第7話 転校生の朝
日本の空気は、9年前と同じ匂いがした。
けれど、胸の奥で揺れるものは、あの頃の俺とは何も同じじゃない。
アパートの薄いカーテン越しに朝日が差し込み、目を開ける。
「……今日か」
ベッドの上で、天井をしばらく見つめていた。
畳の上に敷いた布団は薄く、背中が少し痛い。
隣の部屋のテレビの音が壁越しに漏れている。
外では、犬の散歩をしている老人の足音がする。
全部、普通の生活の音だ。
9年間、爆音の銃声だとか、怒号だとか、鉄と血の匂いに囲まれていた俺にとって、この“静かな朝”は逆に落ち着かなかった。
ゆっくり身体を起こし、制服に袖を通す。
鏡に映ったのは、15歳になった自分
すこし鋭い目つき。
髪は短めで清潔に切ってある。
肩幅は同年代より少し広め。
無駄な脂肪はなく、ジージに鍛えられた筋肉が薄く浮いている。
普通の高校生の皮を被ってはいるが、中身はまるで違う。
(バレないようにしないとな)
拳を握ると、今でもジージに掴まれた跡が残っている気がする。
心の中で深く息を吸って、吐く。
“普通の生活”は演技から始まる。
アパートを出ると、秋の風が肌を撫でた。
制服の上着を着ていてもちょっと寒い。
9年前のこの季節、俺は日本の小さな家のリビングで、家族と何気ない夕ご飯を食べていた。
胸の奥がきゅっとなる。
「……行くか」
意識を切り替えるように、歩き出す。
校門までは徒歩15分ほど。
通学路には学生の影が多く、途中で女子の笑い声や、自転車のブレーキ音が聞こえる。
「ねぇ聞いた? 今日転校生来るって!」
「うそ、今の時期に?」
「海外から来たって噂!」
前を歩く二人組の女子が、そんな会話をしていた。
俺のことだ。
噂だけが先に歩いてるのが、不思議な気分だった。
そして。
学校の正門に辿り着いた瞬間、空気が変わった。
門の前にたむろしている連中。
金髪、赤髪、ピアス、大きな声。
スポーツ強豪校はどこも怪物みたいな不良が混ざっていると聞いていたが、想像以上だ。
「てめぇ昨日のLINE無視すんじゃねーよ」
「いやお前のほうこそ金返せって言っただろ」
殴り合い寸前の会話をしながら笑っている。
(あー、こりゃあれだな……)
本気で人を殺しにくる連中を何百人も見てきた俺からすれば、この学校の“不良”なんて、子犬みたいなものだ。
だけど、俺は普通を貫かなきゃいけない。
(無駄な目立ちは避けろ)
ジージの教えを思い出しながら、彼らから適度に距離を置き、校舎へ向かった。
体育館の横を通ると、すでに運動部の掛け声が響いている。
「走れぇえええ!!」
「はいっ!!!」
かけ声と足音が美しく揃っていて、思わず横目で見る。
短距離のエースらしき男が、風を切るような走りをしていた。
強豪校の実力は本物だ。
同時に、ああいう“真っすぐ努力している奴ら”は嫌いじゃない。
(部活か……)
そう思いながら校舎に入った瞬間――強烈な騒音。
廊下は生徒が溢れ、笑い声、怒鳴り声、靴音。
光景が一瞬だけ、9年前の“血のリビング”のノイズと重なった。
胸の奥が、ぐっと苦しくなる。
(大丈夫……ここは安全だ)
自分に言い聞かせるように深呼吸した。
1年3組の教室に辿りついた。
ガラガラと扉を開ける。
全員の視線が一斉に俺へ向いた。
(……これ、結構きついな)
教師が俺を手招きした。
「えー……今日から三組に転入することになった、
神代 遥希くんだ」
(神代はあかねにもらった名字だ)
俺は教卓横に立ち、クラスを見渡す。
不良が数人。
普通っぽい子が十数人。
オタク風の男子もいる。
そして――
窓際の席の、黒髪の女子。
彼女は、俺を見た瞬間、少しだけ目を丸くして。
すぐにふわっと笑った。
胸が一瞬だけ跳ねる。
柔らかい雰囲気の笑顔で、誰かに向けられた笑顔を見るのは久しぶりだった。
俺は軽く頭を下げる。
「……神代です。今日からよろしくお願いします」
それだけ言って、席に向かう。
席は、その黒髪の女子の隣だった。
腰を下ろした瞬間。
「よろしくね」
小さな声で彼女が話しかけてきた。
声のトーンが柔らかくて、思わず呼吸が浅くなる。
(女の子と話すの……久々なんだけど)
ギャングの屋敷でも女子はいたが、あれは“戦闘要員”やら怪物だった
年頃の同年代の女の子が隣に座っている、という状況に、どう返せばいいか迷う。
「あ、ああ……よろしく」
思った以上にぎこちない声が出てしまった。
彼女はくすっと笑って、机に教科書を広げた。
その横顔を見て、胸が少し温かくなる。
(……ほんとに戻ってきたんだな)
そう思えた瞬間だった。




