第6話 ただいま
飛行機の窓の外で、雲がゆっくり流れていく。
離陸してからどれくらい経っただろう。
機内アナウンスが淡々と何かを告げているけれど、耳には入ってこなかった。
膝の上に置いたパスポートと、数枚の書類。
日本の戸籍。
新しい住所。
編入先の高校の資料。
全部、茜が整えてくれたものだ。
俺はそれを見下ろしながら、小さく息を吐いた。
(……帰る、のか)
帰る場所は、もうあの日の“家”ではない。
でも、日本という国自体は、俺の“生まれた場所”だ。
9年ぶりに踏む地面の感触が、どんなものなのか想像できなくて、心臓が落ち着かない。
窓に額を軽く当てる。
冷たいガラスの向こうで、青と白の景色が混ざり合っていた。
あの日、血の海の中で終わったはずの世界。
茜とジージがくれた9年。
そしてこれから始まる、新しい生活。
全部が、ぐちゃぐちゃに混ざっている。
(……見ててくれよ)
(俺、もう一回やり直してくるから)
日本の空港に降り立った瞬間、胸の奥で何かがざわついた。
空気の匂い。
アナウンスの声。
周りを歩く人たちの話し声。
全部、日本語だ。
9年間、外国語と日本語をごちゃ混ぜに使ってきた耳には、その“日本語だけの世界”が、逆に不自然なくらい静かに感じられた。
手荷物を受け取り、入国審査を抜ける。
税関を越えると、見慣れたブランドの看板や、自動販売機が並んでいた。
世界で一番安全そうに見える、整った空港ロビー。
でも、その“整いすぎた景色”が、今の俺には少しだけ怖かった。
茜が用意してくれた日本円を財布に移し、最初の目的地へ向かう。
この国で、一番最初に行かなきゃいけない場所。
電車を乗り継ぎ、さらにバスに揺られて坂道を歩く。
空は少し曇っていて、風が冷たかった。
茜が教えてくれた住所を確かめながら、
俺は石段を一段ずつ登った。
そこには、たくさんの石碑が整然と並んでいる。
静かだ。
鳥の声と、木々の揺れる音だけが聞こえる。
ふと、胸の奥がざわついた。
何年も前に嗅いだ血の匂いじゃない。
線香の、柔らかい匂いだ。
紙袋から、用意していた花を取り出す。
白い小さな花と、少し色のついた花束。
あの日、道端で摘んだあの花に似ている。
線香に火をつける。
煙がふわりと立ち上り、鼻をくすぐった。
墓石に刻まれた名前は、知っている名前だった。
父さん。
母さん。
兄ちゃん。
じいちゃん。
ばあちゃん。
5人の名前が、1つの墓にまとめられている。
俺はしばらく、何も言えなかった。
言葉にしようとすると喉が詰まって、線香の煙だけが視界をぼやかす。
やがて、ようやく一言だけ出た。
「……ただいま」
それは、6歳で置き去りにした言葉だった。
本当なら、あの日の夕方に言うはずだった言葉。
保育園から帰ってきて、玄関を開けて、笑いながら叫ぶはずだった挨拶。
9年遅れで、やっと言えた。
「遅くなって、ごめん」
小さく頭を下げる。
花を供えて、線香を立てる。
煙が空へ昇っていく。
「俺、生きてるよ」
ぎゅっと握った拳が震える。
「勝手にひとりで、生き残って……勝手に、こっちで強くなって……勝手に、日本に帰ってきた」
あの日の俺が見たら、どう思うだろう。
悔しがるだろうか。
安心するだろうか。
それとも、怒るだろうか。
「……今さらだけどさ」
墓石に向かって笑ってみせる。
「俺、もう一回ちゃんと生き直そうと思う」
「だから、見ててよ。……」
(それが、今さらできる唯一の親孝行だよね)
風が、ふっと吹いた。
線香の煙が揺れて、すぐにまたまっすぐ空へ伸びていく。
返事なんかあるはずないのに、その揺れを“うん”と言われたみたいに感じてしまう自分が、少し恥ずかしかった。
墓の前で泣くのは、今日はやめた。
泣くのは、全部終わったときでいい。
俺は、墓石にそっと手を当ててから、ゆっくりと頭を下げた。
「……行ってくる」
墓地を後にして、最後に向かったのは“あの家”だった。
バスを降りて、懐かしい道を歩く。
歩道の割れ目。
電柱の落書き。
コンビニの位置。
全部、あの頃のままだった。
ただひとつだけ違うのは、俺の背の高さだ。
6歳のときには見上げていた看板の位置が、
今は目の高さにある。
角を曲がる。
そこに――“実家”があった。
薄いベージュの外壁。
2階建ての、ごく普通の家。
玄関のドア。
ポスト。
駐車場の、ひびの入ったコンクリート。
見た目は、ほとんど何も変わっていない。
けれど、窓は全部閉ざされていて、カーテンも閉まったままだった。
人の気配が、まるでない。
鍵は、とっくの昔に警察と役所の人間が扱ったあとだ。
今は管理会社が管理していて、簡単には入れない。
俺は、門の前で立ち止まった。
鉄の門扉に手を触れる。
冷たい金属の感触が、9年前の記憶を引っ張り出す。
血の臭い。
壊れた机。
倒れたテレビ。
あの日のリビングの光景が、頭の中にフラッシュバックしてくる。
「……」
深呼吸をひとつ。
目を閉じてから、もう一度開く。
この家はもう、あの日の“血の家”じゃない。
警察が全部片付けて、掃除もされて、綺麗になっているはずだ。
ただの“空き家”。
それでも、俺にとっては、ここがすべての始まりだった。
「普通の暮らし、ね」
小さく呟く。
この家で、普通の暮らしをしていた頃の自分と、今の自分を想像する。
あの日の続きの世界がもしあったなら――俺はきっと、スポーツがちょっと得意なだけの、どこにでもいる中学生になっていたのかもしれない。
でも、そうはならなかった。
世界は勝手に、俺を“ギャングの家族”に引きずり込んで、ジージの弟子にして、今ここに連れてきた。
「……戻れないなら、進むしかないか」
俺は門扉から手を離し、背を向けた。
この家にはもう、入らない。
ここは、俺が“過去を置いてきた場所”として、心の中だけに残しておく。
普通の暮らしは、この先で拾い直せばいい。
住む場所は、もう決めてあった。
茜が用意してくれた紹介状で駅から少し離れたボロアパートの一室を借りた。
高校もいわゆる裏口入学ができた
正面から受験してもよかったけれど、今の俺には、中学の正式な卒業証明書も、日本の内申書も整っていない。
そこで、茜が動いた。
『ここの理事長、昔ちょっとだけ借りがあってね』
そう言って笑ったときの茜の顔は、普段より少しだけ悪党だった。
書類上は“秋からの編入生”。
理由は“親の仕事の都合で海外にいたため”。
それで、俺は“普通の高校1年生”として、
秋から1年3組に入ることになった。
もちろん、学校には俺の過去のことは一切伝わっていない。
家族が殺されたことも。
ギャングの屋敷で育ったことも。
ジージの弟子として訓練していたことも。
全部、俺の胸の中だけの秘密だ。
(ここからだ)
アパートの薄い壁を背にしながら、俺は制服の襟を直した。
15歳。
秋からの転校生。
普通の高校生としての“1日目”が、始まる。




