トリトニアの伝説 外伝20 夢のあとで
この作品はトリトニアの伝説の外伝です。
一平とパールの新婚生活第二弾。いえ、夜想曲、無言歌、ジュ・トゥ・ヴ、と数えれば第四弾、かな?
時系列は「守人讃歌」内、外伝10「無言歌」の続きになります。
物語の背景
海人と地上人との混血児一平はトリトニアの王女パールとの結婚にこぎつけた。
一平の守人就任と二人の婚姻の儀が行われたのは二日前だ。
幼さの抜けきらないパールを何とか導き、初夜を迎えた二人だったが、翌日は仕事が舞い込み、一平はパールに独り寝をさせてしまった。
右宮に帰宅して目にしたのは官能的な夜着で寝台に横たわる妻の姿だった。
葛藤の末、一平はパールをそのまま寝かせておくことにしたが、目は冴え渡り、明け方ようやっと眠りにつくことになったのだった。
(起こした方がいいのかな…)
そろそろ食べてもらわないと、この後支障が出る。パールは気合を入れて一平の元に向かった。
新婚三日目の朝である。昨晩部下に呼び出された一平は夜半を過ぎても帰ってこなかった。先に目覚めたパールは朝餐の支度に勤しんでいたところだ。
「一平ちゃん…」
耳元で囁く。一平が僅かに身動ぎする。いつも端正な顔が子どものように無防備なさまを晒しているのを目にして、パールの胸はきゅんとなる。
ずっと見ていたい。でも妻の務めを果たさなくちゃ、とパールは一平を起こすべく最強の手段に出た。僅かに開いた唇に自分のそれを重ねた。
一昨日一平がしてくれたみたいにしてみようかと、いたずら心が顔を出す。
一平の反応は素早かった。すでに起きていたかのように、いきなり腕をパールの首に回して引き寄せた。
(ん…んん…)
逃れようにも逃れられない。本当に起きているのか、それともまだ夢の中なのか、パールにはわからなかった。やっと離して見開いた目は、パールの姿を捉えて幸せそうに笑っていた。
パールの身体中に幸福感が広がった。
「おはよう」
ご飯食べよう、と言おうとして言い直す。副科で習ったのはそうではない。
「朝餐の用意ができました。旦那様」
夢だったのか。いや、夢じゃない。一平の頭は混乱していた。パールをこの腕に抱いてキスをして…。幸せな夢が現実に起こったことだとようやく確信する。
パールは身を翻して食卓へと彼を誘う。
「パール、昨夜は…」
「?」
「約束を破って悪かった…」
「約束?」
何のことだろうとパールは首を傾げた。
「疲れていたようだったから起こさなかった」
どこか気まずそうに一平は目を泳がせる。
毎日して、と言ったことか、とパールは気づいた。
「今からしても…いいだろうか?」
図々しい申し出だと思ったが、パールなら否とは言うまいと思った。
パールはきょとんとしたが、意味を把握するとダメ、と言った。
一平はショックで愕然となる。パールは怒っているのだろうか?
「パールにも…昨日の挽回をさせて!?」
挽回って何だ?と今度は一平がわからない。
「またブルッフさまを待たせちゃうよ!?」
それを聞いてやっと納得した。昨日あまりにもバタバタして遅刻しそうになったことを言っているのだと。
「今朝はちゃんとお支度できたから早く来て」
断られた…。少なからず、一平は消沈した。
(食えればそれでいいのに…)
一平にとって食事とは見栄えや食材などを吟味したものでなくてもよいものなのだ。そんなことに時間を費やすのなら自分の腕の中にいて欲しいと思うが、守人の妻としての責務を果たそうと意欲的なパールの姿は称賛に値する。
パールはもう部屋着に身を包んでいる。着席しながら一平は問うた。
「…あの夜着はどうした?」
「見た?」パールは少し躊躇しながら言葉を継いだ。「…片付けたよ。似合わないし、恥ずかしいから」
ちぇ。似合わないどころか、めちゃくちゃ駆り立てらたのに、と一平は腐る。
そんな一平の心境など思いもよらずにパールは食事を並べている。
「見て。今日は上手くできたの。昨日のより美味しそうでしょ?」
「あ…ああ…」
言われて目をやると、パールの奮闘の賜物が並べられていた。
「確かに…」
客観的に見ても上出来と言える見映えだった。
「いつのまにこんなに…うまくなったんだ?」
お世辞ではない。忌憚のない意見、正直な感想だった。
「ふふーん…」
褒められてパールは鼻高々である。手を後ろで組んで得意そうに胸を反らせている。
その姿を見て、一平の脳裏にある光景が甦った。
―もしや…―
一平は立ち上がりパールの方に身を乗り出した。パールの背後に素早く手を伸ばし、片腕を掴み上げた。
「???」
いきなり右の手首を掴まれて面食らうパール。
だが一平の視線はパールの手首から先に注がれている。
―ない―
頭に描いたものがないことに安堵するが、一平が探しているものはおそらく左手にあるはずだ。
―こっちか!―
即座に手を離し、左の手を掴んで持ち上げる。
「!!!」
「な…何なのよお…」
一平の動作のスピードにパールはついていけていない。しかも、していることは不可思議な行動だ。
唐突に始まり唐突に終わった動きの終着点はパールの左手を凝視することだった。
「.…よかった…」
一平の口から安堵の息が漏れる。
「ど…どうしたの?一平ちゃん…」
問われて一平は我に返る。
「あ…すまん…。めちゃくちゃ…怪我をしているんじゃないかと…」
「えええ?」
パールは刃物の扱いが苦手だ。そのため料理が苦手になってしまう。料理には様々な工程があるが、地上のように煮炊きができるわけではないので包丁さばきが主な技術となるためだ。
料理刀の鋭さが怖く、手が震えがちになるパールは、すぐ小さな切り傷を作ってしまう。
青科の副科で修行中の頃は生傷が絶えなかった。天下の癒しの力の主も自身を治療することだけはできず、自然治癒力に頼る他なかった。
治してもらうばかりだった一平はその事実をずっと憂えていた。
あれだけの力がありながら自分を治せないという矛盾に、なぜ神はもっと見返りを与えてくれないのか、と。
だが今日のパールの手は傷ひとつなかった。
右利きのパールが料理刀を持つのは右手だ。刃を入れる食材は左の手で持つことになる。従って怪我をするのは常に左手ということになる。
昨日はどうだっただろう?
いや、慌ただしくてそんなことに気づく余裕はなかった。
しかも初夜の直後とあって侍女たちも気を利かせたのか、昨日の朝餐は大方準備ができていたのだ。
晩餐は確か…フィシスもやって来て手伝ってくれていた。
つまりパールが一人で食事を整えたのは今回が初めてということだ。
一平のために…。
不覚にも熱いものが込み上げて来た。
一平は己が両手でパールの両手を包み、拝むように眼前に捧げ持った。
「!?」
パールは全く訳がわからない。
「…ありがとう…パール…」
真摯な声が、眼下から聞こえる。
「…ここまで…努力してくれたんだな…。オレのために…」
パールの傷のない手に一平は口付けた。
努力、と聞いてパールは目を瞠く。
一平は自分を称賛してくれているのだ。
未熟ではありすぎるけれど、それ故に努力はした。頑張ったのは確かだ。その姿を、自身も訓練や任務に明け暮れていた一平は見ていない。パールのおしゃべりやフィシスからの耳打ちで凡そのことを把握していたに過ぎない。
パールの精進を、一平は今初めて喜んでくれているのだと、パールは受け取った。
「うん、そうだよ…」
パールは頷いて、自分の手の甲から唇を離さない一平の髪に顔を埋めた。
彼の匂いが立ち上ってくる。この香りに包まれて共に過ごす権利を得た喜びが身体中に染み渡る。
共に夜を過ごして、一平がいかに自分を大切に慕わしく思っているのか、どんなに自分のことを求めているのか、パールは実感した。
自分の想いを、彼は自分の気持ちを殺してまで、優しく受け止めてくれていたのだ。何も知らず、甘えてばかりの自分を、一平はどんな気持ちで見ていたのだろう。どんなに苦しかったのだろうか。
自分は彼の想いに応えることができたのだろうか。
これから先、彼を支えていくことができるのだろうか。
彼と一緒になるために切磋琢磨してきたことは本当に役に立つのだろうか。
守人としての仕事で一平が右宮を空けている間、パールはそんなことをひとり考えていたのだ。
けれど一平は言ってくれた。気づいてくれた。
パールが一生懸命努力してきたことを。
それが一平を想ってのことだということも。
―報われた―
パールは生まれて初めてそう思った。そして言った。
「…だから、早く食べて。一緒にご飯食べよう」
「ああ…」
パールの呼び掛けにようやっと上げた一平の顔は、パールが一番好きな表情をしていた。
慈愛のこもった優しい優しい微笑みを投げ掛けると、すぐそばにあったパールの唇を啄み、再び笑った。
朝餐の席に着くとその身は離れたが、心はずっと寄り添っていた。
真に夫婦となれたのだ。
そんな感傷が二人の幸せの坩堝の中で巡り巡って、時がゆっくりと流れていった。
(トリトニアの伝説外伝19 夢のあとで 完)
フォーレの「夢のあとで」という曲が好きです。
美しく、もの悲しい調べが。
そこまで哀愁を帯びた話ではないですが、どこかで使ってみたかったフレーズを題名にいただきました。
もう一編、二人のイチャイチャをお届けしようと思っています。




