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終末の刻限  作者: はゆめる
第二章
33/37

五日目 宵闇の魔女

光の中に——


一人の女性が、眠っていた。


ハルは息を呑んだ。


そこは、書物の墓場だった。


左右に聳え立つのは、崩れかけた本の塔。革表紙は朽ち、羊皮紙は黄ばみ、金箔の文字は剥がれ落ちて久しい。それでもなお、知識の残骸は天を衝くほどに積み上げられ、まるで墓標のように沈黙していた。


人の叡智が、ここに眠っている。


そしてその中央に——繭があった。


薄い金色の光を帯びた繭。透き通った膜が、ゆるやかに脈動している。その内側だけ、時が止まっているかのようだった。


繭の中心に、その女性は浮かんでいた。


白銀の髪が重力を忘れたように揺蕩う。深紅のローブが、光の中でゆるやかに揺れている。閉じた瞼は安らかで、唇には微かな笑みすら浮かんでいるように見えた。


——長い髪の、女性。


頭の奥で、何かが軋んだ。


『……封印が解けたら、必ず私を起こしなさい……』


あの声だ。頭の中で弾けたあの声。顔も名前も思い出せないのに、懐かしくて、温かくて、胸が締めつけられたあの声。


——この人だ。


確信があった。


ハルは一歩、踏み出した。


崩れた書物を踏み越え、塵と化した羊皮紙を蹴散らし、光へと近づいていく。


足を止めたのは、繭の直前だった。


薄い光の膜越しに、彼女の顔が見える。穏やかな寝顔。だが、どこか——哀しげな。




ハルは、無意識に手を伸ばしていた。


指先が、繭に触れる。


——温かい。


石の扉と同じだ。冷たくない。まるで、待っていたかのように。


その瞬間、金色の繭が揺らいだ。


脈動が、早まる。


閉じられていた瞼が——開いた。


繭が、淡く震えた。光の膜が薄れ、綻び、静かに消えていく。


深紅のローブを纏った彼女の足が、ゆっくりと床に降り立った。


そして——


「ふわぁ……」


両腕を天に伸ばし、背筋を反らす。


五百年の眠りから覚めた大魔法使いは、まるで昼寝から起きた子供のように、大きく伸びをした。


「んー……よく寝たわ」


白銀の髪を指で梳きながら、ゆっくりと周囲を見回し——


ハルの姿を捉えた。


「……あら」


深い紫の瞳が、柔らかく細められる。


「ずいぶん待たせてくれたわね、ハル」


まるで、昨日の続きのように。


ハルは息を呑んだ。


——なぜ、僕の名前を。


「その目……」


彼女の視線が、ハルの瞳を射抜いた。


うっすらと紅い、瞳。


「何回『戻った』の?」


戻った。全部解ってる、『死んだ』ということか。


「……一度だ」


「そう」


彼女は小さく頷いた。


「魂犠魔法は使える?」


魂犠魔法。


聞き覚えのない言葉だった。だが——


ハルの脳裏に、あの感覚が蘇る。


暗い炎。使うたびに、何かが削り取られていくような喪失感。


「……ああ」


「気をつけなさい。あれは人間性を削る。使いすぎれば、あなたも——」


言葉を切り、ふと周囲を見渡した。


アストライア、ユーメリナ、アリサ、レイナルド、髭面——塔の最上階に集った面々を、ゆっくりと眺める。


「こんなに大勢で来るとは思わなかったわ」


くすりと笑う。


「賑やかね。あなた一人で来ると思っていたのに」


視線がハルに戻る。


「あ、ああ……」


「どうしたのよ、そんな他人行儀で」


彼女は一歩、ハルに近づいた。


「もっと抱きついてきてもいいのよ?」


ハルは思わず半歩、退いた。


「それが……記憶が、ないんだ」


彼女の足が、止まった。


「君のことも、何も……思い出せない」


口にした瞬間、自分の言葉に怯んだ。


懐かしさだけが胸に焼き付いているのに、その輪郭だけがどうしても掴めない。


沈黙が落ちた。


彼女は何も言わなかった。ただ、じっとハルを見つめていた。


やがて、静かに目を伏せた。


「……私のこと、本当に何も?」


声が、わずかに掠れていた。


「ああ……覚えていない。すまない」


彼女は黙って俯いた。


白銀の髪が、顔の半分を隠す。


その向こうで、何を思っているのか——ハルには、わからなかった。


長い時間が流れた気がした。


実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。


「……いいのよ」


彼女は顔を上げた。


その瞳には、哀しみがあった。だが、それだけではなかった。


受容。諦念。そして——それでも前を向こうとする、静かな意志。


「時間停止の術は、生命への有害事象が予測できなかった」


淡々と、だが確かな声で言う。


「記憶にまで及ぶとは思わなかったけれど……あり得ないことではないわ」


視線が、真っ直ぐにハルを捉える。


「では、あなたはこれから何を決断しなければならないか——それも、忘れているのね」


「……ああ」


「ならまずは思い出して」


彼女は言った。


「あの時の決意を、そして」


「また決めましょう。今度は……迷ってもいいのよ?」


微かに、笑みが浮かぶ。


「あの!」


声が割って入った。


ユーメリナだった。一歩前に出て、彼女を見つめている。


「あなたは……本当に、五百年前の……」


「エルフの子……?」


彼女はユーメリナの顔をじっと見つめた。


そして、目を見開く。


「あら……あなた、ユーメラーニャ? いえ、違うか」


首を傾げる。


「でも似ているわね。とても。子孫かしら?」


「おばあ様の名を……!」


ユーメリナの声が震えた。


「やはり、あなたは——」


懐から、水晶板を取り出す。


淡い光を放つ板面に、三人の姿が映し出されていた。


「これは……」


彼女は水晶板を覗き込み、ふっと笑った。


「ああ、これ私だわ。聖都防衛の時の。懐かしいわね」


指先で、板面を撫でる。


「ラーニャはまだ生きているの?」


「祖母は……もう、亡くなりました」


「……そう」


彼女は静かに目を閉じた。


「残念ね」


その声には、五百年の重みがあった。




「陛下」


アリサの声が、緊張を帯びて響いた。


「一層の扉が破られたようです。乱戦になっていると……」


アストライアの表情が険しくなった。


「話の途中で申し訳ないが」


一歩、前に出る。


「もう時間がない。瘴気を祓う方法を教えてくれ」


彼女の視線が、アストライアに向いた。


じっと、その顔を見つめる。


「あなた、途方もない時空魔術の素質を感じるわ。王族ね?」


「イレニア・ディ・エルヴァンディア。この国の王だ」


「……エルヴァンディア?」


彼女は、その名を繰り返した。


何かを確かめるように。何かを悟るように。


「……窓の外を見てくれ」


アストライアが言った。


全員の視線が、窓へと向いた。


王都の方角。


黒い靄が、地平線から這い寄ってくる。


「瘴気が、迫っている」


彼女の表情が、変わった。


先ほどまでの哀しみが消え、鋭い眼光が宿る。


「ハル」


振り返る。


「目覚めてからどのくらい経ったの?」


「……五日だ」


「五日……」


彼女は小さく息を吐いた。


「のんびりおしゃべりしてる場合じゃなかったわね」


軽く笑いながら、部屋の奥へと歩き出した。


崩れた書物の山を越え、壁際に置かれた台座の前で足を止める。


そこには、拳ほどの球体があった。


淡い光を帯びた、暗銀石の球体。


「さあハル、ここに手をかざして」


「これは……」


「塔の魔力を迷宮に放つための起動装置よ」


彼女は球体を見つめた。


「五百年かけて、魔力を満たした」


声が、静かに響く。


「王子が命を賭して時を止め、私がここで眠り続けた。すべては——この瞬間のために」


視線が、ハルに戻る。


「最後の鍵は、あなたよ」


ハルは近づき、球体の前に立った。


暗銀剣が、腰で淡く脈動している。


手をかざす。


その瞬間——


光が、爆ぜた。


暗銀剣と同じ光が、球体から溢れ出す。


眩いばかりの輝きが部屋を満たし、窓を突き破り、塔の頂から天へと昇っていく。


光の柱が、空を貫いた。


そして——落ちた。


迷宮へと、突き刺さる。


放射状に広がる閃光。王都を覆おうとしていた黒い靄が、悲鳴を上げるように裂けていく。


瘴気が、浄化されていく。


迷宮を中心に、光の波紋が広がっていく。塔を包んでいた淀んだ空気が澄み渡り、窓の外に青空が戻っていく。


光が収まった時——


世界は、静寂に包まれていた。


彼女は、窓の外を見つめていた。


「……やっと」


呟くように、言った。


「やっと、届いた」


その声には、五百年分の祈りが込められていた。


「陛下!」


アリサが叫んだ。


「ニョルド様が塔に到着されました! 形勢は一変し、魔物の群れは壊滅しつつあるようです!」


アストライアの肩から、力が抜けた。


「……よかった」


彼女は、ハルの傍らに立った。


「ハル、準備は整ったわ」


静かに、だが確かな声で言う。


「行きましょう。迷宮に」


その瞳が、真っ直ぐにハルを見つめる。


「そこでどう決断するか——すべては、あなた次第よ」




ふと、彼女は周囲を見渡した。


固唾を呑んで見守る面々を、ゆっくりと眺める。


「ああ、そういえば」


表情が緩んだ。


「自己紹介しないとね」


軽い口調だった。


だが——次の瞬間、空気が変わった。


彼女の周囲に、魔力が立ち昇る。


風もないのに、白銀の髪が揺れた。深紅のローブが翻る。


書物の塔が、軋んだ。崩れかけた本が震え、羊皮紙の欠片が舞い上がる。


魔力の奔流が、部屋を駆け抜けた。


アリサが吹き飛ばされそうになるのを、ハルが片手で支えた。




「我が名はセレナ・ヴェスペラ」




声が、空気を震わせた。




「かつて宵闇の魔女と呼ばれた——しがない魔法使いよ」




全員が、動けなかった。


だが、次の瞬間——


「なんてね」


セレナはいたずらっぽく笑った。


魔力が霧散する。空気が、元に戻る。


「みんな、名前覚えてね」


床に、複雑な紋様が浮かび上がる。


転移の魔法陣。


セレナの視線が、アストライアで止まった。


「あなたも来る?あなたの祖先が何を守りたかったか、知って欲しいかも」


近衛騎士たちが、女王の前に立とうとした。


それをアストライアが手を上げ、制する。


「言われるまでもない」


騎士たちの間を抜け、一歩、前に出た。


「私の国で何が起きているのか、この目で確かめる」


セレナが、ふっと笑った。


「いい目ね。あの王子に似ているわ」


「おれも行くぜ! ハルとは相棒だからな!」


髭面が豪快に笑った。


「ふふふ、いいわよ。さあハル、行きましょう」


セレナは、ハルに手を差し出した。

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