五日目 宵闇の魔女
光の中に——
一人の女性が、眠っていた。
ハルは息を呑んだ。
そこは、書物の墓場だった。
左右に聳え立つのは、崩れかけた本の塔。革表紙は朽ち、羊皮紙は黄ばみ、金箔の文字は剥がれ落ちて久しい。それでもなお、知識の残骸は天を衝くほどに積み上げられ、まるで墓標のように沈黙していた。
人の叡智が、ここに眠っている。
そしてその中央に——繭があった。
薄い金色の光を帯びた繭。透き通った膜が、ゆるやかに脈動している。その内側だけ、時が止まっているかのようだった。
繭の中心に、その女性は浮かんでいた。
白銀の髪が重力を忘れたように揺蕩う。深紅のローブが、光の中でゆるやかに揺れている。閉じた瞼は安らかで、唇には微かな笑みすら浮かんでいるように見えた。
——長い髪の、女性。
頭の奥で、何かが軋んだ。
『……封印が解けたら、必ず私を起こしなさい……』
あの声だ。頭の中で弾けたあの声。顔も名前も思い出せないのに、懐かしくて、温かくて、胸が締めつけられたあの声。
——この人だ。
確信があった。
ハルは一歩、踏み出した。
崩れた書物を踏み越え、塵と化した羊皮紙を蹴散らし、光へと近づいていく。
足を止めたのは、繭の直前だった。
薄い光の膜越しに、彼女の顔が見える。穏やかな寝顔。だが、どこか——哀しげな。
ハルは、無意識に手を伸ばしていた。
指先が、繭に触れる。
——温かい。
石の扉と同じだ。冷たくない。まるで、待っていたかのように。
その瞬間、金色の繭が揺らいだ。
脈動が、早まる。
閉じられていた瞼が——開いた。
繭が、淡く震えた。光の膜が薄れ、綻び、静かに消えていく。
深紅のローブを纏った彼女の足が、ゆっくりと床に降り立った。
そして——
「ふわぁ……」
両腕を天に伸ばし、背筋を反らす。
五百年の眠りから覚めた大魔法使いは、まるで昼寝から起きた子供のように、大きく伸びをした。
「んー……よく寝たわ」
白銀の髪を指で梳きながら、ゆっくりと周囲を見回し——
ハルの姿を捉えた。
「……あら」
深い紫の瞳が、柔らかく細められる。
「ずいぶん待たせてくれたわね、ハル」
まるで、昨日の続きのように。
ハルは息を呑んだ。
——なぜ、僕の名前を。
「その目……」
彼女の視線が、ハルの瞳を射抜いた。
うっすらと紅い、瞳。
「何回『戻った』の?」
戻った。全部解ってる、『死んだ』ということか。
「……一度だ」
「そう」
彼女は小さく頷いた。
「魂犠魔法は使える?」
魂犠魔法。
聞き覚えのない言葉だった。だが——
ハルの脳裏に、あの感覚が蘇る。
暗い炎。使うたびに、何かが削り取られていくような喪失感。
「……ああ」
「気をつけなさい。あれは人間性を削る。使いすぎれば、あなたも——」
言葉を切り、ふと周囲を見渡した。
アストライア、ユーメリナ、アリサ、レイナルド、髭面——塔の最上階に集った面々を、ゆっくりと眺める。
「こんなに大勢で来るとは思わなかったわ」
くすりと笑う。
「賑やかね。あなた一人で来ると思っていたのに」
視線がハルに戻る。
「あ、ああ……」
「どうしたのよ、そんな他人行儀で」
彼女は一歩、ハルに近づいた。
「もっと抱きついてきてもいいのよ?」
ハルは思わず半歩、退いた。
「それが……記憶が、ないんだ」
彼女の足が、止まった。
「君のことも、何も……思い出せない」
口にした瞬間、自分の言葉に怯んだ。
懐かしさだけが胸に焼き付いているのに、その輪郭だけがどうしても掴めない。
沈黙が落ちた。
彼女は何も言わなかった。ただ、じっとハルを見つめていた。
やがて、静かに目を伏せた。
「……私のこと、本当に何も?」
声が、わずかに掠れていた。
「ああ……覚えていない。すまない」
彼女は黙って俯いた。
白銀の髪が、顔の半分を隠す。
その向こうで、何を思っているのか——ハルには、わからなかった。
長い時間が流れた気がした。
実際には、ほんの数秒だったのかもしれない。
「……いいのよ」
彼女は顔を上げた。
その瞳には、哀しみがあった。だが、それだけではなかった。
受容。諦念。そして——それでも前を向こうとする、静かな意志。
「時間停止の術は、生命への有害事象が予測できなかった」
淡々と、だが確かな声で言う。
「記憶にまで及ぶとは思わなかったけれど……あり得ないことではないわ」
視線が、真っ直ぐにハルを捉える。
「では、あなたはこれから何を決断しなければならないか——それも、忘れているのね」
「……ああ」
「ならまずは思い出して」
彼女は言った。
「あの時の決意を、そして」
「また決めましょう。今度は……迷ってもいいのよ?」
微かに、笑みが浮かぶ。
「あの!」
声が割って入った。
ユーメリナだった。一歩前に出て、彼女を見つめている。
「あなたは……本当に、五百年前の……」
「エルフの子……?」
彼女はユーメリナの顔をじっと見つめた。
そして、目を見開く。
「あら……あなた、ユーメラーニャ? いえ、違うか」
首を傾げる。
「でも似ているわね。とても。子孫かしら?」
「おばあ様の名を……!」
ユーメリナの声が震えた。
「やはり、あなたは——」
懐から、水晶板を取り出す。
淡い光を放つ板面に、三人の姿が映し出されていた。
「これは……」
彼女は水晶板を覗き込み、ふっと笑った。
「ああ、これ私だわ。聖都防衛の時の。懐かしいわね」
指先で、板面を撫でる。
「ラーニャはまだ生きているの?」
「祖母は……もう、亡くなりました」
「……そう」
彼女は静かに目を閉じた。
「残念ね」
その声には、五百年の重みがあった。
「陛下」
アリサの声が、緊張を帯びて響いた。
「一層の扉が破られたようです。乱戦になっていると……」
アストライアの表情が険しくなった。
「話の途中で申し訳ないが」
一歩、前に出る。
「もう時間がない。瘴気を祓う方法を教えてくれ」
彼女の視線が、アストライアに向いた。
じっと、その顔を見つめる。
「あなた、途方もない時空魔術の素質を感じるわ。王族ね?」
「イレニア・ディ・エルヴァンディア。この国の王だ」
「……エルヴァンディア?」
彼女は、その名を繰り返した。
何かを確かめるように。何かを悟るように。
「……窓の外を見てくれ」
アストライアが言った。
全員の視線が、窓へと向いた。
王都の方角。
黒い靄が、地平線から這い寄ってくる。
「瘴気が、迫っている」
彼女の表情が、変わった。
先ほどまでの哀しみが消え、鋭い眼光が宿る。
「ハル」
振り返る。
「目覚めてからどのくらい経ったの?」
「……五日だ」
「五日……」
彼女は小さく息を吐いた。
「のんびりおしゃべりしてる場合じゃなかったわね」
軽く笑いながら、部屋の奥へと歩き出した。
崩れた書物の山を越え、壁際に置かれた台座の前で足を止める。
そこには、拳ほどの球体があった。
淡い光を帯びた、暗銀石の球体。
「さあハル、ここに手をかざして」
「これは……」
「塔の魔力を迷宮に放つための起動装置よ」
彼女は球体を見つめた。
「五百年かけて、魔力を満たした」
声が、静かに響く。
「王子が命を賭して時を止め、私がここで眠り続けた。すべては——この瞬間のために」
視線が、ハルに戻る。
「最後の鍵は、あなたよ」
ハルは近づき、球体の前に立った。
暗銀剣が、腰で淡く脈動している。
手をかざす。
その瞬間——
光が、爆ぜた。
暗銀剣と同じ光が、球体から溢れ出す。
眩いばかりの輝きが部屋を満たし、窓を突き破り、塔の頂から天へと昇っていく。
光の柱が、空を貫いた。
そして——落ちた。
迷宮へと、突き刺さる。
放射状に広がる閃光。王都を覆おうとしていた黒い靄が、悲鳴を上げるように裂けていく。
瘴気が、浄化されていく。
迷宮を中心に、光の波紋が広がっていく。塔を包んでいた淀んだ空気が澄み渡り、窓の外に青空が戻っていく。
光が収まった時——
世界は、静寂に包まれていた。
彼女は、窓の外を見つめていた。
「……やっと」
呟くように、言った。
「やっと、届いた」
その声には、五百年分の祈りが込められていた。
「陛下!」
アリサが叫んだ。
「ニョルド様が塔に到着されました! 形勢は一変し、魔物の群れは壊滅しつつあるようです!」
アストライアの肩から、力が抜けた。
「……よかった」
彼女は、ハルの傍らに立った。
「ハル、準備は整ったわ」
静かに、だが確かな声で言う。
「行きましょう。迷宮に」
その瞳が、真っ直ぐにハルを見つめる。
「そこでどう決断するか——すべては、あなた次第よ」
ふと、彼女は周囲を見渡した。
固唾を呑んで見守る面々を、ゆっくりと眺める。
「ああ、そういえば」
表情が緩んだ。
「自己紹介しないとね」
軽い口調だった。
だが——次の瞬間、空気が変わった。
彼女の周囲に、魔力が立ち昇る。
風もないのに、白銀の髪が揺れた。深紅のローブが翻る。
書物の塔が、軋んだ。崩れかけた本が震え、羊皮紙の欠片が舞い上がる。
魔力の奔流が、部屋を駆け抜けた。
アリサが吹き飛ばされそうになるのを、ハルが片手で支えた。
「我が名はセレナ・ヴェスペラ」
声が、空気を震わせた。
「かつて宵闇の魔女と呼ばれた——しがない魔法使いよ」
全員が、動けなかった。
だが、次の瞬間——
「なんてね」
セレナはいたずらっぽく笑った。
魔力が霧散する。空気が、元に戻る。
「みんな、名前覚えてね」
床に、複雑な紋様が浮かび上がる。
転移の魔法陣。
セレナの視線が、アストライアで止まった。
「あなたも来る?あなたの祖先が何を守りたかったか、知って欲しいかも」
近衛騎士たちが、女王の前に立とうとした。
それをアストライアが手を上げ、制する。
「言われるまでもない」
騎士たちの間を抜け、一歩、前に出た。
「私の国で何が起きているのか、この目で確かめる」
セレナが、ふっと笑った。
「いい目ね。あの王子に似ているわ」
「おれも行くぜ! ハルとは相棒だからな!」
髭面が豪快に笑った。
「ふふふ、いいわよ。さあハル、行きましょう」
セレナは、ハルに手を差し出した。




