五日目 祈りの泉
一行は武器を構えたまま、広間に足を踏み入れた。
石柱が整然と立ち並ぶ空間。
高い天井を支える太い円柱が、等間隔に闇の奥へと続いていた。
古い。空気そのものが古い。
長い年月、この場所は静かに眠り続けていたのだろう。重く澱んだ静寂が、石柱の間を満たしていた。
そして——広間の中央に、泉があった。
円形の石の縁が床から一段高くなり、澄んだ水を静かに湛えている。
その中央に、像が立っていた。
二段の台座の上、祈りの頭衣を深く被り、水瓶を肩に抱えている。
水瓶の口から水が絶え間なく流れ落ち、下段の泉へと注いでいた。
微かな水音だけが、石柱の間に響いている。
さらにその奥には巨大な扉が鎮座していた。
ハルは足を止めた。
「これは……」
前回ここに来た時、これは瓦礫だった。粉々に砕かれ、水は床にぶちまけられ、元が何だったかもわからなかった。
今、目の前にあるのは、その本来の姿だった。
壁面を確認する。穴はない。
(奴はまだ、来ていない)
「……美しいですね」
アリサが呟いた。
「こんな場所が、塔の中にあったなんて」
ハルは淡く光る暗銀剣を手に、像を見上げた。
(何に、祈っているんだろう)
ふと、そんな思いが胸をよぎった。
「……この水音、まるで誰かの歌声のようですね」
確かに、不思議な響きだった。石柱の間で反響し、幾重にも重なり合い、まるで聖歌のように広間を満たしている。
ハルは一歩、泉に近づいた。
その瞬間——
手にした暗銀剣の光が、強くなった。
(なんだ、これは——)
熱くはない。だが、何かが剣の中で脈打っている。まるで生きているかのように。
「おいおい、ハル!なんだそりゃあ!めちゃくちゃ光ってんじゃねえか!」
髭面が声を上げた。
兵士たちの足が止まる。誰もが武器を手にしているが、光を放っているのはハルの剣だけだった。
暗銀の刀身が放つ輝きは、泉に近づくほどに強くなっていく。
「ハル、その剣……」
アストライアが目を細めた。
「……見たことがないです。暗銀が、このように輝くなど」
ユーメリナが息を呑んだ。
アストライアは自らの暗銀剣に目を落とした。
「私の剣は光っていない。同じ暗銀製のはずだが……」
ハルはさらに泉へと近づいた。
像の前に立った時、それは起きた。
像が抱える水瓶の口が、まばゆく輝いた。
一筋の光が水瓶から放たれ、暗銀剣の刀身を貫く。
剣はその光を受け止め——そして、反射した。
光の筋が像へと跳ね返る。
低い振動が広間を揺らした。
像が、沈み始めた。
ゆっくりと、祈りの姿のまま、水の中へ。
やがて像が完全に沈むと、二段の台座も消え、泉は広間の中央一面に広がった。
水面が静まる。
その中央に、複雑な紋様が浮かび上がった。
青白い光を放つ転移の魔法陣。水の中で静かに脈動している。
光が収まると、広間は静まり返った。先ほどまであった歌声のような響きも消えている。
「……転移陣か」
アストライアが魔法陣を見つめた。
「突然現れたということは……」
ユーメリナが眉をひそめる。
「ハル様の剣が、鍵だったのでしょうか」
ハルは暗銀剣を見下ろした。
先ほどのまばゆい輝きは収まり、いつもの淡い光に戻っている。
だが、わずかに重くなった気がする。何かを宿したような、確かな手応え。
「あの扉の先が本命だろうが……」
アストライアが転移陣と奥の大扉を交互に見た。
「この魔法陣がどこに繋がっているのか、気になる」
「なら、俺らが行きますぜ。陛下を危険な目に遭わせるわけにはいかねえ」
「頼む」
アストライアが言った。
「だが、危険と見たらすぐに戻れ。無理はするな」
「了解ですぜ」
髭面がにやりと笑い、ざぶざぶと泉に足を踏み入れた。
「おい、お前らも来い」
数人の冒険者が頷き、髭面の後に続く。水は膝下ほどの深さだった。
「すぐ戻る。心配すんな」
ハルにそう言い残し、髭面たちは魔法陣の上に立った。
光が彼らを包み——
姿が消えた。
静寂が戻る。
先ほどまでの歌声のような響きは、もうない。像が沈んだ今、水音すら消えていた。
誰も口を開かなかった。
ハルは転移陣を見つめたまま、動かない。
間もなく、光が再び魔法陣を包んだ。
髭面たちが、戻ってきた。
その顔には、驚愕の色が浮かんでいる。
「どうだった」
ハルが声をかけた。
髭面は目を見開いたまま、言った。
「驚いたぜ……あの迷宮だ」
「……何?」
「一層の奥に泉があっただろ。あそこに繋がってやがる」
ハルの脳裏に、迷宮で見た小さな泉の記憶が蘇る。あのとき見た、かすれた紋様。
「泉……」
ユーメリナが小さく呟いた。
「澄んだ水を湛えた、きれいな泉でしたね」
髭面がアストライアに向き直る。
「泉のど真ん中に魔法陣がありまして、そこに出ました。こっちと同じで水ん中ですな」
視線がハルに移った。
「あのかすれた魔法陣、今は光ってやがった」
「それで、迷宮の様子は?」
アストライアが問う。
「それがですね——」
髭面が顔を曇らせた。後ろに控える冒険者たちも、顔色が悪い。
「泉の外はもう瘴気だらけでしたぜ。一歩も出られねえ。ただ、泉の縁がうっすら光ってまして、そこから中までは瘴気が寄ってこなかった」
髭面が声を落とした。
「それによ、瘴気の向こうで何かが蠢いてる気配がしてよ……おまけに聞こえてくる声がこの世のもんじゃねえ」
ハルの脳裏に、あの異形たちの姿がよぎった。
灰色の皮膚。肥大化した腕。壊れた声で繰り返される、うわごとのような叫び。
髭面が首を振った。
「こりゃ長居は無用だと、戻ってきたってわけで」
アストライアが頷いた。
「賢明な判断だ」
「……開かずの塔と、迷宮が」
アリサが呟いた。
「繋がった……?」
「『始原の塔に魔力満ちし時、混沌の迷宮を覆う瘴気は払われ、深淵への道は開かれん』」
アストライアが静かに言った。
「迷宮はまだ瘴気に満ちている」
視線が扉に向く。
「ならば、目指すべきはやはりこの先だ」
その時、アリサの額が淡く光った。
「——っ!」
アリサが顔色を変えた。
「陛下、アルベルト様の魔術師隊より緊急連絡です!」
「大扉の外に見たこともない魔物が押し寄せてきていると……!」
「今は抑えていますが、長くは持たないと——」
アストライアの表情が険しくなった。
「急ぐぞ」
ハルは扉に歩み寄った。
巨大な石の扉。あの時と同じ扉。
前回、ここに手をかけた時——
胸を貫く激痛。崩れ落ちる体。遠ざかる意識。
あと一歩だった。
この扉を開けることができなかった。
ハルは扉に手を触れた。
古い石の感触。だが、冷たくはない。
むしろ——温かい。
胸の二重円環が、静かに疼いた。
今度は、開ける。
ゆっくりと、扉を押し開く。
重い石が軋みながら動き、まばゆい光が溢れ出した。
目を細めながら、ハルは扉の向こうを覗き込む。
光の中に—— 一人の女性が、眠っていた。




