第3話 じーじとの出会い
その日から、僕は茜の屋敷で暮らすことになった。
屋敷は広かった。
迷子になるくらい長い廊下。
いくつあるのか分からない部屋。
庭には小さな池があって、見たこともない植物が植えられてる。
毎日、怖い顔をした男たちが出入りしていた。
腰には銃みたいなものをぶら下げている人もいれば、目が笑っていない人もいる。
最初、僕は彼らを見るたびに身体を固くしていた。
でも、すぐに気づいた。
彼らがひとりの老人に対してだけ、やけに丁寧な態度を取ることに。
「ジージ、おはようございます!」
「おはようございます、ジージ!」
廊下を歩いていたとき、角を曲がった先でそんな声が聞こえた。
声の主は、大男だった。
スキンヘッドで、腕には刺青。どう見ても“怖い人”なのに、腰を九十度近く曲げてペコペコしている。
「そんなにかしこまらんでいいと言っておるんだがなぁ」
それに答える声は、年季の入ったやさしい声だった。
細身の老人が、ゆっくりと歩いてくる。
背筋はまっすぐで、白い髭を顎にたくわえている。
歳は六十代くらいに見えた。
着ている服は、シンプルなカーディガンとシャツ。
だけど、その立ち姿は妙に“隙”がなかった。
僕は、思わず物陰から見つめてしまった。
「おや?」
老人が、こちらに気づいた。
目が合う。
怖い人たちに囲まれて暮らしていたせいで、
“大人と目が合う”こと自体が少し怖くなっていた俺は、条件反射みたいに肩をすくめた。
ところが――
「きみが、例の子か」
老人は、ふわっと顔を綻ばせた。
さっきまで怖い人たちに向けていたときとは、全然違う表情。
目尻にしわが寄って、少し猫みたいな目になる。
「初めまして。わしは――」
長い名前を名乗られたけど、正直一回では覚えられなかった。
茜が後ろからひょこっと顔を出す。
「あー、じーじ家帰ってたんだ」
「最近流行のゲートボードに行って追ったんじゃ」
ジージは、当たり前みたいに俺の頭を撫でた。
「お主もやってみるか?」
その手つきが、どこかで知っているものとよく似ていて、胸がきゅっとなった。
それから、ジージは俺の“世話係”になった。
朝起こしてくれるのも、
朝ごはんを作ってくれるのも、
昼に勉強を見るのも、
夜に本を読んでくれるのも、全部ジージ。
茜は忙しかった。
屋敷の外と中で起こる色んなことを、ほとんど一人で捌いているみたいだった。
たまに一緒にご飯を食べてくれる日もあったけれど、毎日は無理だった。
その代わり、ジージはいつもそばにいた。
「ジージ、これ分かんない」
「どれどれ。……ふむ、これは日本とこの国で考え方が違うからなぁ。こういうときは――」
勉強のことはもちろん、世界のこと、日本のこと、この国のこと、色んな話をしてくれた。
「ジージって、昔何してたの?」
ある日、スープを飲みながら何気なく聞いた。
ジージは少しだけ目を細めて、遠くを見る。
「昔は……そうだな。少しばかり“力仕事”をしておっての」
「ちからしごと?」
「うむ。今、外で歩いとる怖い顔のお兄ちゃんたち、いるじゃろう」
さっき、大男たちに囲まれていた姿が頭に浮かぶ。
「わしも昔は、ああいう“仕事”をしとった」
そう言って微笑んだ瞬間――廊下の向こうで聞き耳を立てていた大男が、びくっと震えるのが見えた。
僕はそれに気づいて、目を丸くする。
「じゃあ、ジージ……強いの?」
素直な疑問だった。
怖い人たちはみんなジージに敬語で、腰を低くして話す。
茜でさえ、ジージにはどこか親しみと敬意を混ぜたような態度を取っている。
ジージは、少し照れたように笑った。
「昔はね」
「今はただの老いぼれじゃよ」
「ふーん……」
僕はスープを飲みながら、ぼんやりとジージの横顔を見つめた。
優しそうな顔なのに、時々ふっと、何も考えていないような目になる瞬間がある。
その“無の瞬間”が、妙に怖かった。
怖いのに、なぜか安心もする。
そんな感覚は、生まれて初めてだった。
あの日から、三年が過ぎた。
僕は九歳になっていた。
茜の屋敷での生活にも、もう慣れていた。
朝はジージと一緒に日本語とこの国の言葉を勉強して、昼からは庭で体を動かす。
夕方にはジージと一緒に台所に立って、晩ごはんの手伝いをする。
夜は、たまに茜が帰ってくる。
「ただいま」
コートを脱いで、ソファにどさっと座り込む。
外でどんな顔をしているのか想像もつかないくらい普通の女性だ
テレビを見ながら、僕の頭を膝に乗せて撫でる。
それだけで、胸のどこかにずっと残っていた冷たい石が、少しだけあたたかくなる気がした。
でも――
僕の心は、まだ完全には癒えていなかった。
夜、ひとりで部屋にいるとき。
ふとした瞬間に、あの血の匂いを思い出す。
目をつむると、倒れた家族の姿が脳裏に浮かぶ。
母さんの冷たい手。
父さんの動かない背中。
兄ちゃんの、二度と開かない目。
じいちゃんとばあちゃんの、乾いた唇。
(守れなかった)
その言葉が、胸の奥で何度も繰り返される。
僕はあの日、見ていることしかできなかった。
何もできなかった。
泣いて、叫んで、それだけ。
もし、あのとき――僕に力があったら。
ギャングみたいに強かったら
そんな“もしも”が、夜の闇の中で何度も顔を出しては、僕の心を掻きむしる。
(強くなりたい)
それは、いつの間にか、願いというより呪いに近いものになっていた。
「ジージ」
ある日、僕は道場みたいな畳敷きの部屋で、ジージに声をかけた。
ここは屋敷の一番奥にある、広い部屋だ。
壁には古い武器や、見たこともない道具がかかっている。
「なんじゃ?」
「僕も……強くなりたい」
それは、ようやく口に出せた本心だった。
今までも、何度かジージに「体を動かしたい」「外で遊びたい」とは言っていた。
けれど、“強くなりたい”と、はっきり言ったのは、このときが初めてだった。
ジージは、しばらく黙っていた。
僕は、不安になって口を噤む。
断られたらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
そんな不安が、胃のあたりでぐるぐる回る。
やがて、ジージはゆっくりと口を開いた。
「……そうか」
その声は、どこか嬉しそうで、どこか寂しそうだった。
「強くなって、どうしたい?」
まっすぐな問いだった。
僕は、少しだけ考えてから答えた。
「誰も……死なせたくない」
言葉にした瞬間、目頭が熱くなる。
僕は唇を噛んだ。
ジージは、じっと僕を見つめていた。
やがて、ふっと目を細める。
「……よし」
その一言で、胸が跳ねた。
「じゃあ、少しだけ――“特訓”でもしてみようか」




