くないであろう。それでも、せめて三木城が陥落するまでは――藤吉朗が播磨を平定するところまでは――なんとか見届けたい。最期の最期まで、自分が主君あるじと決めた男の傍らで、武士として、軍師として、前のめりに死んでゆきたい――


(これは私の我が儘だろうか・・・・)


 労咳は人に移る病気である。自分のような病人が傍に居ては周囲は気を使うであろう。藤吉朗にとってはかえって迷惑かもしれない。

 けれど――人生の最期に、それくらいの我が儘は許してもらえないか・・・・。


 武士は戦場いくさばにあってこそ――


(人生の先達せんだつには、色々と教えられることが多い・・・・)


 同じ死ぬなら、やはり戦場で――


 桜の老樹に目を向け、半兵衛は吹っ切れたように微笑した。


「話は変わりますが――」


「はい?」


「朝夕の冷え込みがもう少し緩んだら、播磨へ行こうと思います」


「何を――」


 道三はさすがに驚いたようであった。


「とんでもない。お命を縮めることになりますぞ。筑前守さまからも、本復するまではきっちり養生させるようきつう言われております。医者としてお許しできません」


「道三殿に医者としてのお立場がおありのように、私にも武士として譲れぬところがある。もう行くと決めました」


「これは・・・・・」


 半兵衛の透き通るような微笑を見、道三は説得の無駄を悟った。


「弱りましたな・・・・」


 武士がひとたびその死処を決めた以上、決意を変えさせることは不可能なのである。

 そのことをよく心得ている老人は、深いため息をついた。


「出立はいつごろのおつもりで?」


「次の望月もちづきのころ――ということにしておきます」


「・・・・それなら、今日からは二日に一度はこちらへ参ります。貴方あんさんの病にすぐ効くような薬はあらしまへんけど、少しでも精をつけてもらわんことには、戦も何もないですやろ。針と灸で気息と血の道を整えさせてもらいます。気休めにしかならんかもしれませんが、尽くせるだけの手は尽くしておかんと、私の後生が悪い」


「お心遣い、ありがたく――」


 半兵衛は威儀を正し、老人に深く頭を下げた。



 半兵衛が京を発ったのは、それからほぼ半月後――天正七年の三月中旬である。

 その余命は、あと三ヶ月を残すのみであった。




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