元和残侠伝
※本作は歴史的事実を題材にしたフィクションです。
※本作は、誤読を防ぐために一部人物名にしつこくルビを振っています。あらかじめご了承ください。
大唐の都、長安。かつては中華文明の中心と謳われた大城郭も、元和十五年の冬ばかりは、まるで巨大な棺桶のように冷え切っていた。
皇城の南東に位置する平康坊の片隅に、一軒の古びた酒楼がある。
その奥の密室で、二人の男が卓を挟んで向かい合っていた。
一人は、粗末な藍染めの短袍を纏った壮年の男である。
削ぎ落とした岩山のごとき硬質な面容、深く刻まれた眉間の皺。抜き身の匕首を思わせる剣呑さを漂わせるこの男は、名を高倉健といい、長安の黒道において名を知らぬ者はないと言われる大侠客であった。
その向かいに座すのは、それとはまったく対照的な丸顔の中年男で、名を王守澄という。宮中に仕える宦官であった。
王守澄の顔色は青ざめ、つるりとした頬にじっとりとした脂汗が浮かんでいる。震える手には、上等な絹にくるまれた小さな包が握られていた。
「すまぬ。これしか、持ち出せなんだ」
高倉健は無言のまま、厚い手のひらで包みをほどく。
現れたのは、黒々とした艶やかな女の髪の束と、一本の白玉の簪であった。
簪の意匠を見た高倉健の顔が歪んだ。
「小梅……」
知った女の持ち物であった。
小梅。それは高倉健にとって、実の妹にも等しい幼馴染みである。二人はかつて同じ捨て子として長安の路地で育ち、同じ泥水をすすって育った。
高倉健は江湖の奇人より武功を授かり、黒道の頂点に立つ侠客となった。一方の小梅は美貌と気立ての良さを見込まれ、皇城の宮女として召し上げられたのだった。
その小梅の髪の毛と簪が、目の前に差し出された。それが何を意味するか、高倉健に分からぬはずがなかった。
「……どんな死に方でしたかい」
「陛下のご乱心を止めようとして、手討ちになったと聞いておる。遺体は無惨な状態であったそうだ」
答える王守澄の声は震えていた。
陛下——時の大唐を統べる第十四代皇帝・李純のことである。後の世には憲宗の廟号で知られる人物だ。
李純は若かりし日は英明果断な名君であったが、溺愛していた太子を失ったのを境に超自然的なものへと傾倒。政をおろそかにし、宮殿の奥に引きこもるようになった。
そして怪しげな道士から授けられた不老長生の丹薬を飲み、仏家のものか道家のものか分からぬ神に祈りを捧げるうちに、次第に正気を失っていった。
「近頃の陛下は、理由もなく宦官や宮女を打ち殺されるようになった。ここ数月で命を落とした者は十や二十にとどまらぬ。中には刃物をもって手向かいした者もあったが、陛下の御身に叩きつけられた刃物は肌に傷一つ付けられずに砕け散り、その者は頭が破裂して絶命した」
異様な話であった。しかし高倉健はそれを聞いても眉一つ動かさず、黙ったままだった。
「ともあれ、いまの宮中は混乱の最中にある。あの娘がおぬしの縁者と知っておれば、先に手を回して陛下から遠ざけることもできたのが……。すまぬ」
かつて王守澄が市井の暴徒に囲まれた折、高倉健はただ一人で刃の山を打ち払い、彼の命を救ったことがあった。その恩義に報いるどころか、妹同然の女をみすみす見殺しにしてしまったことを王守澄は恥じた。
高倉健は髪の束を愛おしそうに懐へ収めると、静かに首を振った。
「過ぎたことは、どうしようもございません。ですが」
高倉健の眼光が、すっと鋭くなる。
「もし、自分に申し訳ないとお思いなら、一つ無茶を聞いてくれやせんか」
高倉健は身を乗り出し、王守澄の耳元で短く呟いた。
それを聞いた王守澄は、はっと息を呑み、目を剥く。
「おぬし……正気か?」
実のところ、高倉健の申し出は、王守澄にとっても渡りに船と言えるものではあった。
だが、それは宮中に仕える者にとって、許されざることでもあった。
高倉健は口を閉ざしたまま、じっと王守澄の目を覗き込んだ。
* * *
月が雲に隠れた丑の刻。長安の裏路地は、墨を撒いたかのような闇に包まれていた。
高倉健は、ただ一人、足音もなく路地を歩いていた。
その時、ひゅうっと鋭い音を立て、暗闇の切れ目から一筋の冷ややかな光が走った。光は寸分の狂いもなく高倉健の首筋へと迫る。
高倉健は眉ひとつ動かさずにそれをかわすと、懐から抜き放った一尺ほどの匕首で、打ち下ろされる二撃目を受け止めた。
夜の静寂に、鉄と鉄が打ち合う甲高い音が響き渡った。
火花が散り、暗闇の中に一人の男の顔が浮かび上がる。
「何の真似だ」
高倉健の低い声を受け、刃を打ち込んできた男はニヤリと軽薄な笑みを浮かべた。
「あんたを止めにきたのさ、兄弟」
この男の名は池部良。
かつては四川の神秘門派に属する剣の達人であったが、天山より来襲した魔教により門派が破滅し、身一つで長安へ流れ着いた。用心棒稼業で食いつないでいた折、高倉健と出会って意気投合し、盃を交わした義兄弟である。
眉目秀麗で女好き、怪力乱神の話を好む。寡黙で義理堅い高倉健とは正反対の性格であったが、なぜか二人は馬が合った。
二人はしばし睨み合ったのち、同時に身を引き、刃を鞘へ収めた。
「あんた、死ぬ気だろ」
黙り込む高倉健に、池部良は腕組みしながら語りかける。
「ここ数日、あんたの様子はおかしかった。もともと口数の少ない男が、輪をかけて黙り込み、賭場の仕切りや縄張りの差配まで下のもんに譲り渡しちまった」
高倉健は黙ったまま歩みを進める。
「あんた、死ぬ気だろ」
すれ違いざま、池部良の言葉が高倉健の耳を打つ。
「止めるな」
返答は短かった。
その声に含まれた凄まじい悲哀と覚悟を感じ取り、池部良は「やれやれ」と肩をすくめた。
高倉健は無言のまま、闇の奥へと歩みを進める。
池部良は当たり前のような顔をして、高倉健の後に従った。
「……止めるなと言ったはずだが」
低い声を受けて、池部良が笑う。
「止めねえよ」
「じゃあなんでついてくる」
「天下の高倉健が死ぬって言ってんだ。止めはしねえよ。だが、いっしょに死んでやるやつが一人は必要だろ?」
高倉健は眉をひそめ、軽薄な笑みを浮かべる池部良の目をじっと見つめた。
「遅れたら置いていくぞ」
「へいへい、分かってますよ」
池部良は高倉健の横に並び、楽しそうに首を鳴らした。
「で? これからぶった斬りに行くのは誰をなんだい?」
「皇帝」
池部良は目を丸くし、高倉健の横顔をまじまじと見つめた。
普通の人間が言えば、九族殄戮の不敬な冗談だ。だが、この高倉健という男は、生まれてこのかた一度たりとも冗談など言ったことがない。
池部良の唇が愉快そうに歪む。
「ハハハッ、こりゃあいい! 相手にとって不足なしだぜ」
* * *
深夜の大明宮。
王守澄の手引きにより、禁軍の目をすり抜けた高倉健と池部良は、皇帝の寝所である中和殿の廊下に潜んでいた。
王守澄が事前に語ったところによれば、皇帝は数ヶ月前より一人で奇妙な儀式を行うようになったという。
「天下十大高手と称されるおぬしたちであれば、陛下を……いや、あの化物を討ち取れるやもしれぬ」
王守澄はそう言って、二人を殿内へ導いた。
寝所の巨大な朱塗りの扉を前にして、高倉健と池部良は足をとめた。
扉の隙間から溢れ出てくるのは、この世のものとは思えぬ、ドロリと澱んだ禍々しい気配であった。
刀山剣林をくぐり抜けてきた高倉健にとっても、生まれて初めて経験する不気味な濁気である。
池部良の顔色が微かに変わった。
「この気配には覚えがあるぞ。かつて西域で出会った、異形の神を奉じる魔教の信徒どもから感じたものと同じだ」
池部良は「どうする」と尋ねるように目配せをしたが、高倉健は表情を変えず、重厚な扉をドンと押し開けた。
部屋の奥。龍の彫刻が施された豪華な寝台には、一人の男が座していた。
皇帝の証である龍袍を纏ったその者の肌は死人のように青白く、瞳は血のように赤く光り輝いていた。
皇帝——いや、皇帝の姿をした何者かは、口元に気味の悪い笑みが浮かべ、深夜の侵入者を睥睨した。
「小賢しい宦官どもめ。おとなしく我の贄になっておればよいものを、刺客などを送り込むとはな」
皇帝が発した声は、金属をこすり合わせる音を二重三重に重ねたような、不快な響きを持っていた。
池部良が剣の柄に手をかける。
「貴様、人間ではないな。何者だ!」
「ククク……我が名を尋ねるか、卑小にして不敬なる人間どもよ! よいだろう、望むなら聞かせてやろう。而して絶望せよ!」
皇帝の皮を被った怪異が、両腕を広げて哄笑する。
「我こそは万物の主にして、無限の宇宙の最奥に蠢く盲目の痴愚神アザトース——!」
その名を聞いた瞬間、池部良の顔が引きつる。
「な、何だと!? ま、まさか無限無窮の宇宙の最奥、沸騰し湧き立つ原始の混沌の中心に在るという、あのアザトースか!?」
アザトース——池部良はその名に覚えがあった。かつて戦った魔教徒から奪った古文書に記されていた、最強の邪神の名である。
池部良の反応を見た怪異は、満足げに唇を曲げ、さらに言葉を続けた。
「……の、従兄弟の初恋の人の友達の隣の家に住む者、アザッス・チィーッスである!」
——ダンッ!
激しい音を立てて、池部良が床に倒れ込み、額を床に打ち付けた。
「うわっはっは! 我が威名の前に自ら叩頭するか、脆弱にして愚昧なる者よ」
「ちがうわ、このアホ!」
速やかに立ち上がった池部良は、額に青筋を立てて叫んだ。
「『従兄弟の初恋の人の友達の隣の家に住む者』って、それただの他人だろ!! なんだよアザッス・チィーッスって! 聞いたこともねえぞ、そんなやつ!!」
そのツッコミに、アザッス・チィーッスは激高して地団駄を踏み、龍袍の袖を激しく振った。
「な、なんだと……! こ、この……! 虫ケラめが! このアザッス・チィーッスを無名と誹ったな! 〈闇の勤労を司るもの〉、〈空虚なる気合いの邪神〉、〈ゾス!のツーブロックゴリラ〉の異名を持つ、大宇宙の社畜たるこの我をっ!」
「ますます知らんわボケ!」
池部良がアザッス・チィーッスに怒号を浴びせる中、高倉健はただ静かに、一歩前に踏み出た。
そして目の前で演じられている茶番など目に入っていないかのように、澄んだ瞳で律儀に口上を述べ始めた。
「こちら、大唐は長安の市井に生きる者、高倉健とお言申す。本日参上つかまつりやしたのは、他でもございません。先日、あんたに理不尽に命を奪われた小梅という女の仇討ちでございやす」
「うっせーな! 殺した宮女のことなんざいちいち覚えてねーつーの! 大事な話してんだから邪魔すんな!」
アザッス・チィーッスは苛立ったように手を振った。
だが、高倉健は何も聞こえなかったかのように静かに懐から一尺の匕首を抜き放ち、静かに間合いを詰めていく。
その身から発せられる気迫——数多の修羅場を生き抜いた男が放つ殺意に、邪神であるはず(たぶん。きっと)のアザッス・チィーッスが思わず「ひっ」と声を漏らし、退いた。
「な、なんだお前! く、来るな! 我が怖くないのか!」
高倉健は答えない。ただ、深い怒りと悲しみを湛えた目でアザッス・チィーッスを見すえ、ゆっくりと歩を進める。
「か、かくなる上は……我が秘儀を受けよ! 唸れ、必殺狂気怪電波! ゾス!」
アザッス・チィーッスが気合いの声とともに頭を振ると、周囲の空間が歪み、ピロピロピロという間の抜けた怪音が響いた。
直撃を受けた池部良が、「グッ……!」と頭を押さえて膝をつく。
「頭に、昔……門派が滅んだ時の惨劇が……ちくしょう、これは……摂魂術か……! やめろ、俺の中から出ていけ!」
苦悶する池部良。
しかし、高倉健は違った。
怪電波を正面から浴びながらも、眉一つ動かさず、抜き身の匕首を携え、ただまっすぐに距離を詰めていく。
「な……なぜ効かん!? ゾス! ゾス! ゾス!」
動惑するアザッス・チィーッスに対し、高倉健は悲しげに目を細め、ぽつりと呟いた。
「……女がね、死んだんですよ。……一人寂しく。皇帝陛下だか邪神だかなんだか知らねえが……そういう筋のとおらねえ真似は、許すわけにはいかねえんです」
消え入りそうなほど低く、静かで、しかし誰しもが耳を傾けざるをえない、哀切を秘めた声色であった。
アザッス・チィーッスは、己の全存在を脅かす本当の恐怖を感じ取った。
「あああああああ! 人間如きが我を恐怖させるか! 死ねい! ゾスッ!」
邪神(自称)は皇帝の皮を破り捨て、背中から数本の生臭い触手を噴出させると、高倉健めがけて突き出した。
銀光が一閃する。
疾風の如き速さで振るわれた高倉健の匕首が、触手をことごとく斬り飛ばしたのである。闇の中に紫色の怪血が舞う。
「ふう、助かったぜ、兄弟……! やろう、舐めた真似してくれたな!」
正気を取り戻した池部良が、長剣を抜いてアザッス・チィーッスに跳びかかった。
「触手は俺に任せろ! 本体は頼んだぜ!」
二人の天下十大高手による完璧な連携。剣と匕首の連撃により、アザッス・チィーッスはあっという間に中和殿の隅へと追い詰められた。
「ままままま、待て! 待つのだ愚かなる人間ど……いえ、お待ちください、お人間様」
全身を傷だらけにしたアザッス・チィーッスは、命乞いのように両手を合わせた。
「そ、そうだ、取引をしよう! この暗殺が成功しても、お前たちに待っているのは謀反人としての死だ! あの狡猾な宦官どもは、きっと貴様らに罪を着せるだろう。だが、我を見逃すならば……お前を次の皇帝にしてやってもいい! 悪くない話だろ? なあ」
だが、それは無駄でしかなかった。高倉健は匕首を腰だめに構え、体当たりをするようにアザッス・チィーッスの懐に踏み込んだ。
「あいにく……自分、ぶきようなんで」
復讐の匕首は、狙い違わずアザッス・チィーッスの腹部を深く貫いた。
「グォ……ッ!?」
邪神は目を見開き、吐血しながら高倉健の顔を見つめた。
目は血走り、口の端からは荒い吐息と血の泡を吹いている。
「ぐぼぉ……さ、最後に……。最後に一つだけ……教えてくれ……。いまの『ぶきよう』……というのは……『不器用』なのか……? それとも……『武侠』なのか……? どっち……なんだ……?」
高倉健は何も答えず、刺さった匕首を無言でグイと捻った。
「アアアアアアアアアァァァァァッッ!!!」
断末魔の悲鳴とともに、アザッス・チィーッスの体は黒いもやとなって霧散し、中和殿の床にはただ、皇帝の冷たい骸だけが残された。
静寂が戻った部屋で、高倉健は匕首の血を懐紙で静かに拭うと、鞘に収めた。
そして一言も発することなく、踵を返して歩き出す。
池部良は苦笑いを浮かべ、その背中に続いて歩き出した。
* * *
『旧唐書』の憲宗本紀は、皇帝・李純の死を「大明宮の中和殿に崩ず。享年四十三。時に暴崩を以て、皆、内官陳弘志の弒逆と言うも、史氏諱みて書かず」と記す。
つまり後世の史家は皇帝暗殺という凶事を歴史の闇へと葬り去ろうとしたというのだ。
ゆえに、高倉健たちのその後の足跡は定かではない。
そして彼が発した「ぶきよう」が、「武侠」であったのか、それとも「不器用」だったのかも、歴史の狭間へと消え去った。
すべてを知るのは、深淵の闇のみである……。




