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終末の刻限  作者: はゆめる
第二章
34/37

五日目 終末の刻限

混沌の迷宮、第六層。


転移の光が収まった時、ハルは巨大な空間に立っていた。


足元で、何かが軋んだ。


見下ろすと、床一面に白いものが積もっていた。雪のようだが、冷たくはない。踏みしめるたびに、かすかな音を立てて崩れていく。


塔から放たれた光が瘴気を祓った、その残滓だろうか。




天井は暗闇に溶けて見えないほど高く、幾重にも連なる石柱が巨人の肋骨のように並び立っている。


苔むした石の表面には、かつての栄華を物語る精緻な彫刻の痕跡があった。


だがその輪郭も、白い堆積に覆われて朧げだ。


空気が、澄んでいた。


瘴気の気配は微塵もない。


「まるで昨日のようだわ」


セレナが呟いた。


「まあ、体感では実際昨日なのだけれど。寝ていたから」


軽い口調だった。


だが、その瞳は神殿の奥を静かに見つめていた。


ハルもそちらを見た。


神殿の中央、古い台座がある。その上には——何もなかった。


「あら?」


セレナが首を傾げる。


「書物がないわね。誰かが持っていったのかしら」


ふと、視線が動いた。


神殿の隅。薄闇の中に、何かがあった。


五つの、灰色の塊。


人の形を留めていない。


だが、かつて人であったことは——わかった。


その上にも、白いものがうっすらと積もっている。


まるで、彼らの眠りを妨げまいとするかのように。


セレナは静かに歩み寄り、その前で足を止めた。


白い堆積を踏む音だけが、神殿に響く。


目を閉じ、小さく頭を下げる。


長い沈黙。


誰も、声をかけなかった。


黙祷。


名も知らぬ、ここで果てた者たちへの。


やがて、セレナは静かに顔を上げた。


「……さて」


顔を上げた時、その表情からは感傷が消えていた。


振り返り、全員を見渡す。


「ここから先は、私も行ったことがない」


石段があった。


神殿の奥、台座の向こう。


下へと続く階段が、黒い口を開けている。


かつては瘴気に阻まれていた道。


今は、静かに沈黙している。


「加えて」


セレナは肩を竦めた。


「五百年、塔に魔力を注ぎ続けてきたから。私の戦力はあんまり期待しないで」


「おう、姐さんの身は俺が守ってやるぜ」


髭面が胸を叩いた。


「ちなみに俺の名前は——」


「ここはどこだ」


アストライアと髭面の声が重なった。


「我らは今どこにいる。これから何をするんだ」


髭面が口を開きかけ、閉じた。


肩を落とす。


「奥に向かいながら話しましょう」


セレナが歩き出した。


「ここは混沌の迷宮の第六層。大神殿よ」


石段を降りていく。


足音が、虚空に吸い込まれていく。


「ハル」


振り返らずに、セレナが言った。


「何か思い出した?」


ハルは答えなかった。


答えられなかった。


この場所に、覚えはない。


だが——何かが、胸の奥で疼いていた。


ここは重要な場所だ。


そう告げる、強い感覚。


あと少し。あと少しで、すべてを思い出せそうな——


「……いや、まだだ」


ハルは首を振った。


「でも、なんとなくわかる。僕たちは……ここで、重要な何かを約束した」


セレナの足が、一瞬止まった。


「そう」


静かな声だった。


「私が話すのは簡単よ。でも——ちゃんと思い出して、自分で決断しなければ意味がない」


振り返る。


その瞳が、真っ直ぐにハルを見つめた。


「もう少し、頑張りましょう」




第七層は、巨大な列柱廊だった。


荘厳な、という言葉では足りない。


ここにも白い堆積が降り積もっていた。六層よりも深く、足首まで埋まるほどに。つい先刻まで、この層にも濃密な瘴気が満ちていたのだろう。


左右の壁は磨かれた暗銀石で覆われ、等間隔に設えられた燭台には青白い炎が灯っている。誰が灯したのか。いつから消えずに燃え続けているのか。


天井には星図のような紋様が刻まれ、淡い光を放っていた。


まるで、神殿の中を歩いているようだった。


「そもそも、何から聞けばいい」


アストライアが言った。


「瘴気とは何だ。なぜ今、溢れ出している。そして——私たちは何をすればいい」


セレナは歩きながら答えた。


「瘴気は、古来から生命を苦しめてきた厄災よ」


声が、列柱廊に反響する。


「世界を覆い、あらゆる生命を絶滅させる。そしてまた生命が繁栄し、また瘴気が溢れる。その循環を、数千年という周期で繰り返してきた——と言われているわ」


「言われている?」


「神殿にあった文書に、そう書いてあったの」


セレナは肩越しに振り返った。


「簡単に言えば、それを封印するのがこの迷宮の役割。そして——」


視線が、ハルに向いた。


「そのためには、ハルの決断が必要なの」


「……僕の、決断」


「最近になって瘴気が溢れ出したのは、なぜだ」


アストライアが問うた。


「元は今から五百年前に、瘴気が出現したの」


セレナは前を向いた。


「それを、ある偉大な王が——五百年、猶予を伸ばしてくれた」


ちらり、とハルを見る。


その視線の意味を、ハルは掴めなかった。




「何か来るぜ!」


髭面が叫んだ。


大通路の奥。青白い炎に照らされた闇の中から、影が這い出てきた。


灰色の肌。肥大化した腕。人の形を歪めた、醜悪な姿。


異形だ。七体。


「ゆくぞ」


アストライアが前に出た。


片手を掲げ、素早く詠唱する。


魔力が弾けた。


風が、全員を包む。体が軽くなる。世界が、ほんの少しだけ遅くなったような感覚。


「おお、身が軽いぜ!」


髭面が戦斧を振り回した。


巨大な刃が唸りを上げ、異形の胴を両断する。


黒い血が飛び散った。


アストライアも自らの暗銀剣を抜く。


刀身に魔力が纏わりつく。青白い光を帯びた剣が、一閃。


異形の腕が、宙を舞った。


無駄のない軌道。


返す刃で、首を断つ。


ハルは暗銀剣を構えた。


刀身が淡く光る。


セレナを背に庇いながら、迫る異形を迎え撃つ。


剣が閃く。一体目の首が落ちる。


二体目が腕を振り上げた。


躱す。懐に入る。心臓を貫く。


三体目が横から——


詠唱。セレナの声。


冷気が奔った。


異形の体が、一瞬で凍りつく。氷の彫像と化した異形が、白の中に倒れて砕け散った。


静寂が戻った。


七体の異形は、すべて沈黙していた。


ふと、ハルは振り返った。


白い堆積の中に、四人分の足跡が続いていた。


誰も踏み入れたことのない道。遥かな時の沈黙を破って、今、自分たちだけが歩いている。


「……先へ進みましょう」


セレナが言った。




大通路を歩きながら、アストライアが口を開いた。


「では、塔に魔力を満たせと書いてあったのは——」


「ああ、さっきの六層に置いてあった書物ね」


セレナが頷いた。


「あなたが無事、手に入れたのね」


「ああ」


アストライアの声が、低くなった。


「大いなる犠牲を払ってな」


ハルの脳裏に、顔が浮かんだ。


アスモダイ。剣聖と呼ばれた男。


カサンドラ。大司教。ユーメリナが、死んだと言っていた。


さっきの灰。


あれが、英傑たちの末路だったのかもしれない。


「……」


ハルは唇を噛んだ。


もし英傑隊に同行できていたら……


「五百年前、塔は廃墟として放置されていたわ」


セレナの声が、思考を断ち切った。


「そこに魔力を満たしたのが、私」


「でも、塔の魔力で瘴気を祓えるのは束の間。根本的な解決には——」


前方に、何かが見えてきた。


「——着いたみたいね」


巨大な扉だった。


暗銀石の扉。表面には、複雑な紋様が刻まれている。


セレナが手をかざすと、紋様が淡く光り、扉がゆっくりと開いた。




そこは薄暗く広い空間だった。


王宮の謁見の間のような場所。


そのずっと奥に——


玉座があった。


目を凝らすと、玉座は暗銀の武器で作られていた。


剣、槍、斧、弓、杖——無数の武器が絡み合い、融合し、一つの座を形作っている。


青白い光を帯びた武器たちが、まるで生きているかのように微かに脈動していた。


「あれがおそらく魂犠の玉座ね」


セレナが呟いた。


「よし!」


髭面が振り返った。


「俺は入り口で見張ってる。また化け物が来るかもしれねえしな」


「ああ、ありがとう。頼む」


ハルは頷いた。


髭面は扉の傍に立ち、戦斧を構えた。


ハルは玉座に向かって歩き出した。


白い堆積が、足の下で軋む。一歩ごとに沈み込み、静寂を破る音だけが広間に響いていく。


幾星霜もの間、誰も近づくことのなかった玉座への道。


セレナとアストライアが、後に続く。


三人分の足音が、重なり合う。


「少し待って」


セレナが言った。


「時間停止の影響かしら。あなたの魔力の流れに乱れがあるわ」


ハルの周囲に、淡い光が灯る。


「少し整えてあげる。そうすれば……記憶も、思い出しやすくなるかもしれない」


目を閉じて深く息を吸い、詠唱を始めた。


低く、長い詠唱。


古代語が、空気を震わせる。


セレナの手が、ハルの額に触れた。


温かい魔力が、流れ込んでくる。


頭の奥で、何かが——解けていく。


霧が晴れるように。


氷が溶けるように。


断片だった記憶が、繋がり始める。


アストライアは固唾を呑んで見守っていた。


その時だった。




『天穹に煌めく白き極光よ……』




唐突に、遠く背後から詠唱が聞こえた。


次の瞬間、激痛が、胸を貫いていた。


見下ろすと、光の矢が深々と突き刺さっている。


すぐ傍にいたセレナが、光の余波で弾き飛ばされていた。


何が起きたのか、理解できなかった。


膝が崩れた。


白い堆積の中に倒れ込む。血が、じわりと滲んでいく。


必死に振り向くと入り口のあたり、遠くから仮面の魔法剣士が、ゆっくりと歩み寄ってきている。


手に持つ剣にはべったりと血糊がついていた。


入り口を見張っていたはずの髭面が、倒れているのが見える。


「淡い光を放つ暗銀剣……薄いが確かに紅い瞳……」


仮面の奥で、冷たい声が響く。


「やはり、輪廻兵か」


「ニョルド……?! 貴様、血迷ったか!」


アストライアの叫びが響く。


セレナの目が、ニョルドの仮面を捉えた。


「あれは……ロスティアの仮面……?」


驚きを滲ませた声。額から血が流れている。


だが、すぐに表情を切り替えた。


静かにハルの傍らに膝をつく。


「……ハル、ごめんなさい」


その声は、哀しみに満ちていた。


「この時脈では、ダメだった」


「まだ聞こえてる? 次『目覚め』たら、すぐに塔に来て」


白銀の髪が、揺れた。


「塔はもう開いているはず。待ってるわ」


「何を……」


アストライアが振り返る。セレナを、ニョルドを、交互に見る。


「何を言っている! 何が起きている!」


剣を抜き、ニョルドに向かおうとする。


「……輪廻兵とステイシアの血族は」


ニョルドの声が、仮面の奥から響いた。


「何も知らずに、哀れに死んでいけ」




アストライアが何かを叫んでいる。


だが、もう聞こえない。


冷たい白の中。広がっていく血の温もり。


視界の端で、アストライアがニョルドに斬りかかり、セレナが展開する氷の大魔法が光の矢を飲み込んでいるのが見えた。


戦いの衝撃で、白い堆積が舞い上がっている。


視界が徐々に狭まっていく。


音が遠ざかる。


剣戟の音も、詠唱の声も、雪のように舞い落ちる白い堆積も、すべてが水の底に沈んでいくように遠く、遠く。


最期に見たのは、玉座を彩る無数の暗銀が放つ、鈍い光だった。


意識が完全に途切れる、その刹那——


胸の奥で何かが疼いた。


あの祝福印が、熱く、熱く燃えている。


まるで死を拒絶するかのように。




……




虚無の中で声が響く——




『——輪廻の業を担いし者よ』




『——褪せし理を糧として』




『——流転せん』




暗闇が、すべてを呑み込んだ。

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