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終末の刻限  作者: はゆめる
第三章
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一日目 邂逅

光が弾け、視界が戻った。


水の中だった。


膝下まで浸かる冷たさ。足元で青白い紋様が脈動している。


顔を上げる。


石柱が整然と立ち並ぶ空間。高い天井を支える太い円柱が、闇の奥へと続いている。


始原の塔、第五層。祈りの泉の広間。


前回、泉の中央には像が立っていた。


祈りの頭衣を深く被り、水瓶を肩に抱えた像。


水瓶から絶え間なく流れ落ちる水が、聖歌のような響きを広間に満たしていた。


今は、ない。


迷宮側から起動した際に、あの時と同じように水底に沈んだのだろう。


広間の奥に、扉が見える。


ハルは水を蹴った。


飛沫が上がる。石柱の間に、自分の足音だけが響く。


巨大な石の扉。


扉に手をかけた。


古い石の感触。


一気に押す。重い軋みを上げて、扉が開いた。


光が溢れ出す。目を細めながら、その奥を見た。


薄い金色の繭。柔らかな光を放つその膜の中で、白銀の髪の女性が静かに目を閉じている。穏やかな寝顔のまま、五百年。ずっとこの姿勢で、待っている。


ハルは歩み寄り、繭に手を伸ばした。


指先が光の膜に触れた。波紋が広がり、金色の光がゆらぎ、薄れ、消えていく。


女性の睫毛が、かすかに震えた。ゆっくりと瞼が開く。深い紫の瞳が焦点を探るように揺れ、やがて——ハルを捉えた。


「……ん」


小さな声。まだ焦点が合っていない。


瞬きを繰り返す。何度も、何度も。


やがて、両手を顔の前にかざした。指を開いて、閉じて。自分の体を確かめるように。


「ふわぁ……」


大きな欠伸。両腕を天に伸ばし、背筋を反らす。骨が軋むような音がした。


「……重い」


呟いて、首を回す。


「んー……よく寝たわ」


「セレナ」


ハルは一歩踏み出した。


「ロスティアの仮面とは、何だ」


「ハル?」


セレナが目を瞬かせた。


「ハル!何よいきなり。感動の再会でしょう、五百年ぶりなのよ?」


ハルは答えなかった。ただ、セレナの目を見つめている。


「……待って」


セレナの紫の瞳が、ハルの胸元に向けられた。三重の円環。


「私を起こしたの、何度目?」


「二度目だ」


セレナの表情から、軽さが消えていく。


「私を起こしたのに、死んだ……?」


呟くような声だった。


「セレナ、教えてくれ。ロスティアの仮面とは何だ」


ハルは繰り返した。


「前の時脈で、君が教えてくれた」


「——私が?」


「僕が死ぬ間際に、君がそう呟いていた。その仮面の剣士に殺されたんだ」


セレナは身を起こした。繭の残滓が、金色の塵となって舞い落ちていく。


「ロスティアの仮面……」


静かな声だった。


「私が、そう言ったのね」


長い髪を払い、ハルの顔を見上げた。


「どんな姿だった」


「白い仮面だ。今の王国の七英傑の一人らしい。ニョルドと名乗っていた」


セレナの目が、わずかに細まった。


「……英傑」


呟くように繰り返す。


「昔——エルフの師から聞いた話なのだけど」


セレナは立ち上がり、広間の闇を見つめた。


「東の辺境に、小さな公国があったの。ロスティア公国」


セレナの視線が、一瞬だけハルの胸元——三重の円環に触れた。


「私たちの時代から二百年前の話」


「今からだと七百年前、か」


声は低かった。


「王国の輪廻兵に粛清されたらしいわ」


「でも——」


セレナが振り返った。


「彼らは、ただ滅ぼされたわけじゃない」


「どういう意味だ」


「師は、ロスティアに招聘されていたの」


「対抗策の研究。輪廻兵を倒すための——あるいは、輪廻兵に匹敵するための」


ハルは黙っていた。


「精神の仮面」


セレナが言った。


「肉体が滅びても、意識を器に移す術。被った者の精神を乗っ取り、その連鎖が永遠に続く」


「……永遠に」


「師は、完成を見届けることなくロスティア公国を離れたわ。理由は聞いていない」


セレナの声が沈む。


「でも、研究は続いていたはず。公国が滅ぶ、その日まで」


ハルの脳裏に、あの仮面の剣士の姿がよぎった。


「奴は言っていた」


ハルが口を開いた。


「輪廻兵とステイシアの血族を、根絶やしにすると」


「……輪廻兵と、ステイシアを?」


セレナの目が細まった。


「ロスティアは輪廻兵に滅ぼされた。そして輪廻兵を生み出せるのはステイシアの血族だけ」


セレナが腕を組んだ。


「輪廻兵とステイシア、両方を恨んでいるなら——仮面に宿っているのは、ロスティアの生き残りね」


「七百年……」


ハルが呟いた。


「七百年、復讐を続けているのか」


「器を渡り歩いて、ね」


「だが——」


ハルが眉をひそめた。


「なぜ王国の英傑なんかに収まっている?」


「さあ。そこまではわからないわ」


セレナが息を吐いた。


「ただ、もし本当にそうなら——厄介どころの話じゃないわね」


二人とも、しばらく口を開かなかった。


「でも」


先に口を開いたのはセレナだった。


「今の私たちには、直接どうこうできる相手じゃない」


「それより——」


セレナがハルの目を見た。紅い瞳を、真っ直ぐに。


「決意は変わらない?」


ハルは、セレナの目を見た。


「変わらない」


「僕は瘴気を封じる」


「魂犠の玉座で——」


「ああ」


静寂。


セレナは何も言わなかった。


ただ、小さく頷いた。


「……わかったわ」


声は静かだった。


「私にできることは、全部やる。最後まで」


「だが、その前にやることがある」


「ニョルドね」


「あいつを放置したままでは、ネルフェルの血を引く者が——」


「今の王は誰なの?」


「イレニア・ディ・エルヴァンディア」


セレナの眉が動いた。


「……エルヴァンディア? ステイシアじゃなく?」


ハルは頷いた。


「そうだ、なぜかネルフェルの名も残っていないらしい。どの歴史書にも」


ユーメリナが言っていた。祖母から受け継いだ水晶板に映る英雄——その名は、どこにも記録されていない、と。


「それに——」


言葉を切る。


「アウレリウスが、狂王と呼ばれていると聞いた」


長い間があった。


「……あの子が」


セレナが呟いた。


「五百年か。……いろいろ、あったのね」


兄の背中を追いかけていた、若い王子。


ネルフェルとハルを慕い、いつも二人の傍にいたがった青年。


その彼が、狂王。


セレナが腕を組んだ。


「ニョルドの件も、歴史の件も、調べるには協力者が必要ね。この時代の」


協力者。


ハルは考えを巡らせた。


ユーメリナか。いや、今は聖都にいる。


アストライア。いきなり女王に会えるはずがない。


ガルト。髭面。グリム。


いや——そもそも、彼らは歴史を知っているのか?


歴史。消された歴史。


それを知る者がいなければ、何も始まらない。


——待て。


脳裏に、声が蘇った。




『この銀貨に刻まれた人物は、歴史書にも出てこない。いないことになっている』




あの枢機卿。銀貨を見た瞬間、顔色が変わった。


知らなかったからではない。


知っていたからだ。


「一人、心当たりがある」


「教会の枢機卿で、ヴェルメールという男だ」


「知り合いなの?」


「前の時脈で会った。何かを知っている目だった」


「ただ、敵対する可能性もある。前回は——戦闘になった」


「でも、他に手がかりがないなら、賭けるしかないわね」


セレナが肩をすくめた。


「ああ。だが——」


ハルが眉をひそめた。


「枢機卿だ。いきなり会えるとは思えない」


「伝手はないの?」


「……待て」


脳裏に、アストライアの声が蘇った。




『カサンドラが……ヴェルメール枢機卿のもとで古い文献の管理を司っていた』




そしてユーメリナの声。




『孤児院を支援されていて……よく足を運んでいらしたと』




「カサンドラ」


ハルが呟いた。


「七英傑の一人で、教会の大司教だ。ヴェルメールの下で働いている」


「その人に繋いでもらう?」


「ああ。孤児院によく足を運んでいると聞いた」


「なら、まずそこからね」


セレナが頷いた。


セレナが転移の術式を描く。


「王都への転移は、私がやるわ」


「この塔は起動しなくていいのか」


「塔の力は一時的なものよ。瘴気を払っても、すぐに玉座に向かわなければ意味がない」


セレナが首を振った。


「今はまだ、起動しない方がいいわ」


「こんなこともあろうかと、この塔に来る前に王都に寄って座標を刻んでおいたのよ」


セレナが得意げに笑った。


「五百年前の私、偉いでしょ」


光が広がり、二人を包み込んでいく。


「さあ、行きましょう」


セレナが手を差し出した。


「五百年分の仕上げ、始めるわよ」


光が弾けた。


二人の姿が、消えた。


後には、静寂だけが残った。


崩れかけた書物の塔が、沈黙の中に佇んでいる。

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