起こるわけがない革命を思う夜
「社会は変わらない」
真っ暗な外を眺めていた男は、冷めたコーヒーの表面に映る自分の顔を見つめ、心の中で呟いた。
社会という巨大なシステムは、いつだって大多数が形成する枠組みの中から「優秀」とされるものを選び出し、その大多数の未来を維持するためだけに決定を下していく。枠組みの中で許された安全な変革――それが彼らの言う「改革」であり、枠の外に追いやられた者が夢見るようなドラマチックな変革など、歴史上ただの一度も起きはしない。
もしそれが起きたなら、人はそれを「革命」と呼ぶのだろう。
だが、現実には革命など起きない。……あの「BIの乱」が起きるまでは。
◇
きっかけは、拍子抜けするほどささやかなものだった。
夜更けの画面越し、とあるインフルエンサーが画面に向かって3冊の古い本を掲げた。バートランド・ラッセルの『怠惰の讃歌』、ポール・ラファルグの『怠ける権利』、そしてヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』。
「勤勉や勤労が尊いなんていうのは、誰かが作った都合のいいルールに過ぎない。僕たちに必要なのは、生きるための労働から解放されること――そう、ベーシックインカムなんだよ」
男の結びの言葉は、最初は単なる「よくある極論」として片付けられるはずだった。
しかし、社会の基本OSに密かな違和感を抱いていた者たちが、一斉にその言葉に飛びついた。YouTubeには怒涛の勢いで解説動画が溢れかえり、インフルエンサーの思想をトレースしたような配信者がSNS上に乱立した。
「人間の真の姿、そして幸福は、世間のいう『堕落』の中にこそある」
若者を中心に火がついたその熱狂を、マスメディアは容赦なく叩いた。「社会を壊す堕落の思想」「現実を見ない甘え」と。
だが、世間が叩けば叩くほど、対立の構図は鮮明になり、熱量は内部で高圧に圧縮されていく。世の中がピリピリとした緊迫感に包まれる中、決定的な一打が放たれた。
あるテレビ番組の生放送後、若者の一人が政治家に飛びかかり、殴り倒したのだ。被害に遭ったのは、番組内で「若者の堕落」を最も苛烈に批判していた論客の議員だった。
暴力をきっかけに世論の緊張が極限に達したその夜、渦中のインフルエンサーは、静かに、しかし決定的な動画を投稿した。
「既存の社会が変わらないなら、自分たちで国を作ろう」
画面に映し出されたのは、日本近海に浮かぶ一つの島だった。すでにインフルエンサーとその出資者たちの手によって極秘裏に買収され、居住インフラと通信環境が完璧に整備された島。
「行こう」という呼びかけに応じ、何千人もの若者が、まるで憑き物が落とされたかのように島へと渡った。
彼らはそこで、既存の国策に頼らない「独自の経済圏」を立ち上げた。ネット上に構築された自動化システムと分散型金融の仕組みが、昼夜を問わず莫大な利益を生み出し、島民全員に無条件で給付される――彼らは自力で「ベーシックインカム環境」を構築してみせたのだ。
本土の世間は猛反発した。批判の言葉をどれほど飾ろうと、その本音はただ一つ。「ズルい」だった。
欲望と妬みは、最も感染力の強い毒だ。
影響力を持つ著名人や起業家たちが、次々とその手法を真似し始めた。日本各地の離島や過疎地が買収され、独自の「ミニBI国家」が群立していく。
そして、その真似事はついに、個人や企業の枠組みを完全に突破した。
「本日をもって、北海道は日本国からの独立を宣言する」
画面の中で宣言する知事の顔に、冗談の色彩はなかった。日本の食糧基地であり、広大な土地を持つ北海道の離脱宣言。
もはや、本土の権力者たちも「傍観者」でいることは許されなかった。
物流が止まり、経済が崩壊の危機に瀕した国家は、なりふり構っていられなくなった。緊急招集された国会。重々しい扉の向こうには、各独立国を名乗る領袖たちが集められていた。
激しい議論の末、歴史上類を見ない不可思議な妥協案が可決された。
――日本全土における、ベーシックインカム制度の正式導入。
後に「BIの乱」と呼ばれることになる歴史の転換点だった。後世の研究者たちは、この一連のドミノ倒しのような狂想曲について「すべては、あの最初のインフルエンサーが裏で緻密に引いたシナリオ通りだった」と結論づけている。
◇
男はコーヒーのカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。画面を消し、静まり返った部屋の中でフッと口元を緩める。
歴史教科書に載るような出来事は、いつだって遠い世界の話だ。
現実の社会は変わらない。……そう、こんなドラマチックな「乱」は起きない。
「さて」
男はキーボードに手を置いた。
「それじゃあ、自動でベーシックインカムができる仕組みの構築に勤しむとしようか」
画面に立ち上がるコードの配列。「無利害な遊び」の領域を作るために、男は静かにタイピングを始めた。本棚には3冊の本が眠っていた。




