第102話 平井山合戦
天正六年が暮れ、天正七年(1579)が明けた。
小一郎は、この正月を平井山の城で迎えた。
戦陣のこととて派手な祝宴というわけにはいかないが、それでも元日の夜には主立つ諸将を集め、ささやかな酒宴を開いて新年を寿いだ。
昨年の夏以来、播磨では毛利方の反攻はない。別所氏は三木城に篭ったまま動いておらず、城をゆるやかに囲う羽柴軍も無駄な流血は避ける方針だからわざわざ攻勢を掛けるようなことはしない。三木では驚くべき静けさの中で攻囲戦が続けられていた。
毛利方に寝返った御着の小寺氏はその動向が懸念されたが、姫路の黒田氏を怖れてかこれも大きな行動は起こさなかった。
小寺政職にすれば、恐怖に対する反射行動のように毛利方に奔ってはみたものの、期待した毛利軍の大反攻は未だその気配さえなく、それどころか「木津川河口」で毛利水軍が大敗して以来、播磨でも摂津でも織田方が勢いを盛り返しつつあり、己の見込み違いに今さらながら驚き、狼狽していたであろう。小寺氏はどこか滑稽な存在として播州中部に取り残されていた。このまま別所氏が滅びてしまえば、織田軍の次の攻撃目標にされるのはまず間違いなく、小寺政職とその取り巻きたちは、毛利軍の播磨再侵攻を祈るような気持ちで待っていたに違いない。
播磨第二の勢力である小寺氏でさえこの体たらくだから、他の毛利方の小豪族の動静は推して知るべしである。
三木城の監視をその任務とする小一郎にとって、日々の明け暮れは戦陣にあることを忘れるほどに平穏であった。
一方、藤吉朗は、真冬の寒風を冒して忙しく働きまわっている。
摂津にいる藤吉朗の手持ちの軍勢は二千ほどだったが、信長が加勢を付けてくれた(大和の筒井順慶と、佐久間信盛、明智光秀の軍の一部)お陰で五千余にまで増えた。藤吉朗はこれを率い、伊丹から武庫川に沿って北西に進み、摂津と播磨との国境である有馬郡へと兵を進めた。
有馬という地名は六甲山北麓の有馬温泉で有名だが、その範囲は意外に広く、現在の三田市一帯から六甲山にかけての地域がすべて「有馬郡」である。山また山のこの地域は面積が広い割りに耕地が少なく、取れ高としては四万石程度であったらしい。地理的に言うと播磨と摂津、さらに北の丹波という三国の境目であり、ここを押さえておくことは播磨の別所氏、丹波の波多野氏、さらに摂津の荒木村重という三者の連携を断つという意味でも、三木城の東方の補給路を潰すという意味でも、戦略上非常に重要であった。
この有馬郡一帯を治めていた豪族を、有馬氏と言う。播磨守護・赤松氏に繋がる名家で、荒木村重が織田家の武将として摂津の旗頭になってからはこれに属していた。
当主の有馬国秀は村重の妻の妹を嫁にし、義弟になるほど厚遇されていたのだが、天正三年に謀反の罪を掛けられて有岡城で殺され、有馬氏嫡流の血統は絶えた。その後、有馬氏がどういう動きをしたのかいまひとつはっきりしない。本拠である三田城には城主として荒木重堅という村重の甥(一説には村重と血縁はなく、小姓から立身して荒木姓をもらったとも)が入っているから、あるいは有馬家は乗っ取られたのかもしれない。誰を当主に担いだにせよ、織田家の重臣であった村重に敵対すれば滅ぼされることは確実だから、おそらく泣き寝入りしてそのまま臣従していたのであろう。村重が起こした謀反に引きずられる形で、消極的に織田家に敵対してしまったのではないかと思われる。
はっきりしているのは、信長が、三田城――つまり有馬氏を敵と認め、これを攻めるよう藤吉朗に命じたということである。
ところで、有馬郡の西隣はすぐ播磨である。
東播磨には有馬氏の傍流があり、三木城の東――美嚢郡 淡河というところに三津田城主・有馬則頼という人物いた。当時まだ四十代の壮齢であったが、この男は二十代後半で出家剃髪し、名も「無清」と改めている。
この無清入道・有馬則頼は、天正五年に羽柴軍が播磨に入るやいち早く藤吉朗に臣従を誓い、別所氏が叛いた時にもこれに同調せず、一貫して藤吉朗に協力し続けていた。二人は同世代ということもあって仲が良かったらしく、藤吉朗は則頼を「有馬の坊主」などと呼んで格別の親しみを見せていたし、豊臣秀吉となって天下を取ってからはこの男を御伽衆に加え、常に身辺に侍らせているほどである。よほどに馬が合ったのだろう。
話を戻すと――
藤吉朗は、有馬郡を攻めるにあたり、この有馬則頼を使って有馬宗家を乗っ取らせたような気配がある。
先述したように有馬氏は当主を村重に殺され、その嫡流の血統を絶やされたという恨みがあり、滅亡を賭してまで村重に肩入れするようなつもりはそもそもなかったのではないかと推察できる。織田に敵対してしまったのは成り行きと言ってよく、去就に困っていたであろうことも想像に難くない。羽柴軍に抗戦して滅ぼされるよりは、藤吉朗との繋がりが深い則頼を当主に迎え、再び織田に属すべきだというような政治的決断が有馬氏の重臣たちの間で行われたとしても不自然ではないであろう。
真相は闇の中としか言いようがないのだが、いずれにしても有馬氏は羽柴軍に抵抗することなく織田方に降り、この時から傍流だった則頼が有馬宗家の当主になっている。さらに三田城主だった荒木重堅は藤吉朗の家臣となり、この翌年には木下姓を与えられ、二万石(一説には三万石とも)もの領地をもらっている。この結果から推察するに、藤吉朗が何らかの調略を施し、陰謀が行われたということはまず間違いないと思われる。
ついでながら宗家を継ぐことになった有馬則頼は大喜びで、信長と藤吉朗を有馬温泉に招いて歓待したいなどと申し出たりしている。
ともあれ、こうして有馬郡を無血で手に入れた藤吉朗は、さらにこの周辺で織田に従わない豪族の小城や砦を虱潰しに攻めた。有馬郡の西隣――播磨の美嚢郡 淡河には、三木城から荒木方の摂津花隈城へと到る陸路の補給線が繋がっており、これを潰すことは三木城を封殺するためにも重要だったのである。
六甲山脈の西――丹生山山系の山々には別所方の拠点がいくつもあり、ことに丹生山山頂の明要寺は毛利氏が三木城へ陸路で兵糧を運び入れる際の中継基地と食料貯蔵基地の役割を担っていた。これを守るために子飼いの僧兵はもちろん、一向門徒や近在の一揆勢が二千人ばかりも立て篭っていたという。また、丹生山から一里ほど北には、淡河定範が篭る淡河城がまだ無傷で残っている。
これらは織田方にとって非常に目障りだったが、しかし、摂津の有馬から東播磨への道を突き通したことで藤吉朗はひとまず満足したらしい。明要寺がある丹生山はこのあたりで随一の難所として知られ、ここに二千もの一揆勢が篭城しているとなると短期間での攻略は難しかったし、淡河定範は智勇兼備の武将として名が高く、別所家随一の合戦上手と謳われた男であり、淡河城を攻めれば当然手強い抗戦が予想された。この時はあえて手を出さなかったのだろう。
藤吉朗は三津田城などの織田方の小城に兵を配ってこの地域の監視の目を強化し、別所方の動きを掣肘すると、そのまま平井山の羽柴軍に合流した。
藤吉朗と小一郎が久々に顔を合わせたのは、一月の末だったと思われる。
さて――
三木城東方の糧道(補給線)を潰されてしまった別所氏は哀れであった。
すでに高砂城を奪われ、海からの補給の道を断たれた別所氏にとって、淡河から六甲山の脇を抜けて摂津花隈城へと続く細道は、荒木村重や毛利氏との連絡を取る唯一の経路であったわけで、まさに死活の生命線なのである。まだ拠点は残っており、糧道が完全に遮断されたわけではないが、このまま黙視していれば遅かれ早かれそうなるであろう。
羽柴軍が作った関所などによって外界からの情報さえ入りにくくなり、三木城で篭城する者たちの孤立感はますます深まった。
血気にはやる者たちは、
「このまま城に篭ってばかりおっても埒が明きませんぞ!」
「一戦もせず、ただ飢えを待つは、敵の思う壺ではござらんか!」
などと別所氏の首脳陣を突き上げるようになった。
別所家の舵を事実上握っているのは別所長治の叔父・別所吉親である。この男は勝算のない出戦には反対だったようだが、その思惑とは別に家中では主戦派の勢いが日増しに強くなっていった。これを黙殺し続ければ、せっかく高まっている軍兵たちの士気を疎漏させることになるし、何より吉親が臆病風に吹かれたというような誤解を生まぬとも限らない。
吉親は執権という形で当主・長治の威を借り、別所家を対織田戦争に投じ入れた張本人である。家中の信望を失ってしまえば身の破滅であり、ついには突き上げを抑え切れぬようになった。
吉親は当主の長治とも相談し、二月六日に羽柴軍に野戦を仕掛けることを決め、その前日に軍議を開いた。
本丸の大広間に、篭城の主立つ面々が集められた。別所長治の親族・一門はもちろん、別所家の侍大将、傘下の豪族の当主、一向門徒の代表者たちなどである。
評定の冒頭、上座に座す別所長治がまず口を開いた。
「昨年、野口、神吉、志方、高砂などの城を落とされし事は、まったく士卒の咎ではない。ひとえにこの長治の謀事と武運の拙さゆえである。今また当城、織田の大軍に囲まれ、この難敵を相手にどのように勝利を得るべきか――この上は皆々の意見に任せようと思う。我に遠慮なく、考えのある者は申すべきことを申し、評定を尽くしてくれ」
この言葉を受け、広間を埋める群臣の最前列に座った別所吉親が声を上げた。
「明日の合戦、敵は我らに倍する人数である。この大敵に正面から挑むは、勇に似て勇に非ず。無謀な戦立てにて大切な士を死なすは愚と言わねばなるまい。よって、謀事を巡らさねばならぬ」
と前置きし、己の作戦案を披露した。
まず出戦可能な全軍を伏兵にし、夜のうちに三木城の城下町に密かに埋めておく。その上で、練達の侍大将に五百の精兵と足軽を授け、夜が明けてから美嚢川を渡らせ、羽柴軍の本陣である平井山の正面に布陣させる。鬨の声をあげ、こちらから攻め懸ける振りを見せれば、たびたびの勝ち戦で驕っている羽柴軍の軍兵たちは、必ず我先にと山を駆け下り、応戦して来るであろう。この敵をわざと弱々とあしらい、戦っては退き、退いては戦いしていれば、敵は勝ちに乗って追撃して来るに違いない。羽柴軍に美嚢川を越えさせ、三木城下へと誘導し、十分に引き付けたところで伏兵を群がり立たせ、敵の退路を断ち、前後左右から包むようにしてことごとく討ち果たしてしまう、というものである。
もちろん、これで羽柴軍に決定的な打撃を与えるというようなことにはならないが、成功すれば敵の兵力をいくらかは削ることができ、戦勝によって篭城の将士の士気を高められるし、溜まった鬱憤を晴らすことにもなるであろう。
吉親は、この一戦で羽柴軍と雌雄を決するようなつもりはそもそもない。別所が最終的な勝利を得るには毛利軍の播磨再侵攻が不可欠であり、あくまで長期篭城という戦略に沿って作戦を立てている。野戦で大怪我をするような危険を冒す気は毛ほどもなかった。
が、血気にはやる別所家の武将たちはそれでは収まらない。
侍大将の一人――久米五郎という男が真っ先に反論した。
「これは山城守殿(別所吉親)のご存念とも思えぬ。そもそも古来より、戦は川を渡った側が必ず勝つものじゃ。これはなぜかと言えば、戦は何より兵の気と勢いがものを言うからであると存ずる。川を勇躍して渡れば、弥が上にも気勢が上がる。この気勢をもって敵に当たるを『気に乗ずる』と言う。お味方こそこうあるべきで、逆に多勢の敵に川を渡られるようなことになれば、この城までが危うくなりましょう」
美嚢川は三木城の外堀というべき川で、この渡河を許すことは敵を懐に入れてしまうに等しい。そういう小手先の消極策よりも、こちらから全軍で美嚢川を渡り、渡った勢いで堂々と敵陣に攻め懸けるべし、というのがこの男の主張であるらしい。
つまり、乾坤一擲の決戦によって羽柴軍と雌雄を決しようというのである。
これを聞いた吉親は、迷惑げに眉間の皺を深くした。
「不意に川を渡って攻め懸けて来た敵というのは確かに防ぎ難いが、それは要は敵に不意をつかれたからで、味方にその備えがなかったということであろう。わしが申しておるのは、そうではない。伏兵を埋め、敵にわざと川を渡らせ、これを討つ――元弘の昔、楠木正成が敵をおびき寄せて渡部の川を渡らせ、須田、高橋などの勢を破ったのがこの軍略じゃ。そもそも戦とは、将の優劣、兵の多寡、地理地勢、季節天候時刻など、毎度まったく勝手も流れも違うものじゃ。一概に、川を渡れば勝ち、渡らずば負ける、なぞということがあるわけがない」
吉親の悪癖で、この男は機嫌が悪くなると別人のように意地の悪い顔になる。声音にも表情にも、発言した久米五郎を蔑んだような色が露骨に出た。
軍議の席という衆目の中で意見をこき下ろされることは、武略を辱められたのに等しい。久米の顔色が変わった。
「いやいや、我が先祖・久米 十郎左衛門尉 近氏が赤松上総介殿(義村)に仕えしより七十余年、当国において数々の合戦あるといえど、我が一族が不覚をとった事は一度たりともござらぬぞ!」
なぞと言わずもがなのことを口走ったのは、久米氏の武略の名誉を守るためであったろう。
「韓信の『背水の陣』の謀事も、要は川を背にすることで士卒に必死を悟らせ、心を決せしめるためでござろう。川を渡って全軍に決死の覚悟を持たせ、心をひとつにして進めば、何ぞ怖れることやある。これこそまさに必勝の軍略ではござらんか。東播八郡の大将たる別所が、天下の兵をむこうに回して戦うこの合戦は、一世の耳目を集めるはもちろん、後々の世まで必ず語り草となるでござろう。それほどの大戦に、小手先の謀略を巡らせたなぞと人に笑われるのは無念でござる。敵がたとえ我らの十倍の人数であったとしても、我らは勝敗を天に預け、ただ渾身の戦をするのみ!」
(何を馬鹿な・・・・)
吉親は呆れざるを得ない。
総勢一万を越えるであろう羽柴軍に対し、別所方の出戦能力はせいぜい五、六千に過ぎない。しかも羽柴軍は高所に陣城を構え、防戦態勢を敷いている。これにまともに攻め懸けたところで、負けるのは火を見るよりも明らかなのである。
しかし、消極策と積極策を並べれば、常に積極策の方が華々しく、いかにも耳に勇ましく響く。長く城に封じ込まれている篭城の士卒は、当然のように久米五郎の景気の良い言葉を喜んだ。戦意が高い者ほどその傾向は強く、吉親の消極策に賛同しようとする者は少なかった。
こうなると、吉親や彼を支持する者たちは分が悪い。消極策に固執することは、臆病、姑息、卑怯といった匂いがつきまとい、群臣の中の少数派であることもあって、発言できる雰囲気ではなくなってしまった。
評定は、勢いを得た久米五郎が主導する形になる。
「――されば如何であろう、明日の合戦、全軍を二手に分け、一手は山城守殿が大将となって敵の先手(先鋒)に懸かってくだされ。一手は小八郎殿(長治の弟・治定)を大将に戴き、我らがこれにお供つかまつり、東の山の麓より羽柴が本陣に攻め登り、陣城に斬り込んで、一息に羽柴秀吉の首を挙げてご覧に入れる」
と大見得を切ると、群臣は興奮で猛り立った。
中でも剛勇で鳴る清水弥四郎という男などは、
「いやいや、潔し! 久米殿の申されるところ、まことに天晴れの手立てと存ずる。ご一同もこれにご賛同あれ。なぁに、もしお味方が負けるようなことがあれば、その時はわしが敵の陣中へ紛れ入り、敵将と刺し違えてご当家の恩に報じてみせる。羽柴秀吉さえ殺せば、たとえ負けても損な戦にはなるまいよ」
などと放言したりした。
長治の末弟である治定は、まだ十八である。血気の盛りであり、煽られて大いに乗り気になった。
「兄上、わしに久米、清水らの兵をお預けくだされ。たとえ敵陣に屍を晒すとも、必ず羽柴めを我が槍に掛けてみせる!」
若殿のこの勇ましい発言で座は弾けたように盛り上がった。群臣は競うように治定の勇気と気骨を褒め、治定が率いる突撃部隊に参加することを志願した。
こうなれば、もはや衆議は動かせない。吉親は苦々しげに口を閉じ、異見は誰からも出なくなった。
上座からこの議論の成り行きを眺めていた別所長治は、弟と群臣に向けて静かに頷き、
「されば、明日は正々堂々、当方より敵に攻め懸かろう」
と実に爽やかに一決した。
長治にとって、大将とは、家中の武士たちの上に超然と乗り、彼らの象徴として常に美しく誇り高くあるべきものであった。別所の当主に担がれた十二の頃から、常にそのように周囲から教育されてきた。その意味で、長治は生の人間というよりは別所武士団の統率の核たるべき一個の「機関」であり、家中の衆議が一致して出した結論であれば、たとえそれがどんな暴論であっても、どんな結果を招くものであっても、長治は泰然として首を縦に振ったであろう。
二月六日、別所軍は夜明けと共に三木城の城門を開き、打って出た。
先鋒軍は、別所吉親を総大将に、三人の侍大将と三人の足軽大将、七十二人の物頭(武将)が加わり、総勢二千五百騎であったと『播州太平記』に書いてある。が、一騎の武者に五人の雑兵がつくとすれば総数は一万を遥かに越えるから、これは二千五百人と解釈すべきだろう。騎馬武者はせいぜい五、六百騎、足軽雑兵まで含めても三千ばかりでなかったかと思われる。
後軍は、別所治定を総大将に、三人の侍大将、久米五郎、清水弥四郎を含む三人の足軽大将、六十三人の物頭が加わり、精兵七百騎で編成したとある。が、これも七百人と考えないと辻褄が合わない。武者はせいぜい二百騎、足軽雑兵を含めて一千ほどであったとしておきたい。
この大軍が続々と美嚢川を渡り、平井山の正面に堂々と布陣する様を、藤吉朗は山頂の城頭から見渡している。
「別所が城から出て来てくれるとは、こりゃ天佑じゃ。この方よりも打って出よ」
藤吉朗にはもとより篭城戦をするつもりなどはない。せっかく敵が出て来てくれたのを幸い、野戦でこれを大いに破ってやるつもりであった。差し当たり平井山にあった五千ほどの軍勢のうち三千を先手として駆け出させ、残る二千を山の中腹から麓に布陣させた。高所から戦場全域を俯瞰しつつ、采配を振ろうというのである。同時に三木城の西方や南方を包囲のする各部隊にも連絡し、そこから二百、三百と軍勢を引き抜いて別働隊を作り、敵が三木城へ帰るための退路を断つ形で伏兵になるよう命じた。
小一郎は、本陣の脇を固める形で平井山の東方――峰続きの与呂木山に陣を据えている。手持ちの一千ほどの兵を戦闘態勢で待機させつつ戦況を見守った。
別所軍の先鋒大将である別所吉親は、この出戦に対して乗り気ではない。馬鹿げた戦と思っていたに違いないが、戦場に立ってしまえばそこは武士である。
「播州武者の弓矢の意地を見せるはこの一戦ぞ! ものども、懸かれや!」
先鋒軍を叱咤し、山を駆け下って来た羽柴軍と激突した。
この主戦場は、序盤は別所軍が優勢であった。別所吉親は老練の武将であり、戦場経験に不足はない。別所軍の武士たちの奮戦も凄まじく、名門・別所の名に恥じない働き振りを見せた。これに対して羽柴軍の軍兵たちは功に逸ってか統率を欠き、それぞれの武将が自侭に敵と戦っているような状態である。勝手に突撃し、あるいは銃撃し、崩されたと見るや勝手に退却する。三千対三千の戦いではあったが、別所方の統率された動きとは雲泥の差で、徐々に圧倒される形勢であった。
しかし、藤吉朗は少しも慌てない。彼我の兵力差を考えれば慌てる必要もないのである。じっくりと戦場を見渡しているうちに、開戦から半刻ほど経った頃、別所軍の後軍が本隊から離れ、主戦場をかすめるように迂回しながら与呂木山へと走り始めた。東の峰からこの本陣を突こうというのだろう。
藤吉朗は、別所方の戦術を見破って、むしろ安堵した。
(この程度のことを秘策にして戦をやっておるのか・・・・)
篭城に徹する別所軍がわざわざ城を出て野戦を仕掛けてくる以上、当然なんらかの策略を持っているとは思っていたが、要するに正攻法である。奇策があるわけでなく、その戦の素朴な田舎臭さを好意的に思うだけの余裕があった。
「敵は味方と駆け違い、我が本陣を狙ってくるぞ! これで戦は我らの勝ちと決まった!」
藤吉朗は持ち前の大声で天に届けとばかり叫んだ。
「その理は――見よ! 彼我の間、十丁(約一キロ)ばかりもあるに、しかも敵は険阻を登り来ねばならん。戦う前に人馬は疲れ、息は乱れ、備えはしどろに崩れるは必定!」
武者の鎧兜というのは武具や装具まで含めると三十キロ以上の重さがあり、これをつけて走ればその疲労は並ではない。まして険阻な山道を登って来るとなれば、実際に白兵戦に入る頃には戦闘どころではなくなっているであろう。
「それまで敵を引きつけ、味方は一時に堰を切ったように駆け下り、嵩に掛かって切り崩せば、我らの勝利は疑いない! ものども、今日の戦は手柄の立て得ぞ! 気張って功名せい!」
藤吉朗の周囲でこの声を聞いた軍兵たちは勇み立った。
別所治定を大将とする別所軍の突撃隊は、ほとんど一キロの道のりを全力疾走で駆け抜け、平井山の山裾に取り付き、そのまま山を駆け登り始めた。平井山の正面では両軍の先鋒軍同士が戦っており、主戦場の東を迂回した突撃隊は、位置的に小一郎が布陣する与呂木山に取り付いたことになる。ここから峰伝いに平井山本陣をつくつもりであったのだろう。
言うまでもなく、別所軍が与呂木山に攻め登ってきた時から、小一郎の部隊の反撃が始まっている。
小一郎は、弓、鉄砲を前面に出して敵を射落とし、さらに采配を振り上げ、
「懸かれぇ!」
と叫んで全軍に白兵突撃を命じた。
陣貝の叫びと攻め太鼓の響きに嗾けられるように小一郎の家来たちが山を駆け下る。
これが、藤吉朗が迎撃を下知するよりもわずかに早かった。己の持ち場に敵が攻め登って来たわけだからこれは当然であり、必然的に小一郎の家来がこの合戦の一番槍を得たのだが、戦後、小一郎が抜け駆けをした、などと陰口する者があったという。
ともあれ、合戦の推移は藤吉朗の読み通りになった。
高所に陣取る羽柴軍は坂の上から矢を射かけ、鉄砲を撃ちかけ、さらに白兵突撃で敵を坂下に蹴落とした。平井山の羽柴軍が与呂木山へと移動してくるとこれが別所軍を横撃する形になり、疲労困憊の別所軍は死傷者が続出し、たちまち崩れた。
哀れだったのは大将に担がれた別所治定である。
治定は血気の若者で、敗軍の責任を痛感していたであろうし、できるならば平井山の本陣に駆け入って斬り死にしたかったであろうが、左右の者がそれを許さない。生き残った武者をまとめて退却に移ったが、羽柴軍の追撃は執拗を極めた。しかも藤吉朗が先に伏兵を命じた軍勢が群がり立って美嚢川への退路を遮断する動きをする。治定は乱戦の中で必死に戦ったが、すでに疲労は限界を超えていた。従者は次々と討たれてゆき、やがて治定も藤吉朗の旗本・樋口太郎という者に組み伏せられ、首を取られた。これを知った治定の馬廻り(親衛隊)の生き残り十四人が、治定の遺骸の周囲に集まり、一斉に腹を切って死んだという。
久米五郎と清水弥四郎は、己の広言を忘れていない。味方の敗軍が定まると、羽柴軍の兵の死体から旗指物を奪い、味方の死体から首を取り、それを太刀先に刺して羽柴軍の軍兵の中に紛れ込み、
「大将はいずくにおわすや! 首実検をお願い申す!」
などと叫びながら平井山本陣を目指した。藤吉朗の暗殺を企てたわけだが、やがて露見し、藤吉朗の旗本を相手にさんざんの奮戦の末に討ち死にした。
突撃隊の敗軍は、主戦場の別所軍の心理にも大きな影響を与えた。突撃隊が崩れて四散し、平井山に布陣してこれを打ち崩した羽柴本軍が主戦場に雪崩れ込むと、形勢は一気に逆転した。別所軍は狼狽し、左右の備えが次々と崩れ、収拾がつかない。
別所吉親は後方の小高い丘に陣取って指揮を執っていたが、もはやこの流れをどうしようもない。全軍に退却を命じ、自らは手回りの五百ばかりの兵を率いて味方の退却を援護した。
別所軍の精強さがもっとも発揮されたのは、皮肉にもこの時だったであろう。
別所の軍兵たちは、組頭が組下からはぐれ、寄子が寄親を見失うこの乱戦の退却の中で、誰に命じられるでもなく三人、五人と勝手に集まっては小隊をつくり、戦っては退き、退いては繰り変わって戦い――繰り引きの退却戦を展開したのである。勝ちに乗って追撃する羽柴軍の兵たちはこの別所軍の殿軍を崩し切れず、これがために逆に死傷者が続出し、ついには美嚢川の線で追撃を断念した。
この日、別所軍の戦死者は八百余人にものぼったという。これは割合で言えば全軍の五人に一人が死んだ計算であり、この時代の野戦の常識ではあり得ないレベルの大損害であった。別所軍がいかに凄まじく戦ったかを歴然と物語る数字だが、それにしても痛恨の敗戦と言わねばならない。
「こ、小八郎が死んだか・・・・!」
弟の訃報を聞かされた別所長治がどんな感想を漏らしたか――史書はそれを書き残してはいない。
この若者は、合戦の展開について先をまったく見通していなかったであろう。長治は信長の紀州攻めに参加したことを除けば戦場経験がほとんど皆無と言ってよく、その紀州攻めにしても賓客扱いで全軍の後方を行進していたに過ぎない。この三木城合戦を通じて初めて実地に戦を学んでいるようなもので、戦術・戦略の何たるかはまだよく解っていないのである。吉親の戦術案を聞けば「なるほど」と思い、久米五郎の積極策を聞けば「そういうものか」と思う。戦術の妥当性やその成功率が見積もれるはずもなく、たとえば吉親がしているような戦略的見地からの戦術立案などといった思想はそもそもない。
長治は、ただ武士として、名門・別所の当主として、恥ずかしくない振る舞いをしようと心を定めていただけなのである。
『播州太平記』はこの敗戦を惜しみ、「別所長治は、勇士ではあったが若い大将であったがゆえに別所吉親の上策を用いず、血気にはやる久米、清水らの無謀の軍議に固く同心してしまった」と書いている。同書は「史書」というよりは「読み物」だが、事実もそれに近い状況であったかもしれない。ただ、筆者は、「若さゆえ」というよりは、「軍議でそう決まったから」こそ長治は同意したのだろうと思っている。
軍事と外交において英明な君主の独裁が必要なこの時代、群臣の気分でその舵取りをするほど愚かなことはない。たとえば半兵衛のような人間が若い長治を補佐・教導していたとすれば播磨の戦国史はまったく違った展開を見せていたであろうが――
別所氏の悲劇的な末路というのは、どうもこのあたりに原因がありそうである。