第22話 ヤクザの事務所
翌日。
朝のホームルーム前。
こはるはいつも通り俺の隣で教科書を出していた。
「昨日、走るフォーム褒められてたよ」
「誰に」
「体育の先生。
“お前、なんで陸上入ってないんだ”って」
「知らん。俺はマネージャーだ」
「……なんか、そういうとこ、遥希くんらしい」
こはるは柔らかく笑った。
こはるの笑顔を眺めながら、
ふと思う。
(普通の高校生なんだなぁ)
少し信じられない気持ちになりながらも、
それは悪くなかった。
昼休み。
いつものように、こはるが隣に弁当を持って座る。
「いただきまーす」
「いただきます」
一口食べてから、俺は箸を置いた。
「悪い、ちょっと行ってくる」
「え? どこ行くの?」
「ニ組。人さらってくる」
「こわいよ?」
こはるが苦笑する。
「戻るから待ってて」
「……うん」
了承をもらって、俺は弁当を持ったまま二組へ向かった。
二組の教室に入ると、
相変わらず空気は重かった。
教室の後ろでは、
ヤクザの息子とその取り巻きが、
湊を囲んでいる。
購買のパンやらジュースやらをテーブルに並べさせ、
誰かが足で椅子を蹴って笑っていた。
「おーい」
とりあえず声をかける。
湊がびくっと肩を揺らした。
俺の存在に気づいた亜蓮が、前の方の席から手を振る。
「遥希、また来たの?」
「腹減ったからな」
「で、二組に来るなよ」
「うちより環境悪いの見てると、飯がうまくなる」
「サイコパス?」
「褒め言葉だな」
そんなやり取りをしつつ、
俺は湊のいるほうへ歩いた。
「よっ」
「ひっ……!」
湊が肩をすくめる。
「飯、食わね?」
だが湊は、顔を真っ青にして、周りを見回した。
デクの棒が、あからさまにこちらを睨んでいる。
「や、やめてください……」
湊がかすれた声で言った。
「ぼ、僕に話しかけないでください……」
冷たく、というより、
必死に“突き放そうとしている”声だった。
(……俺を巻き込みたくねぇんだな)
分かりやすいくらいの自己犠牲。
こういう奴が、一番危なっかしい。
「やだ」
「……え?」
「お前と飯食いたい」
周りから小さな笑いが起きた。
「転校生、なにあれ」
「絡まれに行ってない?」
亜蓮も、口元を押さえてくすくす笑っている。
「や、やだって……」
「やだ」
「だから、やめ――」
「やだ」
完全に駄々っ子ムーブ。
自分でも何やってんだと思う。
だが、ここで“普通のやり方”しても意味はない。
この空気を、少しでも崩さないと。
そう思っていたところで
「おーい、なに騒いでんの?」
耳障りな声。
デクの棒が立ち上がる。
教室の空気が、一段階重くなった。
金髪に近い茶髪。
ピアス。
笑っているのに、目だけ笑っていない。
典型的な“親の威光を着て歩いてるガキ”だ。
「お前、誰?」
デクの棒が、顎をしゃくりながら言う。
「三組の転校生」
「ふーん。で?」
「今からこいつと飯食いに行く」
軽い口調で言ってみせる。
教室の空気が止まった。
湊が絶望した顔をした。
デクの棒は、まず湊を見てから、
再び俺に視線を戻した。
「お前、こいつの友達なん?」
「友達なんかじゃないです!」
湊が慌てる
必死に否定してくるのが、
逆に胸に刺さった。
(巻き込みたくねぇもんな)
デクの棒は鼻で笑う。
「だってよ。
とっとと消えてくれね? ここ、俺のクラスなんで」
「……そうか」
俺は一度、亜蓮のほうを見た。
亜蓮は、明らかに心配そうな顔をしていた。
(ここでやるのは、違ぇな)
ここで派手にやり合うのは簡単だ。
でも、そうしたらこの学校全体に余計な火種をばらまくことになる。
こはるや亜蓮、クラスの連中にまで影響が出る。
それは、違う。
俺は肩をすくめた。
「……分かった。じゃ、またな」
そう言って、教室を出た。
背中に向けて、クスクスと笑い声が聞こえる。
だが、どうでもよかった。
――部活が始まるまでの時間、
俺はずっと、“別のこと”を考えていた。
放課後。
部活が終わってから、
俺は一人で街の外れへ向かった。
五人組から聞いていた住所。
裏路地を抜けた先に、その事務所はあった。
古い雑居ビルの二階。
しかし、玄関の空気は、懐かしい匂いで満ちていた。
タバコ、酒、油、男の汗。
(……久しぶりだな、こういう空気)
インターホンを押すと、中からガラガラとドアの鍵が開く音がした。
「どちらさん?」
スーツの男が顔を出す。
「話がある。カシラと」
「は?」
当然の反応だった。
だが、時間をかけて説明している暇はない。
「大事な用だ。
あんたらにはメリットしかねぇ話だ」
視線を合わせたまま、感情を殺す。
数秒の沈黙。
やがて男は、めんどくさそうにため息をついた。
「……ちょっと待ってろ」
ドアが閉まり、しばらくの沈黙のあと、
再び開く。
「カシラがお会いになるってよ。
変な真似したら殺すからな」
「物騒だな」
「そういう商売だ」
中へ通される。
事務所の中は、思ったよりも整頓されていた。
奥のテーブルに、ひときわ存在感のある男が座っている。
年の頃は五十代前後。
こめかみに白髪が混じり、
スーツの襟元から見える刺青がちらりとのぞく。
「……ガキじゃねぇか」
カシラは煙草をくわえたまま、じろりと俺を見た。
「で、用件は?」
「ひとつ、取り引きがしたい」
俺は、テーブルの前に立って言った。
「俺はあんたらの願いを一つだけ叶える。
その代わり
息子をどーにかしてくれ」
空気が、ピキッと固まる。
カシラは、口の端だけで笑った。
「ははぁ。なるほどな。
うちのガキが、学校で好き放題してるって話は、ちらっと耳に入ってたが」
煙草の灰を落とす。
「ガキに何ができる」
「色々できるさ」
俺は、笑わなかった。
「ここにいる全員を殺せ、って言われても困らねぇくらいには、できる」
静かに、淡々と告げる。
空気が、変わった。
さっきまで俺を笑っていた若い衆の目が、一斉に見開かれる。
カシラだけは、じっと俺を見つめていた。
数秒の沈黙のあと、
ククッと喉の奥で笑う音がした。
「おもしれぇ」
その笑いは、さっきまでの“上から目線”の笑いとは違っていた。
「ガキの冗談に聞こえねぇのがたち悪ぃな、お前」
「冗談じゃねぇんで」
「いいだろう」
カシラは煙草を灰皿に押し付けて消した。
「なら、条件を出す。
――うちと抗争中の組の幹部を、一人ここへ連れてこい」
その名前を聞いた瞬間、
事務所の空気がさらに張り詰めた。
若い衆が、息を呑む。
「それができたら。
あのガキはもうオメェの目の前に現れねぇ
ガキのやらかしに大人を巻き込むのは、正直こっちも面倒でな」
「分かった」
即答して、俺は踵を返した。
背後で誰かが「は?」と声を上げたが、
もう聞いていなかった。
一時間後。
何があったかは、省略する。
ただ、それなりに汗をかいて、
それなりに面倒なことをして、
それなりの“説得”をした。
そして、再び事務所のドアを開けたとき
俺は、ぐったりと気を失った男の襟首を片手で掴んでいた。
「連れてきた」
事務所の中が、静まり返る。
カシラだけが口元を歪めた。
「……マジかよ」
驚きというより、呆れに近い声だった。
幹部と呼ばれた男は、椅子に縛り付けられ、
目隠しをされた。
カシラは立ち上がり、軽く一礼した。
「約束は守る。
ガキの後ろ盾は、今日でおしまいだ」
「助かる」
「こっちの台詞だ。
この件は、内密にな」
「ああ。誰にも言わねぇよ」
「学校も、あのガキにも。
“大人の都合”ってやつだ」
そう言って、カシラは目を細めた。
「変なガキだな、お前」
「よく言われる」
背を向けて、事務所を出た。
外は、とっくに暗くなっていた。
冬の空気が、やけに冷たく感じた。




