第18話 デットヒート
ラスト10メートル。
アンカー地点が目の前に見えてきたところで。
「こはるーーーーー!!」
誰かが叫ぶ。
こはるが、最後の一歩を踏み出そうとしたその瞬間
「きゃっ!」
小さな悲鳴が聞こえた。
次の瞬間、こはるの身体がぐらりと傾く。
「――あ」
足が、トラックの白線に引っかかった。
そのまま、前のめりに崩れ落ちる。
砂埃がふわっと舞う。
観客席から悲鳴が上がった。
「うそでしょ……!」
「こはるちゃん!!」
俺の喉からも、声が漏れた。
「っ……!」
こはるは、手と膝をつきながら、必死に顔を上げた。
アンカー地点まで、あと数歩。
だけど――身体が動かない。
その顔は、信じられないものを見た子どものように、
ただただ絶望で固まっていた。
(……まずい)
時間が、またゆっくりになる。
こはるは、フリーズしていた。
目の前で順位が変わっていく。
三組は、あっという間に二位から四位へ。
さらに、五位へ。
「こはる!!」
俺は無意識に叫んでいた。
「諦めるな!!」
こはるの肩が、びくっと揺れる。
その声が届いたのかどうかは分からない。
でも、こはるは膝をつきながらも、バトンを握り直した。
滲んだ目のまま、俺を探すように顔を上げる。
アンカー地点に立つ、俺と目が合った。
泣きそうな顔のまま。
それでも、必死に腕を伸ばしてきた。
震える手から、バトンが渡される。
「ごめ……」
何かを言おうとしていたが、その声は最後まで出なかった。
俺は短く言った。
「任せろ」
それだけ言い残し、地面を蹴った。
足が動き出した瞬間、
世界の音が消えた。
風の音だけが、耳の奥で鳴る。
(……久しぶりだな)
“走る”ことだけに集中する感覚。
地面からの反発、
筋肉の収縮、伸び、
空気の抵抗。
全部、昔の感覚をすぐに思い出した。
最初の50メートルで、すでに五位と四位の差はほとんどなくなっていた。
足音が、すぐそこにある。
“勝ちに行く”
「うおおお三組来た!!」
「誰だあれ!!」
観客の声が、ざわざわと波立つのが分かる。
正直、細かい周りのことまでは見ていない。
ただ、目の前の背中の数だけ見えた。
一人抜く。
もう一人抜く。
四位。
三位。
100メートル地点を過ぎたときには、三組はすでに三位に上がっていた。
肺が熱い。
喉が焼けるようだ。
けれど、まだ余裕はある。
(行ける)
無意識にそう判断していた。
前には二つの背中。
そのさらに前に、一つだけ遠い背中がある。
全国優勝したことがあると言われている、一組のアンカー。
(……面白ぇじゃねぇか)
口元が、少しだけ笑った。
150メートル地点。
俺は、二位のクラスの背中を捉えていた。
肩が、すぐ隣に見える。
相手がこちらに気づき、驚いたように顔を上げた。
俺はそのまま、一歩分だけ前に出る。
二位に浮上。
残り50メートル。
一組のアンカーはさすが全国優勝者。
フォームも綺麗で、最後まで崩れない。
だが、その背中も、
少しずつ大きくなっていた。
(届く)
そう思った瞬間、視界の隅に、誰かの姿が見えた。
こはるだ。
さっき転んだ場所の近くで、立ち上がって俺を見ている。
膝には砂がつき、手も赤く擦りむけている。
それでも、目はしっかり開いていた。
(こいつの“悔しさ”も、背負ってるわけか)
ほんの少しだけ、足に力を込めた。
残り30メートル。
差はまだ数メートル。
残り20メートル。
ほとんど並ぶ。
残り10メートル。
完全に肩が並ぶ。
風の音が、耳の中で爆発する。
全国優勝の男が、横目で俺を見る。
一瞬だけ、表情が歪んだ。
(悪いな)
最後の一歩。
地面に足を叩きつけるように蹴り出す。
身体を、前に倒す。
胸をテープに叩きつけるイメージで――
バンッ
胸にテープの感触が走った。
同時に、観客席から割れんばかりの歓声が上がる。
「三組!!」
「三組一位だぁーーーっ!!」
実況役の教師がマイクで叫んでいる。
俺は減速しながら、息を吐いた。
肺が痛い。
脚が重い。
だけど気持ちは、なぜかやけにスッキリしていた。
(あー……走ったな)
ゴール後、三組の連中がわーっと雪崩れ込んできた。
「やべぇ!!」
「マジかよお前!!」
「遥希、お前何者だ!!」
誰かが肩を叩く。
誰かが抱きついてくる。
五人組の不良ですら、「すげぇっす……!」と半泣きで言っていた。
「……言ったろ。期待すんなって」
「どこがだよ!!」
「期待超えてきたわ!!」
担任もやってきて、俺の頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「よくやったな、転校生」
こはるが、少し遅れて駆け寄ってきた。
膝と手の傷は、そのままだった。
「ごめん……!」
開口一番、それだった。
「私が転ばなかったら、……」
「いや、あれは仕方ないだろ」
「でも」
「最後の直線まで、
あそこまで持ってきたのこはるだぞ」
素直にそう思った。
こはるが諦めてたら俺でも届かなかっただろう。
「……かっこよかったぞ」
こはるの顔が、一気に真っ赤になった。
「な、なにそれ……!」
「そのまんまの意味だよ」
「う……」
こはるは言葉を失い、俯いてしまった。
耳まで赤い。
(……言いすぎたか?)
自分の発言に、自分で少し驚いていた。
こんなこと、今まで誰かに言ったことがない。
「とりあえず、保健室行け。
傷、ちゃんと見てもらえ」
「……うん」
こはるは、少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔は、いつもの“作った笑顔”じゃなくて、
本当に心からホッとしたような笑顔だった。
その瞬間だけは、
俺も“走ってよかったな”と素直に思えた。




